「最後の誘惑 The Last Temptation of Christ 」 1988年

- イエス・キリスト Jesus Christ 、マーティン・スコセッシ Martin Scorsese -

<イエス・キリストの物語>
 昔からイエス・キリストの生涯を題材とした映画は数多く作られてきました。古いところでは「大脱走」などで有名なジョージ・スティーブンス監督によるイエスの生涯を描いた大作「偉大な生涯の物語」、「理由なき反抗」のニコラス・レイが同じイエスの物語を撮った「キング・オブ・キングス」、そしてまったく新しい視点からイエスの生涯をとらえたロック・ミュージカルの傑作「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」は、「夜の大捜査線」などの名匠ノーマン・ジェイソン監督作品。モンティー・パイソンの「ライフ・オブ・ブライアン」なんていうとんでもないパロディー物もありました。そして、つい最近では、メル・ギブソンが身銭を切って作った問題作「パッション」もあります。
 60年代以前の作品は、聖書の記述をそのまま映像化したある意味「動く絵本的」な存在でしたが、逆に60年代以降はどの作品も問題作と呼ばれるものばかりで、教会関係者や聖職者たちから批判をあび公開時に大きな話題となったものばかりです。

<「最後の誘惑」の問題点>
 そして、ここで取りあげる「最後の誘惑」もまた、公開に際してさらにその映画化準備の段階で数多くの批判をあび、何度も製作中止、公開中止の危機に見舞われることになりました。と言っても、この作品のいったいどこが問題なのか?キリスト教徒ではない日本人の多くにとっては、まったく判定不可能でしょう。
 先ず、そのストーリーは、ほぼ聖書に書かれているとうりに展開して行きます。役者たちも、それぞれ聖書に描かれていたり、過去の有名な画家たちが描いている登場人物像などのイメージとぴったりの人ばかりです。(イエス・キリスト役のウィレム・デフォーの年をとってからの髭をはやした顔などは、我々が思うイエス・キリストの風貌にぴったりです!)
 あえて僕の分かる範囲で聖書との相違点をあげるとすれば・・・。
 イエス・キリストが神からの声を聞く様子がある種の脳の障害によって、幻聴を聴き、幻影を見ているかのように見えなくもないこと。(イエスをより人間的に描こうという意図なのでしょう)
 イエス・キリストとマグダラのマリアは、もともと恋人同士だったという設定。そのうえ、ラスト近くには二人はセックスまでしてしまいます。(いくら幻影の中とは言え、許せないと怒りまくった人もいるのでしょう)
 この映画の主題でもある「最後の誘惑」についてのシーンがあります。人は死の瞬間に何を思うのか?それも神としての死を迎えようとしている人間にとって死の瞬間に見えてくるものとは?実は、それが「最後の誘惑」という悪魔の罠でした。そこからイエス・キリストはもう一つ別の人生を歩んで行くことになります。その中で、「人間として生きるキリスト」「マグダラのマリアと愛し合い子供まで作るキリスト」「悪魔の誘惑に負けたキリスト」「伝道師パウロに罵倒されるキリスト」こうしたあり得ないキリストの惨めな姿を見せられて、多くの教会関係者たちは頭に血が上ったことでしょう。(実は、その後には重要なラスト・シーンが待っているのですが・・・)

<スコセッシの夢だった作品>
 この作品は、もしかするとスコセッシの作品中最も結末が明解な作品かもしれません。「なるほど、こう終わるか!」そう素直に納得できる作品は、ハリウッド映画の監督ではない彼の場合以外に少ないのです。それだけこの作品は聖書という基本線とカザンツァキスによる原作小説に忠実に作られたということなのかもしれません。
 もともと彼にとって聖書は、人生において最も重要な書物でした。映画監督を目指すようになる前、彼はカトリックの神父になるため神学校に通っていた時期があります。結局彼は神学校での保守的な生活に耐えきれずに道をはずれてしまいますが、その後も彼にとってイエス・キリストは人生最大の謎であり続けているようです。そして、その頃から抱えている神についての謎は未だに解決していないのでしょう。彼は自らの作品を完成後に見ることはほとんどないそうですが、この「最後の誘惑」だけは何度も見たと本人が言っています。
 さらには、彼の今後の予定作の中には、日本を代表するカトリックのクリスチャン作家、遠藤周作の「沈黙」があります。鎖国をしていた時代の長崎を舞台に繰り広げられる隠れキリシタンと伝道師の物語では、再びイエス・キリストと神の存在について、深く掘り下げられることになるのでしょう。

<禁断のジャンルへの挑戦>
 日本で皇室に関わる映画を作ることが不可能なように、西欧社会でイエス・キリストに関わる映画を撮ることはかなりの困難をともないます。例えば、その作品がイエス・キリストを人間的に描こうとするだけで、キリスト教右派勢力はすぐにでもボイコット運動や映画館前でのデモを準備します。キリスト教ではありませんが、イスラム教の指導者マホメットを描いた宗教映画「ザ・メッセージ」の場合には、映画館に爆弾をしかけるという脅迫事件まで起こっています。こうなると、ヒットするしないの問題ではなく、映画館、配給会社にとっては映画を作ること自体が死活問題になってきます。
 その意味では、良い悪いの問題以前に「イエス・キリストをスコセッシが人間的に描く」というコンセプトのこの作品に対し、各映画会社が尻込みをした経緯も納得できなくもありません。

<原作小説との出会い>
 映画化された名作「その男ゾルバ」の原作者、ギリシャ人作家のニコス・カザンツァキスの小説「最後の誘惑」をスコセッシが知ったのは1972年のことでした。彼の出世作ともなった映画「明日に処刑を」の撮影終了後、主役を演じていたバーバラ・ハーシーとデビッド・キャラダインの二人が、彼にその本をプレゼントしてくれたのでした。(後に、彼がこの作品を映画化する際、バーバラはスコセッシに電話をかけ直談判。見事にマグダラのマリア役を獲得します)さっそくこの本を読んだ彼はすぐにこの作品の映画化に向けた準備を始めます。

<映画化までの苦闘>
 先ず彼は「タクシー・ドライバー」などの脚本を書いている友人のポール・シュレーダーに連絡をとり、原作小説の脚本化に着手させます。そして、長きに渡ることになる映画化に向けた出資、配給会社探しを始めます。先ず最初に彼はユナイト映画に断られています。その後、パラマウント映画からゴー・サインが出て本格的に準備が始まるものの途中で数々のトラブルが発生、結局このプロジェクトは空中分解してしまいました。この時、すでにロケハンや衣装などの準備費用にパラマウントは500万ドルもの費用をすでに使用していたため、その費用をどうするかもこの後の映画化交渉において大きなネックとなってしまいます。
 その後、フランス政府から資金提供の話しがでたもののフランス国内のカトリック教会などから圧力がかかり、結局流れてしまいました。その他、ロシア国内タシケント周辺で撮影を条件にロシア政府が出資するという話まであったそうですが、もちろんこの話しは眉唾に終わります。
 結局、この脚本を読んで気に入った映画化チェーンの大手シネ・プレックス・オデオンの社長が製作費の半分を出資することになり、残りはユニバーサルが出資することでまとまりました。着想から16年後の1988年、ついに映画は公開にこぎつけました。
 スコセッシのようにハリウッド映画界に属さない監督にとって、映画をを作るという行為はフィルムを回してからよりも、そこにこぎ着けるまでの方がより多くのエネルギーを必要とするということがよくわかります。まして、この作品のように宗教がからむとなると、よほどの情熱がなければ途中で挫折していたでしょう。

<リアリズムに徹した作品>
 スコセッシ作品すべてに言えることですが、この映画でもまた彼ならではのリアリズム徹底主義が貫かれています。小物類へのこだわりは当然として、衣装の汚れ具合や刺青などのリアルさは今までの作品にはなかったこだわりです。そして、クライマックスとなる張り付けシーンのリアルさ、これもまた見所。ロケ地として選ばれたモロッコの風景もまたリアルです。(本当にリアルなのかどうかは誰も見たわけではないので何とも言えないのですが、・・・リアルと思えるのは、過去の画家や作家が描いてきた作品のイメージ通りだということなのですが、・・・)
 役者たちも有名俳優が少ない分、くせ者俳優たちによって聖書のイメージを思わせる雰囲気が作り上げられています。
 ハーヴェイ・カイテル(ユダ)、ヴェルナ・ブルーム(イエスの母マリア)、アーヴィン・カーシュナー(「スター・ウォーズ帝国の逆襲」などの監督がヤコブの父ゼベダイを演じています)、ジョン・ルーリー(ヤコブ)、アンドレ・グレゴリー(洗礼者ヨハネ)、ハリー・ディーン・スタントン(パウロ)、デヴィッド・ボウイ(ピラト)など、なかなかのはまり役ばかりです。そして、イエス・キリスト役のウィレム・デフォー、彼の年老いてからの顔はイエス・キリストそのものです!

<素晴らしい音楽>
 イエス・キリストの時代にはいったいどんな音楽が聴かれていたのか?それは食べていた料理や衣類以上にわからない分野かもしれません。しかし、ユダヤの地がアジアとアフリカ、ヨーロッパの真中に位置していることを考えると、ある程度その雰囲気は見えてくるのかもしれません。そして、ここで起用されたミュージシャンたちもまた、それら世界各地の音楽ジャンルの枠を越えた存在ばかりです。
 パキスタン出身ながら世界中の音楽ファンを感動させつつこの世を去ったヌスラット・ファテ・アリ・ハーンは、彼はまさにそんな地域の枠を遙かに越えた存在です。さらに、アフリカからはセネガルが生んだ世界的ヴォーカリスト、ユッスー・ンドゥール。スーダンのウード奏者ハムザ・エルディーン、マリのコラ奏者トゥマニ・ジャバテ、シャンカル。そして、それらのアーティストたちをまとめ、作曲を担当したのがワールド・ミュージック界の重鎮ピーター・ガブリエルです。
 彼の音楽は渇いた中東の風景にぴったりなだけでなく、ドラマの緊張感を盛り上げる意味でも大きな活躍をしています。しかし、音楽がけっして全面に出過ぎることはなく、衣装や風景同様、実に自然に構成要素として映画を支えているのはさすがです。これぞ正しい映画音楽の見本でしょう。

<締めのお言葉>
「・・・一部の人たちはどうしても神を愛せない。神は完全無欠だからです。畏怖を感じることはあっても、それをほんとうの愛とは呼べないでしょう。十字架にかけられたキリストですよ。愛の対象になるのは。・・・苦難です。苦難は不完全さではないでしょうか」

ジョーゼフ・キャンベル著「神話と力」より

「最後の誘惑 The Last Temtation of Christ」 1988年(日本公開1989年)
(監)マーティン・スコセッシ Martin Scorsese
(製)バーバラ・デ・フィーナ Barbara De Fina
(原)ニコス・カザンツァキス
(脚)ポール・シュレイダー Paul Schrader
(撮)ミヒャエル・バウハウス Michael Bawhaus
(音)ピーター・ガブリエル Pater Gabriel
(出)ウィレム・デフォー Willem Dafoe、ハーヴェイ・カイテル Harvey Keitel
   ヴェルナ・ブルーム Verna Bloom、バーバラ・ハーシー Barbara Hershey
   ハリー・ディーン・スタントン Harry Dean Stanton
   デヴィッド・ボウイ David Bowie、アンドレ・グレゴリー Andre Gregory
   アーヴィン・カーシュナー Irvin Kershner、ネヘミア・パーソフ Nehemiah Persoff

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