日本が生んだ偉大な冒険家たちの最後

「ラストシーン Last Scene」
夢を追いかけ散っていった冒険者たちの物語
植村直己「氷河の山マッキンリーに消えた勇者」
一ノ瀬泰造「アンコールワットに眠る戦場カメラマン」
池田拓
「歩き続ければいつか必ず着くと信じて」
鈴木紀夫「放浪、世紀の遭遇、そして雪男に会うために」
上温湯隆「7000キロサハラ砂漠横断に挑む」
若山美子「ザイルにつながれたまま消えた天才クライマー」
多田雄幸「海を愛し、戯れ、闘い、命を絶ったヨットマン」
星野道夫「地球のアルバムに迷い込んだ写真家」

<植村直己>(1941年~1984年)
 マッキンリー冬季単独登頂に成功後、消息不明となる。(享年43歳)  
<一ノ瀬泰造>(1947年~1982年)
カンボジア、シアムリップ北東部でポルポト軍に拘束された後、殺害される。(享年26歳)

「お金じゃありません。写真が好きなのです。私は本来、なまけ者で学ぶことも働くことも嫌いです。私の生き甲斐は写真です。いい写真を撮るためだったら、命だって賭けます。そして、そんな時の私は、最高に幸せです。・・・」

「火葬場に煙の絶える日はありません。棺桶に泣きすがる遺族の写真も、近くでアップには撮れません。僕には。
 写真家失格かもしれませんね。それが主観感情ぬきの戦闘写真家かもしれないけど。金を使い果たしたら、日本へ帰って、自分に合った写真の道を選びます」


友人である赤津への手紙より
「一年前、三か月かかって政府軍、共産軍のポジション、河、林、路、気候、地雷の位置を調べたけど、今回まわりをグルッと簡単に見ただけでも、政府軍がかなり押されてしまい、去年とは全く違う条件になってしまいました。
 しかし、また三か月もかかって、それらを調べ直す時間も、今回の僕にはありません。第一、大手振ってこの国を歩けない身分なのですから。ここらで一発決めたいのも確かですし、チャンスでもあります。
 前回の条件を想定して、地雷探知法や、はずし方も習得し、位置がおおよそ解っていたら、乗り越えていける自信もあったのですが・・・・・。
 今回は、地雷の位置も全然解らず、行き当たりドッカンで、例の所の最短距離を狙っています。去年、僕が向こう側につかまり、すぐ放された所の近くでもあります。・・・・・
 旨く撮れたら、東京まで持っていきます。
 もし、うまく地雷を踏んだら、サヨウナラ!」
  
<池田拓>(1965年~1992年) 
 リヤカーを曳いて北米から南米までの2万キロを徒歩で単独縦横断。
 海外留学に向けてアルバイト中に新宿の建築現場で事故死。

「ずっと一人でいるときでなく、人の中で生活して、そこから離れてからが寂しい」 
<鈴木紀夫>(1949年~1986年) 
 1969年から世界を放浪。4年後に帰国。
 1974年2月フィリピン、ルバング島で小野田寛郎少尉との接触、救出に成功。
 ヒマラヤでの雪男探索登山中にダウラギリで遭難死。(享年37歳)
「真の英雄なんて書かれちゃ、本当にダメだよ。いやになるよ。悪いこともできないしょォ。
ほんとにイイことなんかないし、もうこっちから身をひきたいくらいだよ。あんまりすましてると、デカいつらしてるとかなんとかいわれるし。
むずかしいもんだよ。・・・」

「週刊ポスト」(1974年)

「僕は次に雪男探しに行くんだと興味本位ですいぶん騒がれた。しかしマッピラ御免という心境だった。もう人のおだてに乗るものか、と思っていた。だが、自分の進路に迷い、アイデアの浮かんでこないことにいらだち、再び自分自身を見つめ直す必要に迫られ、そのためにも静かな長い時間が欲しかった。せっぱつまって、それならいっそのこと、ネパールでも行って、のんびり雪男でも探してみようかという気になった。ところが、しばらくヒマラヤや雪男の本を読み漁っているうちに、雪男は存在するという確信を持つにいたり、しかも僕のたくましい想像力は、雪男が目の前で火のように燃えた目をし、真っ赤な口を開け、ほえたてる姿を夢に見るまでに発展してしまった」

「早く雪男の件は片付けたいのに、神様はどうして助けてくれないのだ。神は、この俺の運命を如何に決めてあるのだ。・・・
 俺は誓った。俺の命と引き換えにでも一刻も早く雪男に会わせてくれと」
 
<上温湯隆>(1952年~1975年) 
17歳で海外へ。南アジア、中近東、バルカン半島、ヨーロッパを旅した後、アフリカ一周とサハラ砂漠横断に3回挑戦。
 単独でのラクダによるサハラ横断に挑戦中、マリ共和国内で渇死。(享年22歳)

<上温湯の母、幸子からの旅を許すための四つの条件>
一、日本人として恥ずべき行為をしないこと、外国人に迷惑をあっけないこと。
一、無謀な行為をしないこと
一、家族との通信を絶やさないこと。
一、常に<生>に向かって前進すること。
「旅をしていてつくづく思う。人生はなんと短いことか。楽しく過ごして、生きているといえるだろうか。短い人生だからこそ、最大限に燃焼させるべきだと俺は思う。今、俺はサハラで、精いっぱいサハラを研究している。君にも何かあるはずだ。今からでも遅くはない。俺たちは若いし、まだまだ先があるじゃないか」

「歩く理由?なんの理由もない。しかし、俺の本能がジッとしているより歩くことを命令する。そして、歩くことによって、大自然のサハラが靴の裏に感じられるだけだ」
「俺は不死鳥のように、お前に何度でも、命ある限り挑む。
『冒険とは、可能性への信仰である』
 こうつぶやき、俺は、汝を征服する、必ず貴様をい征服する!それが貴様に対する、俺の全存在を賭けた愛と友情だ。きらめく星は、やさしき風が流れ、素晴らしき青春も流れ去る。
 流れ去るものは美しい。だから俺も流れよう」
 
<若山美子>(1940年~1972年) 
1967年、女性のみのパーティーで世界初のマッターホルン北壁の登攀に成功。
 今井通子と共に小説「銀嶺の人」のモデルとなった。
 新婚旅行で行ったマッターホルン南壁で夫と共に墜落死。(享年32)
「若山さんとは女性同士で組んでいる意識はなかったな。女性同士だからいいか悪いかじゃなくて、彼女は天才クライマーだったんですよ。技術は抜群だったし、寒さこらえが強い人で、あとすごい無口な人。ザイルが動いているんだか動いていないんだか分からないんですよ」
田部井淳子 
<多田雄幸>(1930年~1991年) 
 個人タクシーの運転手をしながら手作りのヨットで1982年世界一周単独ヨットレースで優勝。
 植村直己の北極点グリーンランド犬ぞり単独縦断のサポートにも参加。
 第三回世界一周単独ヨットレースに挑戦中、寄港先のオーストラリアで自殺。(享年60歳)

「多田さんてほかの人と全然違うんです。大きなレースに出る場合、おおげさじゃなくて殺気とかオーラが出るものなんです。やっぱり勝負ですか。僕もそういうの気をつけているんです。相手が殺気を出すとこっちも警戒するじゃないですか。でも多田さんは全然違う。気は出てるんですけど殺気は出ないんです。まさに春風の如しでね」 
<星野道夫>(1952年~1996年) 
 アラスカに住み、自然、動物を撮り続けた写真家、エッセイスト、冒険家。
 ロシアのカムチャッカ半島でヒグマに襲われて死亡。(享年43歳)
 同行していたTVスタッフがクマにエサを与えたために起きた事故だった。 


「ラストシーン Last Scene」 2007年
夢を追いかけ散っていった冒険者たちの物語
(著)小林誠子
バジリコ(株)

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