夢の街を生み出した3人のギャングたち


<ラスベガス誕生物語 Part 1>

- ラッキー・ルチアーノ、マイヤー・ランスキー、ベンジャミン"バグジー"シーゲル -
<アメリカを象徴する街>
 アメリカという国を象徴する街はどこでしょうか?
 ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、サンフランシスコ、デトロイト、アトランタ、ボストン、ニューオーリンズなど、様々な街をあげることができるでしょう。しかし、アメリカという国をすべての人に平等にチャンスが与えられる「アメリカン・ドリーム」の国と考えるなら、ラスベガスという街ほどアメリカ的な存在はないのではないでしょうか?
 砂漠の中のわずかな空間に、古代エジプトやヴェネチアなど様々な国の名所があり、最高峰のボクシングやエンターテイメントを楽しむこともできる夢の街。
 光り輝く世界の裏側には、暗く恐ろしいマフィアの支配が見え隠れしていて、暴力と犯罪が潜む街でもあります。
 「光と闇」どちらの側面から見ても、ラスベガスはアメリカという国を象徴しているといえます。
 こうした街の歴史とギャングとの結びつきは、けっしてラスベガスだけのことではありません。アメリカの中心都市ニューヨークの街も、もとは移民のギャングたちの抗争の中からその歴史が始まっています。(その詳細は映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」にも描かれています)
 しかし、ラスベガスの街を実質的に支配しているのは、今でもギャング組織だと言われています。
 アメリカの社会自体もまた今でもその背後に犯罪グループが関わっている可能性はありますし、国境に完全武装した軍隊を送り込むトランプ大統領と武装した麻薬密売組織の差はどれだけあるのか?今のところ、ラスベガスの街では人種や宗教によって入場者を制限することはないようですが・・・。様々な意味でアメリカとラスベガスは似ているように思えます。
 ここでは、「ラスベガスを創った男たち」という本を参考に、20世紀アメリカの裏社会を仕切った3人の大物ギャングの人生と彼らが生み出したラスベガスの街の歴史をまとめてみました。

<ラスベガスの原点NY>
 ラスベガスの街の誕生は、「ギャング・オブ・ニューヨーク」の舞台でもあるニューヨークの下町ローワー・イーストサイド(バワリー)における3人のギャングの出会いなしにはあり得なかったかもしれません。
 1880年代後半から20世紀初めにかけて、ロシアや東欧から迫害を逃れて、アメリカに渡ってきたユダヤ人は200万人にのぼります。その多くは貧しい移民たちで、ローワー・イーストサイドには40万人ものユダヤ人が押し込まれるように暮らしていました。当然、貧困と人口の過密は犯罪の温床となり、様々なエスニック・ギャングが抗争を繰り広げる中で、イタリア系とユダヤ系、二つのグループが主流派となっていました。そして、その中のイタリア系ギャング団「マフィア」のメンバーとしてスタートし、後にアメリカ裏社会最大のボスとなった人物がラッキー・ルチアーノでした。先ずは、アメリカ裏社会を生きぬき、ついにはその頂点を極めることになる最年長の人物から、話を初めて行きましょう。

<ラッキー・ルチアーノ>
 ラッキー・ルチアーノ Lucky Luciano こと、サルバトーレ・ルカーニアは、1897年11月24日、イタリアのシチリア島で生まれました。父親は硫黄鉱の鉱夫として働いていましたが、より良い暮らしを求め、1906年ルチアーノ9歳の時、家族と共にアメリカに移住しました。そして、住み始めたニューヨークで、彼はすぐに犯罪の道に引き込まれます。10歳で万引きで逮捕された後、麻薬の売買でも逮捕され、18歳で少年鑑別所に入れられました。出所後、すぐに仲間を集めて麻薬取引を開始し、「ファイブ・ポイント」というギャング団のトップに立ちます。
 1920年代後半、ニューヨークのギャングは、ジョー・マセリア率いる一派とサルバトーレ・マランツァーノ率いる一派の二つが激しく対立。ルチアーノは、その中でマセリアと組むことを選択し抗争に参加して行くことになりました。そんな彼の部下の中にイタリア系ではないユダヤ系の二人マイヤー・ランスキーとベンジャミン・シーゲルがいました。

<マイヤー・ランスキー>
 後にルチアーノの後継者となり、ユダヤ系でありながら全米マフィアの最高権力者となるマイヤー・ランスキー Meyer Lansky は、1902年7月4日ロシア(現在のベラルーシ、グロドノ)で生まれたユダヤ人でした。当時ロシアで激しさを増していたユダヤ系住民への差別から逃れるため、彼の父親は1909年アメリカに渡り、2年後、彼も含めた家族をニューヨークへ呼び寄せました。頼るものもなく財産もなかった彼の家は貧しく、優秀な頭脳を持ちながら彼は学校に通うこともできず、その頭脳を賭博場で生かすことになります。数字を覚えることに異常な能力を持っていた彼は、賭博場に通いながらトランプ賭博での必勝法を見出します。ただし、そのことがバレれば、賭博場に入れてもらえなくなり、命すら危なくなるため、チマチマとしか勝つことができませんでした。この時、彼はいち早く賭博により大きな利益をあげたいなら、このままでは無理なことを理解します。
「世に幸運なギャンブラーといったものはない。賭けに勝つのはゲームをコントロールしている方だけだ」
マイヤー・ランスキー

 こうして裏社会のことをいち早く理解し始めたランスキーは、同じ地域のボスだったルチアーノの部下となり、すぐに右腕的存在にのし上ることになります。そしてその頃、彼が自分の優秀な右腕として仲間に引き入れたのが、後に「バグジー」と呼ばれることになる彼と同じユダヤ系のベンジャミン・シーゲルでした。

<バグジー>
 「バグジー」ことベンジャミン・シーゲルBenjamin Siegel は、1906年2月28日ニューヨークの下町ブルックリンで生まれたロシア系のユダヤ人です。彼の家もまた貧しく5人兄弟の一人だった彼は、学校に通うこともなく、すぐに街のチンピラたちの仲間に入り、15歳で最初の殺人を犯したと言われています。切れやすい性格で人殺しを何とも思わない性格の彼を誰もが恐れ、当時の俗語で「気が狂った」という意味(直接的には「害虫や虫けら」)の「バグジー」という綽名をつけていました。もちろんその名を彼の前で口にすれば命はなかったでしょう。
 そんな凶暴な男も忠義にはあつく、彼を右腕として使ってくれたランスキーを決して裏切るようなことはありませんでした。イケメンで背が高く、派手好きで切れやすいシーゲルとブ男で背も低く地味で誰よりも慎重な性格のランスキーは、まるで正反対の性格でありながら、厚い信頼によって結ばれていました。
 ランスキーの「頭脳」とバグジーの「腕力」を得た生まれついてのボス資質の持ち主であるルチアーノのトリオは、最高の組み合わせだったのかもしれません。

<禁酒法時代の始まり>
 ルチアーノが二人のユダヤ人を部下にした当時、彼はまだジョー・マセリアの部下で、マランツァーノの一味と覇権争いを繰り広げていました。ところが、マランツァーノという人物は、マフィアの故郷シチリア島に住むマフィアのナンバー1的存在だったヴィト・フェロが送り込んだ手先で、アメリカにおけるマフィア組織の統一を任された人物でした。それだけに手ごわい相手で、覇権争いの決着はなかなかつきませんでした。
 1920年、ギャングたちの世界を大きく変えることになる事件が起きます。アルコール飲料の製造と販売を禁止するボルステッド法(禁酒法)が制定されたのです。(「ボルステッド法」という名前は、アンドリュー・ボルステッドというミネソタ出身の厳格なキリスト教徒の保守派政治家が、その推進者だったためついた名前です)
 「ローリング・トゥウェンティー」と呼ばれたこの時代、経済的なバブルが全米に広がる中、浮かれ騒ぐ時代の空気がその原因となり、全米中でアルコール中毒者が増えていました。そのためアルコールが原因の犯罪や事故も増加。それに対し、厳格なキリスト教徒を中心にアルコール飲料の販売禁止という強硬な案がだされたのでした。しかし、禁酒法の効果は現実には薄く社会からアルコール飲料が消えることはありませんでした。それどころか、禁酒法はその後のアメリカ社会を悪い方向へと向かわせる世紀の悪法と言われることになります。
 実際、その法律の執行によって、アルコールを販売する店は逆に増えることになりました。ニューヨークの場合、1600軒だったサロンが禁酒法によって閉鎖された後、もぐり酒場は10万軒に増加。そこでは原価1ドルの安いウイスキーが8倍の8ドルで販売され、ものすごい利益率で収益をあげていました。そして、どんなに儲かっても元々が違法な行為で得た収益ですから税金を払う必要もありません。
 当然、そんな美味しい商売なので、不法なギャング組織がそこに進出、その旨味を独占することになり、その法律が廃止されるまでの間に彼らは巨額な財産を蓄えることになりました。

<大不況時代>
 1929年10月24日、アメリカのニューヨーク証券取引所で株式の大暴落が起きます。世界中を巻き込むことになる大不況は、ここから10年続くことになります。様々な不況対策の政策がとられますが、実質的にその不況を終わらせたのは、第二次世界大戦にアメリカが参戦し、軍需景気が全米を覆ってからのことになります。
 特に4年間は労働者の4人に1人が失業状態に陥る状態が続きますが、しかしその間もアルコールに依存する人々の数は減らず、アルコールの密売によってギャング組織は巨額の利益を上げ続けることになります。そして、当時禁酒法が与えた悪影響は他にもありました。
 外でアルコール飲料を飲めなくなったことから、家の中で飲むことが常識的となり、それまで男性たちの飲み物だったウイスキーを女性たち(妻たち)も飲み始めます。もちろん子供たちも隠れて飲むようになったでしょう。必然的にアルコールを飲む人口が急増し、業界はさらに利益を得るようになります。
 密売や密輸が発覚する可能性を低くするため、少ない量で酔えるアルコール度数の高いウイスキーやバーボンの人気が高まり、安いウイスキーを美味しく飲めるようにと数多くのカクテルが生まれたのもこの時期だったようです。
 法律に反する飲酒という行為が、家庭で日常的に行われたことで、アメリカの社会全体に「不法行為」を「悪いこと」とは思わない空気が広がりました。「悪いことをしても捕まらなければよい」そんな風潮が後に麻薬の大衆への拡がりを後押ししたとも言われてます。1933年にこの法律は廃止となりますが、それまでの間にマフィアは巨万の富を蓄えることになりました。

<ルチアーノによる組織の近代化>
 1932年末、ルチアーノは旧態然としたシンジケートのシステムを近代化させるため、全米の各地のボスたちをニューヨークのホテルに集めました。そこで行われたのは、新たな体制の発表であり、その体制を維持するための協力要請でした。彼は全米を地域別に24に分けて、それぞれのボスに任せることを提案します。それぞれのボスには地域の独占権が与えられ、お互いの縄張りを荒らすことはご法度となりました。問題が起きた場合は、暴力に頼るのではなくメンバー全員が集まる会議で平和的に解決する合議制が導入されました。こうして、ルチアーノによってシンジケートは、「株式会社」のような近代的な体制へと変革されました。
 その後、それぞれのボスは地域の特性に合わせて、独自の活動が可能となり、ノミ行為、売春、麻薬の密売などがその中心的業務となって行きます。その中には「殺人請負会社」もあり、月給制で雇われた殺し屋が各地のボスからの依頼により、暗殺を請け負っていました。そしてこの会社の創設メンバーの中に「バグジー」もいました。
 禁酒法の時代、大衆はアルコールの販売を行っていたギャングをヒーローとして扱う傾向にありました。デリンジャーやボニー&クライドが英雄的に扱われていたのはその象徴です。しかし、禁酒法が廃止されたことで、社会の風向きは大きく変わることになりました。そして、そんな世論の変化に答えるようにして、警察はギャング組織に対する本格的な取り締まりを始めるようになります。
 そんな中、ニューヨーク州知事ハーバート・レーマンに指名され、特別検察官に就任したトーマス・デューイが、ニューヨークを縄張りとするルチアーノの捜査に乗り出します。特にルチアーノが以前から得意としていた分野である売春事業をターゲットに、デューイはルチアーノ逮捕に向けた準備を開始します。
 1936年1月、警察は大規模な手入れを行い80か所の売春宿で数多くの売春婦たちを検挙。彼女たちの証言をもとに、ルチアーノを売春行為を行う組織のトップとして逮捕することに成功。当時まだ38歳の若さだったルチアーノは、売春だけなら刑は軽いと考えてあっさりと逮捕されました。ところが用意周到な検察は、彼に関する数多くの罪状を積み上げることで30年から38年の不定期禁固刑を科すことに成功します。こうして当分出られないことを覚悟したランスキーは、監獄からシャバに支持を送ることでシンジケートを操って行くことになります。

<シーゲル西へ向かう>
 ルチアーノの逮捕で勢いを得たデューイは、次のターゲットとしてシンジケートの顔となっていたシーゲルを選びます。(当時、ランスキーの名前はほとんど表に出ていなかったので、ターゲットとして彼の名前はあがっていなかったようです)マフィアの内部では、もしシーゲルが逮捕されれば、他のメンバーについての情報を漏らされるかもしれないとして、彼の暗殺が話し合われ始めます。しかし、ランスキーはシーゲルをアメリカの反対側カリフォルニアに移住させることで逮捕から逃れさせると説明しメンバーの同意を得ます。幸い目立ちたがり屋のシーゲルはロサンゼルスなら「映画の都」ハリウッドで映画俳優としてデビューすることも可能かもしれない、そう考えたのかニューヨークを出る決心を固めます。
 1937年、31歳になったシーゲルはロサンゼルスに向かいビバリーヒルズの住人となりました。ギャング仲間から映画界入りしたジョージ・ラフトのおかげで映画関係の知り合いができると、そこで彼はエキストラ俳優たちの組合を立ち上げさせ、その元締めとして組合活動を仕切り、映画会社との交渉を行うようになります。彼を通さなければ映画が製作できないようにすることで、彼にはハリウッドから資金が流入するようになります。
 しかし、彼が本当にやりたかったのは大好きな賭博業でした。当時、すでに彼はコンチネンタル・ワイヤ・サービス社、トランス・アメリカ・ワイヤ社という電信会社を運営し、その電信網を利用して、競馬のノミ行為で多額の利益を上げていました。当時、競馬は地方ごとに様々な競馬場で行われていて、その結果は電信によって他の街に送られていました。ということは、電信会社は他の地域の競馬の結果を誰よりも早く知ることができたわけです。こうして、電信業を利用すれば確実に競馬で稼ぐことができたわけです。(競馬でのマフィアの賭けと言えば映画「スティング」でしょう。映画の中で行われた大仕掛けな詐欺は実に見事でした)

<殺人請負会社の消滅>
 1937年、シーゲルはイタリアの伯爵夫人ドロシー・ディ・フラッソと恋仲となります。そして、ニューヨークを離れるついでに二人でイタリアに渡り、各地を旅して回りました。そしてローマで、あるパーティーに出席します。すると、そこで彼はヒトラー直属の大物政治家、ゲーリング空軍元帥とヨーゼフ・ゲッペルス宣伝相に紹介されました。当時、ナチスによるユダヤ人への迫害は世界中に知られ始めていて、ユダヤ人であるシーゲルは同朋に対するナチスの行為への怒りから二人の殺害を実行しようとします。そのことに気づいたフラッソ夫人が必死で彼を止めなければ、もしかするとそこで歴史は大きく変わっていたかもしれません。
 1939年夏、シーゲルがロサンゼルスに戻ると、「殺人請負会社」の大物殺し屋エーブ・レレスが検挙され、死刑をまぬがれるためにそれまでの殺人に関する自供を始めました。50以上の殺人事件を次々に自供したことで、シーゲルも共犯者として逮捕されてしまいます。このままでは逮捕者が次々に自供して幹部まで逮捕されることになるかもしれないと判断したルチアーノは、レレスの暗殺を指示します。
 1941年11月レレスはニューヨーク、コニーアイランドのホテルで24時間の監視体制に置かれていながら、ホテルの9階から突き落とされて死亡してしまいます。後にルチアーノは、この時の暗殺のために5万ドルを使い、周囲の警官、刑事を買収したことを明かしました。なんとかレレスの死により、組織の崩壊は免れましたが、「殺人請負会社」は消滅してしまいます。いよいよシンジケートは古い体制からの完全な変革を求められることになりました。少なくとも彼らは表向きは、アメリカの法律に従う合法的な企業として活動しなければならなくなったのです。
 そう判断した時点で、彼らはそれまで蓄えた巨額資金を合法的に増やす方法はないのか?と考え始めます。
 そんな時、アメリカで初めてネバダ州が賭博を合法化。ネブラスカ州ならロサンゼルスからも近く、土地も安い。ならば、そこに賭博の街を作って、そこを自分たちで仕切ったらどうだろう。こうして西海岸に飛ばされていたシーゲルの賭博好きを生かせるチャンスがいよいよ巡ってくることになりました。
 砂漠の真ん中にあるラスベガスという小さな町があり、そこに立つホテルが売りに出ている。そんな噂を聞き、さっそくシーゲルはその小さな町へと向かいます。
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