究極のプロパガンダ映画の美しき母

「民族の祭典」

レニ・リーフェンシュタール Leni Riefenstahl

<レニとは?>
 究極のプロパガンダ映画「民族の祭典」(1938年)の監督レニ・リーフェンシュタールとはいかなる人物か?
 ヒトラーもしくは、ゲッペルスの愛人だったのか?
 なぜ、戦後、アフリカに渡ったのか?
 なぜ、最後に辿りついたのは水中世界だったのか?
 3時間に及ぶ彼女のドキュメンタリー映画を見ながら考えてみました。

<レニ、映画界へ>
 レニ・リーフェンシュタール Leni Riefenstahlは、1902年8月22日ベルリンの裕福な家庭に生まれました。1923年ダンサーとしてデビューし注目されますが、美人でもあった彼女は黄金時代を迎えていたドイツの映画界から誘われることになります。
 ドイツ映画界の巨匠ジョセフ・フォン・スタンバーグも彼女の美しさと演技の才能にほれ込み、彼女をハリウッドに誘ったといいます。彼はマレーネ・ディートリッヒとはまったく異なるタイプの彼女をハリウッドのスターにしようと約束しました。しかし、彼女にはその頃ドイツに恋人がいたため、ハリウッド行きの誘いを断りました。
 その後、スタンバーグと共にハリウッドに渡ったディートリッヒは、スタンバーグの名作に出演することで世界的スターとなり、さらに反ナチスのシンボル的存在として活躍することになります。結局、その時点でレニとディートリッヒはまったく正反対の道を選択したことになります。もちろん怪しく美しいディートリッヒのカリスマ的魅力に比べると、レニの魅力は女優としてかなうとは思えませんでしたが・・・。
 次にダンサーとしての肉体的な能力を買われた彼女に声をかけたのは、山岳映画と呼ばれるジャンルの巨匠アーノルド・ファンクでした。当時、ドイツではアルプスの山岳地帯を舞台にした登山の映画がブームになっていて、そのジャンルの第一人者がアーノルド・ファンクでした。彼女は彼の大ヒット作となった「聖山」(1926年)に出演。危険なロック・クライミングのシーンなどをノースタントで演じた彼女は作品中のダンスと共に新しいタイプの女優として大人気となりました。(この時、彼女の演技に魅せられた男性たちの中には、あのアドルフ・ヒトラーもいたことが後に明らかになります)
 1929年には巨匠G・W・バブストとファンクが共同で監督した「死の舞踏」にも主演した彼女は、その撮影中に演技だけでなく監督としての技術を2人の監督から学びました。その後、ファンクの山岳映画「モンブランの嵐」(1930年)、「白銀の乱舞」(1931年)に出演した後、彼女は「青い光」(1931年)でいよいよ監督としてもデビューします。
 ちょうどこの頃、ドイツでは第一次世界大戦敗北後の大不況の中、ナチ党が躍進。彼らの集会に招かれた彼女は、ナチスの宣伝相となるゲッペルスと知り合いました。そして、ナチ党の総統に就任したばかりのアドルフ・ヒトラーに引き合わされます。そして、彼女の大ファンだったというヒトラーからの依頼により、準備が進んでいた党大会の記録映画を撮影することになります。

<プロパガンダ映画の傑作「意志の勝利」誕生>

 1933年の「信念の勝利」はこうして彼女が関わった最初のドキュメンタリー映画となりました。しかし、この映画の撮影で彼女は党から様々な規制を受け、途中参加だったことで準備時間が不足していたこともあり、思うような作品に仕上げることはできなかったようです。そのために、ナチスの映画にはもう二度と関わらないと思っていたようです。しかし、ヒトラーが資金と自由を保障してくれたことから、彼女はこれが最後と翌年の党大会の映画も撮ることに合意します。
 そして、彼女はオリンピックの記録映画を単なるニュース映画とは異なる画期的な記録映画にするためにはどうすればよいのか?彼女は準備段階からそのためのアイデアを模索し、その実現のための準備を行いました。そこで彼女が重視したのは、記録映画に失われがちな「動き」を重視する映像でした。固定したカメラからの映像が中心になりがちな演説の場面もカメラを複数にし、さらにはそれを動かすことでより映画として魅力的になると考えました。彼女はそこで、大会の会場に撮影のためだけのエレベータ―を設置。さらにステージ前には移動カメラ用のレールも設置しました。
 こうして移動撮影を多用しただけでなく、演説の内容やテンポに合わせて編集することで映像には見事なリズムがもたらされることになりました。そしてこの時、彼女は登壇者の長い演説を大幅にカットし、観客が飽きないようにしているのも重要です。そもそもヒトラー自身が自分の演説の内容を観客に理解させることに重きをおいてはいなかったということです。
 映画にはナレーションがなく、観客は映像と音楽によって引き込まれ、ヒトラーの主張内容よりも「カッコよさ」「カリスマ性」に引っ込まれることになりました。たった一人のヒトラーと彼に従う大人数の大衆の対比がさらにヒトラーを魅力的に見せています。党大会は音楽の盛り上がりと共にクライマックスへと向かいますが、後に彼らが主張する人種差別も、侵略戦争も、この中には一切出てきません。
 だからこそ、その作品「意志の勝利」(1934年)はドイツ国内だけでなくフランスの映画祭で金賞を受賞するなど、海外でも高い評価を受けることになりました。ナチスのトップ、アドルフ・ヒトラーの思い描いたとおりの作品になったと言えます。

<「民族の祭典」誕生>
 「意志の勝利」の成功に気をよくしたヒトラーは、開催が決まっていたベルリン・オリンピックの記録映画の撮影もレニに任せます。こうして世界にゲルマン民族の優秀さを知らしめるための巨大イベントの世界公開に向けて、レニには無制限の資金と自由が与えられました。そこまで自由に映画が撮れるとなれば、映画監督なら断ることはできなかったかもしれません。それは、クロスロードに立って悪魔との契約にサインしたブルースマンと同じ気分だったのでしょう。彼女のインタビューからは、そこまで彼女が当時考えていたとは思えず、やる気満々でこの作品の準備を始めたようです。
 そしてこの映画では、彼女がアーノルド・ファンクの「山岳映画」の撮影から学んだ技術が大いに役立つことになりました。
 まず彼女が取り組んだのは、数カ月かけてカメラマンを訓練し、オリンピック本番までに30人の優秀なカメラマンを育てることでした。その他にも、彼女は170人のスタッフを撮影中動かし、136競技すべての撮影を実行することになります。
 さらに彼女は競技ごとに様々な撮影のための工夫をこらしています。
 棒高跳びの跳躍をすぐそばに掘った溝の中から見上げるように撮るカットは迫力満点でした。
 世界最高の超望遠レンズを使いスタート前の100m走ランナーの表情をアップで撮影。「褐色の弾丸」ジェシー・オーエンスのレース前のリラックスした表情もばっちりと残されています。もちろんランナーの横にはレールがひかれ、ランナーと並走してスピード感にあふれた映像を記録しました。
 飛び込みのプールには、飛び込み台上のカメラだけでなく、飛び込みの全体を捉えるための高速度カメラ。さらには、飛び込んだ後の選手を撮影するための水中カメラまで用意。これにより観客は、選手が飛び込む前から飛び出した瞬間、空中姿勢、落下直後の水中までを連続して見ることができるようになりました。
 マラソン競技の場合、ただ単に2時間走る姿を撮っても飽きるだけです。そこで彼女はランナーの顔を移動カメラによりアップで撮影。その表情に現れる苦痛や喜びや悔しさを見事に切り取りました。さらにそんなランナーの感情を表現するように音楽が加えられました。
 この映画における様々な撮影方法は、すべてのスポーツ映画にその後も影響を与え続けることになります。
 オリンピックの記録映画は、そもそも選手の活躍を記録するための映画なので、面白い必要はないとそれまでは考えられていました。それにも確かに一理あります。オリンピックの組織委員会としては彼女の映画には異論があったかもしれません。しかし、大会のトップであるヒトラーは、そもそもオリンピックに興味はありませんでした。画家になりたかった彼はスポーツとは縁遠く、ましてアメリカから来た黒人選手ジェシー・オーウェンスに金メダルを授与するなどもってのほかでした。そのおかげで、ヒトラーからの映画への口出しはなかったのと考えられます。彼にとっては、自分自身とゲルマン民族の選手たちがカッコよく映っていることだけが重要だったのです。
 オリンピック終了後、彼女は撮影した400kmにも及ぶフィルムを自分一人で編集。2年がかりで映画を完成させた作品「民族の祭典」(1938年)と「美の祭典」(1938年)は、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞されるなど高い評価を得ることになりました。

<第二次世界大戦>
 第二次世界大戦が始まると、彼女は従軍記者として戦場へと向かいましたが、そこで彼女は戦争の悲惨さを目の当たりにし、逃げ帰るように映画の現場に復帰します。
 当初、彼女はスペインを舞台に農民たちの苦しみを描いた作品を撮る予定でしたが、戦争の拡大によってスペインでの撮影は困難となります。そこで撮影場所は、ベルリンのスタジオに変更されました。スペイン人農夫を演じるエキストラには、スペイン人ではなくロマの人々を使うことになり、そのために収容所から多くのロマの収容者を連れてきたことが後に明らかになります。この事実は、戦後、彼女に対する批判の理由の一つとなります。ロマの人々もまたユダヤ人同様ホロコーストの対象になっていたからです。トラブル続きで撮影が遅れ、内容的に戦争プロパガンダ映画ではなかったこともあり、彼女は撮影後もチロル地方の山小屋にこもって終戦まで編集作業を続けることになりました。
 しかし終戦後、彼女はすぐに逮捕され、戦争責任を問う審判を受けることになりました。その結果、彼女はナチスの同調者ではあっても、積極的な協力者ではないと判定されます。確かに彼女はナチ党にも入党せず、政権とも距離を取り続けていました。周囲の証言もそのことを裏付けたようです。
 ただし、世論は彼女の映画を忘れず、そのために彼女の映画界への復帰は不可能となりました。

<アフリカへ>
 1962年、彼女はなんの活動もできないヨーロッパを脱出し、アフリカで映画「黒い積荷」の撮影を開始します。ところが映画の撮影中に彼女は火災事故に巻き込まれて入院。映画の製作は中止されてしまいます。その入院中、彼女は偶然アフリカの部族ヌバの戦士の写真を見て強いインパクトを受けました。この時、彼女はすでに60歳になっていましたが、一人で危険と言われていたヌバ族の村を訪れ、そこに住みついて記録映像の撮影を開始します。ちょうどその頃、彼女は40歳年下のホルストと結婚。彼をカメラマンとして同行させ、1973年にはヌバ族の写真をまとめた写真集を発表しています。
 顔にそれぞれ個性的なマスクを描き、美しい肉体と純粋な精神をもつ彼らの映像を撮影しました。残念ながら、この時期に撮影したフィルムは未発表のままです。

<水中へ>
 彼女の好奇心は高齢になっても衰えることはありませんでした。なんと90歳になってから、彼女は年齢を詐称してスキューバ・ダイビングのライセンスを取得。夫と共に海中にカメラを持って潜り、水中の生物たちを被写体にして映画を撮りはじめます。このフィルムは、ドキュメンタリー映画「ワンダーアンダーウォーター 原色の海」(2002年)として公開もされています。
 熱帯魚の色とりどりな身体や様々な顔つきは、どれも個性的で美しく、ヌバ族の個性的な化粧を思い出させます。

 思えば、「民族の祭典」におけるギリシャの彫像を思わせる美しい男たちの肉体を描いたことは、彼女の映像制作におけるモチベーションの象徴だったのかもしれません。それは彼女がダンサーだった時代も、スキューバ・ダイビングに熱中していた時代も変わらなかったのです。
 もし、彼女はスタンバーグと共にアメリカに渡っていたら?
 もし、彼女が「意志の勝利」の監督を受けなかったら?
 映画の歴史は変わっていたかもしれません。とは言え、それによってナチスによる第二次世界大戦が防げたわけでないことは間違いないでしょう。

<名もない生涯と名のある生涯>

 テレンス・マリック監督の映画「名もない生涯」に登場するオーストリアの名もなき農民は、ナチスに従うことを拒否し、徴兵に応じませんでした。そのために彼は逮捕され、裁判を受けます。
「君の抵抗はまったく無意味で、何も変えるとこはできない。まったく無駄なんだ。なぜ、言うことを聞かない?」
 そういわれ続けながらも、彼はナチスへの協力を拒否し続け最後には銃殺刑となります。
 それでも彼の存在は、記録としてだけではなく、映画の中で生きた存在として蘇ることになりました。
 そんな「名もない生涯」に対し、レニ・リーフェンシュタールは映画の歴史にその名を残しながら、映像作家としての未来を失いました。
 それでも2人の存在は「映画」として永遠の存在になりました。

 彼女はドキュメンタリー映画の中のインタビューで最後まで、自らの戦争責任について謝罪の言葉を述べませんでした。
 だてに彼女はナチの大物たちの間で映画を撮るための戦いをしてきたわけではないのです。
 肉体だけでなく精神まで強靭だった彼女は、101歳まで生き、世紀をまたいだ2003年8月22日にこの世を去りました。

ドキュメンタリー映画「レニ Leni」 1993年
(監)(脚)レイ・ミュラー(ドイツ)
(製)ハンス・ユルゲン・フランケ、ジャック・ドゥ・クレルク、ディミトリ・ドゥ・クレルク(撮)ワルダー・A・フランケ、ミシェル・ボードゥル、ユルゲン・マルティン
(音)ウルリッヒ・バースゼンゲ、ウォルフガング・ノイマン
(出)レニ・リーフェンシュタール

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