- ウラジミール・レーニン Vladimir Iliich Lenin -

<「ロシア革命」の主役>
 「ロシア革命」の中心人物であり、分裂してもおかしくなかった革命後の社会主義体制つくりを、そのカリスマ性によって成し遂げた20世紀を代表する政治家レーニン。彼が生まれたのは、1870年4月10日、ロシアの辺境に位置するヴォルガ川沿いの小さな田舎町シンビルスク市で生まれています。彼の父親は視学官として、その街の国民学校で働くインテリ階級に属しており、後に監督官(四等官)として世襲貴族の資格を得る優秀な教育者でした。さらに祖父は農奴から国有地農民となり、さらに仕立て職人となった人物で、そうした努力家の家系の血は彼に大きな影響を与えたようです。
 意外なのは、彼の祖母はモンゴル系だあることがわかっており、祖父もまたそうしたアジア系の血を引く人物だったらしいということです。したがって、レーニンはヨーロッパ人ではなくアジア人だったということになるのです。

<エリートの道から>
 彼の家は、その地域では上流階級に属していました。そのまま行けば、彼もまたインテリ上流階級の一員として、ロシアのエリート官僚になっていたはずです。しかし、運命は彼に別の道を歩ませることになります。
 1886年1月、彼の父親が54歳で急死。さらに翌年、モスクワ大学の理学部に通っていた兄のアレクサンドルが皇帝の暗殺計画を企てた過激派のメンバーとして逮捕され、裁判の後処刑されてしまったのです。それまで、政治にそれほど興味がなかったレーニンでしたが、この事件によりなぜ兄は死ななければならなかったのか?その理由を知るためにロシアの社会、歴史について学び、その中で必然的に「革命」という社会変革手法の存在を知ることとなりました。

<ロシア・ジャコバン派>
 そうした歴史を学ぶ中で特に彼が魅力を感じたのは、知的エリート(インテリゲンチャ)を革命の主体として政権を奪うための党(前衛党)を結成するというロシア・ジャコバン党の思想でした。多くの国民が農民であり、90%以上が文字が読めないというロシアの国においては、革命を実行し政権を奪うのは、選ばれたインテリゲンチャによらざるをえないと考えられていたのです。それはある意味現実的な手法だったといえますが、かつてロベスピエールが行なった「恐怖政治」とその結果について知っているなら、政権がその後どれほどの混乱に陥るかもまた予想できたはずかもしれません。
 
 ロシア・ジャコバン党の元となった「ジャコバン」とは、18世紀のフランス革命の時に生まれたジャコバン派の名前からきています。ロベスピエールが中心となって生まれたこの一派は、フランス革命の後、身分の平等を目指し急激な改革を実行。その暴力的で専制的な手法は「恐怖政治」と呼ばれることになります。彼らの思想は共産主義の原型とも言われており、国会において彼らが議事堂の左側に座っていたことから「左翼」という言葉が生まれたとも言われています。

 その後、彼は西ヨーロッパに行った際、より広範な階級の人々が民主的な主義考え方に基づいて結束し、革命を実現するという西欧型の社会主義思想を知り、一時はその方法に傾いてゆきます。そんな中、1890年代に入るとロシアでも高等教育を受けたインテリ階級が急激に増え、労働者も含めた社会全体による革命を指向する動きが強まりました。そんな中、レーニンはあくまでも知的エリートを主体とする職業的な革命集団を中心に革命を行なうことを主張し、その理論をまとめてゆきます。そうして彼は、同じ志しをもつ人々を中心とするボリシェビキ(多数派)を率いるようになり、西欧的でより民主的な革命を目指すメンシェビキ(少数派)のグループと対立してゆくことになります。(後に彼の右腕となる革命家レオン・トロッキーは、この時メンシェビキのグループに属していました)

<第一次革命の失敗>
 1905年に起きた最初の革命は失敗に終わり、そのためにボリシェビキとメンシェビキの対立はさらに深まることになります。革命の困難さを思い知ったメンシェビキのメンバーは、ブルジョア階級における革命を先行して行い、その後時間をかけてプロレタリア革命に移行させるという現実的な路線を打ち出します。(この理論は「非連続一段階革命論」と呼ばれプレハーノフによって提唱されました)しかし、レーニンはプロレタリアと農民を中心臨時政府を樹立し、そのままプロレタリア革命を行なうという「連続的二段階革命論」を主張していました。
 その後、1914年に第一次世界大戦が始まると、彼は戦争に参加して祖国を守るのではなく「帝国主義戦争」を行なっている政府を内乱によって突き崩すことを目指し、1917年に起きた「二月革命」の後、急遽亡命先のスイスから帰国します。

<二月革命>
 帰国したレーニンは、すぐに対立していたトロッキーらと共闘、労働者だけでなく兵士たちも巻き込んで評議会(ソヴィエト)を結成。この組織によって崩壊していたロシアの権力を掌握することに成功します。わずか一年で「ロシア革命」を成功させてしまいました。レーニンは革命成功後、盟友のトロツキーにこう言ったといいます。
「迫害と地下生活からこんなに急に権力がとれるなんて・・・めまいがする」

 革命は確かに成功しましたが、そこからプロレタリアのための体制を築き上げることは、遥かに困難なことでした。革命の成功はあまりに早すぎたのです。大衆だけでなく、指導部のメンバーもまた「革命とは何か」を理解できていなかったのです。その結果、政権の奪取と同時に、元々が異なる主義主張の集合体だった共産党内部では権力闘争が始まり、国内各地では右派勢力が結集。さらに国外では「社会主義」が自国にも広がることを恐れた西欧各国がソ連に対し、政治的、経済的な圧力を強めつつありました。
 そうした内乱状態に近い状況の中、レーニンは国家体制を、全体主義的もしくは専制主義的なものへと変更することで何とか乗り切ることになります。それは彼にとって、必要悪だったのかもしれません。それは一時的なものであり、自らが政権を安定させた後、修正するつもりだったのかもしれません。問題は、彼にその時間的余裕が残されていなかったことです。

<早すぎる死>
 革命からわずか5年後、彼は病で倒れてしまいました。それは革命のための激務が原因の脳梗塞といわれています。(ただし、梅毒説もあり)彼は、病床でなお革命の推進に当たり、自らの後継者を立てようとしますが、精神的にも異常になった見なされた彼は政権から完全にはずされてしまいます。そのため、ソ連の次なる指導者の座は、レーニンが嫌っていた人物ヨシフ・スターリンに奪われようとしていました。その後、彼の遺体は革命のシンボルとしてモスクワのレーニン廟に保存処理された状態で安置され永久展示されています。ソ連が崩壊してもなお、彼の存在はロシアの国民にとって神のごとき存在なのです。(神の存在を否定した共産主義にとっても、やはり神のごとき存在は必要なのかもしれません)
 スターリンは最高権力の座につくと、すぐに意見を異にする者の粛清に乗り出します。トロッキーは政権どころか国外へと追放され、ついにはメキシコの地まで殺し屋を送り暗殺してしまいます。完全な独裁体制を築いた彼は、その後、国家主義的な政策により農業の集団化を徹底的に推し進め、反体制派やユダヤ人たちを次々にシベリア送りにするなど、ヒトラー以上に異常な警察国家体制を作り上げます。こうして、彼のおかげで、社会主義体制=独裁国家というイメージが生まれ、そのために「マルキシズム」=「ファシズム」という考え方が定着することになるのです。

<レーニンの功罪>
 しかし、そうしたスターリンの独裁路線は、決して彼が一人で生み出したわけではないことも忘れてはいけません。その青写真を作ったのは間違いなくレーニンだったのですから。このことは、ゴルバチョフによって行なわれたグラスノスチ(情報公開)以後に公開された当時の資料によっても、明らかになりつつあります。
「選ばれたエリートによる指導がなければ大衆に革命は不可能である」レーニンがそう考えながら「革命」をスタートさせた時点で、スターリンという怪物の誕生は約束されていたのかもしれないのです。
 もう少し時間があればレーニン自身が、そうした専制主義的な方向性を修正することもありえたのでしょうか?それはどうでしょうか?70年後に起きたエリツィンとゴルバチョフによる新たな民主主義革命は、再びそれを修正するために起きたともいえます。しかし、それもまた改革の途中でゴルバチョフは引退し、エリツィンもまた心臓を患って主役の座を降りてしまっていました。そして、その後、ロシアの国民が選んだ次なる指導者は、・・・スターリンと同じく国民に嫌われていた組織KGBの出身だったプーチンだったのです。
 やはり70年程度は、国民性がそう変わるわけはないのです。

「政治は大衆のいるところで始まる。数千人がいるところではなく、数百万人がいるところで、つまり本当の政治が始まるところで始まる」
 これは彼が残した言葉ですが、そこには民主主義というよりも、全体主義的な色合いがすでに色濃くでています。
 「政治は数できまる」という発想は、日本の自民党の議員さんたちの言葉のようでもありますが、実際に彼はそのおかげで革命を起こすことができたのです。しかし、それだけでは政治は進まないことを知った時、「数の論理」を利用するという手法、すなわちナチス・ドイツで有名になったプロパガンダの手法が登場することになり、あのスターリンによる恐怖政治の時代が訪れることになります。

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