「レニー・ブルース Lenny」 1974年

- レニー・ブルース Lenny Bruce 、ボブ・フォッシー Bob Fosse 、ダスティン・ホフマン Dastin Hoffman -

<破滅へ向かったカップルたち>
 スコット・フィッツジェラルドとゼルダ、シド・ヴィシャスとナンシー・スパンゲン、カート・コヴェインとコートニー・ラブ、チャーリー・パーカーとチャン・パーカー、ジャクソン・ポロックとリー・クラスナー、いずれも実在のカップルであり、芸術のために燃え尽きた悲劇のアーティストとそのパートナーたちとして伝説的な存在です。作家として成功しながらも、妻ゼルダの異常なまでの浪費癖により、自らの作家生命を縮めてしまったスコット・フィッツジェラルド。セルダは結局、精神病院に入り、彼自身もアルコールにより身体を壊し、若くしてこの世を去りました。
 シド・ヴィシャスとナンシーが麻薬によって短いパンク人生を終えてしまったお話は、アレックス・コックスの代表作「シド&ナンシー」で見ることができます。
 天才ジャズ・サックス・プレイヤー、チャーリー・パーカーの破滅へと向かうボロボロの人生はクリント・イーストウッド監督の「バード」で、ポアリングという独自の技法で一世を風靡した天才前衛画家ジャクソン・ポロックの自己破壊の人生は自らポロックを演じたエド・ハリスの監督作品「ポロック 二人だけのアトリエ」で見ることができます。自ら死を選んだニルバーナのヴォーカリスト、カート・コヴェインとその妻コートニー・ラブ。こちらはコートニー・ラブがその後も活躍を続け、現在進行形といえます。
 そして、そんな悲劇的人生を送ったカップルとして僕にとって忘れられない存在がもう一組あります。それは過激なネタ追求に命を賭けたコメディアン、レニー・ブルースと彼の妻ハニー・ハーロウです。1974年公開の「レニー・ブルース」は、彼がそのキャリアをスタートさせ自らその命を断つまでの短い人生をドキュメンタリー・タッチで描いた作品です。

<レニー・ブルース>
 レニー・ブルース Lenny Bruceは、本名をレナード・アルフレッド・シュナイダーといい1925年ニューヨークに生まれたユダヤ系のニューヨーカーです。典型的なユダヤ人家庭に育った彼ですが、両親は彼が8歳の時に離婚。彼は父と共に暮らすことになりました。(後に彼は自分の母親はレズビアンで、その相手となった女性に育てられたとも語っています)家の中で常に一人ぼっちだった彼はラジオが唯一の友達でした。その後、17歳で海軍に入隊した彼は太平洋戦争が終るまで3年間巡洋艦に乗り組みました。
 父、母ともにエンターテナーを目指して舞台に立つ芸人だったこともあり、終戦後、ニューヨークに戻った彼は本格的に芸人の道を歩み始めます。特に学生時代から国語教師に”ことばの天才児”と呼ばれていた彼のしゃべりのセンスは抜群で、アマチュアの芸人としてさっそく活動を開始します。こうして、スタンドアップ・コメディアンとして活動するようになったレニーは1951年ストリッパーのハニー・ハーロウと知り合いますが、ここからこの映画は始まります。

<ボブ・フォッシー>
 1950年代末にカリスマ的なスターとしてもてはやされるようになり、1966年の死まで、わずか5年ほどの間に社会のタブーを暴露し続け自らの命を削っていった伝説の男、レニー。その存在自体がタブーだった男のドラマに焦点を当てたのは意外なことに、ミュージカル映画の振り付け師であり、映画監督でもあるボブ・フォッシー Bob Fosseでした。
 実はボブ・フォッシーとレニーにはいくつかの共通点がありました。二人はともに1925年生まれの同世代です。ボブの父親もまたボードビルのスターで彼は兄妹とともにダンサー、コーラスとして幼い頃から舞台に立っていました。さらに彼もまたレニー同様、太平洋戦争に海軍の兵士として参加。あの有名な硫黄島の激戦を潜り抜け奇跡的に生還した人物です。
 1948年、彼はブロードウェイでダンサーとしてデビュー。1953年にはハリウッドに招かれMGMのミュージカル映画「キス・ミー・ケイト」などに出演。その後、1954年に再びブロードウェイに戻った彼は振り付け師として活躍をし始めます。特に「くたばれ、ヤンキース」(1955年)、「スイート・チャリティ」(1966年)などの振り付けは高く評価され、その後映画監督となった彼は1972年には、ライザ・ミネリ主演の「キャバレー」でアカデミー監督賞を受賞。監督としての才能を早くも証明してみせました。
 畑違いとはいえ、同じ時代にニューヨークを中心に活動していたレニーの舞台を当然、彼は見ていたのでしょう。そして、同世代として同じ目線で時代を見てきたことにより、この映画にはしっかりとしたリアリズムがやどることになったのです。かつて、実際にチャーリー・パーカーの演奏を見たクリント・イーストウッドが「バード」を撮ったのと同じ思いがあったのかもしれません。

<ダスティン・ホフマン>
 もうひとり主役を演じたダスティン・ホフマンもまたレニー・ブルースと同じようにニューヨークで厳しい下積み生活に耐えた芸人として自分を重ね合わせていたはずです。ダスティン・ホフマン Dustin Hoffmanは、1937年8月8日ロサンゼルスに生まれました。母親が映画の大ファンだったことから、彼女が大好きだったサイレント映画のスター、ダスティン・ファーナムの名から彼のはとられたそうです。彼もまたレニーと同様ユダヤ系の出身で、当初は音楽家を目指しピアノに打ち込んでいました。しかし、サンタモニカ市立大学で演技コースを選んだ頃から演劇や映画に興味をもつようになります。そして、1958年ニューヨークに出た彼は名門アクターズ・スタジオに通い始めます。しかし、当時の彼は生活が苦しく、ダンスホールでピアノを弾いたり、精神病院で介護師をしたり、デパートでオモチャ売り場の店員をしたりと、いろいろな仕事をしながら舞台俳優として長い下積み生活を続けることになりました。
 1966年、ブロードウェイの舞台劇「五番目の馬の旅」で最優秀男優賞を受けた彼は、やっと注目を浴びるようになります。そして、彼の演技を見たマイク・ニコルズ監督により、青春映画の名作「卒業」(1967年)の主役に抜擢されることになりました。その後、彼は演じた役柄の幅の広さは、まさに彼の俳優としての才能の大きさを感じさせるものです。「卒業」で金持ちのボンボンを演じた彼は、「真夜中のカウボーイ」(1968年)では万引きとサギで食いつなぐ薄汚れたホームレス、「ジョンとメリー」(1969年)では行きずりの女性と一夜を共にするごくごく普通の青年、「小さな巨人」(1970年)ではインディアンに育てられた実在の白人インディアン、「わらの犬」(1971年)では暴漢から身を守るために暴力を使い、いつしかその快感に魅かれてしまったインテリの物理学教授、「パピヨン」(1973年)では主人公のパピヨンと共に離れ小島の牢獄で暮らす犯罪者・・・とにかく彼は誰よりも幅広い多種多様な役柄に挑んでいます。そんな彼の俳優人生の中でも、この映画で彼が演じた「レニー・ブルース」ほど、自らの実人生に関連づけられる役どころはなかったでしょう。それだけに、彼はこの映画に自分のすべてを賭け、最高の演技を披露することができたのでしょう。

<バレリー・ペリン>
 この映画でカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞したバレリー・ペリン Vallerie Perrinもまた彼女が演じるハニー・ハーロウと共通する人生を歩んでいました。1943年9月3日にテキサス州のガルヴェストンで生まれた彼女は典型的なWASP(プロテスタントのイギリス系白人)の家庭で、陸軍中佐の堅い父親に厳格に育てられました。しかし、南部の街での平凡な生活にうんざりした彼女は、アメリカを代表する歓楽都市ラスベガスでコーラス・ガールとして働き始めました。その後はこの映画でも大胆に披露しているナイス・ボディーを売り物にトップレス・ダンサーとして有名なスターダスト・ホテルで踊るようになり始めます。しかし、当時のヒッピー・ムーブメントの影響もあり、彼女はその合間にヨーロッパや海外各地を旅して周るなど、単なる踊子では満足できないものをもっていました。そんな彼女がラスベガスで踊る姿を見たハリウッドのエージェントの一人が彼女をスカウト。ジョージ・ロイ・ヒル監督の隠れた名作「スローターハウス5」のヒロインにいきなり抜擢されることになり、一気に俳優としてのチャンスをつかむことに成功します。そんな彼女にとっても、ハニーの役は自らの体験を行かせるやりがいのある役柄だったでしょう。レニーを愛するがゆえに、彼の浮気に耐え切れず、レズビアンや麻薬に溺れてゆくその姿は、愛らしく痛々しく、だからこそ限りなくエロチックで忘れられないものとなりました。

<レニーの強烈なトーク>
 それではレニーの強烈なトークを少々・・・
「今夜ここにニガーは来ているかね。
 照明さん、ライトを頼む。さあ、よく見せてくれ。
 ニガーが二人いるぞ。そのそばにカイクも二人いる。
・・・ポラックも6人見える。・・・ああ、それからミックが4人。グリースボールが3人と・・・それからワップが4人いる。・・・・」

「もし、ケネディーが”ニガー、ニガー、ニガー”とニガーひとりひとりを大声で紹介したら、こいつは”ブギー、ブギー、ブギー”だ。おそらくそうなれば、ニガーという言葉の持つ暴力は消えてしまう。ついには学校でニガーと呼ばれたために泣き出すような小学生も金輪際なくなる」

ここで使われている「カイク」とはユダヤ人、「ポラック」はたぶん東欧系移民、「ミック」はアイルランドからの移民、「グリースボール」はメキシコからの移民、「ワップ」はイタリア系移民
映画「レニー」のパンフレットより
 こんな感じで彼は政治や社会風刺をそのまま観客にぶつけました。あくまで第三者的立場として彼の辛口コメント、もしくは暴言を聞こうとやって来た観客は、その矛先が自分にも向けられていることを知り不快感を覚えることになります。人によっては、二度と彼の舞台は見たくないと思いますが、それを真実であると受け入れた人々は彼の言葉に拍手を送るようになってゆきました。
 彼が後に猥褻容疑で逮捕された時、俳優のリチャード・バートン、作家のノーマン・メイラー、ジェームス・ボールドウィンらが彼を助け出すための抗議集会に参加しています。しかし、こうしてカリスマ的人気を獲得していった彼の言葉は、社会活動家としてのものではなく、あくまで芸人として観客に受けることを狙ったものだったはずです。だからこそ、彼はしだいにその過激さを増さざるを得なくなるのです。これは大衆芸能を仕事とする芸人として当然の展開だったのかもしれません。大衆が求めるのは、「より安く」「より楽しく」「よりスリリングに」と過激さへと向かうことなのですから。こうして、彼はより過激な芸を求めて、妻にレズビアンを強要したり麻薬に溺れたり警察官を前にわざと猥褻な言葉を連発するようになって行きました。彼にとっては法廷さえもネタを仕入れる場となります。破滅へと向かっていることを知りつつも、彼はその他の道へと向かう器用さを持ち合わせてはいなかったのです。

「俺はコメディアンでもないし病人でもない。
 この世が病んでおり、俺はそれを直す医者だ。
 この世の偽善をメスで断ち切る外科医だ。
 これは演技じゃない。
 俺はただしゃべるだけ。
 俺はただレニー・ブルースさ」


<早すぎた天才>
 あと五年遅く生まれていたら、彼は映画俳優かロック・ミュージシャン、ポップ・アートのカリスマ・アーティストなどの道へ進んでいたかもしれません。当時、彼のような才能を生かす道は少なすぎました。それとも、ドアーズのジム・モリソンやジャズ界のチェット・ベイカー、ジェームス・ディーンやジャニス・ジョップリンらと地獄への道行きをともにするようあらかじめ運命づけられていたのでしょうか?
 彼は生前「猥褻」の定義について、こんなことも語っています。未だにアメリカ人の多くが、広島に落とされた原子爆弾は戦争被害を少なくするために必要な正しい手段だったと考えている中で、これもまた実に反アメリカ的な発言ととられたはずです。
「わいせつと言えるのは人を傷つけたり殺すことだけだ。ヒロシマは猥褻だ。」
レニー・ブルース

よくぞ言ってくれました。
彼が生きていたら、どれだけの名言を残してくれたことでしょうか。

「レニー・ブルース Lenny」 1974年公開
(監)ボブ・フォッシー
(製)マーヴィン・ワース
(製総)デヴィッド・V・ビッカー
(原)(脚)ジュリアン・バリー
(撮)ブルース・サーティース
(音)ラルフ・バーンズ
(出)ダスティン・ホフマン、バレリー・ペリン、ジャン・マイナー、スタンリー・ベック

<あらすじ>
 1951年、メリーランド州ボルチモア。人気ストリッパー、ハニー・ハーロウ(バレリー・ペリン)のお色気にノックアウトされた男たちの中にかけ出しのスタンドアップ・コメディアン、レニー・ブルース(ダスティン・ホフマン)がいました。二人はすぐに愛し合うようになり、結婚。一緒にアメリカ各地の店を回って営業活動をするようになります。しかし、レニーの芸はなかなか観客に受けず、二人はいつしか麻薬に溺れるようになってゆきます。結局ハニーはストリッパーに戻り、二人の関係はしだいに悪くなってゆきます。こうして、レニーの芸風もしだいに下品で辛らつなものへと変わり始めます。ついに二人は離婚。しかし、レニーを忘れられないハニーは、どっぷりと麻薬にはまった末に破産してしまい、ついには麻薬の不法所持で逮捕されてしまいます。しかたなく、レニーは二人の間にできた子供を預かることになります。この頃から、彼の芸はいよいよ過激さを増してゆきます。政治家、宗教、人種差別、セックスなど、あらゆるタブーについて、4文字言葉を連発。警察に逮捕されると今度はその裁判の様子をネタにするなど、すべてを自らの芸に取り込んでゆきます。しかし、こうした彼の過激な活動は麻薬中毒をさらに悪化させてゆき、彼の心と身体を蝕んでゆきます。そんなボロボロの状態で、彼はついに裁判で有罪の判決を受けてしまいます。しかし、もう彼には裁判で闘う気力も体力も残されてはいませんでした。

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