- レナード・コーエン Leonard Cohen -

<ロックの枠組み>
 ロック・ミュージックの世界は、新しいスタイルをもつアーティストが現れるたびにジャンルの枠を広げてきました。そうした新しいスタイルを持ち込むアーティストの登場があったからこそ、ロックはロックとしての存在感を保つことができたとも言えるでしょう。そう考えると、ロックという枠組みからはずれたところにいるアーティストこそが、本当の意味でロックらしいロックを奏でているとも言えるわけです。
 例えば、今はもう完全に音楽活動から離れてしまったキャプテン・ビーフハートやその存在自体が謎だらけなグループ、レジデンツなどは、ポップス・シーンどころかロック・シーンからも遥かに離れたところで活動しています。(彼らについては僕も紹介困難です)そんな彼らにとっては、音楽業界の枠組みやジャンル分けなどどうでもよいことなのです。ただ、僕のような人間が彼らのことを勝手に「ロックの辺境に位置する真のロック・アーテイスト」と持ち上げているだけのことです。

<辺境からメジャーへ>
 しかし、そんな辺境に位置するアーティストたちの中には、ロック・シーンの変化によって、いつの間にか辺境からメジャーへとその存在位置が変わってしまう場合があります。
 異端のシンガー・ソングライター、レナード・コーエンは、世界中に散らばる彼のファンたちによって、50歳を過ぎてからロック界のメジャーに浮上したという非常に珍しい存在です。さらに、自らがメジャーになってもなお、そのスタイルを変えることはなく、詩人であり歌い手であり、なおかつ禅僧であるという彼の生き方は、ロック界の異端派であり続けています。そんな謎に満ちた彼のことを知りたかった方は多かったのではないでしょうか。僕もそうでした。

<ユダヤ系カナダ人に生まれて>
 レナード・コーエンが「異端派」であるというのには、いくつもの理由がありますが、先ずは彼がカナダ人としては珍しい厳格なユダヤ教徒だったというところからお話を始めたいと思います。
 レナード・コーエンの父親ネイサンは、弟とともにフリードマン・カンパニーという紳士服メーカーを設立し、それをカナダを代表する企業へと成長させた典型的なユダヤ系ビジネスマンでした。さらに彼のおじいさんはユダヤ教の指導者、ラビとして有名な人物でした。そんな名門ユダヤ系ファミリーの一員として、彼は1934年9月21日モントリオールに生まれました。ただし、彼の人間性はそんなお堅い父親の血筋よりもロシア系の母親のもっていたロマンチストで音楽好きな部分をより多く引き継いだものだったようです。

<青春時代>
 1945年ユダヤ人強制収容所の写真を見た彼はユダヤ人迫害の現実と歴史を知り、ユダヤ教について真面目に勉強するようになります。その後ウエストマウント・ハイスクールに進んだ彼は自治委員長に選ばれるなどリーダーとして活躍。スポーツも万能選手だった彼ですが、しだいに音楽の魅力にもひかれるようになり、ピアノやクラリネット、ギターなどを演奏するようになります。しかし、この頃彼が最も凝っていたのは、実は催眠術だったという話しもあります。彼は知り合いの女性に催眠術をかけ、心の奥に潜む悩みを聞きだしたりして、他人に影響を及ぼすことに喜びを見出していたようです。やらしい奴!
 彼の歌がもっている単調なのに人の心を捕らえて離さない魅力の根底には彼の催眠術のテクニックが活かされているのかも?そんなことを考えてしまいます。

<詩との出会い>
 この頃彼は人の心に影響を及ぼすことのできるもうひとつの魔法、「詩」の世界と出会うことになります。そのきっかけは、スペインを代表する詩人フェデリコ・ガリシア・ロルカの詩を読んだことでした。スペイン内乱の混乱の中、ファシストたちによって処刑された悲劇の詩人ロルカのロマンにあふれた詩に感動した彼は、自ら詩を書くようになりました。それは1950年、レナード・コーエン16歳の時でした。
 こうして、詩を書き始めた彼は同時に「恋」にも目覚めます。そして「恋」をするたびに新しい「詩」が生まれる。彼の恋多き人生がいよいよ本格的に始まることになりました。彼は「恋」についてこう書いています。
「愛は本質的なものだが、それぞれ個々の相手によって定義し直せるものである。その人の生涯のさまざまな場面にふさわしい、さまざまな恋人が必要である」
 なかなかの名言のようですが、「不倫は文化だ」と言った日本の某タレントのセリフのようでもあります。

<詩人、旅に出る>
 1955年、彼はケベック州の名門校マギル大学を卒業。在学中、意外なことに彼の成績では英文学が最悪で、逆に数学が得意。さらにディベイトに関しての彼の能力は学内でも最高レベルだったそうです。詩人としての活動も忙しく、彼はすでにこの頃からギターを弾きながらの詩の朗読を行っていたようです。
 その後、詩人としていくつかの賞をもらい、卒業後すぐにデビュー作となる詩集「神話くらべ」を出版します。こうして、詩の世界での彼の評価は高まりましたが、地元モントリオールを中心とする狭い範囲での活躍を物足りないと感じた彼は当時ビート文化の中心地だったニューヨークへと旅立ちます。
 コロンビア大学に入学した彼は、ビート族たちが集まるカフェに入り浸りますが、そこに仲間入りすることはできませんでした。彼のような名門出のお坊ちゃんを、筋金入りのビート族たちは受け入れてくれなかったのです。結局彼はモントリオールに戻り、新たにニューヨークで仕入れたスタイル、ジャズ・バンドをバックにした詩の朗読を打ち出して行きます。しかし、詩人としても詩の朗読者としても、それ以上の活躍、収入は望めず、一時は父親の会社で工員として働く日々を過ごした彼はある日、再び旅に出る決意を固めます。

<イドラへ、キューバへ>
 1959年ロンドンに渡った彼は、その後ギリシャに移動、イドラという小さな島に住み着きます。そこは水道設備すら整っていない不便な島でしたが、いつしか作家や画家、詩人たちが住み着き始め、後にはアレン・ギンズバーグや有名な映画スターたち、ブリジッド・バルドー、ソフィア・ローレン、ついにはケネディー一族までもが訪れることになる有名人たちの隠れ家的存在となります。
 いち早くその島の魅力にひかれた彼は、その島の古い家を買い、新たな創作拠点としました。自由な雰囲気に満ちた島での生活をもとに彼は小説「お気に入りのゲーム The Favourite Game」を発表。その後、彼は革命によって誕生したばかりの社会主義国キューバに潜入します。それは彼が憧れていた詩人ロルカがキューバこそ地上の楽園と呼んでいたからであり、カストロによる革命がバティスタ政権下で築かれた退廃に満ちた街をどう変えたのか、それを自分の目で確かめたかったようですが、真意はわかりません。
 その後、有名なキューバ危機が近づくにつれキューバ国内では戦争の可能性が高まり、しかたなく彼は国外退去のため空港に向かいます。ところが、やっと手に入れた航空券を手に出国手続きを取ろうとしたところ、彼は一枚の写真のおかげで足止めをくうことになります。その写真は彼が革命軍の兵士たちと撮った記念写真でしたが、それを見た係官は彼が脱走兵に違いないと思ったのです。そんな危機一髪の状況の中、彼は飛行機内で起きたトラブルに係官らが向かったすきを見て、見事飛行機に紛れ込み脱出に成功しました。大した度胸の持ち主です。

<再びミュージシャンを目指す>
 その後彼は詩集「大地の薬味入れ」「ヒトラーのための花束」「嘆きの壁」などを発表しますが、思ったほどの評価を得られず、詩人として食べて行くことに限界を感じるようになります。こうして、彼は再びミュージシャンへの道を模索するべく、1966年ニューヨークの街へと向かいました。そこで彼は友人の紹介により、ザ・バンドなどのマネージャーとして有名なアルバート・グロスマンのアシスタントの前で歌うチャンスつかみます。そのおかげで、ジュディ・コリンズによる彼の曲「スザンヌ」のカバーが実現。レナードの曲を気に入った彼女は、さらに「Sisters of Mercy」「Priests」「さよならは言わないで Hey,That's No Way to Say Goodbye」と3曲を録音。1967年のアルバム「Wildflowers」に収めました。当時ジュディ・コリンズはジョーン・バエズと並ぶフォーク界の新進スターとして活躍していただけに、彼女のカバーをきっかけにして、彼にレコード・デビューのチャンスがめぐってくることになりました。

<若くない新人のデビュー>
 デビュー時、彼はすでに32歳でした。新人アーテイストとしては若くなく、天才詩人ではあってもレコードが売れるという保証はまったくありませんでした。そのうえ彼は音符がまったく読めず、レコード録音の経験どころかプロのミュージシャンといっしょに演奏したことすらありませんでした。それでもなんとか録音は無事に行われ、1967年デビュー・アルバム「レナード・コーエンの唄」が静かに世に出ました。このアルバムの売上は、アメリカでは162位まででしたが、イギリスでは13位まであがり、まずまずのヒットとなりました。(この時、すでに彼の曲はアメリカよりもヨーロッパで受け入れられるという傾向を示しています)
 さらにこのアルバムからの曲は、インデペンデント映画の巨匠ロバート・アルトマンの出世作「ギャンブラー Mccabe and Mrs.Miller」でも使われ、あの映画独特の雰囲気を出すのに貢献しています。

<チェルシー・ホテル>
 この頃、ニューヨークでの彼の住みかは有名なチェルシー・ホテルでした。当時のチェルシー・ホテルはアンダー・グラウンド・シーンのアーティストたちの拠点としてすでに有名になっており、そこにはジョーン・バエズ、ボブ・ディランジミ・ヘンドリックス、クリス・クリストファーソン、ジャニス・ジョップリンらが宿泊し、ドラッグと音楽とアートが交わる特別な空間となっていました。彼はこのホテルが気に入り、そこでジャニスやジョーン・バエズ、それにニコらと親しくなるなど音楽界とのつながりを深めるきっかけをつかんでいます。

<セカンド・アルバム>
 1969年セカンド・アルバム「ひとり部屋に歌う Songs from a Room」が発表されます。このアルバムには後に彼の代表曲として多くのアーティストたちにカバーされることになる名曲「Bird on the Wire」が収められています。(メル・ギブソンとゴールディー・ホーン主演の映画タイトルでありテーマ曲でもあります。この時カバーしたのはアーロン・ネヴィルでした)
 この年彼は自らの詩のベスト作品集「詩選集 Salected Poems1956〜1968」を発表。こちらも高い評価を得て、売上も過去最高となりました。
 もうひとつ彼はこの年、後に大きな影響を受けることになる人物と出会っています。それは日本人の臨済宗(禅仏教の代表的宗派)伝道師、佐々木承周老師という人物です。友人の家に行った際、偶然知り合うことになったこの人物と後に師弟関係を結ぶことになるとは、彼もまったく思わなかったようです。しかし、こうして出会った禅のおかげで彼は多くの精神的困難を乗り切ることになります。

<ボブ・ディランとの関係>
 1970年、彼は初めてライブ・ツアーに出ます。けっして歌が上手いとはいえない彼は長い間ライブに自信がもてずにいました。それはもしかすると彼と同じユダヤ系のフォーク詩人ボブ・ディランと似ているかもしれません。1969年に初めて知り合ったディランと彼はすぐに親しくなり、その後もずっと親しい関係を保ちます。一時は「カナダのボブ・ディラン」と呼ばれた彼にとって、同じように恋、麻薬、宗教、詩、作品の売上げ、さらに歌が下手なことに悩むシンガー・ソングライターの存在は他人事ではなかったのでしょう。ディランもまた彼の才能を高く評価しており、ある時こう言ったこともあるそうです。
「なり代わってもかまわない人物が三人いる。ロイ・アキューフ、ウォルター・マッソー(喜劇俳優)そしてレナード・コーエンだ」

<ドラッグと禅>
 1971年、彼はサード・アルバム「愛と憎しみの歌 Songs of Love and Hate」を発表しますが、このアルバムはそれまでの二作に比べ明らかに売上が落ち、そこから彼にとって厳しい時代が続くことになります。
 そして彼は当時多くのアーティストたちがそうだったようにドラッグにはまり、なおかつ次々とまわりの女性たちに手を出す生活を繰り広げます。それでも、彼は女性は別にしてドラッグに関しては早くに縁を切ることができました。そしてその際心の支えとなったのが「禅」の存在だったのです。
 彼は1970年代初め頃からカリフォルニアで伝道活動を行っていた老師の元で修行を始めます。元々彼はイスラエルを慰問で訪れるほど熱心なユダヤ教徒だったのですが、禅は宗教とは別の存在でもあるため、しだいにその魅力に引きつけられ、ついには自ら「禅」の指導者にまでなります。

<フィル・スペクターとの作業>
 1977年発表のアルバム「ある女たらしの死 Death of a Ladies' Man」で、彼はプロデューサーにフィル・スペクターを起用しました。当時すでにフィル・スペクターの偏執狂的異常さは業界でも有名になっていたはずなのですが、彼はそれを気にしませんでした。当然のごとく、アルバムの製作現場は大混乱。それでも無事完成にこぎ着けたのは、ある意味二人は馬があったということだったのかもしれません。しかし、その結果として生まれたアルバムの方は、売上も評価もいまひとつでした。
 しかし、彼に再び光が当たる日が近づきつつありました。そのはじまりは、彼の恋人でもあったファッション写真のカメラマン、ドミニク・イッセルマンが監督したミュージック・ビデオ「哀しみのダンス Dance Me to the End of Love」のヒットあたりからでした。

<僕たちレナード・コーエンのファンです>
 いつの間にか、暗い歌ばかり歌う彼に対して「自殺願望の鬱病シンガー」という呼び方がされるようになっていましたが、「暗い歌」に価値を認めない多くのアメリカ人の中にも、彼の歌を愛する人は存在し、彼らの力によってその存在は再び表舞台に浮上し始めることになります。
 先ず最初に彼を押し出したのは、彼のバンドでコーラスを担当していたジェニファー・ウォーンズでした。彼女が出したレナード・コーエンのカバー集「ソング・オブ・バーナデット〜レナード・コーエンを歌う〜 Famous Blue Raincoat」は大方の予想を覆し見事にヒットします。
 1988年、レナード・コーエンはアルバム「ロマンシェード I'm Your Man」を発表。アメリカでの売上は相変わらずだったものの、イギリスやスペインなどヨーロッパ各国でチャートのトップに立つという快挙を成し遂げます。この時、彼は54歳。なんという遅咲きのロック・スターでしょう。
 こうして盛り上がる彼の人気は、さらに2枚の優れたトリビュート・アルバムによって、さらにそのすそ野が広げられることになります。
 一枚は1991年発表の「僕たちレナード・コーエンの大ファンです I'm Your Fan」。このアルバムにはイアン・マカロック、ジョン・ケイル、ニック・ケイブ、REMらオルタナ系、アンダーグラウンド系のアーティストが参加。若々しい視点でとらえたカバー集は、若者たちの間にレナード・コーエンの名前を知らしめました。
 そして、もう一枚は「タワー・オブ・ソング〜レナード・コーエンの唄〜 Tower of Song:
The Song of Leonard Cohen」(1995年)このアルバムは、スティング、エルトン・ジョンピーター・ゲイブリエルビリー・ジョエルボノ(U2)、スザンヌ・ヴェガ、ドン・ヘンリー(元イーグルス)、ウィリー・ネルソン、アーロン・ネヴィルなど、ロック界の大物が参加。あらゆる年齢層のポップス・ファンにレナード・コーエンの名が知れることになりました。
 ただし、彼の名前は知られるようになっても、彼の本当の姿はけっしてファンに知られることがありませんでした。かえって、レナード・コーエンというアーティストの謎は深まるばかりだったと言えます。彼がこの年、正式に禅僧となり「静かなる者」を意味する名前「自間」を得たことを知る人はどれだけいたでしょう。

<コーエンと女性たち>
 「恋多き詩人」レナード・コーエンは結婚し二人の子供をもうけましたが、その後離婚しています。結婚している間も、彼はボヘミアン的な人生の中で数多くの女性と恋におち、そこから多くの歌が生まれています。
 「スザンヌ」は二人の子供の母でもあるスザンヌ・エルロッドのこと。
 「さよならマリアンヌ」は、イドラ島で生活をともにしたマリアン・イーレンのこと。
 その他、彼が付き合ったアーティストとしては、ヴェルベット・アンダーグラウンドのニコ。それにジョニ・ミッチェル。彼女はコーエンと二人でコーエンの母親を訪ねた時のことを「Rainy Night House」という曲にしています。
 彼のミュージック・ビデオを監督したカメラマンのドミニク・イッセルマン。新しいところでは女優のレベッカ・デモーネイとの28歳違いの恋も話題となりました。

<悩み多き詩人の歌>
 レナード・コーエンの歌は「自殺願望の鬱病患者の歌だ」とずっと言われてきました。確かに彼の歌は暗いものばかりですが、そんな歌を歌う歌手は本当は明るい人物だったりするものです。しかし、彼は実際筋金入りの鬱病だったようです。
 1972年に彼がバック・コーラスを決めるオーディションを行った際、そこで選ばれた女性二人(ひとりはジェニファー・ウォーンズ)に彼はこう言ったそうです。
「いっしょに歌ってくれる女性を求めたのは、自分の声で自分が憂鬱になるからなんだ。君たちの声で、私の声を和らげてほしい」

 恋に悩み、鬱病に苦しみ、ドラッグに溺れ、ユダヤの神に不信を抱き、アーティストとしての方向性に迷い、仏の道に励み、スターを目指し、複雑怪奇な人生を生き抜いた男が生み出した歌の数々。それはロックのもつ明るいイメージとはほど遠いものですが、ロックのルーツでもあるブルースとポエトリー・リーディング、そしてフォーク・ミュージックが融合したレナード・コーエンだけの音楽として永遠にワン・アンド・オンリーであり続けるでしょう。
 彼の心の奥から湧き出した音楽をそのままシンプルな楽曲にのせた曲の数々は、カバーすることはできても、けっした彼以上には歌えないのです。

<追悼>
 2016年11月10日、レナード・コーエンこの世を去る。ニュー・アルバムを発表したばかりでしたが、きっと静かに静かに天上へと向かったことでしょう。
 ご冥福をお祈りします。

<締めのお言葉>
「禅も哲学に基礎を置くと、哲学とともに起き哲学とともに倒れるということになる。これに反して、心理的に基礎を置いているというと、個人個人の信仰、体験というものに立脚するので、したがってそこに土台が出来るということになる」

「禅とは何か」鈴木大拙著

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページヘ