「山猫 Il Gattopardo」 1963年

- ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti -

<ヴィスコンティ・ブーム>
 僕が最初にルキノ・ヴィスコンティの映画にはまったのは、1978年に岩波ホールで公開された「家族の肖像」(1974年)でした。それまでにも、「ベニスに死す」(1971年)はテレビで見ていたはずですが、その魅力が理解できるほど大人ではありませんでした。(もっとも、「家族の肖像」を見たときでも、まだ大学生になりたての頃でしたから、それほど変わりはなかったのですが、・・・)当時は岩波ホールを中心にヴィスコンティ・ブームが起きていた時期だったこともあり、彼の作品を次々に映画館で見ることができました。「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)、「ベニスに死す」(1971年)、「ルードヴィヒ」(1972年)、「イノセント」(1976年)なども見て、さらに1981年やはり岩波ホールで公開された「山猫」の完全版を見ることができました。この作品は、製作されたのは1963年なのですが日本での初公開時は2時間41分の短縮版でした。それがこの年になって、ついに3時間6分の完全版が公開されたのでした。
 日本では当時、岩波ホールという素晴らしい映画館のおかげでちょっとしたヴィスコンティのブームが起きていましたが、当時はイタリア映画全体にとっても黄金時代といえる状況だったといえます。その中でもイタリアを代表する巨匠ルキノ・ヴィスコンティがこの時期に生み出した華麗なコスチューム・プレイの大作の数々には最近では珍しい「これぞ映画」といえる風格が備わっています。その後、彼の作品に匹敵する作品を作る監督はほとんどいないといえるでしょう。(マーティン・スコセッシの「エイジ・オブ・イノセンス」はヴィスコンティへのオマージュともいえるアメリカ版コスチューム・プレイの貴重な作品といえるでしょう)こうした作品を作ることは、今後どんなにCGが発展してもできるとは思えません。そこには時代考証や美的センス、質感など映像テクニックでごまかすことができない様々な問題があるからです。そして、それを自らの能力で可能にできた貴重な存在、それがヴィスコンティであり、その代表作が1963年公開のこの「山猫」です。

<ヴィスコンティが描いた世界>
 彼が題材として、この映画にも登場する貴族社会を選んだのには明確な理由がありました。それを知るためには、彼の生い立ちから振り返る必要があります。
 ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Viscontiは、1906年11月2日にミラノで生まれました。父親は名門の貴族、母親は著名な音楽家の娘でした。両親共に演劇と音楽を愛し、彼を含む7人の子供たちは、みな楽器を習い、毎週日曜日にはヴィスコンティ家所有の桟敷席があるあの有名なスカラ座でオペラを鑑賞するという芸術一家でした。なんと彼の家には小さな劇場まであったといいます。ヨーロッパの芸術はこうした人々によって育てられてきたということなのでしょう。恐るべしヨーロッパの伝統文化です!
 若くして芸術に親しんでいた彼は演劇活動に関わるようになりますが、彼が本気で取り組んだのは意外なことに衣装や道具、美術の係りでした。彼は美術展を見たり、骨董屋に入り浸ったりしながら美術品、衣装に対する目を育ててゆきました。この頃の彼は舞台の仕事よりも映画の仕事、そして衣装、美術担当になることを夢見ていたといいます。最初に彼が助監督として関わったジャン・ルノワールの「ピクニック」(1936年)でも彼は衣装担当の仕事を兼任していたそうです。こうした、彼の知識やセンスがあるからこそ、後の彼の映画において衣装や美術が圧倒的な迫力をもつことができたわけです。そのうえ、彼の知識は単に本や美術館で鑑賞することで学び取ったものではなく、実際に彼や彼の家族が身につけたり、使用したり飾っていた身近な存在から得られたものでもあります。実際、彼の映画に登場する女優たちが着ている衣装には、彼が母親が着ていた衣装をもとにデザインされたものが多くあるそうです。

<ヴィスコンティのコスチューム>
 ヴィスコンティにとっての衣装は、単なる飾りではなく、その人物の内面を表わすと同時に人生を表わすものでした。だからこそ、彼は登場人物の着る衣装のデザインや色などについて、明確な意図のもとに指示を出していたのです。それができるのも、彼がそうした衣装やアクセサリーについて誰よりも深い知識をもっていたからなのはいうまでもないでしょう。彼にとって「コスチューム・プレイ」という言葉は「伊達」ではないのです。
 意外なことに、彼は映画監督という仕事を芸術家だとは考えていなかったようで、こういっていたそうです。
「映画は決して芸術ではないということも言っておかなければいけない。あくまで職人仕事で、ときとして第一級のものもあるが、えてして二流、三流のほうが多い・・・・・」
 日本人に彼の衣装に対するこだわりは、到底理解できそうもありません。

<ヴィスコンティとネオ・リアリズモ>
 彼が最初に映画界と関わりをもつことになったきっかけは、パリにいた頃に参加したココ・シャネル(シャネルとヴィスコンティは親戚関係にあったようです。恐るべき血筋です)のサロンで彼が映画監督ジャン・ルノワールと出会ったことでした。そこは彼と同じ上流階級の人々が集まる場所でしたが、後に彼の師匠となるジャン・ルノワールから彼は左派人民戦線の人々を紹介され交流をもつようになり、共産主義の思想を身につけてゆきます。時代は急激に変わりつつあり、ヨーロッパではついに第二次世界大戦が始まります。パリにいられなくなった彼はイタリアに戻るとイタリアの映画批評誌「チネマ」を中心とする左派グループの援助を受け、デビュー作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年)を撮ります。この作品はアメリカの作家ジェイムス・ケインの小説をもとにしたハードボイルドもので、けっして政治的な内容ではなかったのですがリアリズムに徹したその映像はファシズム政権の影響で重苦しくなっていた当時のイタリア社会を見事に描き出していました。そのため、イタリアのファシズム政権は検閲によって何箇所ものフィルムのカットを行ったうえに、わずか二日間で上映禁止にしてしまいました。しかし、この映画は左派の知識人を中心に高く評価されることになります。なかでも、この映画の編集も担当した有名な映画編集者のマリオ・セランドレイがこの映画をみて「ネオ・リアリズモ!」と叫んだといいます。こうして、映画史に燦然と輝く「ネオ・リアリズモ」の名が誕生することになったわけです。一般的に「ネオ・リアリズモ」の原点となった作品は第二次世界大戦直後に公開されたロベルト・ロッセリーニ監督の「無防備都市」であるとされていますが、実はヴィスコンティこそがその生みの親だったというのが正しいようです。
 1943年、彼はファシスト政権に監視されながらも、パルチザンの活動に協力。警察や軍から逃亡したパルチザンたちを自分の別荘に匿い、時には彼らの国境越えを手助けすることもあったといいます。しかし、ある時彼はパルチザンと一緒にいるところを警察に見つかり、逮捕されてしまいます。収容所に入れられた彼は厳しい尋問を受けますが、何も白状しなかったために死刑を宣告されます。その後、彼は独房に9日間閉じ込められた後、再び拷問を受けますが何も話さなかったことからドイツ軍に引き渡されます。幸い警察内部の人間が米軍による攻撃が強まり混乱する中、彼を救い出すとサン・ジョルジュ病院に匿い、無事連合軍による開放まで生き延びさせました。
 戦後、彼はさっそく映画を撮り始め、1948年ネオ・リアリズモの最高傑作ともいわれる「揺れる大地」を発表します。実はこの映画は、当初イタリア共産党の資金をもとにシチリアの漁村のドキュメンタりー映画として撮影が行われていました。ところが、途中で資金が底をついてしまい、彼が親の形見だった宝石や絵画を売り払うことで、かろうじて完成にこぎつけたのでした。長期間にわたるロケと地元の素人ばかりによる配役、そしてシチリアなまりの台詞は、究極のリアリズムともいえる出来上がりとなり、漁村で生きる漁師たちの厳しい現実と気高く生きるその姿は、その後の彼の作品の登場人物にも通じるものがありました。(この映画の台詞のなまりはあまりにリアルで本国では通じなかったため、公開時には標準語の字幕がつけられたといいます!)
 この映画で描かれている漁師の一家は「山猫」で描かれている貴族の一族とその誇り高さと言う点では共通していたといえるかもしれません。
 こうして、映画監督としての地位を確立した彼は、その後しだいに本当に撮りたかった題材へと向かってゆきます。
 「ベリッシマ」(1951年)、「夏の嵐」(1954年)、「白夜」(1957年)、「若者たちのすべて」(1960年)。彼が描くのは、19世紀から20世紀にかけてのイタリア統一時代から第二次世界大戦までの混乱の時代、その時代に生き社会の激変によって滅びていった貴族社会の退廃的な美しさへと変わってゆきました。彼はこうした背景のもとで波乱に富んだ人生を歩むことになる「家族」の姿にその後ずっとこだわり続けることになります。
「わたしは悲劇を語りたい。それはある時代の消滅に歩調を合わせて消滅してしまう大家族の悲劇である」ルキノ・ヴィスコンティ、「山猫」はそんな彼にとってぴったりの作品だったといえます。

<「山猫」の原作>
 「山猫」の原作小説を書いたのは、シチリアの貴族ででジュゼッペ・トマージ・ランペドゥーサという人物です。ただし、この人物は作家ではなかったこともあり、生前この小説は出版されませんでした。ところが1958年、作者の死後になって、この小説が出版されるとイタリアで10万部を越えるベストセラーとなりました。さっそく、映画化の話が持ち上がり、ティタヌス社のゴッフリード・ロンバルドが映画化権を獲得。悩むことなく彼はルキノ・ヴィスコンティを監督に選びました。シチリアを舞台にネオ・リアリズモの傑作「揺れる大地」を撮り、「山猫」の主人公サリーナ公爵同様、名門貴族の出身である彼ほど、この映画の監督にぴったりの人物はいなかったのです。

<スーゾ・チェッキ・ダミーコ>
 この映画の脚本家のひとりスーゾ・チェッキ・ダミーコは、ヴィスコンティ1950年の作品「ベリッシマ」以降、ほとんどの作品で脚本を担当する女性脚本家です。1914年7月2日ローマ生まれの彼女の父親も映画製作者で兄も同じ業界人で、彼女は英国のケンブリッジ大学でイギリス文学を学んだ才女で、1932年19歳でイタリア通産省の役人となり、政府関連の文書を翻訳する仕事に就きます。しかし、文学好きの彼女はそれらの仕事の合間に英国文学の翻訳を行うようになります。ある時、映画監督のレナート・カステラーニと知り合った彼女は、映画「アバタール」の脚色を担当することになり、そこからネオリアリズム作品の脚本家としてのキャリアがスタートすることになります。ロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」(1946年)、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」(1947年)の脚本を担当した後、ヴィスコンティとコンビを組むようになり、「夏の嵐」、「若者たちのすべて」、「ルートヴィッヒ」、「家族の肖像」、「イノセント」などの作品を手掛けますした。
「彼女は神経質で、熱烈で、時として辛辣な女性である。そうした女性的な気質を踏まえた上で、彼女はその男まさりの洞察力により、戦争と戦後のイタリア独自の現実を見つめ、それを描きながら、そこに単にイタリアばかりでない普遍的な意味を持つテーマを掘り下げることもできた。それがチェッキ・ダミーコをして、ネオリアリズム最良のライターたらしめるゆえんである」
ジョルジュ・サドゥール(映画評論家)

 もともとヴィスコンティ演出の舞台劇の戯曲を彼女が翻訳したことから始まった二人の関係は長く、検閲によって左翼よりの映画が撮れなくなっていたヴィスコンティに歴史作品「夏の嵐」を撮るよう勧めることで彼の才能を引き出した功労者でもありました。1860年代、オーストリアの占領に戦いを挑むイタリアのパルチザンを描いた「夏の嵐」は、現代イタリア社会を意識した作品であることを隠した風刺的な作品でもありました。
 こうした歴史ものの作品によって、現代社会を描き出す手法は、「山猫」でさらにスケールアップしています。それまでの作品のヒットにより、彼はこの映画に10億円以上の製作費を使うことが可能になっていました。さらに俳優も、アメリカからハリウッド・スターだったバート・ランカスターを招き、フランスからはアラン・ドロンを招くことができています。
 ただし、この映画で彼は、左派的な視点から単に旧体制の批判をしたかったのではありませんでした。自らも旧体制の名家の出である彼にとっては、「山猫」の主人公である古いタイプの貴族もまた愛すべき存在だったのです。

「革命的な必要性を主張しながら、一方では反動的な老貴族にシンパシーを寄せる。これはルキノ・ヴィスコンティの内部にある矛盾を最も端的に現したものである。イタリアのインテリたちが一方では革命の野心を持ちながら、他方では自分の特権を守ろうという意識を必ず持っている。ヴィスコンティもそれに無縁ではなかった」
ジュゼッペ・フェララ(映画評論家)
 こうしたある種ゆがんだ愛情の裏返しとして、彼は自らが所属する貴族階級の腐敗を描くことにこだわり続けたのかもしれません。「地獄に墜ちた勇者ども」は、そうした貴族階級の腐敗をどぎついまでに描いた傑作でした。

「あの狂乱と虐殺の交錯したナチズムの悪を表現するのに、この貴族一家の腐敗を描くことが最も適切だと私は思った。家族関係というのは、恐ろしいほど人々を支配する力を持っているものなのだ。今、私の抱いている最大の夢はヴィスコンティ家を映画化することだ。祖母、父、母、兄、それはヴィスコンティ家のすべてを描く映画だ。今でも私の中に流れているヴィスコンティの血を・・・・・」
ルキノ・ヴィスコンティ

<バート・ランカスター>
 「山猫」の監督がヴィスコンティにぴったりだったように、この映画の主人公サリーナ公爵を演じバート・ランカスターもまた「山猫」の主人公にぴったりの俳優でした。当初、ビスコンティはサリーナ公爵役としてローレンス・オリビエを考えていました。しかし、彼は当時大人気でスケジュールがいっぱいで出演は不可能でした。そこで製作者のロンバルドが推薦したのが、アメリカ人俳優のバート・ランカスターだったのです。西部劇や戦争映画で活躍しアクション俳優(悪役が多かった)と思われていたランカスターを使うことを初めは否定していたビスコンティですが、彼の出演作品「ニュールンベルグ裁判」を見て考えを変えます。第二次世界大戦での戦争犯罪を裁くために行われた裁判を、ドキュメンタりー・タッチで描いたその作品でのランカスターの演技はアクションはもちろんなく、風格のある素晴らしい演技でした。それに、彼のスポーツで鍛え上げられたがっちりとした風貌もサリーナ公爵にうってつけでした。(先日、ドキュメンタリー番組で知ったのですが、バート・ランカスターはバイ・セクシャルだったという説もあり、その傲慢な雰囲気といいビスコンティと良く似ていたのでしょう)
 バート・ランカスターは1913年11月2日マンハッタン生まれです。バスケット・ボールの選手として奨学金をもらいニューヨーク大学に入学したスポーツマンでしたが、大学を中退。その後、サーカス団に入り空中ブランコの花形スターとして活躍し、自らの怪我によりサーカス団が解散した後は、その恵まれた肉体と体力を生かしたモデル、消防士として働いたり、兵役について北アフリカ、オーストリア、イタリアをまわるなど、放浪の日々の後、俳優の道に進みました。しかし、この兵役時代に彼は慰問ショーの演出や役者をこなすことになり、そこで知り合った演劇界のプロデューサーのおかげで芸能界入りをすることになります。「ベラクルス」や「OK牧場の決闘」などでのガンマン役で有名になった彼でしたが、その後はアクション・スターから演技派の俳優へと方向を転換し始めます。自ら映画製作のプロダクションを設立し、製作者としての活躍もしていました。アカデミー作品賞を受賞した名作「マーティー」は彼が設立した独立プロダクションの作品です。アクション俳優というイメージが強かった彼ですが、読書家、反戦主義者でも知られ、差別問題や政治問題にも積極的関わる積極的に関わる知識人でもあります。こうした、奥深い知性が中年以降、彼が多くの名監督に使われることになった最大の理由だったようです。

<伝説の舞踏会>
 公爵の後継者となるタンクレディを演じるアラン・ドロンとその婚約者アンジェリカを演じるクラウディア・カルディナーレという若くて美しい俳優とランカスターとの対比によって、この作品はイタリアにおける社会の変化を見事に描き出すことになりました。その集大成ともいえるのが、映画全体の1/3近くに及ぶ大舞踏会のシーンでしょう。
 このシーンには20人の俳優と240人のエキストラが登場し、映画史に残る舞踏会を再現していますが、エキストラのうち1/3は本物の貴族階級の人々で会場となった建物もセットではなく実際の貴族のお屋敷を使用しています。おまけに撮影が夏だったこともあり、舞踏会の衣装を着てのダンス・シーンの撮影は日中暑すぎて到底無理だったため、撮影はすべて夜間に徹夜で行われました。これは実際の舞踏会と同じ条件だったともいえます。これぞ、究極のリアリズムです。こうした舞踏会の映像はたぶん二度と撮ることは無理でしょう。この舞踏会のドレスは、コルセットまで当時の物を再現していて、あまりのきつさにクラウディア・カルディナ―レは撮影中アラン・ドロンに抱かれた腰の部分から常に出血していたそうです。ビスコンティがなぜ撮影中に言ってくれなかったと、彼女に問うと、彼女は「出血していたのは私じゃありません。それはアンジェリカだったのです」と答えたとか・・。
 ちなみに、この舞踏会のシーンに感動したマーチン・スコセッシは、後に自らの映画にこのシーンのセットを再現しています。それは、ロック・バンドの最高峰ザ・バンドの解散ライブのステージ・セットです。ロックの退廃とその終焉を描いたともいえるドキュメンタりー映画「ラスト・ワルツ」、そして貴族社会の退廃と終焉を描いた「山猫」、確かにそこには共通するところがあります。彼はこの作品について、こうも語っています。
「わたしが語りたかったのは、公爵の意識を通じた人間の歴史と、社会の衰退だった」

 この映画によって、ヴィスコンティが描こうとする退廃美の基本形が完成し、この後はそのバリエーションである豪華版が次々に生まれてゆくことになります。

<ヴィスコンティ、その後の作品群>
 退廃美が不気味に花咲いたファシズムによって支配された第二次世界大戦前のドイツを舞台にした「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)。
 ヴェネチアを舞台に美少年を愛してしまった初老の作曲家の禁断の物語「ベニスに死す」(1971年)。この作品については、母親を誰よりも愛し、美少年をも愛していたというビスコンティ自身について描いているだけに、その美しい映像には妖しい魅力が感じられます。
 彼の死後、1980年ヴェネチア映画祭でノーカットの4時間24分バージョンが上映され、ついに完成した伝説の超大作「ルートヴィッヒ」(1972年)。
 舞台は現代ですが18世紀の家族を描いた絵画を収集する大学教授とそこに間借りすることになった家族との対比により、世代の対立と社会の変化を描いた「家族の肖像」(1974年)
 19世紀末のローマ社交界を舞台としたコスチューム・プレイの傑作であり遺作ともなった「イノセント」(1976年)。ただし、この作品については、コスチューム・プレイの美しさよりも、主人公を演じたラウラ・アントネッリの美しい裸体の輝きのほうが魅力的だったように思いますが・・・。
 彼は死ぬ前にプルーストの大河小説「失われた時を求めて」をなんとか映画化したいと考えていました。そのための準備も進められており、4時間に及ぶ超大作となるその作品にはアラン・ドロン、ローレンス・オリヴィエ、マーロン・ブランド、ヘルムート・バーガー、シャーロット・ランプリング、シモーヌ・シニョレ、アニー・ジラルド、シルヴァーナ・マンガーノ、グレタ・ガルボなどが出演者としてあがっていたといいます。残念ながら、この企画は実現せず、その意志を継いだドイツの監督フォルカー・シュレンドルフによって映画化され、12年後に「スワンの恋」として映画化されることになりました)
 消えゆく家族の肖像画を撮り続けたルキノ・ヴィスコンティの死は、20世紀の訪れとともに消えていった貴族階級、最後の証言者の死であると同時に、壮麗なイタリア・オペラの血を引く華麗なコスチューム・プレイを売りにする大作映画最後の担い手の死だったのかもしれません。
 そして、「家族の肖像」の主人公宅に飾られた数多くの肖像画の中に、彼もまた収まってしまったのかもしれません。消え行く貴族文化の栄光とともに・・・。

<マフィアと闘い暗殺されたファルコーネ判事と「山猫」>
 歴史ノンフィクション作家の塩野七生は、映画「山猫」の主人公が、新世代に早々と席を譲り、歴史から消えてしまった事実について、以下のように嘆いています。彼のような実力者の早過ぎる引退こそ、現在のイタリア南部におけるマフィアの台頭の基礎を作ってしまったというのです。彼女はその後遥か後に起きた「判事ファルコーネ暗殺事件」の一報を聞きこう書いています。

 州の役人の息子という中産階級の出身でありながら、マフィア相手の仕事だからと子までもたなかった判事ファルコーネの生前の写真を眺めながら、シチリアがボタンをかけちがったそもそものはじまりは、「山猫」の公爵のようなシチリア人が積極的に公務を勤めなかったことにあるのではないかと、私は思った。もしもあの時代で、獅子や山猫が第一線に出てきて力をつくしていたなら、ジャッカル(マフィアのこと)の台頭は阻止されたのではなかったか。
 人間には、二種ある。ある種のことは死んでも出来ない人間と、それが平気で出来る人間と。この差異は、階級の別でもなく教育の高低でもない。年代の差でもなく男女の別でもない。スタイル、と呼んでもよいもののちがいではないかと思う。
 日本語ならば、品格であろうか。

塩野七生「人びとのかたち」より

「山猫 Il Gattopardo」 1963年公開
(監)(脚)ルキノ・ビスコンティ
(製)ゴッフリード・ロンバルド
(原)ジュゼッペ・トマージ・ランペドゥーサ
(脚)スーゾ・チェッキ・ダミーコ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、エンリコ・メディオーレ、マッシモ・フランチオーザ
(撮)ジュゼッペ・ロトゥンノ
(音)ニーノ・ロータ
(出)バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ、リナ・モレリ、パオロ・ストッパ、オッタビア・ピッコロ、ジュリアーノ・ジェンマ、ピエール・クレマンティ

<あらすじ>
 1860年、イタリア統一の英雄ガリバルディの軍隊がシチリアに上陸します。そのため、長きにわたりこの土地を支配してきたサリーナ公爵(バート・ランカスター)は領地を捨てなければならなくなります。彼は妻のマリア(リナ・モレッリ)、長男フランチェスコ(ピエール・クレマンティ)、長女コンチェッタ(ルチッラ・モルラッキ)、三女カテリーナ(オッタビア・ピッコロ)らの家族とともにドンナフガータの宮殿へと移り住みます。しかし、ガリバルディもまた翌年には逮捕されることになり、イタリア統一の動きは社会を大きく混乱させながら変化をとげつつありました。長く栄華を誇った貴族社会もまたその流れの中で風前の灯火となっていることを十分に理解していた公爵は、彼がかわいがっている甥のタンクレディ(アラン・ドロン)を新たな町の支配者になるであろう成上がりの資産家ドン・カロジェロ(パオロ・ストッパ)の娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)と結婚させることにしました。こうして、二人の結婚を祝うための大舞踏会が開催されることになりました。

<参考>
ドキュメンタリー「ヴィスコンティVSフェリーニ」(2014年フランス制作)
「イタリア映画を読む」柳澤一博(著)2003年


「あなただけ今晩はIlma la Douce」(監)ビリー・ワイルダー(音)アンドレ・プレヴィン Andre Previn アカデミー編曲賞
(シャーリー・マクレーンの素敵なラブ・コメディー、監督はビリー・ワイルダー)
「アメリカ・アメリカ」〈監)〈脚)エリア・カザン(撮)ハスケル・ウェクスラー〈出)スタティス・ヒアレリス、リンダ・マーシュ
「鬼火」(監)ルイ・マル(出)モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー(ヴェネチア映画祭審査員特別賞
「軽蔑」〈監)〈脚)ジャン=リュック・ゴダール(原)アルベルト・モラヴィア〈出)ブリジッド・バルドー、ミシェル・ピッコリ
「孤独の報酬」(監)リンゼイ・アンダーソン(リチャード・ハリスがカンヌ映画祭主演男優賞国際批評家連盟賞
「シベールの日曜日」(監)セルジュ・ブールギニョン(出)ハーディ・クリューガー、パトリシア・ゴッシ
「007/ロシアより愛をこめてFrom Russia with Love」(監)テレンス・ヤング(音)John Barry(マット・モンローの主題歌が大ヒット)
大脱走 The Great Escape」(監)(製)ジョン・スタージェス(音) Elmer Bernstein (出)スティーブ・マックィーン、ジェームス・ガーナー
「都会を動かす手」(監)フランチェスコ・ロージ(ヴェネチア映画祭金獅子賞
「トム・ジョーンズの華麗な冒険 Tom Jones」 (音)John Adison アカデミー作曲賞
アカデミー作品賞、監督賞に輝くトニー・リチャードソン監督の代表作、アルバート・フィニーはヴェネチア映画祭主演男優賞))
「鳥 The Birds」(監)アルフレッド・ヒッチコック(原)ダフネ・デュ・モーリア(脚)エバン・ハンター(出)ロッド・テイラー、ティッピー・ヘドレン
「ハッド Hud」 (監)マーティン・リット(出)ポール・ニューマン(パトリシア・ニール、メルヴィン・ダグラスがアカデミー主演女優、助演男優賞
「猫に裁かれる人たち」(監)ヴォイチェフ・ヤスニー(カンヌ映画祭審査員特別賞
「野のユリ Lilies of the Field」(監)ラルフ・ネルソン(音)Jerry Goldsmith(シドニー・ポワチエがアカデミー主演男優賞、名曲「エーメン」でも有名な名作)
「8・1/2」(監)〈脚)フェデリコ・フェリーニ(音)Nino Rota (出)マルチェロ・マストロヤンニ、クラウディア・カルディナーレ
「パサジェルカ」〈監)〈脚)アンジェイ・ムンク(脚)〈原)ゾフィア・ポスミシュ〈出)アレクサンドラ・シュロンスカ(ヴェネチア国際映画祭イタリア批評家賞
「ピンクの豹 The Pink Panther」(監)ブレイク・エドワーズ(音)Henry Mancini (まさにスタンダード・ナンバー)
「ミリュエル」(監)アラン・レネ(出)デルフィーヌ・セイリング(ヴェネチア映画祭主演女優賞
「山猫」(監)ルキノ・ヴィスコンティ(カンヌ映画祭パルムドール
「柔らかい肌」〈監)〈脚)フランソワ・トリュフォー〈脚)ジェン・ルイ・リシャール〈出)ジャン・ドサイ、フランソワーズ・ドルレアック
「予期せぬ出来事 The V.I.P.s」 (監)アンソニー・アスクィス(出)リチャード・バートン、エリザベス・テイラー(マーガレット・ラザフォードがアカデミー助演女優賞
「リオの男 L'Homme de Rio」(監)フィリップ・ド・ブロカ(音)Georges Delerue ジョルジュ・ドルリュー(出)ジャン・ポール・ベルモンド

「彼女と彼」(監)(脚)羽仁進(脚)清水邦夫(音)武満徹(出)左幸子、岡田英次
「切腹」(監)小林正樹(出)仲代達也(カンヌ映画祭審査員特別賞
「五番町夕霧楼」(監)(脚)田坂具隆(原)水上勉(脚)鈴木尚之(出)佐久間良子、河原崎長一郎、進藤英太郎
「しとやかな獣」(監)川島雄三(原)(脚)新藤兼人(出)若尾文子、伊藤雄之助、山岡久乃
「人生劇場・飛車角」(監)沢島忠(任侠映画ブームの先駆けとなった作品)
「その夜は忘れない」(監)吉村公三郎(撮)小原譲治(ソ連平和擁護委員会賞カンヌ映画祭国際キリスト教会賞
「太平洋ひとりぼっち」(監)市川昆(原)堀江謙一(脚)和田夏十(音)芥川也寸志(出)石原裕次郎、森雅之
「天国と地獄」(監)(脚)黒澤明(脚)菊島隆三他(原)エド・マクベイン(出)三船敏郎、山崎努、香川京子、仲代達也
「ニッポン昆虫記」(監)(脚)今村昌平(脚)長谷部慶次(音)黛敏郎(出)左幸子、岸輝子、佐々木すみ江、北村和夫(ベルリン国際映画祭主演女優賞
「非行少女」(監)(脚)浦山桐郎(原)森山啓(出)浜田光夫、和泉雅子、小池朝雄(モスクワ映画祭金賞
「武士道残酷物語」(監)今井正(脚)鈴木尚之、佐田義賢(出)中村錦之助、東野英治郎(ベルリン国際映画祭グランプリ
「芽をふく子ども」(監)原功(撮)三宅義行(モスクワ記録映画祭名誉賞

小津安二郎(監督)死去(60歳) 

 

米ソ間に直通電話設置
米英ソ3国部分核実験停止条約調印
人種差別撤廃宣言採択
<アメリカ>
「アメリカにおける人種間対立激化」
米国アラバマ州バーミンガムで人種暴動が起き、連邦軍が出動
人種差別反対を訴えるワシントン大行進が行われ20万人が参加(マヘリア・ジャクソン、オデッタ、ハリー・ベラフォンテ、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーらも参加)この時、キング牧師のあの有名な「アイ・ハブ・ア・ドリーム…」の演説が行われた
ケネディー、公民権法案を議会に提出するが審議進まず
ミシシッピー州のNAACP支部長メドガー・エヴァース暗殺される
「ケネディー大統領暗殺事件」
ケネディ米国大統領がテキサス州ダラスで暗殺され、ジョンソンが大統領就任
部分的核実験禁止条約締結
<アフリカ>
「アフリカ憲章制定」
アフリカ首脳によるアジス・アベバ会議開催、アフリカ統一機構(OAU)結成
ケニアが独立
南アフリカで、ネルソン・マンデーラ氏ら黒人指導者が逮捕される(この逮捕にはCIAが関与)
<アジア>
南ヴェトナムでクーデター、ゴ・ディンディエム政権崩壊
インドネシアのスカルノ氏が終身大統領に就任
<日本>
吉展ちゃん誘拐事件

<芸術、文化、商品関連>
「自動車泥棒」ウィリアム・フォークナー著(ピューリツァー賞受賞)
アンディー・ウォーホルが「ファクトリー」を設立
「どうにもならない」 ロイ・リヒテンシュタイン
「寒い国から帰ってきたスパイ」ジョン・ル・カレ著(英国推理作家協会賞受賞)
黒人作家ジェームス・ボールドウィンが「次は火だ」を発表
パッドで持ち上げるブラジャー「ワンダー・ブラ」発売(カナダ)
テレビアニメ「鉄腕アトム」放映開始
<音楽関連(海外)>
ビートルズの人気上昇によりリバプール・サウンド・ブーム始まる
アメリカではモダン・フォーク・ブームが頂点に達する
ABCテレビ「フーテナニー・ショー」スタート、フォーク・ブーム頂点に達する
「モンキー・ダンス」ブーム
サニー・ボーイ・ウィリアムソンU、ブルースブームのヨーロッパへ
映画「アイドルを探せ」」大ヒットし、フランスでロックがブームになる
ハイチでミニ・ジャズ・ムーブメント(小編成エレキバンドのブーム)が始まる
ジャマイカで、ウェイラーズの初シングル「シマーダウン」がヒット
<音楽関連(国内)>
「こんいちわ赤ちゃん」「おもちゃのチャチャチャ」など赤ちゃんの歌がヒット(経済成長により、赤ちゃんを余裕をもって育てられるようになってきた時代のおかげ)

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