「いとこ同志 Le Cousins」 1959年

- クロード・シャブロル Claude Chabrol -

<ヌーヴェル・ヴァーグ>
 1950年代の終り、映画の母国フランスから後の映画の歴史を大きく変えることになる「新しい波」(ヌーヴェル・ヴァーグ)が起きようとしていました。そのきっかけとなったのは、当時のフランス映画に不満を持つ若者たちで、映画業界の外にいた人々が中心でした。それも映画の作り手というよりも映画の批評家や研究家たちがたむろする映画理論誌「カイエ・デュ・シネマ Cahier du Cinema」(主催者はアンドレ・パザン)の同人たちが中心だったところが重要な点でした。彼らがプロの視点をもつアマチュア作家だからこそ、ヌーヴェル・ヴァーグはそれまでの映画とまったく異なるものを生み出すことができたのです。
 彼らはそれまでフランスにおける主流となっていた映画監督たち、ジュリアン・デュビビエ、ジャン・ドラノワ、ジャン・グレミヨンらをもう過去の存在であると断じ、それに代わる存在としてB
級のフィルムノワール映画やアルフレッド・ヒッチコックジャン・ルノワールフリッツ・ラングらの作品群を高く評価していました。彼らはそれらの映画で用いられている映画的手法を積極的に取り入れると同時にそれぞれの監督が自分独自の視点、個性を作品に反映させることでまったく異なるスタイルを生み出してゆきました。
 それまでの多くの映画が原作となっている小説などを忠実に再現することを重要視していたのに対し、ヌーヴェル・ヴァーグの作品は原作本を必要とせず、脚本も重要視しないことで、逆にその不完全さに魅力を見出そうとしていました。例えば、ゴダールの「勝手にしやがれ」の場合、もともと最終稿の脚本がわずか20ページしかありませんでした。彼は、シナリオとはプロデューサーに対して映画の予算を説明するための資料に過ぎないといっています。もちろん、彼の映画の場合、残りの台詞はみなアドリブで生み出されることになります。
「映画は文学うを視覚化するのではなく、視覚によって直接人に訴えかける芸術であるべきである」

 ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、この映画の本質に忠実に作品作りを行ったともいえます。こうした、作品に対する姿勢は、彼らが撮影にあたり、自由に動き回ることのできる手持ちカメラを多用したり、若者たちが普段使っている言葉使いを取り入れていたことにも表れていました。
 こうして、ヌーヴェル・ヴァーグのメンバーたちは、自分たちの新しい手法を獲得し、次々に新しい作品を発表し始めたのですが、こうした新しいスタイルの作品がいきなりフランスでブレイクしたのには、それなりの理由があったようです。
 その中でも最も重要な理由は、フランスの政府が、国家プロジェクトとして映画の発展を促そうと、国家基金を設立していたことです。そのおかげで、フランスでは芸術性を追求する独立系の映画製作会社が数多く育ち、そこから生まれた映画を上映するための映画館もまた数多く存在していたのです。こうして、土壌なくして、フランス映画界の発展はなかったかもしれません。こうした国家による芸術発展のためのプロジェクトは、フランスお得意のもので、1980年代にはワールド・ミュージックの発信地としてフランスを世界に売り込むことで世界中にワールド・ミュージックのブームを巻き起こすことに成功しています。

<「いとこ同志」の大ヒット>
 こうして、次々に生まれたヌーヴェル・ヴァーグの作品群の中では、やはりジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」(1959年)とフランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959年)の2作品が時代を越えて語り継がれる作品として日本では有名ですが、実はこの年フランスで最もヒットしたヌーヴェル・ヴァーグの作品は、それらの映画ではなくクロード・シャブロールの「いとこ同志」でした。なんとこの映画は、フランスの年間興行収入においてあのセシル・B・デミルの超大作「十戒」を上回る大ヒットとなり、年間ナンバー1に輝いているのです。しかし、そのヒットには理由がありました。彼こそは1957年いち早くデビュー長編映画「美しきセルジュ」によってヌーヴェル・ヴァーグ・ブームのきっかけを作ったた人物であり、すでにフランスでは期待の監督となっていたからです。もちろん、その作品は時代を越えるだけの魅力も兼ね備えており、いまだに歴史的名作として見られ続けています。ゴダールとトリュフォーの世界的な成功の影に隠れ目立たなくなったものの、彼の存在はフランスにおいては非常に大きなもののようです。

<クロード・シャブロール>
 この映画でヌーヴェル・ヴァーグの先陣を切ったクロード・シャブロールは1930年6月24日パリに生まれています。父親が薬剤師だったため、後を継ぐように期待されていましたが、映画館を経営する叔父さんの影響で映画にどっぷりと漬かる少年時代をおくりました。一時期は政治学を学び、映画から離れかけますが映画の魅力から逃れられず、シネクラブに通い始め、そこでエリック・ロメールやジャン・リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと知り合うことになりました。
 そして、前述の映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に執筆を開始、同時に20世紀フォックスのパリ支社に入社し、映画の宣伝活動にもたずさわることになります。デビュー作となる「美しきセルジュ」と「いとこ同志」の脚本を書いたのは、ちょうどこの頃でした。しかし、当時最新のパリの若者たちの風俗を描き出した若者向けの作品が映画化されたのには、ちょっとした偶然が必要でした。それはある日、シャブロールの妻のアニエスに転がり込んできた遺産です。彼はこの遺産を元手にしてデビュー作となった「美しきセルジュ」を撮り、なおかつ2作目の「いとこ同志」の撮影も開始します。ところが、撮影の途中で資金が底をついてしまいます。そのため「いとこ同志」は宙に浮いてしまい、あやうく幻の作品になるところでした。しかし、神はまたもや彼に味方します。すでに完成していた「美しきセルジュ」の上映権が売れたため、「いとこ同志」を完成させるための資金ができたのです。さらには、「美しきセルジュ」がフランスの映画賞、ジャン・ヴィゴ賞を受賞し、勢いをつけると「いとこ同志」はベルリン映画祭では金熊賞を受賞。若者たちの人気を集めただけでなく映画評論家たちからも高い評価得ることになりました。
 彼はこの後、この映画にも出演しているステファーヌ・オードランと結婚。彼女を主役にして「女鹿」、「殺意」などのフィルム・ノワール調の犯罪映画を撮り、彼が敬愛するフリッツ・ラングに捧げた「ドクトル・エム」(1990年)や「主婦マリーがしたこと」(1989年)「ボヴァリー夫人」(1991年)「愛の地獄」(1994年)などの作品を発表。フランス映画界の大物監督として活躍を続けることになります。彼は映画を撮ることについてこう言っています。
「もっとも参考になるのは、人の忠告には耳を貸さないことだ」
 この言葉こそ、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちに共通する唯一の特徴かもしれません。彼に続いて作品を発表し、ヌーヴェル・ヴァーグを代表する監督になっていったフランソワ・トリュフォー、ジャン・リュック・ゴダール、エリック・ロメールの個性の違いを見れば明らかでしょう。

<ヌーヴェル・ヴァーグの仲間たち>
 アルフレッド・ヒッチコックとの対談集「映画術ヒッチコック/トリュフォー」でも有名なトリュフォーは、ヌーヴェル・ヴァーグの理論的中心人物として活躍。「大人は判ってくれない」(1959年)、「ピアニストを撃て」(1959年)、「突然炎のごとく」(1961年)などの傑作を次々に発表。いち早くメジャー入りを果たし、映画史に残る映画へのオマージュ作品「アメリカの夜」(1973年)を撮りますが、1984年脳腫瘍のため52歳という若かさでこの世を去ってしまいました。
 トリュフォーが映画を愛するがゆえにスピルバーグの「未知との遭遇」に出演したり、エンターテイメントよりの作品を撮っていたのに対し、ジャン・リュック・ゴダールは、それとは正反対のアウトサイダー的映画人としての道を貫いているといえます。「勝手にしやがれ」で表現されていた日常語によるアドリブの重視やシーンをわざと短くカットすることでストーリー性を排除し、観客に考えさせ、参加させるやり方も彼によって大きく推し進められました。さらに彼の場合、そうした映画に対する姿勢やスタイル自体が、時代によって大きく進化していることも重要です。彼こそ、「新しい波(ヌーヴェル・ヴァーグ)」を常に起こし続けた唯一の作家といえるかもしれません。
「ヌーヴェル・ヴァーグがもたらしたのは映画を愛する心だ」
「私が死ぬ時、映画も死ぬ」

ジャン・リュック・ゴダール

 ヌーヴェル・ヴァーグのグループは、「カイエ・デュ・シネマ」誌の仲間たち以外のグループも存在していました。もうひとつ「セーヌ左岸派」と呼ばれるグループがそれです。代表的な監督としては、「二十四時間の情事」や「去年マリエンバートなどを撮ったアラン・レネ、ジャック・ドゥミの妻で「歌う女・歌わない女」で有名なアニエス・ヴァルダ、「顔のない眼」のジョルジュ・フランジュなどがあげられます。カイエ・デュ・シネマのグループよりも年長ですが、その前衛性ではけっして劣ることのない彼らの存在もまたヌーヴェル・ヴァーグのもう一つの顔でした。
 一冊の映画雑誌に集まった映画オタクたちを中心に始められたヌーヴェル・ヴァーグは、この語アメリカの若手映画人たちにも大きな影響を与えることになり、「俺たちに明日はない」など、ニューシネマの作品群を生み出すきっかけとなります。どうやら、今も昔も新しい文化の担い手は、オタク系のアマチュアから生まれるものなのかもしれません。

「いとこ同志 Les Cousins」 1959年公開
(監)(製)(脚)クロード・シャブロル
(撮)アンリ・ドカエ
(音)ポール・ミスラキ
(出)ジェラール・ブラン、ジャン=クロード・ブリアリ、ジュリエット・メニエル、クロード・セルヴァル、ステファーヌ・オードラン

<あらすじ>
 法律学を学ぶため、田舎の町からパリへとやって来たシャルルは、いとこのポールの家に同居させてもらうことになります。しかし、資産家の息子ポールの家には、一人暮らしにも関わらず多くの仲間たちがたむろする社交場となっていました。その中にはどう見ても学生には見えないあやしげな詐欺師まがいの男や取り巻きの女の子たち、彼女たちを目当てにしてやってきた貴族などがいて、当時のパリの最先端の風俗が展開していました。
 まじめなシャルルは、そんなポールの放蕩生活のペースに巻き込まれながらも田舎の母親の期待にこたえるため勉強を忘れませんでしたが、ある日ポールの取り巻きの女の子の一人に恋をしてしまいます。彼女になんとか自分の思いを告げた彼はやっと彼女とデートをすることになりました。ところが、そのことを知ったポールは彼女にお前のような遊び好きの女が、シャルルのような真面目一辺倒の男と付き合ってゆけるはずがないと言いながら、彼女を誘惑し自分のものにしてしまいます。こうして、彼女はポールと同棲することになり、シャルルはそんな二人を見せ付けられながら生活することになります。そんな悲惨な状況の中、彼は試験勉強を続けますが、結局試験に不合格となります。
 ところが、まったく勉強をしていなかったはずのポールはなんと試験に合格してしまいます。要領のいい彼はカンニングをすることによりあっさりと試験に合格してしまったのです。あまりの不条理にシャルルは、ポールの机の引き出しにあったピストルを取り出します。そして、弾をこめると・・・・。

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