- レスター・ヤング Lester Young -

<忘れられたヒーローたち>
 あらゆる音楽ジャンルの歴史は、鎖のようにつながったアーティストたちの歴史から成り立っているわけですが、その中にも重要なつなぎ目となった優れたアーティストが存在しています。しかし、彼らがみな成功者となったかというと、そうとは限りません。
 フォークとロックのつなぎ目に位置したバーズは、その活動期間があまりに短かったこともあり、記憶に残る存在にはなりませんでした。ロックン・ロールを白人の若者たちに広めたチャック・ベリーリトル・リチャードは、犯罪者として、奇行を繰り返す変人としてヒーローの座から転落してしまいました。かつて、ローリング・ストーンズのメンバーが、シカゴの名門レーベル「チェス」を訪問した際、マディー・ウォーターズがアルバイトで社内の壁をペンキで塗っていたという逸話があります。ブルースの神様でさえ、かつては尊敬どころか使用人扱いをされていたのです。
 「リスペクト Respect」(敬意を払う)という言葉が、ちょっと安っぽく聞こえるほど、最近はそんなアーティストたちにスポットが当てられるようになってきましたが、それよりもさらに古い時代、ジャズの世界においても、同じように忘れられたヒーローが存在しました。
 スウィング・ジャズの黄金時代からモダン・ジャズへの移行期に、チャーリー・パーカーらの偉大なミュージシャンたちにとって、大きな目標となった人物、レスター・ヤングはそのひとりだったと言えるでしょう。

<厳しすぎる父親のもとで>
 レスター・ヤングは、1909年ミシシッピー州のウッドヴィルという町で生まれ、その後家族がニューオーリンズに引っ越したため、そこで少年時代を過ごしました。しかし、彼らの父親であるビリー・ヤングは、自らの家族をメンバーとしてビリー・ヤング・オーケストラを結成、旅回りのサーカスとともに南部を巡業して回るようになります。レスターは、この頃ドラムを担当していましたが、バンド・リーダーでもある父親は、革製の鞭を使って彼を厳しく指導したといいます。おかげで、彼のドラムのテクニックは鍛えられ、後に彼がサックスに転向してからも、そのドラムで鍛えられたリズム感は彼に独特のノリの良さを与えてくれることになります。
 しかし、父親の家庭内暴力とも言える音楽指導は、逆に権威に対する反抗心を彼に植え付けることになります。そして同時に、リーダー・シップをとることへの恐怖心を彼に与え、それが後に彼のミュージシャン生活に大きな影響を与えることになってしまったといいます。
 結局、まともではなかった父親を残して彼の母親は家を出てしまい、子供達は父親とともにミネアポリスへと移住します。ちょうどこの頃、彼は父親の反対を押し切り、ドラムからアルト・サックスへと楽器を持ち替え、遂には家を出てしまいます。まるでビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンと父親の関係を思い出させますが、彼は家を出ることでなんとか独り立ちを果たすことができました。

<カウント・ベイシーとの出会い>
 彼はサックスを手にいくつかのバンドを渡り歩きながら力を付け、1932年オリジナル・ブルー・デヴィルズ Original Blue Devilsというバンドに加わります。オクラホマ・シティーを中心に活動していたこのバンドには、後にジャズを代表するアーティスト、バンド・リーダーになるカウント・ベイシーが所属していました。ここで、彼は一流のミュージシャンたちに囲まれた素晴らしい環境の元、一人前のサックス奏者に成長してゆきます。

<運に恵まれない男>
 せっかく素晴らしい活躍の場と出会いながら、すぐに彼には不運が待っていました。1930年代の世界恐慌によってアメリカの経済状況は一気に悪化。バンドの仕事は激減し、ベイシーらバンドのメンバーたちは次々とバンドを去り、ニューヨークなど大都市に向かって行きました。しかし、そんなときに自分の未来ヴィジョンを描くことの苦手なレスターは、バンドに取り残されてしまい、気がつくと一文無しになっていたのです。

<フレッチャー・ヘンダーソン楽団での苦悩>
 しかし、彼のサックス・プレイヤーとしてのテクニックはすでに注目を集める存在になっていました。1934年、彼はフレッチャー・ヘンダーソンに認められ、彼の楽団に参加することになりました。バンドを抜けてしまった人気絶頂のサックス奏者コールマン・ホーキンスに代わって、サックスを担当したレスターですが、ホーキンスのブリブリと吹きまくる荒っぽい奏法に慣れた他のメンバーにレスターの繊細で美しい奏法はまったく理解されませんでした。バンド内で孤立してしまった彼は、結局自らバンドを去らざるを得ませんでした。

<ベイシーとの再会、そして復讐戦>
 運に見放されていたレスターにも、やっとチャンスがやって来ます。当時ジャズの重要な拠点となっていたカンザス・シティーでカウント・ベイシーが活躍していることを知ったレスターは、すぐにその後を追います。有名なリノ・クラブを中心に活動していたベイシー・バンドに参加したレスターは、ひさしぶりに思う存分サックスを吹けるようになりました。
 そしてそこで、彼はあのフェレッチャー・ヘンダーソン楽団の元サックス奏者コールマン・ホーキンスとサックス・バトルを行うことになりました。それは、「カッティング・コンテスト」と呼ばれる楽器を用いた決闘で、当時カンザスシティーのクラブでは頻繁に行われ、どちらのミュージシャンが優れているのかを決める重要な見せ物のひとつでした。具体的には、それぞれが独自のソロ・フレーズを演奏しあいながら、それをしだいに高度なものにして行きます。どちらかが、相手の演奏に対応できなくなるまで勝負が続くわけです。(この現場を見事に再現した映画が、「ロバート・アルトマンのジャズ」です。是非ご覧ください!)
 このバトルでレスターは、宿敵コールマン・ホーキンスを遂にうち負かしました。すでにサックスの世界では、バリバリと吹きまくるホンカー・タイプのミュージシャンは、時代遅れのものとなり、レスターのように新しいタイプのミュージシャンの時代になっていたのです。こうして、彼にとっての絶頂期がやってきました。

<英雄を見つめる少年>
 ちょうどこの頃、カンザスでのレスターの演奏を舞台のそばから食い入るように見つめている少年がいました。それはまだ10代のチャーリー・パーカーでした。彼にとって、レスター・ヤングは英雄であり、目標となったのです。こうして、レスターはチャーリー・パーカーという高度で芸術的なサックス奏者を生み出すことで、バップ時代の基礎を築くことになったのです。

<絶頂期の記録実現>
 ベイシーのバンドはデッカ・レコードと契約、レコーディングのためシカゴに出ます。ところが、彼らは契約の際、見事に騙されていました。メンバーひとりづつの給料のはずだった金額は、実はバンド全員のものだったのです。しかたなく、彼らはクラブでの仕事にせいを出し、さらに名前を変えて、別のレーベルでアルバム録音を行いました。
 こうして、1936年、ジョーンズ・スミス・インコーポレイテッドというバンドのメンバーとして、レスターは本格的なレコード・デビューを飾ることになりました。そして、このバンドはそのままカウント・ベイシー・ビッグ・バンドへと発展して行くことになります。もちろん、そのバンドの花形スターは、レスター・ヤングでした。
 そして、いよいよ彼をメインにした素晴らしいアルバムが誕生します。
 1943年のレスター・ヤング・カルテット、1944年3月のカンサス・シティー・セブンとしてのキーノート・レコードでの録音は特に素晴らしい内容になっており、「The Complete Lester Young」としてCD化されています。

<「禁断の果実」との出会い>
 この頃、ベイシーの楽団には伝説の黒人女性ヴォーカリスト、ビリー・ホリデイもたびたび参加していました。自分だけの言葉を作るのが得意だったレスターは、彼女に「レディー・デイ」というニック・ネームをつけ、二人の親密でプラトニックな関係は死が二人を分かつまで続くことになりました。二人は、恋人同士というよりは、麻薬仲間であり、酒飲み友達であり、秘かな心の支えだったようです。(彼女は、レスターを「プレズ」と呼んでいました。もちろん、プレジデント・オブ・サックスの略です)

<悲劇の始まり>
 1944年、思いもしなかった悲劇が彼を襲います。それは軍隊からの入隊命令でした。かつて父親によって暴力的に扱われたことによる心の傷が、軍隊という組織的な暴力によって再び甦ってしまいます。軍隊は、彼のような繊細な人間にとって、あまりに過酷な試練でした。彼は、そんな状況に絶えきれず酒浸りの生活を送るようになり、あげくの果てに軍隊内部でハシッシに手を出し、それを見つかってしまったのです。軍法会議にかけられた彼は、軍隊よりも厳しい世界「牢獄に」閉じこめられてしまいました。
 この体験が彼に与えた影響がどれほどのものだったのか?それは明らかではありません。しかし、戦争が終わり除隊になってからの彼にはかつてのような素晴らしい演奏が困難になっていたのは確かなようです。

<新しいジャズの時代>
 彼がジャズの世界を離れていたのは、ほんの数年のことでした。しかし、その間ジャズは大きく変化していました。大手のレコード会社が著作権問題などのゴタゴタで新しいアルバムを発表できない間に、小さなレコード会社が独自の個性をもつ新しいアーティストたちを次々に登場させ、彼らが中心となってジャズは一気にバップの時代へと変わってしまったのです。そして、その中心となった人物が、かつてレスターを英雄と崇めていたチャーリー・パーカーだったわけです。

<緩やかな自殺生活>
 時代の変化は情け容赦なく彼を襲いました。彼はしだいに酒に溺れるようになります。ついには、妻と子供をおいて家を出てしまいます。そして、なんと眼下にチャーリー・パーカーの夢の城「バードランド」を見下ろすホテルの一室で酒浸りの生活を始めたのです。それは限りなく自殺に近い生活の始まりでした。(当時すでにバードランドの主チャーリーはこの世を去っていましたが・・・)

<自殺生活の終わり>
 しかし、そんな彼の生活を終わらせる絶好のチャンスがやって来ました。パリで行われるコンサートに招待されたのです。多くのジャズ・ミュージシャンたちは、こうしてヨーロッパの素晴らしい聴衆の暖かいもてなしによって、生きる喜びを再びみい出していったのですが、彼の場合は残念ながら遅すぎました。ボロボロの身体を引きずってパリに向かった彼は、精神的にも肉体的にも演奏できる状態ではなく、契約は途中で破棄されてしまいます。失意のうちに帰国した彼は、機内で症状が悪化、そのまま病院に運ばれ、帰らぬ人となってしまったのです。
 1959年3月15日、まだ49歳の若さでした。

<締めのお言葉>
「終わりは近い。ドアのところで音がする・・・ちょうど、何かとてつもなく大きなヌルヌルした身体がぶつかるような音だ。わたしが見つけられることはあるまい。神が、あの手は!窓が!窓が!」

H・P・ラブクロフト著「魚神タゴン」より

<追記>2012年4月
「・・・彼はサックスを斜めに傾けて吹いた。そして興が乗ってくると、それは更に少しずつ水平方向に傾き、最後にはフルートのように真横になった。でも、彼が楽器を高く持ち上げているという風には見えなかった。というより、楽器そのものがどんどん軽くなっていくみたいに見えた。楽器が勝手に宙に浮かんでいるみたいに。そしてもし楽器が宙に浮かびたいと望むのなら、それをわざわざ押さえつける必要はないではないか。・・・」

「・・・法廷にいる誰もが彼の顔を見ていた。彼が口にする言葉に人々が真剣に耳を澄ませれば澄ませるほど、彼の話し方はより緩やかな、より物静かなもにになっていった。言葉を言い残し、文章を途中でやめて宙に浮かべたままにする、歌うがごとき彼の声は人々をとらえ、離さなかった。人々の払う注意が突然、彼にとっていつもお馴染みのものとなり、おかげでグラスの触れ合う音、バケットからがさごそと取り出される氷の音、シガレットの煌が渦巻く中の人々の話し声・・・そんなものさえ聞こえてきそうだった。」

ジェフ・ダイヤー(著)「バット・ビューティフル」より

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