- クロード・レヴィ=ストロース Claude Levi=Strauss -

<構造主義の先駆者>
 レヴィ=ストロースといえば、「構造主義」でしょう。20世紀には、思想や芸術の世界で多くの主義や派が登場しています。しかし、その生みの親がはっきりと一人の人物と結びつき、本人がその定義まで残している例はめったにありません。彼は「構造」をこう定義しています。
「構造とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は一連の変形過程を通じて不変の特性を保持する」

 よりわかりやすくするため、彼が研究していた口伝えの昔話で説明してみたいと思います。
「昔々月という名の女の子がいました。
 ある寒い冬の夜、彼女はいたずらをした罰として村長の命令により、暖房もない隙間風が吹き込む納屋に閉じ込められてしまいます。
 その夜、納屋のすみに置かれていたカメの中から小人たちが現れ、そのカメの中の水に浮かぶ月を取り出して、餅つきを始めました。
 彼女は、小人たちの仲間入りをし、いっしょに餅つきに加わりますが、そのうち眠くなって暖かな餅の上で寝てしまいました。
 翌日、納屋に入ってきた両親と村長はそこに巨大な餅が置かれていることに驚きます。おまけにその餅の中からは、月と瓜二つの女の子が現れたのです」

 もうひとつ、そこからはるか遠く離れた別の村にこんな昔話があったとします。
「昔々豆という名の女の子がいました。
 彼女は針仕事の名人で、ある日村長から急に呼び出され、夜なべで村長の娘のための着物を作ることになりました。
 すると、夜中に彼女の針箱の中にある針の小さな穴から小さな小さな小人が何人も現れ、彼女の仕事を手伝い始めました。
 朝までに彼らの手伝いのおかげで、村長に頼まれた仕事を無事に仕上げることができました。
 彼女の作った着物を見た村長はビックリ仰天。その着物には美しい女の子の刺繍がほどこされていました」
(もちろん、二つの話は、どちらもちょっとしたパクリです、すいません!)

この二つのお話には共通する部分がいくつもあります。
・ 主人公は女の子
・ 不思議なことが夜中におきる
・ 小人が登場し、彼らの協力によって危機を乗り切る
・ 最後にもう一人の女の子が登場する

 さて、このお話は何を言わんとしているのでしょうか?
 どちらも教訓的なお話ではなく、歴史的な出来事の継承でもなく意味不明といえます。しかし、「構造主義」の研究家は、ここでそれぞれのお話を比較対象することによって、意味の解明に迫ります。
・ なぜ、主人公の女の子の名前が「月」と「豆」なのか?
・ なぜ、小人たちは「餅つき」もしくは「針仕事」によって主人公を助けるのか?
・ なぜ、一方では「もう一人の月」が現れ、もう一方では「刺繍」として登場するのか?
 それらの理由を探るために、研究者たちはそれぞれの村で調査を行います。最初の村にとって「モチ」はいかなる存在なのか?もう一方の村では「針仕事」がどんな意味を持つ仕事なのか?・・・。それぞれの村についての歴史、文化、衣食住、伝承、言語などを調べることで、お話の違いの意味を明らかにしてゆくわけです。「餅」と「針仕事」の違いの意味がわかれば、お話が示す意味にも迫ることができるということです。
 さらには、もうひとつ「構造主義者」が主張するのはこういうことです。
「異なる要素からできてはいても、けっして変わらない部分、そこにこそ物語の本質が隠されている」
 それを見つけ出すのが、「構造主義」の研究手法なわけです。(これは民族学だけでなく歴史や音楽などあゆるジャンルに当てはまりそうです)

<三つの定義>
 レヴィ=ストロースは、「構造」の定義にさらに三つの注釈を加えています。
(1) 「要素」と要素間の「関係」を区別しないことの重要性。
 別の言い方をすると「ある観点からは形式と見えるものが、別の観点からは内容としてあらわれるし、内容と見えるものも、やはり形式としてあらわれうる」ということです。要素のもつ「形式」や要素間の「関係」は、時によっては要素の「内容」以上の意味があるということです。
(2) 「不変」という概念の重要性。
 これは研究対象となっている伝承などの要素において、地域や部族を枠を越えて不変な部分は何か?それこそが重要であるということです。
(3) 「変形(変換)」という概念の重要性です。
 「構造の特性は、その均衡状態になんらかの変化が加わった場合に変形されて別の体系になる、そのような体系であること」
 さらに「構造」は、「変形を通じて不変の特性を保持する」とも言われています。地球や言語、文化の違いがあっても、「変形」による一部の変更を行なうことで、重要な共通部分を変えずに「不変性」を保つことが可能になるというわけです。

「例えば、ある集団のある神話が、少し違った近隣の集団にあることが判ったとしますね。そうすると、その近隣の集団に関連した民族学的論文著作を全部読んで、それを取りまく世界のなかで、その技術、その歴史、その社会組織といったような、神話の変異に関連するかもしれない要因をすべて調べなければならないのです。私はこれらの部族たちと一緒に、また彼らの神話とともに暮らしていました。まるでおとぎ話の世界に生きているようでした。・・・・・
 何日も、何週間も、時には何ヶ月もの間、それを温めていると、ある日突然に、火花が飛ぶように、一つの神話のある訳の判らない細部が、別の神話のやはり訳の判らない細部の変形したものであることが判って、そのつながりを伝って、二つの神話を一つに結びつけることができる」というような具合ですからね。それ自体としては一つ一つの細部は何かを意味する必要はないわけで、それらが理解できるのは、それら相互の示差的関係においてということなのです」
レヴィ=ストロース

<構造主義を生んだ男の歴史>
 それでは「構造主義」の考え方は、どんな体験、どんな発想から生まれたのでしょうか?その生みの親、レヴィ=ストロースの人生と彼に影響を与えた思想、出来事を追ってみたいと思います。
 レヴィ=ストロース Claude Levi=Strauss は、1908年11月28日、画家だった父親のもとで、たまたま滞在先だったベルギーで生まれたフランス人です。パリで少年から青年への時代を過ごした彼は、高校時代にフロイトの著作と出会い、心理学に興味をもつようになりました。しかし、その後、友人からマルキシズムについて教えられてからは政治にも関わるようになり、大学卒業後はしばらく社会党系の若手議員ジョルジュ・モネのもとで秘書として働いていました。
 1931年、兵役についた後、彼は高校の哲学教師となりますが、文化人類学の名著であるローウェの「原始社会」と出会います。その本のおかげで「文化人類学」という新しいジャンルにひきつけられた彼は、その分野の研究者になる決心を固めます。
 1935年、彼は創設されたばかりのサンパウロ大学の社会学の講師としてブラジルにわたり、民族学の研究を行ないます。それは、休暇を使ってアマゾン流域に住む先住民たちの文化を調査、研究することでした。
 1936年、彼がブラジルで研究を行なっている時期にフランスの総選挙で人民戦線内閣が勝利を収めると、ジョルジュ・モネが農業相大臣に指名されます。彼は自分も新政府のスタッフとして招集されるかもしれないと帰国の準備にかかりましたが、結局お呼びはありませんでした。しかし、その時、彼がフランス国内にいたら、彼は政府のブレーンとして働くことになっていたかもしれません。もし、そうなっていたら、「構造主義」は誕生していなかったかもしれないのです。
 こうして、彼の最初の論文「ボロロ・インディアンの社会組織研究への寄与」が世に出ることになりました。その後、彼は大学を辞めて長期にわたる調査活動に入り、1938年5月から、その年いっぱいアマゾンでの調査旅行を行なった後、フランスに帰国します。ところが、帰国後すぐに、彼はドイツとの戦闘を開始していたフランス軍に召集され、研究は中断させられることになってしまいます。

<「構造主義」の原点>
 多くの発明や発見にその誕生の瞬間があるように「構造主義」についても、その誕生にはひとつのきっかけがありました。それは、レヴィ=ストロースが戦場で体験したささいな出来事だったといいます。
 兵士として、ルクセンブルク国境近くの村に駐屯していた彼は、戦闘のないあるのどかな日、そこである直観を得ます。時は5月、多種多様な花々が咲き乱れる時期でした。色も形も異なる美しい野原の花々を眺めていた彼は、そこに誰もが「花」を「花」と認識できる「普遍的な構造」が存在していることに気付きます。これが「構造」の原点となる発想が誕生した瞬間でした。それにしても、戦争の真っ只中で花々からヒントを得るとは、・・・。
 幸い、彼はこの戦争から早々と離れることができ、南フランスの学校で再び哲学を教えることになりました。ところが、6月にフランスがドイツに降伏すると、すぐにユダヤ人である彼は仕事を失ってしまい、自らの命も危険になりつつあることを知ります。こうして、彼は再び大西洋を渡り、アメリカ大陸へと向かうことになりました。
 1941年、アメリカに亡命するため、ニューヨークへと向かう船に乗った彼は船上でアンドレ・ブルトンと知り合います。芸術界に一大センセーションを起こしたシュルレアリズムの中心人物であるブルトンとの出会いはその後、彼がマックス・エルンストら他のシュルレアリストたちとも知り合うきっかけとなります。
 「構造主義者」と「シュルレアリスト」、まったく異なる人種とも思えますが、彼にとってこの出会いは重要なアイデアの源泉となりました。
 アメリカに亡命した彼は、その後、アメリカ先住民の調査研究を開始しますが、実はそのきっかけがシュルレアリストたち、特にマックス・エルンストらがアメリカ先住民の美術作品を高く評価し、収集していたことだったといわれています。「構造主義」はシュルレアリストの案内により「アメリカ先住民の文化」と出会っていたのでした。

<ヤコブソンとの出会い>
 もうひとり、「構造主義」の原点ともいえる人物がいます。それは、レヴィ=ストロースの師匠ともいえる存在だったローマン・ヤコブソンでした。ユダヤ系ロシア人哲学者であり「構造言語学」の創立者の一人だったローマン・ヤコブソンは、ナチス・ドイツの脅威から逃れるため、当時プラハからデンマークへ、そして、スウェーデンのストックホルムへと移住したばかりでした。しかし、彼に危機が迫っていることは明らかだったため、レヴィ=ストロースを含むフランス人哲学者たちが創立した「自由高等研究員」は、ヤコブソンをヨーロッパから脱出させ、ニューヨークへと招きました。その後、レヴィ=ストロースは先輩であるヤコブソンから直接教えを得ると同時に彼の薦めにより自らの著書「親族の基本構造」の執筆を開始します。この作品は、戦後彼がパリに戻った1949年、発表されることになりました。
「親族の基本構造」
 この作品は、ブラジルの先住民とともに暮らした時期の調査結果をもとに親族関係と婚姻制度について研究をした書です。
 その中に書かれていることで重要な部分は、「結婚」とは元々、家族(女性)をお互いに交換し合う部族間の「プレゼント交換」的な制度から始まったと考え、その中で自然に結婚可能な範囲が定まっていたとしていることです。なお、彼がヤコブソンから学んだ構造言語学は、ここで初めて本格的に文化人類学に応用されました。
 1955年、彼はブラジルでの調査研究旅行を含めた自身の半生をまとめた著作「悲しき熱帯」を発表しました。1958年には、それまで発表してきた論文を一冊にまとめた構造主義のマニフェスト的作品「構造人類学」を発表しています。ここから1968年の五月革命までの10年間は、まさに「構造主義」の黄金時代となります。
 1962年、彼の代表作ともいえる著作「野生の思考」が発表されています。それは彼にとって、それまでの総決算的内容であると同時に、そこから始まる「神話研究」のイントロ的内容をもっていました。

「野生の思考」
 「野生の思考」において、彼が自然と人間の思考について、特に重要と記していることは、・・・。
 自然の種の多様性、例えば生命形態の多様性の存在こそが人間の思考を発展させた最大の原因なのではないかとうことです。
 かつて彼が野の花の色や形の多様性から「構造」についての着想を得たのと同じことが人類の歴史においても繰り返され、それが人間の思考、精神、言語、芸術を生み出し発展させてきたのかもしれないということです。彼はこうも言っていました。
「私のキノコや菌類への愛着は、食べるのが好きだということだけではありません。・・・・というのも、その場で土に生えているのを見ると、キノコは素晴らしいオブジェなのです。それぞれの種が、まるで芸術作品のように互いに異なった自分のスタイルをもっているのです。」

 大昔の人類もまた初めは食べるために植物を判別する方法を身につけ、その後、調理や報告、保存などの文化を育てていったのでしょう。彼のこうした自然への素直なまなざしこそ、「構造主義」の原点なのです。
 「野生の思考」以降、彼は「神話」の研究に力を注ぐようになります。それは、神話ほど人間という生物の本質を過去から現在へと写し出し続けてきた資料はないと、彼が考えたからです。
 彼は、神話とは言葉で語られるものであることから、言語の内にあるとしながらも、同時に通常の言語を超えるものでもあると指摘しています。
 神話の中の物語は、時間の流れに沿って展開します。しかし、その物語は現在進行形の出来事ではなく、だからといって過去の出来事とも限りません。それは通常我々が体験する時間の枠を超えた物語といえます。そこで彼は「神話」を可逆的な時間性をそなえた「構造」をもつ存在であると考えられるとして、彼が調査した世界各地の「神話」に構造主義による分析を試みるようになったわけです。
 この分析において彼が重要視したのは、「神話」が「何」を語っているのかではなく、「いかに」語っているかということです。これもまた「構造主義」の重要なポイントといえるでしょう。
 彼が構造主義に見出したのは、すべての構造の要素をランクづけせず平等にとらえ、その多様性にこそ高い価値を見出すということでした。そんな彼の思いは、下記の文章に表れています。
「生にとって掛け替えのない解脱の機会、それは・・・われわれの種・・・・・本質を思考の比岸、社会の彼岸に捉えることにある。われわれの作り出したあらゆるものよりも美しい一片の鉱物に見入りながら。百合の花の奥に匂う、われわれの書物よりもさらに学殖豊かな香りのうちに。あるいはまた、ふと心が通じ合って、折々一匹の猫との間にも交わすことがある、忍耐と、静穏と、互いの赦しの重い瞬きのうちに・・・・・」

 こうした考え方は、他者と自分を区別せず、なんらかの法則を用いることで他者と自分を入れ換えることも可能と考える究極の平等主義ともいえるものです。
「つまり、私の著作は、私の知らぬ間に私のなかで考え出されているのです。
 私は以前から現在に至るまで、自分の人格的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとのおこる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受身の性質のもので。何かがそこでおこるだけです」


「私が「野生の思考」といっているものは、それによって「他者」を「わたしたち」に翻訳したりまたその逆をおこなうことができるようなあるコードを作り出すのに必要な前提や公理の体系であり・・・・・私の意図においては、彼らの位置に自分を置こうとする私と、私によって私の位置に置かれた彼らとの出会いの場であり、理解しようとする努力の結果なのです」

 こうした彼の考え方は唯物主義ととらえられる傾向もあり、1960年代、構造主義は学生運動の盛り上がりとともに一大ブームとなりました。その反動により、1968年の「五月革命」以後、構造主義のブームは去ったと言われるわけですが、当然のことながら、レヴィ=ストロースによる研究の価値が失われたわけではありません。
 哲学の多くが、その流行の変化によって、浮き沈みを繰り返す中、文化人類学における彼の功績は、未だ時代を越えて高い評価を受けています。
 たぶんそれは彼の研究の科学的な成果の有効性だけでなく、彼が書いた論文や文章の芸術性の高さや人間的な魅力によるところが大きいのではないでしょうか?
 「神話」とは「何」を伝えるかではなく「いかに伝える」かが重要だと考えていた彼ならば、それも当然のことかもしれません。彼はきっと自らの「構造主義」理論を伝える文章を書く際、「いかに伝えるか」にこだわって書いていたのでしょうから。
 哲学は、多くの人に伝わることで初めて社会に影響を及ぼすことが可能になります。どんなに優れた哲学も、それだけでは価値がありません。だからこそ、「多様な哲学」が存在し、それを「伝え合う」自由な社会、それこそがレヴィ=ストロースにとっての理想社会だったはずです。
 ただし、それはすでに地球上に存在していたのかもしれません。そして、現代の人類はその破壊者にすぎないのかもしれません。彼の「野生の思考」はそう我々に警告しているようにも思えます。

<締めのお言葉>
「人間がさまざまな権利をもち得るのがまず生物としてであるならば、種としての人類に認められているそれらの権利は、他の種との権利によって当然の制約を受ける。したがって、人類の諸権利は、他の種の存在を脅かすようになるときに消滅する」

[参考資料]
「現代思想の冒険者たち - レヴィ=ストロース「構造」 -」

渡辺公三著 講談社
「野生の思考」
レヴィ=ストロース著 みすず書房

<追記>
2009年10月31日、100歳にてこの世を去りました。お休みなさい!

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