- リンダ・ロンシュタット Linda Ronshtadt -

<幸福な音楽人生>
 ミュージシャンの多くはベテランになるにしたがって、少しずつその音楽性を変えて行くものです。ストーンズのように60歳を過ぎてもロック一本槍というのは、本当に珍しい例と言えるでしょう。(もちろんストーンズだって、その時代時代で旬の音楽を取り入れ、変化しているのですが・・・)シカゴのように硬派なロック・バンドから軟弱バラード系ポップ・バンドへと変身をとげた例もあります。しかし、ほとんどのバンドは、自分たちのやりたいサウンドを追求した後に「解散」という結末があり、その後それぞれが新しい道に進んで行きながら、おのずと変化をとげて行くものです。
 こうして、多くのベテランのバンドやアーティストたちが、それぞれの進む道について悩む中、かつて「ウェスト・コースト・ロックの歌姫」と呼ばれたリンダ・ロンシュタットは、60年代から21世紀に至るまで、ヒットするしないに関わらず、ごく自然にその音楽スタイルを変えながら活動を続けてきた、非常に稀な存在と言えるでしょう。

<オペラとラテン音楽>
 リンダ・ロンシュタットは、ギタリストだったメキシコ系の父親とオペラ歌手志望だったというドイツ系の母親の間に生まれたちょっと珍しい血筋の持ち主です。場所はアメリカ南部アリゾナ州ツーソンで、1946年7月15日に生まれました。
 子供時代の彼女のアイドルは、カントリー歌手のハンク・ウィリアムスやエルヴィス・プレスリーでしたが、父親が歌うメキシコのフォーク・ソングもまた彼女のお気に入りでした。実は、これら彼女のアイドルたちの音楽は、後にそのまま彼女の音楽スタイルの変遷に関わることになります。

<ストーン・ポニーズ結成>
 高校時代、彼女は兄と共にフォーク・ソングを歌い始め、アリゾナ大学を卒業した後にLAに出て、友人のボブ・キメル、ケニー・エドワーズとフォーク・トリオ、ストーン・ポニーズを結成します。彼らは、有名なフォーク・クラブ「トルバドール」などに出演。そこでデビューのチャンスを得ました。しかし、1967年のデビュー・アルバム「ストーン・ポニーズ Stone Poneys」は全く売れず、セカンド・アルバム発売後には、他の二人のメンバーが抜けてしまいます。

<ソロ・デビューからカントリーへ>
 ひとりぼっちになってしまったリンダは、しかたなくソロとして活動を開始、1969年ソロとしてのデビュー・アルバム「Hand Sown・・・Home Grow」を発表しますが、これまたまったく売れず、彼女は路線変更のためナッシュビルに向かいます。そこでジョニー・キャッシュやグレン・キャンベルらと共演し、カントリー系シンガーとして評価を上げて行きました。
 こうして、再デビュー・アルバムとも言える「リンダ・ロンシュタット(With オリジナル・イーグルス)」(1971年)が発表されたのですが、まだまだ彼女の人気はブレイクまでには至りませんでした。そして、この時再スタートを切った彼女のバック・バンドとして活動を共にしたのが、なんとあのイーグルスでした。彼女の場合、この時代の後、ロック・シンガー以降の評価がほとんどですが、僕はこの時期の彼女も大好きです。このキャピトル時代のベスト盤も出ているはずです。さわやかな彼女の歌声もまたなかなかお薦めです。

<ピーター・アッシャーとの出会い>
 彼女の名が世界に広まることになったのは、当時の大物プロデューサー、ピーター・アッシャーとの出会いがきっかけでした。当時、ジェームス・テイラーのマネージャー兼プロデューサーだった彼は、リンダの魅力にいち早く気づき同じくマネージャー兼プロデューサーとして、彼女の活躍を助けて行きます。
 こうして、ピーターのプロデュースによるアルバム「悪いあなた Heart Like A Wheel」(1974年)が発売され、その中からシングル「悪いあなた You Are No Good」が見事全米ナンバー1、続く「いつになったら愛されるのかしら」も全米2位に輝きました。いよいよ彼女の時代が始まったのです。

<カバー・アーティストとしての活躍>
 当時ロック界におけるアーティストのほとんどは、シンガー・ソングライターとしてオリジナル曲を歌うのが当たり前になりつつありました。しかし、彼女はまったく異なるスタイルを打ち出して行きます。それは優れた歌唱力を活かし、カバー曲によってアルバム作りを行うというものです。その選曲の良さもまた彼女のアルバムの魅力のひとつだったのですが、それらは二つのタイプの曲を中心に構成されていました。それは言うならば、「過去」と「未来」の絶妙なブレンドでした。
 「過去」の曲とは、スタンダード・ナンバーや埋もれた名曲のリヴァイバル、例えば「ひとすじの涙」(スモーキー・ロビンソン)、「That'll Be The Day」「It's So Easy」(バディー・ホリー)、「ブルー・バイユー」(ロイ・オービソン)、「バック・イン・ザ・USA」(チャック・ベリー)、「ラブ・ミー・テンダー」(E.プレスリー)、「ウー・ベイビー・ベイビー」(S.ロビンソン)、「ヒート・ウェーブ」(マーサ&ザ・バンデラス
 「未来の曲」とは、これから有名になろうとしていたソングライターたちの曲を取り上げたもの、例えば「ならず者」(イーグルス)、「セイル・アウェイ」(ランディー・ニューマン)、「私はついてない」(ウォーレン・ジヴォン)、「アリスン」(E.コステロ)、それ以外にもカーラ・ボノフやリビー・タイタス、マリア・マルダー、エミール・ハリスらの女性シンガー・ソングライターたちの曲も数多く歌っています。
 こうして、彼女は「哀しみのプリズナー Prisoner In Disguise」(1976年)、「風にさらわれた恋 Hasten Down the Wind」(1976年)、「夢はひとつだけ Simple Dreams」(1977年)、「ミス・アメリカ Living In the America」(1979年)など、大ヒット・アルバムを連発してゆきます。

<あらゆるジャンルへの挑戦>
 1980年のアルバム「激愛 Mad Love」では、エルヴィス・コステロの曲を3曲カバーするなど、当時ブームとなっていたニュー・ウェーブの方へも手を伸ばします。さらに、1983年のアルバム「What's New」からの3作品では、20〜40年代のポップス、ジャズのスタンダード・ナンバーに挑戦。1987年には、ドリー・パートン、エミール・ハリスというカントリー系ポップス界の大物と3人で、アルバム「トリオ」を発表しています。

<ルーツ・サウンドへの挑戦>
 そして、ここで彼女は自らのルーツ・サウンドとも言えるメキシコの音楽に挑戦します。それが1988年のアルバム「ソングス・オブ・マイ・ファーザーズ Canciones de mi Padre」とその続編1991年の「マス・カンシオーネス Mas Canciones」でした。この作品は、彼女にとって初めてのスペイン語作品でもあり、父親に歌い聞かされていた懐かしいメキシコの歌を集めたものでした。

<ラテン・ポップス時代の先駆者>
 このアルバム自体は、けっして大ヒットしたわけではありませんでしたし、それほど話題になったわけでもありませんでした。しかし、1988年という年は、ロス・ロボスが映画「ラ・バンバ」のタイトル曲を大ヒットさせ、その勢いで初のスペイン語アルバム「ピストルと心」を発表した年でもあり、ラテン系のポップスにとってひとつの転換期となった年だったのかもしれません。同じ時期には、グロリア・エステファンも活躍中で、彼女も後にスペイン語アルバムを発表しています。この後、リッキー・マーティン、インディア、ジェニファー・ロペス、クリスティーナ・アギレラ、エンリケ・イグレシアスなど、ラテン系アーティストたちが続々登場してくることを思うと、リンダはまさにその先駆者であったことに気づかされます。

<恋多き女と男たち>
 彼女はこうして次々と新しい音楽スタイルに挑戦し続けたのですが、彼女がつき合ってきた男性たちもまたそれに匹敵するほどバラエティーに富んでいました。(ジョニ・ミッチェルも、つき合う男性によって、音楽スタイルを変えていたと言われますが、彼女もまたそんなタイプだったのかもしれません)
 ウエスト・コースト一の伊達男、J・D・サウザーとの愛がありました。そして、あのミック・ジャガーとも恋に落ちていたことがありました。もっと凄いのは、当時カリフォルニア州知事だったジェリー・ブラウンとの恋です。彼は、当時人気の絶頂期で大統領候補にまでのし上がりました。彼女は、もう一歩でロック界初のファースト・レディーになるところだったのです。
 ちょっと子豚ちゃんみたいな鼻がチャーム・ポイントで、LA版天知真理みたいだった彼女は、こうしてロック&ポップの世界を自由に、そしてしたたかに生き抜いてきたのです。

<締めのお言葉>
「キスする時に、鼻は邪魔にならないのね」

映画「誰がために鐘は鳴る」より(原)アーネスト・ヘミングウェイ

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