- ライオネル・ハンプトン Lionel Hampton -

<偉大なるエンターテナー>
 20世紀の終わり近くまで現役のミュージシャンとして活躍し続けたジャズ・ヴァイブ奏者ライオネル・ハンプトン。1908年生まれの彼はスウィング・ジャズの時代からバップの時代、そして世紀末まで活動を続けた数少ないミュージシャンの一人です。ヴィブラフォン(ヴァイブ)Vibraphoneをジャズに導入した先駆者であり、楽団を維持しながら多くの優れたミュージシャンを育てた優れた指導者でもあった彼は、その人望の厚さから晩年は国連の音楽親善大使など、音楽以外の分野でも活躍。1995年に心臓発作で倒れて以降、音楽活動が困難になった彼は2002年8月31日にこの世を去りました。エンターテナーとして多くの人々に愛され続けた彼の人生とその功績について振り返ってみます。

<ヴァイブとの出会い>
 ライオネル・ハンプトン Lionel Hampton は、1908年4月20日アメリカ南部ケンタッキー州のルイヴィルで生まれました。父親はピアニストで歌も歌っていたということですから、エンターテナーの血を受け継いでいたようです。シカゴに移住すると彼は子供たちでつくるバンドに所属した後、1928年カリフォルニアに移住。そこでポール・ハワード楽団に参加、初のレコーディングを体験します。1930年にレス・ハイト楽団に移籍した後、彼はそこで運命の出会いを果たします。当時、大不況によって多くの店がつぶれてしまったニューヨークからカリフォルニアに来ていたルイ・アームストロングが、レコーディングを行なうために集めたバンドのメンバーに彼も選ばれたのです。ところが、ドラマーとして参加していた彼に、休憩時間中、ルイが意外なことを言います。彼にヴィブラフォンを演奏してみろと言い出したのです。これが彼とヴァイブとの運命の出会いとなりました。
 その後、彼がヴァイブを演奏した最初の録音「Memories of You」は見事にヒット。これ以後、ヴァイブは彼にとって生涯のパートナーとなります。

<ベニー・グッドマンとの出会い>
 1934年、彼はロサンゼルスで自らのバンドを結成します。1936年、バンドの演奏を見た大物プロデューサー、ジョン・ハモンドは彼の演奏が気に入り、すぐに彼をスカウト、自らがプロデュースしていたスウィング王ことベニー・グッドマンのバンドに彼を参加させます。こうして、ジャズ史に燦然と輝く白人黒人混成のジャズ・カルテットが誕生。彼らは「ダイナ」や「ムーングロウ」などのヒットを連発することになります。メンバーは、ベニー・グッドマンのクラリネットとジーン・クルーパーのドラム、それに黒人のテディ・ウィルソンのピアノとライオネル・ハンプトンのヴィイブでした。
 1938年、このカルテットはジョニー・ホッジス、レスター・ヤングなどの大物アーティストたちとともにクラシックの殿堂として知られるカーネギー・ホールのステージにジャズ・ミュージシャンとして初めて立つことになりました。彼は1940年までベニー・グッドマンのカルテットに所属し、その後再び独立しカリフォルニアへと戻り、念願だった自らのビッグバンドを結成します。

<フライング・ホーム>
 ベニー・グッドマン・カルテットに在籍していた当時、彼は故郷に帰るためロサンゼルスからアトランタへと初めて飛行機に乗りました。まだ人種差別が厳しかった時代、黒人が飛行機に乗ること自体が珍しかった頃のことです。その時に彼が浮き立つような気持ちをこめて作った曲、それが彼のテーマ曲ともいえる存在「フライング・ホーム Flying Home」です。
 この曲は1940年に初めて録音されましたが、1942年に彼のビッグ・バンドにサックス奏者イリノイ・ジャケーを迎えて録音されたバージョンは大ヒットとなり、その後彼のコンサートでは欠かせない曲となりました。(この曲は、スパイク・リーの映画「マルコムx」の中でも使用されており、そのサントラ盤にも収められています)

<黄金時代>
 1940年代から1950年代にかけて、スウィング・ジャズの黄金時代とともに彼の黄金時代が訪れます。この時期、バンド・リーダーとなっていた彼は持ち前のエンターテナーぶりを存分に発揮し始めます。彼はコンサートでヴァイブを演奏するだけでなく、ドラムやピアノさらにはヴォーカルまでもこなしていました。その多芸ぶりは、彼のコンサートにおける呼び物のひとつとなりました。(彼のピアノ演奏は二本の指だけを使う独特のものでしたが、それはヴァイブの変わりに鍵盤を叩いたから生まれたテクニックだったのでしょう)
 彼のエンターテナーぶりは、レコードだけでなく映画でも見ることができます。1988年のハワード・ホークス監督作品「ヒット・パレード A Song Is Born」に恩人のルイ・アームストロングやベニー・グッドマンらとともに出演しています。
 この時期、彼のバンドには多くの優れた若手ミュージシャンが在籍し、その多くがその後大きな活躍をすることになります。その名前をざっとあげると、トランペッターとしては、クリフォード・ブラウン、アート・ファーマー、ファッツ・ナバロ、クラーク・テリー、それに編曲者としても活躍していた
クインシー・ジョーンズもまた在籍していました。その他、サックス・プレイヤーとしては、デクスター・ゴードン、イリノイ・ジャケー。ギターのウェス・モンゴメリー、ベースのチャーリー・ミンガス、ヴォーカリストとしてはダイナ・ワシントン、ジョー・ウィリアムスそしてアレサ・フランクリンも所属していたことがあります。彼はエンターテナーとしてだけでなく才能を見抜く優れたバンド・リーダーでもあったのです。

<活躍を続けた晩年>
 80年代以降も彼は活躍を続けましたが、その間、国連の音楽親善大使、アメリカの親善大使として海外を回る役割を担うようになります。その他、自ら出資を行なって、黒人の若者たちのために奨学金制度を設立するなど、様々なボランティア活動にも積極的に関りました。1995年に病で倒れるまで、そうした活動を続けましたが、2002年8月31日、94歳でこの世を去りました。早くに両親を失い苦しい少年時代を過ごした彼でしたが、一世紀に渡るその人生の最後は多くのファンやミュージシャンたちに看取られた幸福なものだったようです。

<お奨めのアルバム>
「ジャズ栄光の巨人たち/ライオネル・ハンプトン・オールスター・セッション」(1937〜1939年)(廃盤)
 1930年代後半、ビクター在籍時代の名演集。ディジー・ガレスピー(トランペット)、ジョニー・ホッジス(アルトサックス)、コールマン・ホーキンス(テナーサックス)、チャーリー・クリスチャン(ギター)など、豪華なメンバーとの共演を楽しむことができます。

「ライブ・アット・カーネギー・ホール 1938」(1938年)
 1938年1月16日にクラシック音楽の殿堂で初めて行なわれたジャズ・コンサートの実況録音盤。出演したのは、ベニー・グッドマン・カルテットだけでなく、ジョニー・ホッジス、レスター・ヤング、クーティ・ウイリアムスなどカウント・ベイシーやデューク・エリントンの楽団で活躍していた大物アーティストの参加による豪華なジャム・セッションも聞きもの!スウィング・ジャズの最高峰を聴くことができる歴史的名盤です。

「スター・ダスト Star Dust」(1947年)
 彼の代表曲のひとつ「スター・ダスト」を含む代表作です。ホーギー・カーマイケル作曲の「スター・ダスト」は、彼以外にもグレン・ミラー、ジャンゴ・ラインハルト、ジョン・コルトレーン、ナット・キング・コール、フランク・シナトラなど数え切れないほど多くのアーティストにカバーされてきた名曲です。しかし、そうした数々の演奏の中でもジャズに関しては彼の「スター・ダスト」こそが最高と呼ばれてきた名演奏です。なお、このアルバムは1940年代の録音にも関らず、素晴らしい音質で録音がされていることでも有名な作品です。

「You Better Know It !!!」(1964年)
 クラーク・テリー、ベン・ウェブスター、ハンク・ジョーンズなど、優秀なベテランたちを迎えて作られた聴きやすく味わい深いアルバム。村上春樹氏が著書「ポートレイト・イン・ジャズ」で推薦したことでも有名な作品。

「フライング・ホーム」(1978年)
 彼のテーマ曲ともいえる「フライング・ホーム」は、1940年代に録音されたものが有名ですが、1970年代にデンマークのジャズ・バイオリン奏者スペンド・アスムッセンと共演したこのアルバムも高い評価を受けています。
 ニルス・ペデルセンのベースとエド・シグペンのドラムという優れたリズム・セクションも素晴らしくスリング感にあふれた作品となっています。

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページへ