- リトル・リチャード Little Richard -

<アウトサイダーの叫び>
 ロックという音楽がもともと「アウトサイダーの音楽」であることは、今さら言うまでもないことです。それは、教室からはみ出した若者たちや社会から自らはみ出したビート族やヒッピーたち、人種という壁によってはみ出さなければならなかった黒人たちや世界各地からアメリカ、イギリスに渡った移民たち、それ以外にも、いろいろな差別によってはみ出さなければならなかった人々(ゲイや障害者の人々など)。これらアウトサイダーたちの苦しみによって、ロックという音楽は生み出され、発展してきたと言えるでしょう。
 ロックは、そんなアウトサイダーたちが社会に向けて発した「怒りの表現」であったわけですから、そこに「叫び Shout」という発声方法が持ち込まれるのは、ある意味当然のことだったのかもしれません。そして、この「叫び」による新しいロックの創造を行った歴史的人物こそ、リトル・リチャードという世紀のアウトサイダーでした。

<アウトサイダー人生の始まり>
 リトル・リチャード(本名リチャード・ウェイン・ペニマン)は、1932年12月5日にアメリカ南部ジョージア州のメイコンに生まれました。彼の祖父はセブンスデイ・アドヴェンチストと呼ばれるキリスト教宗派の牧師で、当然彼は幼い頃から厳格な教育の元で育てられました。ところが、そんな厳しいしつけのわりには、彼の父親はウイスキーの密造で逮捕されており、孫の彼自身もそんな家庭環境に反抗するかのような近所でも有名な悪ガキだったという。彼の心の中では、幼い頃から「聖と俗」の激しい葛藤が繰り返されていたに違いない。それだけではなく、彼にはさらに大きな秘密がありました。彼はゲイだったのです。

<エンターテイメントの世界へ>
 そうでなくても厳格なクリスチャンだった彼の両親にとって、ゲイという存在は、けっして許すことのできない存在でした。そのため、彼は一時家にいられなくなり、当時まだ存在していたメディスン・ショーの一座に加わって、ダンスや歌を披露する生活を始めました。(メディスン・ショーというのは、薬の販売促進のための客集めイベントとして行われていた黒人たちによる大道芸です。ブルースやR&Bがアメリカ全土に広がったのは、このショーによるところが大きいと言われています。日本で言うなら葛飾柴又の寅さんのミュージカル版といったところでしょうか?)

<レコーディングのチャンス>
 その後しばらくして、彼は街に戻ってきましたが、すでに家に彼の居場所はなく、聖歌隊で鍛えたピアノと歌の才能を認められ、酒場でミュージシャンとして生活するようになって行きました。当時彼はまだ15歳だったといいます。さらに、16歳になった頃、彼はラジオ番組のタレント・オーディション番組で見事に優勝し、レコーディングのチャンスをつかみました。こうして、彼は1950年代の中頃に、次々とR&Bのシングルを発表したのですが、残念ながらどれもパッとしませんでした。仕方なく彼は、昼間はレストランの皿洗いをし、夜は女装して怪しげな店で働くという生活を続けながら、じっとチャンスをうかがっていました。

<歴史を変えた奇声>
 そんなある日、彼のデモ・テープを聞いたスペシャルティー・レコードから連絡があり、彼は再びレコーディングのチャンスを得ました。そして、1955年9月14日ニューオーリンズで録音が行われ、そこで彼の運命をかえる歴史的な出来事が起こりました。
 それは、上手く行かない録音にいらだった彼がはいた彼お得意の悪態がきっかけでした。
「ワッバッパ・ル・バッパ・ワッパッパ・ブーン」
まったく意味のないこのフレーズを聞いた作曲家のドロシー・ラボステリは、あわててこのフレーズを再生し、これを曲に生かすことを思いついたのです。こうして生まれたのが、ロックン・ロールの歴史上最も重要な曲のひとつ「トゥッティ・フルッティ Tutti-Frutti」(1955年末)でした。この曲は発売と同時にヒット。R&Bチャートでは2位、ポップ・チャートでも17位にまで上がるヒットとなり、一気に彼の時代がやって来たのです。

<スタンダードになったヒット曲の数々>
のっぽのサリー Long Tall Sally」(1956年R&B2位、ポップ6位)
スリッピン・アンド・スライディン Slippin' & Slidin'」(1956年R&B2位、P33位)
リップ・イット・アップ Rip It Up」(1956年R&B1位、P17位)
ルシール Lucille」(1957年R&B1位、P21位)
センド・ミー・サム・ラヴィン Send Me Some Lovin'」(1957年R&B3位)
ジェニ・ジェニ Jenny ,Jenny」(1957年R&B2位、P10位)
キープ・ア・ノッキンKeep A Knockin'」(1957年R&B2位、P8位)
グッド・ゴリー・ミス・モリー Good Golly,Miss Molly」(1957年R&B4位、P10位)
彼のヒット曲は、この後もビートルズやCCRなど数多くの白人ロック・バンドに取り上げられ続け、今やロックのスタンダード・ナンバーとしての地位を築いたといってよいだろう。しかし、彼の生み出した曲の数々が、年を経るごとにその輝きを増し続けているのに対し、彼自身へのリスペクトの方はというと残念ながら・・・?だ。

<金銭的見返りに恵まれなかった不幸>
 グラミー賞の授賞式などに出演するたびに、彼は必ず自分がロックの歴史において果たした役割の重要さとそれに対する彼への見返りの少なさについて、とうとうと語り出す。これは、番組のひとつの見せ場と言ってよいほど、定番的に行われるシーンです。確かに、彼が成し遂げたロック界への貢献に対して彼が受け取った報酬は、あまりに少ないでしょう。しかし、彼が生み出したロック・パフォーマンスのオリジナリティーは、お金に換算することができないものだったのも確かです。
「もし、チャック・ベリーのギター・リフに著作権があるとすれば、彼は今や巨万の富を得ていただろう」とは、よく言われることです。同じように、リトル・リチャードのあのフレーズにも、著作権があれば、彼もまた大きな富を得ていたでしょう。

<偉大なるロッカーは、奇行の王様>
 さて、彼の業績の偉大さは確かに評価不能なほどのものですが、彼自身が偉大な人物だったかというと、それにはかなり問題がありそうです。彼は、偉大なるロックン・ローラーであると同時に、ロック界ナンバー1の奇行の王様でもありました。

<悔い改めとゴスペルへの転向>
 彼はロックン・ローラーとして人気絶頂だった1957年の終わり、オーストラリアでのツアー中に突然活動休止を宣言してしまった。それは、地球が炎に包まれ週末を迎える幻を見たのがきっかけだったらしい。彼はそれを神からの啓示と理解し、自ら宗教家としての道を歩む決意をし、それまで自分が犯してきた罪を悔い改めると同時に、人々にも自分同様悔い改めるよう要求して回り始めました。彼は、同性愛やドラッグを否定しただけでなく、ロックン・ロールという不健全な音楽をも否定するよう世界中で布教活動を行うようになってゆきました。当然、彼はロックン・ロールを歌うことをやめ、その代わりにゴスペルを歌うようになりました。しかし、こうした活動もそう長くは続きませんでした。

<迷走を続ける魂>
 1962年のイギリスでのゴスペル・ツアーにおいて、ゴスペル界のヒーロー、サム・クック率いるソウルスターラーズに対する賞賛の嵐に対して、彼のゴスペルにはブーイングが浴びせられました。この時、彼は突然ロックン・ロールの世界に戻ることを決意、その後「ザ・リル・シング」、「キング・オブ・ロックン・ロール」、「セカンド・カミング」などのアルバムを、次々に発表して行きました。
 しかし、、彼のさまよえる魂は、その後も心変わりを繰り返し、その後再びゴスペルの世界に戻ったかと思えば、突然ユダヤ教に改宗し、それと同時にロック界にカムバックしたり、そうかと思えば、「ビバリーヒルズ・バム」などの映画に出演して、俳優として活躍し始めたりと、異常なまでの心変わりを繰り返て行きます。
 しかし、残念ながら、本業のミュージシャンとしての輝きは、その後再び戻ることはありませんでした。まあ、次から次へと言うことを変えるド派手なおじさんに、ファンがついて行けなくなってもしかたないことだとは思いますが・・・。

<究極のアウトサイダー>
 結局、彼が生み出した歴史的名曲の数々は、彼がゲイであり、ドラッグ中毒であり、いつ切れてもおかしくない危ない神を恐れぬ若者だった頃につくられたものでした。ロックという革新的な音楽は、当時の社会においては、彼のようなはみ出し者(アウトサイダー)にこそ生み出しうるものだったのかもしれません。そして、多くの黒人ミュージシャンたちが、「聖と俗」の間を揺れ動きながら、その刺激をもとに作品を生みだしたブラック・ミュージックの歴史の中でも、彼ほど極端な振り幅をもったアーティストはいなかったかもしれません。

<締めのお言葉>
「・・・肯定的な意味では、現代芸術は、あやしいまでに深遠な、自然神秘主義の表現である。遂に、否定的な意味では、邪悪さ、あるいは破壊的な精神の表現とのみ解釈できるのである」

フロイト著「人間と象徴」より

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