「蠅の王 Load of the Flies」

- ウィリアム・ゴールディング William Golding -

<ジャンルを越えた名作>
 歴史的名作文学の多くは、ジャンルの枠組みを越えた普遍的な存在である場合が多いように思います。メルビルの大作「白鯨」が「海洋冒険小説」の枠組みを越えた「民俗」「歴史」「博物学」「宗教」「ファンタジー」「サスペンス」などの要素を併せ持っていたように、名作文学の多くは「恋愛」「冒険」「人生」「芸術」「戦争」「宗教」「科学」「医学」「推理」「哲学」「社会問題」「歴史」「サスペンス」「ホラー」「ファンタジー」・・・etc.数々の要素からできているといえます。
 そして、この小説「蠅の王」もまたその例外ではありません。背景となる時代設定は、第三次世界大戦か第四次世界大戦など、近い将来とされていることから、近未来SF小説とみることも可能です。離れ小島に取り残された少年たちを主人公とする海洋冒険小説ともいえます。ある意味「リアル十五少年漂流記」ともいえるでしょう。さらにそれは「蠅の王」という闇の存在と「光の子」でもある少年たちによる「魂の戦闘」を描いたファンタジー小説でもあるでしょう。その他にも、「人生」「哲学」「宗教」「ホラー」「原始民族学」「戦争アクション」「心理サスペンス」など様々なとらえ方が可能です。

<「ザ・ロード」と「蠅の王」>
 久々にこの小説を読んでみて思い浮かんだのは、コーマック・マッカーシーの小説「ザ・ロード」(2006年)です。近未来世界大戦後、人類が生み出した文明をほとんど失ない「核の冬」により滅亡へと向かう世界を舞台にした父と子のサバイバル物語。これもまたいくつもの要素を併せ持つ名作ですが、その特徴はどこまでもリアリズムに徹して、究極の状況で人間がどう生きるのか、どう生きるべきなのかを描いています。ただし、「ザ・ロード」では主人公の少年は父親と同じ志をもつ大人と出会い、「命」だけでなく彼の持っていた純粋な「魂」をも救われることになります。長くつらい日々にも、必ず明日が訪れるはずだというアメリカン・スピリットにもとづく暗くはあっても前向きな冒険小説でした。それに対して、この小説「蠅の王」の結末は?
 イギリスを代表する作家ウィリアム・ゴールディングが自らの作品の舞台に選んだのは、滅亡に瀕する世界ではなく、人が生きるために必要なものは一応存在する南海の楽園ともいえる無人島でした。そこには水も食料もあり、とりあえず少年たちは生きるには困らないはずでした。そのうえ、物語には海賊や犯罪者などの悪者は登場しません。そこに登場するのは純粋な子供たちばかりでした。「楽園と子供たち」、そこから生まれる物語は、著者が子供時代に愛読していたというバランタインの少年冒険小説「珊瑚島」(1858年)や有名な「十五少年漂流記」のようなワクワクするような明るい冒険物語であってもよかったはずです。
 それともうひとつ、楽園の島で起きる悲惨なコミュニティーの崩壊といえば、J・G・バラードの小説「楽園への疾走」ともそっくりです。そちらは、子供たちではなく女性たちが主人公となり、島を崩壊に導くことになります。そちらも、怖い小説でした。

<儚い「文明」>
 しかし、読者はその状況下で、「十五少年漂流記」とはまったく異なる展開を見出すことになります。それは「文明社会」が自ら内部崩壊を起こすことで「文明」を破壊してしまうという救いのないドラマです。なぜ、そうなってしまったのか?「ザ・ロード」において、自らが「冥府魔道」堕ちてもなお、息子の「命」と「純粋な心」を守り続けた父親がいたのに対し、この小説には子供たちを守ってくれる存在はありません。普通の少年冒険小説なら、ここで大人の漂流者が現れ、彼らの指導者として「救世主」となり「理性」の象徴の役割を果たすのですが・・・。彼らにとってその代わりになるのは、落とせば簡単に壊れてしまうホラ貝ぐらいでした。それはあまりにも儚い存在だったといえます。いつの時代、どんな社会でも、「善」も「純粋な心」も「文明」も、あまりにもろく崩れやすいのです。
 こうした状況は彼らが「子供」だったために生まれたわけではないでしょう。もしかすると、大人の場合、もっと悪くなっていたかもしれません。「ザ・ビーチ」という映画もありましたが、大人でも狭い場所に住む人間集団が危険な人間集団に変貌してしまうことは数々の実例が示しています。(オウム真理教も、前述のJ・G・バラードの小説「楽園への疾走」もまたその典型でした)
 それにしても、なぜこうも楽しくない冒険少年小説を彼が書こうと思ったのでしょうか?彼が大好きな「珊瑚島」や「十五少年漂流記」のパロディーを作りたかったからでしょうか?
 どうやらそれには、彼がイギリス海軍の軍人として体験した数々の出来事が影響していたようです。

<ウィリアム・ゴールディング>
 この小説の作者ウィリアム・ゴールディングは、1911年9月19日(1993年6月19日)イングランド南西部のコーンウェル州で生まれました。父親は学校教師であると同時に科学的な合理主義を信じる人物で初期のSF界を代表する作家であり歴史家でもあるH・G・ウェルズのファンだったそうです。当然ゴールディング少年も父親の愛読書から強い影響を受けることになりました。彼はオックスフォード大学に入学し、自然科学を学び始めましたが、その後、文学の能力にひかれ、イギリス文学を専攻するようになりました。大学卒業後は、しばらく演劇などに関った後、学校の教師となります。
 この小説に登場する少年たちのキャラクターに一人ひとりしっかりとしたリアリティーがあるのは、この頃、教師として子供たちを指導していた体験からくるのでしょう。しかし、彼は1940年、平和な教室という「子供たちの楽園」から、突然その対極に位置する「地獄の戦場」へと駆り出されることになりました。
 イギリス海軍に入隊した彼は、巡洋艦に乗り組み、あの有名なノルマンディー上陸作戦にも参加しています。(そこはまさに「地獄の戦場」だったはずです)そのうえ、彼は乗っていた船が撃沈され、他の乗組員らとともに3日間洋上を漂い生死の境をさまよった経験もありました。こうした戦場での悲惨な体験こそ、この小説において描かれている理性を失った「獣たちの世界」のもとになっているのでしょう。
 戦後、彼は同じ学校にもどり、教師として働き始めましたが、その頃から小説を書き始めるようになりました。残虐な戦場体験した後、純粋な子供たちを前いにして、自分は何を伝えるべきなのか?きっと彼は悩んだのでしょう。そして、そんな中から、彼にとっての初期の代表作となった「蠅の王」が誕生することになったのでしょう。
 彼にとっての「蠅の王」は、けっして異なる世界を舞台に展開した思考実験ドラマなどではなく、リアルに体験してきた出来事を組み合わせることで生み出された追体験であり、自己の魂を救うための表現行為だったのではないか?そんな気がします。
 あたりまえかもしれませんが、この小説を子供たちのために書かれた「理性」の大切さを教えるための教養小説と考えるのは間違いでしょう。いかに「理性」が弱いものなのか、「蠅の王」の偉大さが圧倒的なものであるかを思い知らせるリアリズムに基づいたホラー小説と考える方が正確のように思うのですが、いかがでしょう?

<あらすじ>
 世界が戦乱に再び巻き込まれた近未来、イギリスから疎開するために飛行機に乗っていた少年たちは、敵からの攻撃によって南太平洋の無人島に取り残されてしまいます。子供だけで生きることになった彼らは、隊長としてラーフという少年を選び、彼の指揮の元で島での生活と脱出の試みを始めます。
 しかし、当初からラーフと対立していた合唱隊のリーダー、ジャックは、彼に対して反抗的で、勝手に野生豚の狩りに出かけてしまいます。さらに、島の近くを通る船に気づいてもらうため、常に狼煙を上げるため、彼は子供たちに規則正しく役割分担に従う生活を求めますが子供たちの多くはその命令に従うことなくしだい「秩序」が崩れてゆきました。
 そんな中、子供たちの中に「獣を見た」という証言とそれを恐れる「恐怖心」が広がり始めました。「獣」とは何なのか?その正体を見破るため、一人調べに出かけたサイモンは、森の中で串刺しにされた豚の頭の周りにたかる「蠅」の中から「蠅の王」が語りかけてくる声を聞きます。

「獣を追っかけて殺せるなんてお前たちが考えるなんて馬鹿げた話さ!」

「おまえたちはそのことは知っていたのじゃないのか?わたしはお前たちの一部なんだよ。お前たちのずっと奥のほうにいるんだよ?どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、それはみんなわたしのせいなんだよ」


 「獣」の正体が山頂近くに降りた兵士の死体と彼のパラシュートの動きだったことを知ったサイモンは、そのことを伝えるために山を急ぎ降ります。しかし、その頃、残された子供たちラーフのグループとジャックのグループに別れ、一触即発の状況になっていました。そこに突然現れたサイモンは「獣」と間違えられて彼らに崖から落とされ殺されてしまいます。
 「蠅の王」による恐怖の支配が始まろうとしていました。
 
「蠅の王 Load of the Flies」 1954年
ウィリアム・ゴールディング William Golding

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