「ロード・ジム Lord Jim」

- ジョセフ・コンラッド Joseph Conrad -

<複雑な人間像との出会い>
「神は矛盾を知らない・たぶん神の目には矛盾は見えない。なぜならば神は人間に一個の魂を見るのであって、心理を見るのではないから。心理がいかに複雑で、矛盾をはらみ、時に怪物的であるかをフロイトが発見してしまったために、我々の人間観はすっかり変った。「ロード・ジム」はそれを先取りする小説なのである。」
池澤夏樹(本書解説より)

 西欧の文学において、キリスト教の存在は、日本人が思っている以上に大きくものがあります。(日本において、かつて日本人が思っている以上に大きなものがあります。(日本において、かつて「天皇」の存在が多くの国民に死を覚悟させたように)
 しかし、それも20世紀に入る直前に現れたフロイトやユングらによる心理学の確立以後は大きく変化しました。(もちろん彼らだけの責任ではありませんが・・・)20世紀はある意味人類にとって「神なき時代」の始まりだったともいえます。もちろん「神の不在」は、単に宗教界に関わる問題ではありません。「神の不在」は「宗教の不在」であり「道徳の不在」であり「生きる目的の不在」でもあるからです。こうして20世紀の人類は、それぞれ自由に信じる存在の探索を迫られることになりました。(ジムの父親が牧師なのは象徴的です)しかし、誰もが生きる目的を見出せるわけではありません。
 「生きる目的を見失った時、人はどう生きるべきなのか?」今では多くの人に笑われかねないストレートな疑問に、「冒険」という側面から挑戦したのがジョセフ・コンラッドのこの作品だったといえます。
 一般的には、コンラッドといえば海洋冒険小説の作家として知られています。しかし、「闇の奥」もそうだったように、「海」や「大自然」の中に「ちっぽけな人間」を置くことで、「究極の人間」、「究極の世界」を追求する思弁小説のl作家として、彼ほど奥の深い作品を残した作家は、20世紀以前にはほとんど存在しませんでした。だからこそ、スコット・F・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイら多くの作家たちが、彼の作品から大きな影響を受けたのです。

「二年間訓練を受けた末に船乗りとなって、己の想像力がすでによく知っている世界に入ってみると、そこには奇妙に冒険が欠けていた。いくつもの航海に加わって、空と水とにはさまれた生活の、魔法のような単調さを肌で知った。船員たちの批判に耐えねばならず、海は過酷な要求を課してくるし、日々の仕事もひどく味気ない厳しさに貫かれていた。その仕事がパンをもたらすわけだが、唯一真の報酬が、どうにも訪れなかったのである。といって引き返すわけにも行かない。海の暮らしほど誘惑的で、迷いを解いてくれて、人を虜にするものはほかにないのだから。・・・」

 牧師の息子として生まれたジムは、父親の後を継ぐ道を選ばず故郷のイギリスも離れ船乗りとしての生活を始めました。「神」ではなく「海」を選択したものの、それは思うような生き方ではありませんでした。それでも「海」のもつ魅力は、彼にとって「神」にも勝るものでした。しかし、そんな彼を「海」から無理やり引き離す事件が起きてしまいます。
 2012年にエーゲ海で起きた豪華客船の海難事故とその現場からまっさきに逃げたイタリア人船長のことを思えば、誰も犠牲者が出なかったこの本の事件はまだ救いがあります。もちろん、当事者にとっては、そうした結末はまったく別の話であり、問題はあくまで自分が現場から「逃げた」という事実にあるのかもしれません。そして、その時、自分が思っていたこと、自分しか知りえない心の中の奥深くこそが重要なのでしょう。

・・・怖くはなかったかもしれないが、しかし、修羅場は怖かったのだ。混乱した想像力が、頭の中に、パニックから生じる恐ろしい要素すべてを呼び起こした。人々は逃げようとあたふた走り、哀れな悲鳴が上がりボートに水が浸水する。これまで耳にしてきた、海での惨事を形成するあらゆる出来事が思い浮かんだ。・・・

 その時、彼は隠されていた心の闇をのぞいてしまったのでしょう。多くの人が生涯のぞくことがないかもしれない暗い淵をのぞいてしまった彼は、もう過去の自分に戻ることは不可能でした。それはまるで村上春樹の小説の登場人物たちのセリフのようです。

「もう後戻りはできませんでした。まるで井戸の中に、永遠の深い穴の中に飛び込んだみたいでした・・・」

 この小説の特徴は海難事故のことだけを書くなら、ふたつの短編小説で足りたはずの物語を、しつこいまでに様々な方向から光を当てて描いていることです。たとえば、主人公を知る登場人物たちの様々な証言があります。
 ジムの裁判に陪審員として参加したブライアリー船長は、まるでもうひとりのジムのような役割を与えられ、彼と同じように悲劇への道を歩んでいます。彼の死がジムの未来を暗示することで、この小説の結末となっても良かったかもしれません。

・・・彼の人生から、そこにあって然るべき恐怖心を最後の直前まで奪っていた、自分は壮麗な存在なのだという信念。それを運命が罰して、死後の復讐を果たしたような有様ではないか。最後の直前まで?もしかしたら、最後に至っても同じだったかもしれない。自分の自殺を彼がどこまで立派なものとして捉えていたか、誰にわかるだろう?
(ジムの裁判に参加したブライアリー船長は、この裁判の後、自らの船から海に飛び込み自殺を遂げます)

 この小説は、ジムという神なき世界を生きる一人の人間を様々な角度から浮き上がらせるための文字による彫刻と考えられるかもしれません。彼の世話を焼くこの本の語り手でもあるマーロウという人物もまた、ジムの理解者であり、「もうひとりのジム」といえる人物。そして、彼の生き様の先駆者ともいえるスタインという人物もまた実に魅力的な存在として描かれています。彼はジムの良き理解者として彼に生きるべき新たな道を示します。しかし、彼とて神ではなく、それが悲劇への道になるとは予想していませんでした。

「聖者になりたがり、悪魔になりたがり - そして目を閉じるたびに、自分を実に立派な人間と見る - 絶対にありえぬくらい立派な人間と・・・夢の中で・・・」
・・・
「そして、人はいつも目を閉じてはいられませんから、いずれ本当の厄介がやって来ます - 心の痛みが - 世界の痛みが。そうです、我が友よ、夢が叶わないと知るのはよいことではありません。・・・」

スタイン

 ジムと対決することになる海賊のボス、ブラウンは、ジムの対極に位置する存在です。しかし、それはジムがかつて覗いてしまった自らの心の闇そのものだったともいえます。
 20世紀を前にコンラッドは、人間たちがこの先向かうべき道を見失うことをいち早く予見していたかのように、その象徴的存在としてジムという人間を描き、彼にあえて貴族の称号「ロード Lord」を与えました。愚かで生真面目で臆病ではあってもなお、愛すべき存在である人間たちに、道を見失ってもお、誇りを失わずに歩んでほしい。そんな彼の願いが込められた作品だったのかもしれません。
 考えてみると、1920年代(ローリング・トゥェウンティーズ)のアメリカを舞台に生きる男ギャツビーを描いたスコット・フィッツジェラルドの「偉大なるギャツビー」もまた「ロード・ジム」の20年後の新しい形でした。
 目を閉じると、湖のそばに立つ豪華な邸宅の庭に立つギャツビーの真っ白なスーツ姿が思い浮かびます。彼の淋しげな姿をとらえながら、カメラがどんどん引いてゆくとしだいに彼は小さくなり、ついには見えなくなってしまう。あまりにも孤独なギャツビーとジムの存在は、まったく異なる人生ではあったも本質的には変らないのです。

「・・・私にとって、岸と海の静けさに包まれたその白い姿は、一個の巨大な謎の核心に立っているように見えた。黄昏の光は頭上の空で見る見る衰えつつあり、砂の帯もすでに彼の足下に沈んで、彼自身も子供のように小さく見えて - やがて単なる点、白いちっぽけな点と化し、その点が、暗くなった世界に残された光すべてを集めているように思えた・・・そして、突然、私は彼を見失った・・・」
マーロウ

 すべての20世紀を生きる人間たちに与えられた試練。海洋冒険小説と呼ぶには、あまりに哲学的な作品なので、読み進むのが少々つらい部分もあるかもしれません。しかし、後半にはいり、彼が「王」になってからの展開は、ラストまでいっきに読ませる冒険小説となっています。
 そこにはあの名作「地獄の黙示録」のもうひとつのネタもととも思える展開が控えていますので、お楽しみに!

「ロード・ジム Lord Jim」 1900年
(著)ジョセフ・コンラッド Joseph Conrad
(訳)柴田元幸
河出書房新社(世界文学全集より)

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