国境を越えて「孤独」を描き続けた伊達男

「死刑台のエレベーター」

- ルイ・マル Louis Malle -
<ヌーヴェルバーグが生んだ世界的監督>
 ヌーヴェルバーグが生んだ世界的名監督、ルイ・マルは、フランスを代表する資産家の家に生まれ、才能と資産をあらかじめもって生まれた恵まれた人物でした。そのうえ、天は彼にイケメンというもう一つのオマケをも与えました。当時のヨーロッパの監督たちの中には、ジャン=リュック・ゴダールミケランジェロ・アントニオーニのように女性にモテずに苦労し、それをモチベーションにした人物もいましたが、彼とロジェ・バディムはその対極に位置していました。
 ルイ・マルは、デビュー時に付き合っていたジャンヌ・モローから始まり、二番目の妻となったドイツの女優ギラ・フォン・ヴィターハウゼン、最後の妻となったアメリカのスター女優キャンディス・バーゲン。国境を越えて活躍した巨匠は、恋においても国境を越えていました。ただし、ロジェ・バディムにも共通しますが、二人の監督はモテるだけでなく、女優たちを美しく撮る撮ることにかけても一流でした。もしかすると、二人がモテたのは、イケメンだったからではなく、女優たちを誰よりも美しく撮れるその才能にこそあったのかもしれません。
 オーロール・クレマン、ブルック・シールズらの美少女たち、そして大人の魅力をもつジュリエット・ビノシュ、スーザン・サランドン、ブリジッド・バルドー、キャンディス・バーゲン、ジャンヌ・モロー・・・彼の作品で彼女たちはみな輝いていました。

<生い立ち>
 ルイ・マル Louis Malle は、1932年10月30日北フランスのチュムリーに生まれています。父親は製糖業と鉄鋼業、二つの業界の大手企業を所有するフランス有数の資産家でした。しかし、彼は厳しい躾で有名なカトリックの学校に入れられ、早くから家を離れ、家族から離れて暮らすことになります。この時期の孤独な少年期の体験は、後に「ルシアンの青春」や「さよなら子供たち」を生み出すことになります。さらに第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍占領下のフランス国内で彼は何度も引っ越すことになります。お坊ちゃまではあっても、彼はけっして幸福ではなく、寂しく孤独な少年時代をおくり、それが後の彼の映画に大きな影響を与えることになります。
 孤独な少年時代、彼にとっては映画が大切な友達であり、この頃すでに彼は映画監督になることを夢見ていたといいます。その後、彼は名門のソルボンヌ大学に入学し、政治科学を専攻しますが、中途で退学し、高等映画研究所に入学します。ところが、彼は学校での映画理論にうんざりし、友人たちと映画論を闘わせることもせず、映画館に通い続けます。

「私は理論を軽視している。私は映画の演出家でありたいが、映画についておしゃべりはしたくない。自分自身の映画についても、私は殆ど固定した考えを持っていない。私の役割は”描く”ことである。私は同時に作者と注釈学者になることはできないだろう。もちろん、自作についていろいろと説明すれば、恐らく今のような誤解は免れるだろうけれども・・・」
ルイ・マル(1960年代のインタビュー)

 映画について勉強するより、早く映画を撮りたくてしかたなかった彼は二年間学校に通った後、1953年の終わり早くも映画を撮るチャンスを得ます。ただし、それは極めて特殊な映画でした。彼は海洋冒険家ジャック=イヴ・クストーが所有するカリプソ号に乗り組み、航海の様子や水中の様子を撮影することになったのです。それは映画作りというよりも、大冒険の記録係のようなものでした。ところが、この旅で彼が撮影したドキュメンタリー映画「沈黙の世界」(1956年)は、海中映像の美しさや驚異的な映像の数々によって大きな話題となり、カンヌ国際映画祭で見事グランプリを獲得してしまいます。(ドキュメンタリー映画が劇映画をさしおいてグランプリを受賞したこと自体、驚きでした)無名の存在だった彼は、この映画の世界的なヒットにより一躍有名監督の仲間入りを果たすことになりました。
 クストーとの2年に及ぶ長旅を終えた彼は、帰国後、いよいよ実質的なデビュー作の準備に入ります。それが、サスペンス映画の金字塔「死刑台のエレベーター」でした。

 「死刑台のエレベーター」は、マイルス・デイヴィスのモダン・ジャズによるヴァリエイションである。マル自身、「私は作品全体を三楽章の音楽のつもりで作った。もともと音楽好きの私は、マイルス・デイヴィスのジャズのエフェクトを全編に生かそうと試みたのだ」と語っているが、昔ながらの外観をもつ古都パリを描くのに、マルはなぜモダン・ジャズを流したのだろうか。ある者は<スタイルの練習>だという。だがそれだけだとは思えない。クレールの年代のパリの空気を吸ったことのないマルがここに描いたものは、戦争を経た現代のパリである。アメリカナイズされたパリ、車は氾濫した高度に機械化されたパリ、非人間化されたパリ、従って人間が孤独に陥るパリである。
田山力哉
 この時の録音を行ったメンバーは、まさに当時旬のジャズ・ミュージシャンたちでした。トランペットがマイルス・デイヴィスで、ドラムはケニー・クラーク、テナー・サックスはバルネ・ウィラン、ピアノはルネ・コルトレジュ、ベースはピエール・ミュロでした。この後、ジャズのインプロヴィゼーションで音楽が使用された映画が次々に作られるきっかけがこの作品でした。
 ゴダールの「勝手にしやがれ」(1959年)、ロジェ・バディムの「大運河」(1956年)ではMJQ、同じロジェ・バディムの「危険な関係」(1959年)ではアート・ブレイキー、セロニアス・モンクなどが担当しています。

 マイルス・デイヴィスは、この映画の完成まじかの映像を見ながらぶっつけ本番で録音を行うことで、映画に緊張感と即興性をもたらしました。さらにこの映画では後にヌーヴェルバーグを代表するカメラマンとして、「いとこ同志」、「大人は判ってくれない」、さらには「太陽がいっぱい」などの名作を撮ることになるフランスを代表するカメラマン、アンリ・ドカエによる手持ちカメラによる映像もまた映画の即興性を生み出しています。
 この映画の物語そのものが計画どうり行かなくなってしまった「完全犯罪のトラブル」を描いているだけに、こうした即興的な演出は映画全体に見事な統一感を与えています。ヌーヴェルバーグの歴史的名作「勝手にしやがれ」が1960年の作品なので、この作品はヌーヴェルバーグの先駆作だったともいえます。

「神経を使う我々の都会生活において、夜はいろいろな身がまえを放棄する情け深い唯一の時である。それは一つの中断だ。最早、時の概念の全く異なっている一種の人工的楽園だ。私が『死刑台のエレベーター』をつくったのは夜における人間たちを撮りたいと思ったからである」
ルイ・マル

 この映画の主役は、夜のパリの街であり、その街を歩く孤独な人々です。「エレベーター」は、そんな「都会の孤独」を象徴する究極のシチュエーションだったといえます。
「この映画に見られるパリは、あらゆる月並みな作品のそれを顔色なからしめる・・・夜のバアの中の点景人物に、たとえば売春婦とかいつも酔っぱらいが見られる。またある者は一杯のクリーム・コーヒーを前にアンニュイに満ちた様子ですわっている・・・町には当てもなく歩く無表情な人たち・・・これらパリの人物はまぎれもなく1957年のそれである」
アルマン・マンジョ(映画評論家)

 「恋人たち」(1958年)は、結婚していても孤独感に耐えられず不倫にはしる主婦の物語で、当時のルイ・マルの恋人ジャンヌ・モローを主演に撮られ、ヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞しています。
 「地下鉄のザジ」(1960年)は、コメディー映画ですが、一人ぼっちの少女がパリの街を放浪する36時間の物語で、斬新な映像と共に今でも人気が高い作品です。この作品で彼は初めてカラーフィルムを使用しています。
「色彩なしで悪夢の宇宙を描くことは不可能のように私には思われた。色彩を私は白黒と同じ自由さで - 非現実的で主観的な方法で、私的なエレメントとして使ったのである。この映画のライト・モチーフであるカオス(混乱)と外的世界の不安定の印象に、色彩がアクセントをつけているのだ。そしてこの映画が白黒だったら、そのモチーフは50パーセント、その効力を失うであろう」

 「私生活」(1962年)は、当時の人気女優ブリジッド・バルドーを主演にスター女優の孤独と挫折を描いた作品でしたが、彼の描く「孤独感」は次の作品「鬼火」(1963年)で頂点に達します。エリック・サティの音楽とモーリス・ロネの鬼気迫る演技が印象的なこの作品は、再びヴェネチア国際映画祭の審査員特別賞を受賞しますが、興業的にはヒットせず、日本では1977年になって岩波ホールがやっと公開しています。
 いくところまでいった感のある作品を撮ったルイ・マルは、そこから作風をがらりと変えます。1965年の「ビバ!マリア」は、ジャヌ・モローとブリジッド・バルドー主演のメキシコを舞台にしたミュージカル風のコメディ、1966年の「パリの大泥棒」は、ジャン=ポール・ベルモンド主演の犯罪アクション・コメディ。1967年の「世にも怪奇な物語」では当時の人気監督、フェデリコ・フェリーニ、ロジェ・バディムとオムニバス対決し、彼はアラン・ドロンを主演にして自らのドッペルゲンガー(分身)に追いつめられる男を描いた「影を殺した男」を撮りました。
 ただし、この間も彼はヌーヴェルバーグの仲間たちとの共闘を続けており、1968年にはカンヌ国際映画祭でフランソワ・トリュフォーらと映画祭の運営方法に抗議してバリケードを築いて映画祭を中止に追い込んでいます。

<1970年代、アメリカへ>
 1973年「ルシアンの青春」で、彼は自らも体験した第二次世界大戦下の青春を描きました。(主演は、ピエール・ブレーズとオーロール・クレマン)若すぎるからと、レジスタンスへの参加を断られた少年が、その反動でナチスに協力。そんな孤独な少年の悲劇の恋を描いた作品も高い評価を受けました。この作品では、当時の人気アーティスト、ジャンゴ・ラインハルトの曲が使用されています。
 当時フランス映画界は危機的状況に陥っていたこともあり、1976年彼はアメリカへ移住し、ハリウッドで映画を撮り始めます。ハリウッドでのデビュー作となった「プリティ・ベビー」(1978年)は、幼い少女(ブルック・シールズ)がニューオーリンズの娼館で成長する物語。この映画でのブルック・シールズの美しさは、まさに究極の美といえるもので、作品は高い評価を得ただけでなく世界的なヒットとなりました。(ニューオーリンズは、アメリカで唯一フランス文化が残る街です)
 「プリティ・ベビー」にも出演していたスーザン・サランドンとバート・ランカスター主演の「アトランティック・シティ」(1980年)は、老いた元ギャングがマフィアのヘロインを横取りして、売りさばこうとする大人のラブ・サスペンス作品。この作品で彼は、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞しています。この年、彼はアメリカを代表する女優キャンディス・バーゲンと結婚しています。
 「アラモ・ベイ」(1985年)では、かつてフランス領だったヴェトナムから難民としてアメリカに移住した青年が、人種差別に苦しみながらテキサス沖でエビかご漁を行う姿を描いた作品。この後、彼は故郷フランスに戻り、久々の作品「さよなら子供たち」(1987年)を撮ります。第二次世界大戦下のフランスを舞台に、ユダヤ人であることを隠して転校してきた少年との交流を描いた青春映画は、彼自身の過去の体験をもとに書かれた作品でした。
 その後も、彼は五月革命が起きていた頃のフランスの田舎町を舞台にした「五月のミル」(1989年)や舞台劇「ワーニャ叔父さん」の製作現場を描いた「42丁目のワーニャ」(1994年)を完成させますが、癌に冒されていた彼はその翌年、1995年11月23日この世を去りました。

「死刑台のエレベーター」 1957年
(監)(脚)ルイ・マル(脚)ロジェ・ニミエ(原)ノエル・カレフ(製)ジャン・スイリエール(撮)アンリ・ドカエ(音)マイルス・デイヴィス
(出)モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー(2017年7月31日89歳で死去)
ジョルジュ・プージュリイ、リノ・バンチュラ、ヨリ・ベルタン、ジャン=クロード・ブリアリ、シャルル・デネ
<あらすじ>
 不倫相手の夫でもある自らの職場の社長が邪魔になったジュリアン(モーリス・ロネ)は、不倫相手のフロランスと共謀し、社長の殺害を計画します。ところが、当日殺人は成功したものの、予期せぬエレベーターの故障により、エレベーター内に閉じ込められてしまいます。
 しかし、恋人が予期せぬ危機に陥っていることを知らないフロランスは、戻らないジュリアンを待ちながら一人パリの街をさまよい続けます。ところが、若いカップルが閉じ込められているジュリアンの車を盗み、その後、誤って殺人を犯してしまいます。そのおかげで、ジュリアンは自分とは関係のない殺人事件にまで巻き込まれることになってしまいます。

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