シュールな世界を映像化し続けた普通人


- ルイス・ブニュエル Luis Bunuel -
<シュルレアリスト>
 ルイス・ブニュエルといえば、サルヴァドール・ダリと並び、シュルレアリスムのビジュアル・イメージを決定づけた映像作家です。しかし、彼の代表作であり、シュルレアリスムの原点ともいえる映画「アンダルシアの犬」(1928年)は、今ではなかなか見る機会はないかもしれません。僕も、大昔に見たっきりなので、ところどころのインパクト大のシーンしか思い出せません。(あの目玉を切り裂く場面とか、腐った肉の塊とか・・・)とはいえ、この映画にはもともと「物語(ストーリー)」があるわけではなく、ブニュエルの友人だったサルヴァドール・ダリと彼自身が見た悪夢を映像化した作品です。したがって、朝、目が覚めて、ついさっきまで見ていた悪い夢を思い出すように映像が思い浮かぶなら十分作品として成功したと言えるのかもしれません。
 もちろんブニュエルは、「アンダルシアの犬」以外にも多くの作品を撮っていて、なかには普通に楽しめるコメディー映画もありますが、生涯シュルレアリスト的な表現にこだわり続けた映像作家だったといえます。
 実はそんな彼の作品が描き出した不条理な世界は、映画の中だけではなく、彼自身の人生もまた不条理に満ちたものでした。もしかすると、そんな世界を生きたからこそ、それまでになかったシュールでグロテスク、時には可笑しな世界を創造することが可能になったのかもしれません。
 では、彼が巻き込まれた不条理な人生とはどんなものだったのでしょうか?

「シュルレアリスムの世界によって、私は天の啓示を受けたのである。私はその頃、私と同じ考えを持っている多くの人たちに出会った。それは、愛が社会機構の中に組みこまれてしまっているような世の中において、何の規制もないモラルを求める人たちであった。シュルレアリスムは時代の一つの欲求であった。大ブルジョアジー、社会秩序、不随になったモラル、あらゆる意味における表面的レトリック、アカデミックな古い価値、そういうものにシュルレアリスムは反対したのだ」
ルイス・ブニュエル

<生い立ち>
 ルイス・ブニュエル Luis Bunuel は、1900年2月22日、スペイン東部のカランダに生まれました。家は代々カランダの農家でしたが、父親のレオポルドは14歳の時軍人になり、キューバに渡るとそこで大尉まで昇進。1899年、42歳の時にカランダに帰り土地を購入、資産家の農園主となりました。そんな努力家の父親にジェスイット派の学校に入れられた彼は、その学校での厳しい教育方針に反発。生涯、無神論者となります。
「宗教に対する態度なんて、私にはない。私は宗教の中で育てられた。私はこう公言することができる。”私は無神論者だ、神様のお蔭で”と。私は人間の中にこそ神を探さなければならないと思う。それは非常に単純な態度だ」
ルイス・ブニュエル

 彼はその後、マドリッド大学に入学。同期のサルヴァドール・ダリらと自然科学を学びながら、ガルシア・ロルカやホセ・オルテガなどのシュルレアリストたちと親交を結びながら、映画好きの仲間たちとシネ・クラブのようなグループを作ります。彼らはルネ・クレールなどフランスの監督による前衛的な映画を見ながら議論を戦わせ、それぞれの分野へと歩み出そうとしていました。
 1925年、彼はパリに出て国際文化機構で働き始めますが、それはフランスで映画の仕事に就くための準備でもありました。そして、彼はジャン・エプスタンから映画について学び、その後助監督として働くようになります。ある時、ジャン・エプスタンから、大御所監督のアベル・ガンスの仕事を手伝うよう命じられます。ところが、彼は時代遅れとなりつつあったアベル・ガンスの映画作りに幻滅。「あんな奴、お袋にでも助監督をしてもらえばいいじゃないか!」と職場放棄してしまいます。こうして、彼はせっかくつかんだ助監督の仕事を失ってしまいますが、それを機にダリらと共に自分たちならではの映画を撮ろうと決意を固めたのでした。

「パリにいた私に、ダリから電報があり、私はスペインまで彼に会いに行った。彼は蟻の夢を見たといい、そのイメージを私に語って聞かせた。それは私の少年時代、学友たちと蟻の食べっこをしたという事実をも私に思い出させるものであった。彼の話に触発され、私はまた私で、自分の見た夢の数々を語った。それは悪夢ばかりであったが、二人して夢の話をしているうち、じゃあ、この夢の要素だけで映画を撮ってみたらどうだったろうかということになり、一緒にシナリオを書きあげたのである。・・・・・」
ルイス・ブニュエル

 1929年、彼はクリスマス休暇を利用して、スペインに住んでいたダリの家に招かれます。そして、ある夜ダリはブニュエルに、自分が見た夢の話をしました。それは自分の手に蟻がうようよとはいあがってくるというものでした。それに対し、ブニュエルもまた自分が誰かの目玉を切る夢を見ており、そのあまりに不可思議な夢を映像化してみたいと思います。そこから、合理性というものを一切排除したかつてない映画が誕生することになりました。
 脚本をわずか6日で書き上げた彼はさっそく撮影を開始。完成まではわずか2週間で、世界初のシュルレアリスム映画、アバンギャルド映画である「アンダルシアの犬」が完成しました。
 タイトルはあえて内容とはまったく関係のない言葉が選ばれました。もちろん映画が撮影されたのは、アンダルシア地方ではありませんし、「犬」も登場しません。登場するのは、子牛の本物の目玉で、それを実際にカミソリで切って見せています。さらに腐ったロバの死体のシーンでは本物のロバの死体が使われ、撮影現場はとんでもない匂いだったようです。現実を無視した映画は、限りなくリアリズムを追求したからこそ、衝撃的なインパクトをもつことができたのです。

 この映画の初公開には、シュルレアリスムのそうそうたる顔ぶれが集まりました。ピカソ、アンドレ・ブルトン、ジャン・コクトー、マックス・エルンスト、ルイ・アラゴン、マン・レイ、トリスタン・ツァラ・・・・・。この映画は、これらのそうそうたるメンバーから大きな拍手を受け、シュルレアリスム映画、アバンギャルド映画の金字塔となりました。それまで、文字や絵画によって表現されてきたシュルレアリスム的世界観が初めて動画映像によって撮影され、世界に映画の新たな可能性を示すことになりました。

「ブニュエルとダリが意図したのは、観客にショックを与えることであった。二人は毎日起きるとその前の晩に見た夢をお互いに話し合い、夢の情景を再現することをもってシナリオの制作を行った。・・・」(このやり方で生まれたもうひとつの名作がメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」です)

「『アンダルシアの犬』は観客に対する心理的な衝撃、というより、より正確にいえば攻撃的な効果というものをフィルムの内側に構造として携えた、最初のフィルムであるといえる。」
四方田犬彦「映画史への招待」

<シュルレアリストたちの闘い>
 この時代、シュルレアリストたちが闘ったのは、19世紀から続いてきた貴族社会から続くモラルや社会体制だったといえます。
「ブルジョア的モラルは、私にいわせれば反モラルである。それに対して我々は戦わなければならない。宗教、国家、家庭文化のような非常に不正な社会機構に基づいたモラル、つまり社会の支柱と呼ばれるものに対して、我々は戦わなければならぬのだ」
ルイス・ブニュエル

 この後、彼は「アンダルシアの犬」の続編の準備も始めますが、ダリとは意見が合わず、二人は絶交してしまいます。そして、完成した2作目の映画「黄金時代」について、彼はこう語っています。
「・・・純粋にシュルレアリストした、この映画を撮りながら、私はこう考えた。映画というものは、扱う者が自由が心を持っていれば、すばらしい武器だ。夢の世界を、そして感情、本能の世界を表現するのに、これは最良の道具だ。映画は、その根が深くポエジーに結びついている意識下の生活を描くために、発明されたのではないかと思われるほどだ・・・。
 だからといって、私は幻想とか神秘の世界の証人にしたかったのである、現実において最も重要なものの。現実というものは無数の相を持ち、人間によってさまざまの意味を持つことができる。私は現実の全的なヴィジョンを持つことを欲する。私はすばらしい未知の世界に入ることを欲していたのだ」

ルイス・ブニュエル

 「黄金時代」は、カトリックを批判する部分が批判の対象となり、検閲に何度も削除され、結局はフィルムすべてを没収されてしまいます。この事件は、「左翼対右翼」、「シュルレアリスト対カトリック」、「体制対反体制」など、様々な対立のきっかけとなりますが、ブニュエルはすでにフランスを離れていて、ハリウッドからの誘いにアメリカを訪れますが、当然ながらケンカ別れしてしまいます。故国に戻った彼はドキュメンタリー映画「糧なき土地」(1932年)を撮り始めます。
 コルデスというスペインの片田舎で貧しさに苦しみながら生きる人々の映像は、ファシスト政権を敵に回すことになり、以後、長きにわたり彼はフランコ政権下のスペインで映画を撮ることができなくなります。

「この映画を撮る前に、私はできる限り実地に調査して歩いた。コルデス地方に行った私は、ここには唯一つの絵も、歌も武器もないことを見出した。彼らはパンさえ製造していなかったのだ。それはほとんど新石器時代の文化であった。民謡もなければ、いかなる種類の芸術的兆候もない。彼らの持っていた唯一の道具は鋤であった。・・・」
ルイス・ブニュエル

 彼がこの映画を撮った後、スペインでは内乱が始まり、彼は反フランコの映画を撮るなどしますが、フランコ政権はドイツ軍の援助を受けてファシスト政権を築くことになります。こうして、スペインにいられなくなった彼は、アメリカに渡りますが保守的なハリウッドでは左派よりの自由スペインについての映画を廃棄処分にされてしまいます。
 1947年、居場所を失った彼はアメリカを出て、同じスペイン語圏のメキシコに定住。そこで新たなスタートを切ります。

<異国の地での活躍>
 1949年、彼はメキシコでコメディー映画「のんき大将」を撮り、エンターテイメント作品も撮れることを証明。続く「忘れられた人々」(1950年)ではメキシコのスラムを舞台に悲しい青春を撮り、カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞します。
 1960年の「ビリディアナ」では修道女の性と悲劇を描きカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞しますが、この映画は反宗教的であると批判が起き、ついに彼は故国スペインから国籍を剥奪されてしまいます。
 1962年の「皆殺しの天使」はメキシコ時代を代表する作品であると同時にシュルレアリスム作家としてのブニュエルが久々に本領を発揮したシュールな作品となり、カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞しています。
 1963年の「小間使いの日記」は、ジャンヌ・モロー、ミシェル・ピッコリを主演に迎えフランスを舞台にした作品で、ここから彼のフランスでの名作群が生まれ始めることになります。
 1967年の「昼顔」はカトリーヌ・ドヌーブを主役に迎えれた話題作で、世界中を驚かせます。(ドヌーブの美しいヌードも含めて)ごく普通の主婦が日常から抜け出すために見知らぬ男とのセックスにのめりこんで行くというスキャンダラスな内容は、当時としては衝撃的な内容でした。この作品について、彼はこう語っています。

「私は最初からまやかしの文明を破壊する暴力をもって映画を撮ってきた。・・・もちろん、私も今は年をとって、暴力は弱くなった。だがそれでも私は依然として同じ方法を考えている」

 その後も、彼は生涯を終えるまで意欲的でシュールな作品を撮り続けます。
 1970年「哀しみのトリスターナ」、1972年「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」、1974年「自由の幻想」、1977年「欲望のあいまいな対象」、どれも高い評価を得た作品ばかりです。
 結局彼はスペインに戻ることなく、メキシコで1983年7月29日、83歳で肝硬変により、その生を終えています。

<普通の男の革命>
 面白いのは、これだけ世間を騒がせる作品を撮り続けてきた本人の私生活はいたって普通だということです。
 1926年、彼は体操教師をしていた女性と結婚。二人の子供を育てながら、離婚することもなく平穏な家庭を築いています。シュールでスキャンダラスな作品を撮り続け、宗教界を敵に回し、ついには国を追われた波乱の人生だったにも関わらず、彼の夫婦生活はいたって平穏無事だったようです。
 彼の映画以外の趣味は読書で、旅が嫌いな彼は、撮影期間以外はほとんどメキシコの自宅で本を読んで過ごしていたようです。朝からワインを飲み、一日2本は開けていたというので、かなりのワイン好きだったようです。そのせいで肝硬変になったのかもしれませんが、83歳まで元気だったのですから、ワインが健康を支えていたのかもしれません。

「私は人間が好きだ。そして私の愛する諸事物を映像化するのが好きだ」
 そして、こうも語っていました。
「こんなに悪く作られた世界にあっては、叛乱を起こす以外の他の方法はあり得ない」

 誰よりも人間を愛していた男は、彼らを苦しめる社会にも国家にも宗教にも怒りを覚えていました。彼が描き続けたシュールで不可思議な世界は、けっして想像の中だけのものではなく、現実社会が彼にはそう見えていたのかもしれません。映画の中で彼は、彼ならではの革命を起こし続けていたのかもしれません。

「今日、余りに多くの監督が自分のことを注目に値すると思いこんでいるようだが、本当に新しいこと、興味を引くことのできるのは唯一人、ブニュエルだけだ」
ルキノ・ヴィスコンティ

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