- リュミエール兄弟 Augusute Lumiere,Louis Lumiere -
- ジョルジュ・メリエス Georges Melies -

- アベル・ガンス Abel Gance -

<リュミエール兄弟>
<映画の原点>
 1895年12月28日、パリの「グランカフェ」地下「インドの間」で、わずか33人の観客を前に行われた動く映像「シネマトグラフ」の上映会。それが世界史における映画の原点だったといわれています。それ以前には、エジソンのキネトスコープのような一人用映像システムが公開されていましたが、現在のように大きなスクリーンの映像を映し出し、多人数の観客が同時に見るというスタイルはこれが初めてでした。この時に公開された映像はわずか1分ほどのものが10本ほどで、観客は一人1フランの入場料を払いました。
 「シネマトグラフ」とは、持ち運び可能な機械として、撮影、フィルム焼付け、映写と三つの機能をあわせもつ映像装置の名称です。その基本的な機能、原理は当時も今もほとんど変わってはいません。デジタルになり、フィルムが必要ではなくなったという大きな違いはありますが・・・。もともと「シネマトグラフ」という言葉は、ギリシャ語の「キネマ=動き」と「グラフ=書かれたもの、画像」の合成語といわれます。このシステムを完成させたルイ・リュミエールは当時31歳、兄のオーギュスト・リュミエールは33歳でしたが、偶然ながら「リュミエール(ルミエール)」とはフランス語で「光」という意味になります。これはまた実によくできた偶然です。

<開発のきっかけ>
 この装置が開発されることになったきっかけは、リュミエール兄弟の父親アントワーヌがパリでエジソンのキネトスコープを見て感動したことでした。彼はプロの写真家出身で独自の感光乳剤を開発した後、リヨンで写真乾板の工場を設立。息子とともに300人もの従業員を使う企業に発展させたやり手の実業家でもありました。
 当時、映画に必要なメカニズムはアメリカやイギリス、ドイツなどでも研究が進んでいて、ほぼ完成の域に達していました。しかし、その実現にはどうしても薄くて柔らかくて耐熱性のあるフィルムが必要でした。セルロイドという素材が登場し、理想のフィルムが生まれたことで一気に「映画」の完成が近づいたのでした。さらに、フィルムと映像機械を実用化させるための開発費用を捻出できる人物がいて初めてそれが可能になるはずでした。さらにいうなら、そうした映像システムを用いて、どんなことができるのか?そうした映画の未来を思い描けることもまた必要でした。残念ながら、発明王エジソンはそうした映画の未来を思い描くことができませんでした。彼には、一人用のキネマスコープ以上の映像体験を想像できなかったわけです。

<世界初の映像作家>
 映画の発明者としてリュミエール兄弟の名前は今ではよく知られていますが、彼らが同時に世界初の「映像作家」でもあったことは、あまり語られることがありません。彼らは「映画」のシステムを完成させただけでなく、そのシステムを用いて世界初の映像作品を完成させた想像的な映像作家でもあるのです。その実例ともいえる当日の公開作品について見てみましょう。

「工場の入り口」(彼らの工場入り口にカメラをすえて撮影した労働者たちのドキュメンタリー作品)
「馬芸」(サーカスの馬の芸にスポットを当てたエンターテイメント作品)
「鍛冶屋」(当時の鍛冶職人の巧みの技をおさめたドキュメンタリー作品)
「赤ん坊の食事」(リュミエール夫妻が娘アンドレにスープを飲ませる様子をおさめた子育てドキュメンタリー作品)
「水を撒かれた水撒き人」(ホースで水撒きをするおじさんにいたずらをする少年のスラップスティック・コメディ映像作品)
「列車の到着」(南仏のラ・シオタ駅に到着する機関車を撮った伝説的な映像作品)

 特に「列車の到着」では、列車が駅に入ってくる様子とそれを待つ乗客たちの姿がワンカットに見事におさめられ、映画における理想のアングルを早くもつかまえることに成功しています。これは彼らが写真家としての経験を積んでいたからこそできた技だったのでしょう。彼らは「映画」という発明を完成させたと同時に様々な映像の可能性を提示した映像作家としての先駆者でもあったわけです。
 さらにもうひとつリュミエール兄弟の功績があります。それは彼らが自分の会社で多くのカメラマンを育成し、彼らを世界各地に派遣したことです。そのおかげで、世界の様々な風俗や風景がいち早くフィルムにおさめられ、今我々が目にすることができるようになったわけです。歴史上初の記録映像の多くは彼らが残してくれたわけです。
 このことは日本においても同様でした。

・・・リュミエールは、彼と同時代の画家たち、当時のピカソとかマネとかルノワールとまったく同じものを描いていたのだ。つまり、彼は駅を撮った。工場を出口を撮った。カルタ遊びをしている人たちを撮った。列車を撮った。・・・
「世界映画史」ジョルジュ・サドゥール
 そうした見方によると、リュミエールは後期印象派の動画作家ということもできます。さらにいうと、「水を撒かれた水撒き人」からは、彼が元祖コメディー映画作家だったといえるでしょう。

<シネマトグラフ来日>
 1897年、日本から稲畑勝太郎という人物がフランスに渡り、早くもシネマトグラフを輸入しています。その早さに驚かされますが、それには理由がありました。稲畑は1877年、15歳の時にフランスのリヨンにある工科学校に留学した経験があり、そこでオーギュスト・リュミエールと同級になり親しくなっていたのです。彼は日本に帰国後、繊維工業の分野で実業家として活躍し、フランスに再び仕事で出かけた際、そこでリュミエールにシネマトグラフを見せられ、すぐに輸入を決断。こうして、リュミエール社のカメラマン兼上映技師のコンスタン・ジレルとシネマトグラフの器材一式とともに彼は神戸に帰国することになったのでした。
 稲畑の地元大阪でシネマトグラフを上映した後、コンスタンは器材とともに日本各地を旅し、京都や東京だけでなく遠く北海道ではアイヌ民族の儀式までもを撮影。現在の日本人にとって非常に貴重な映像を記録しています。それらの映像は彼らの使用したフィルムの品質がよかったこともあり、現在でも十分に見ることが可能です。
 リュミエール兄弟は、「映画」の発明者であると同時に、映像作家としてその可能性を一気に広げ、かつ世界にその素晴しさを広めた伝道師の役割をも果たしたのでした。

<ジョルジュ・メリエス>
<映像マジックの創造者>
 映画の歴史において、忘れてはならない存在としてジョルジュ・メリエスがいます。元々は奇術師としてスタートした彼の創造力により映画は、一気にその技術的なレベルをアップさせることになりました。彼は、映画における「SF映画」、「特殊撮影」だけでなく、様々な技術の元祖といえる存在です。

 ジョルジュ・メリエスは、1861年にフランス、パリの靴職人の家に生まれました。子供の頃から、靴屋よりも画家になりたかった彼は、美術学校への入学を親に許してもらえず、その代わりにと絵画の個人レッスンに通うことをになりました。その師匠は、当時の人気画家ギュスターヴ・モローで、そこにはあのドガも通っていました。しかし、彼は画家にはなれず、当時一大ブームとなっていたマジシャンへの道を歩み始めます。画家とマジシャンでは大違いと思うかもしれませんが、当時「画家」は今でいう映画監督的な存在であり、文科系のアイドル・スターでしたから、そのエンターテイメント版ともいえるマジシャンとはそう違いはなかったかもしれません。
 彼は美術的なセンスとは異なる機械仕掛けの人形作りにおいてその才能を発揮。父親の死によって得た多額の遺産を引き継いだ彼は、そのお金を使い1887年、世界最高の奇術師と呼ばれていたロベール・ウーダンの劇場を買い取ります。ウーダンの後継者となった彼はその後も様々な奇術を考案し人気者となります。そんな彼の劇場のすぐ近くに「グランカフェ」があり、ご近所のよしみということもあり彼はシネマトグラフの特別試写会に招待されました。一般公開前にその上映を見た彼は、映画の魅力と今後の可能性に衝撃を受けたといいます。すぐに彼はシネマトグラフの購入をリュミエール兄弟に申し入れました。ところが、それに対し、ルイ・リュミエールは「映画に未来はない」といって断ったといわれています。(どうやら彼は本当にそう思っていたのではなく、彼らが作り上げたシステムを奪われることを恐れていたようです)
 仕方なくメリエスは、イギリスに渡り、ウイリアム・ポールが開発した映写機「シアトログラフ」を購入します。そして、そのシステムを自分の手で映写と撮影ができる器材へと改造すること成功。その後は、その機械を用いた作品を製作して自らの劇場でそれを公開するようになります。その代表作は、1896年の「ロベール・ウーダン劇場における婦人の雲隠れ」です。それはタイトルのとおり、舞台上に立つ婦人がそこから一瞬にして消えるというもので、映像的には実に簡単なトリックです。しかし、映画が誕生したばかりの時期にこのアイデアは偶然生み出されたものでした。
(ある時、風景を撮影していて、偶然カメラが故障してしまいました。カメラは固定されていたので、カメラが直った後で撮影を再開すると、フィルムに写されていた人物が突然消えていた・・・というわけです)

 この偶然の発見により、メリエスは映像トリックの様々な可能性に気がつき、1897年には自らスター・フィルム社を設立。映画スタジオを設計した建てると、そこでトリック撮影を用いた映画というよりは映像マジック作品の製作を開始しました。当時、彼が見出した映像技法は、その後も映画の世界で用いられている重要なものばかりです。
 多重露出、フェイドアウト、オーバーラップ、スローモーション、コマ落し、それにフィルムに彩色するカラー映像などがあります。さらには、彼が得意としていた機械仕掛けのトリックやミニチュア・セットや人形を用いた特殊撮影など、まさに元祖特殊撮影といえる存在となりました。そしてその集大成となった作品が、現在でも見ることができる名作「月世界旅行」(1902年)です。

「月世界旅行」(1902年)
(監)(脚)(製)(出)ジョルジュ・メリエス
(撮)ミショー
(美)クローデル
(衣)ジュアンヌ・メリエス
(出)ヴィクトール・アンドレ、ドゥピエール、ファルジョ
 この映画はジュール・ベルヌの原作(1865年)として知られていますが、実はかなり内容は違っています。原作どうりではあまり面白くないと考えた彼は、月に大砲を打ち込むようにしてロケットを着陸させる方法を映像によって実現させ、月面世界を映像によって見せるという画期的な体験を観客に与えたのです。そのために彼は、様々なSF的作品の要素をこの映画に持ち込んでいます。それは、オッフェンバックのオペレッタ「月世界旅行」(1875年)、H・G・ウェルズの「月世界の最初の男」(1901年)、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーの「ミュンハウゼン物語(ほらふき男爵の冒険)」(1786年)、エドガー・アラン・ポーの「ハンス・プファールの無頼の冒険」(1835年)などです。上映時間13分のこの映画は、SF映画の原点であるだけでなく、映画の撮影技術における様々な技術の原点が盛り込まれた「映画の教科書」でもあります。

<映画界での失敗>
 彼はこうして様々な映像トリックの生みの親となりましたが、それは舞台上で行う奇術の延長戦上にあるものにとどまり、「映画」の新しい時代を切り開く方向へは向かいませんでした。そのため、映画の人気が高まっても、彼の作品はその流れに乗ることはできませんでした。しだいにその人気も下火となり、1914年、スター・フィルム社はパテ社、ゴーモン社、エクレール社との競争に敗れ倒産に追い込まれます。51歳という年齢で映画の世界から身を引き、引退した彼はパリのモンパルナス駅で子供向けのオモチャとお菓子を売る店を開き、細々と暮らしていました。

「メリエス氏のやり方は、変化を考えないために死んでしまった。映画は別にセットを使わずとも制作できる。ロケーションの方がもっと簡単だ。メリエス氏は自分の方法をいぜんとして変えない。流行は過ぎ去ってしまったというのに、・・・」
ヴィクトラン・ジャッセ

 すっかりその存在を忘れられていたジョルジュ・メリエスは、1931年70歳の時、突然、フランスの最高賞レジヨン・ドヌール勲章を授与されます。それはかつて彼のライバルでもあった人物リュミエール兄弟の弟ルイの推薦によるものでした。幸福なことに人生の最後に来て、再び彼の仕事にスポットが当てられることになったのでした。

<リュミエールとメリエス>
 リュミエールが後期印象派の画家だったとすれば、メリエスは未来のニュース映像をのではないか?映画「中国女」の中でジャン=リュック・ゴダールは、自身の分身でもあるジャン=ピエール・レオにこう言わせています。
「今日、時間的なへだたりをもって見ると、それこそ当時のニュース映画だったことに気づく」
映画評論家の山田宏一は「何が映画を走らせるのか?」の中でのこうも書いています。
・・・そもそもドキュメンタリーとフィクションに映画を分類したところに、リュミエールは記録性、メリエスは空想性とあたかも二律背反の命題のように短絡的に定義してしまったところに、映画史の誤りというか、勘違いが根ざしているのではないだろうか。
 少なくとも断片的ながら映画史の読み直しをとおして、映画はいっそう多彩にその輝きを増すはずである。

 屋外シーン、風俗シーン、ニュース映画、ルポルタージュ映画、旅行記録映画が、リュミエールと彼の一派によって創り出された主なジャンルである。・・・一年後には大衆はシネマトグラフに飽きている。その技術が主題の選択、構図、照明を限定していた一分間の動く写真という純粋に示威的な形式が、映画を袋小路へ導いた。
 そこから抜け出すために、映画は類似した芸術である演劇の諸手段を用いながら、一つの物語を話すことを学ばなければならなかった。それをなしたのがジョルジュ・メリエスである。
 ジョルジュ・メリエスの天才の主なしるしは、彼自身の表現によると、最初に映画を見世物芝居の軌道に乗せたことである。

「何が映画を走らせるのか?」山田宏一

<アベル・ガンス>
 リュミエール、メリエスによって、映画は単なる映像による記録から、物語の表現へと進化し、それをアメリカのD・W・グリフィスがそれを壮大な叙事詩へと拡大させました。そこにフィルムの編集テクニックによって、さらなる映画の進化をもたらしたのはやはりフランスの映画監督アベル・ガンスです。
 アベル・ガンス Abel Gance は、1889年10月25日フランス、パリに医師の息子として生まれました。演劇好きの彼は、先ずは俳優として1909年に映画デビューを果たし、1911年に監督としてデビュー。そして、自ら映画製作会社「ル・フィルム・フランセ」を設立。その後、映画の脚本を書き始め、1915年にフィルム・ダール社に脚本家として採用されます。監督として「アークル城の惨劇」をヒットさせます。1917年には第一次世界大戦に招集されますが、結核にかかり退役。1919年に彼が監督した「戦争と平和」は3時間に及ぶ大作ながら大ヒットを記録します。映像による実験に積極的だった彼は、様々な技法を用いながら新たな作品を次々に完成させます。そんな中、彼が映画ファンを驚かせたのが「フラッシュバック」の技法でした。
 映像技法の中でも特に有名な「フラッシュバック Flashback」とは、「瞬間的にスクリーンに映し出されるショットの連続によって作者の意図をより強烈に示す」というものです。「フラッシュ(閃光)」のような「カットバック」の連続により異なるイメージを交互に表現している「平行モンタージュ」ということです。この斬新な技法を完成の域に達することに成功したのが、アベル・ガンスです。彼の代表作である「鉄路の白薔薇」(1928年)はその最高傑作と言われています。

・・・破局に向かって驀進する機関車の車輪とレールのカットバックを中心に、周囲の風景、機関手のアップ、速度メーター、噴出する蒸気などを織り交ぜたリズミカルな早いモンタージュは、「車輪の歌」あるいは「レールと車輪の歌」と称賛された。
飯島正

 作品の真の主題は、その風変わり筋はない。それは汽車であり、レールであり、信号や蒸気機関車の蒸気、山、雪、雲といったものなのだ。ガンス氏は、彼の作品を支配するこの視覚に訴える壮大な主題から、すばらしい展開を繰り広げる術を心得ていた。私たちは撮影技術のおかげで、レールの上を速度を増しながら疾走する汽車をすでに見ることができた。しかし、あたかも渦巻きに吸い込まれるように、オーケストラや座席や劇場や、私たちを取り巻くありとあらゆるものがスクリーンに吸い込まれていくような気分を味わったことはかつてなかった。
ルネ・クレール「映画をわれらに」

 「鉄路の白薔薇」の大ヒットにより、アベル・ガンスは巨額の利益を得て、それでビヤンクール撮影所を買いとりました。そして、1925年から2年がかりで超大作「ナポレオン」(第一部)を完成させます。

 サイレント映画の最後の超大作の稀有な一本である「ナポレオン」で、アベル・ガンスはナポレオンという「偉大な歴史のパロクシスム(激発)」を映像的に表現するためにありとあらゆる技術的実験をおこなったが、「それでもなお空間が、ひろがりが、足りない」と感じて、ついにスクリーンを三倍に拡大することに思い至る。
 さらにパートによって立体画面やカラー映像まで考えていたということだから、時代を先取りする前衛もやりすぎはアナクロニズムに、時代錯誤とみなされてしまうということなのだろう。狂気に天才は「呪われた」映像作家になる運命をになうことになるのである。

山田和夫

 「ナポレオン」は6時間に及ぶ超大作で、それでもまだ第一部にすぎなかったので、営業的に成り立たないのは明白でした。(予定では8部作だったといいます)彼が「ヨーロッパのグリフィス」と呼ばれるのは、映像センスとその作品の壮大さであると同時に、その破滅的なまでの才能の暴走のせいだったのかもしれません。

<映画の進化に挑んだ男>
 彼は大作映画を作るだけではなく、映画を進化させるための様々な技術革新にも関わっています。1915年の短編映画「チューブ博士の狂気」では、特殊なレンズを用いて映像をふくらませたり縮めたりする実験を行っていて、彼は「フランス前衛映画の父」とも呼ばれています。
 1926年、彼はワイド・スクリーンの元祖ともいえる「ポリヴィジョン」の特許を取得。1929年には、ステレオの音響システム「システム・ソノラ」でも特許を取得し、1931年にはそのシステム・ソノラを用いた大作映画「世界の終わり」を発表しています。この映画は、天文学者カミーユ・フラマリオンの原作によるSF映画で、彗星の衝突によって人類が滅びるまでの2か月間を描いた作品でした。世界の終末を描いた元祖ともいえる映画といえます。
 その後も、彼は1934年にはオペラでも有名な「椿姫」、1936年にはクラシック界の巨匠を描いた伝記映画「楽聖ベートーヴェン」を発表。
 1980年イギリスの映画史研究家のケヴィン・ブラウンローにより、長年、消失したままだった「ナポレオン」のオリジナル・フィルムが発見されます。そして、翌年にはフランシス・F・コッポラによって、そのフィルムにオーケストラの演奏を加えた形での公開が実現しています。
 長く生きた彼は、その同じ年11月10日、結核によりこの世を去りました。

「映画は光の交響楽である」
アベル・ガンス

<ワイドスクリーン>
 アベル・ガンスの「ナポレオン」を観たフランスの技師アンリ・クレティアンは、三枚のスクリーンを用いた迫力ある映像に感激。しかし、そのシステムは非常に複雑だったため、より簡易的に大きなスクリーンに映し出す方法を模索。そのためのレンズを開発し、横に長い映像を実現します。その「イペルゴナール Hypergonar」を使った初の短編映画「火を起こす」(1928年)がクロード・オータン=ララ監督によって発表されます。しかし、その反響は今一つで、そのまま忘れられた存在となってしまいました。
 1951年、その特許はハリウッドに買い取られます。そして、生まれたのが、「シネマ・スコープ Cinema Scope」です。第一作として、聖書を題材として大作映画「聖衣」(監督はヘンリー・コスタ―)が公開されます。

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