- レーナード・スキナード Lynyrd Skynyrd -

<未だ目に浮かぶライブ>
 人生40年も生きてくると、過去の出来事もずいぶんとあやふやになってきます。同じアルバムを気がつくと二枚買っていたり、白黒映画の「カサブランカ」をカラー作品だと思いこんでいたり、しだいに自分の記憶力が信じられなくなってきます。そんな中でも、特にひどいのは、見ていないはずのライブをすっかり見た気になっていたことです。実は、僕の頭の中には、レーナード・スキナードのコンサートの記憶がしっかりと刻まれていて、「フリー・バード」のギター・ソロが延々と続く様子まで目に浮かぶほどでした。しかし、調べてみたら彼らの来日コンサートの時(1977年1月)、僕はまだ高校生だったのです。小樽に住んでいた高校生が東京で行われていたコンサートを見ているわけがありません。

<あの悲劇の日から>
 でも、未だに僕は彼らの熱い演奏を見た気でいます。たぶんそれは、来日前に発売されていた彼らの素晴らしい二枚組アルバム「ワン・モア・フロム・ザ・ロード」が、あまりに臨場感たっぷりな作品だったせいかもしれません。しかし、僕は理由がもうひとつあると思っています。それは、このアルバムが大のお気に入りだったために何度も何度も聞いたにも関わらず、ある日突然聞かなくなってしまったこと、それも大きな原因のような気がしています。そう、バンドの主要メンバーが、飛行機の墜落事故によって死亡してしまった日からです。

<レーナード・スキナードの誕生>
 レーナード・スキナードは、ヴォーカルのロニー・ヴァン・ザントを中心にして、高校時代の野球仲間たちによって、1964年に結成された、ローカルなアマチュア・バンドでした。バンド名は、長髪が大嫌いで彼らのことをいつもいじめていた高校の体育教師の名前からとられたものだと言われています。(実はこの先生は、このバンドのファンだったという説もあります)なお、その発音については、彼らのファースト・アルバムのジャケットにしっかりと書かれています。
 彼らは地元フロリダ州ジャクソンビルを中心に地道なライブ活動を続け、しだいに地域ナンバー1バンドの地位を築いて行きましたが、全国的に見るとまだまだほとんど無名に近いものでした。ロックが若者たちの間でブームになっていった1960年代後半とはいえ、フロリダはあまりにもその中心地、LA、サンフランシスコ、ニューヨークから遠すぎたのです。そこは、まさに「ロック辺境の地」でした。

<光が当たり始めたサザンロック>
 しかし、1970年代にはいると少しづつロック界の勢力地図は変わってきました。そのきっかけは、同じ南部出身のブルース・ロック・グループ、オールマン・ブラザース・バンドの大活躍です。彼らの登場によって、それまでまったく目が向けられていなかった南部のロックにも、やっと光が当たるようになってきたのです。そのブームは、サザン・ロック・ブームと呼ばれることになるのですが、幸いなことに、彼らはその先駆けとして10年にわたる下積み生活から抜け出すことに成功したのでした。

<時代の寵児、アル・クーパーとの出会い>
 しかし、彼らのメジャー・デビューは、この時代のロックを代表する人物、アル・クーパーとの出会いがなければ実現しなかったかもしれません。元ブルース・プロジェクト、元ブラッド・スウェット&ティアーズであり、マイク・ブルームフィールドとの共演作「フィルモアの奇跡」などでブルース・ロックを代表するアーティストとなっていたアル・クーパーは、光が当たりつつあった南部のロックを代表するバンドのひとつ、アトランタ・リズム・セクションと共演するため、アトランタを訪れました。そして、その地で見た地元のロックバンドのパワーに、かつてのサンフランシスコ周辺のアーティストたちの勢いを感じた彼は、新レーベルを設立し彼らを全米に紹介することを決意したのです。レーベルの名前はサウンド・オブ・ザ・サウス。そして、レーナード・スキナードは、そのレーベルの第二弾として、1973年アルバム「レーナード・スキナード」でデビューを飾りました。(ちなみに、第1弾はモーズ・ジョーンズというバンドでした)

<オールマンに匹敵するバンドへ>
 ファースト・アルバムは、今ひとつヒットしなかったのですが、1974年発表のセカンド・アルバム「セカンド・ヘルピング」からは「スウィート・ホーム・アラバマ」がシングル・カットされ、全米8位のヒットとなります。この曲は、今やロック界の重鎮ニール・ヤング「サザン・マン」という曲に対するお返しの歌として注目を集め、一気に彼らの知名度を上げました。(彼らは、この後「ワーキング・フォー・MCA」という「MCAレコードのために働いてます!」という皮肉を込めた歌も歌っていて、そんな気取りのないアメリカ的な気質もまた好感を呼んだのかもしれません)
 さらに1971年にバイク事故でなくなったオールマン・ブラザース・バンドのギタリスト、デュアン・オールマンを追悼して歌われたデビュー・アルバムの中の名曲「フリー・バード」がライブで歌われる中で、しだいにその話題が高まり、ついにシングル・カット、そしてこの曲もヒットして、いよいよ彼らはオールマン・ブラザース・バンドと並ぶサザンロックの大物バンドとなります。(この「フリー・バード」という名曲が、その後彼ら自身を追悼する曲になってしまうとは…)

<映画「ロンゲスト・ヤード」での出会い>
 
僕が初めて彼らの曲と出会ったのは、アクション映画の巨匠ロバート・アルドリッチの代表作「ロンゲスト・ヤード」のテーマ曲「サタディ・ナイト・スペシャル」(サード・アルバム"Nuthin' Funcy"収録)でした。その映画は、刑務所を舞台に看守チームと囚人チームがアメリカン・フットボール対決をするというストーリーで、主演はバート・レイノルズ、対する適役がエド・ローターという実に男っぽい作品でした。レーナードの男臭く田舎臭いけれども、どこかカラットしたサウンドは、そんなスポーツ根性物にぴったりでした。

<総決算ライブの発表>
 そして1976年、彼らは今までの活動の総決算ともいうべきライブ・アルバム「ワン・モア・フロム・ザ・ロード」を発表します。このアルバムには、これまで彼らが長年の下積み生活の中で育ててきた素晴らしいライブ・パフォーマンスが見事に収められていて、その魅力は、それまでのスタジオ録音アルバムには収め切れていなかったものでした。僕もこのアルバムで彼らの魅力に引き込まれた一人です。いよいよレーナード・スキナードの時代が到来し、サザン・ロックのブームはいよいよ盛り上がろうとしていました。

<ラスト・アルバムの発表と悲劇>
 1977年、彼らは前作のライブ・アルバムでみせた実力をスタジオ・アルバムでも発揮するべく新作「ストリート・サヴァイバー」を発表します。アルバム・ジャケットで燃え上がる街をバックに立つバンドのメンバーたち、もちろんそのジャケットの写真が不吉だと思う人間はいなかったのですが、そのアルバムの発表から3日後、彼らは飛行機の墜落事故に遭遇してしまいます。
 その事故は燃料不足という実にバカげた原因によるものだったのですが、おかげでバンドのヴォーカルであり顔であったロニー・ヴァン・ザントとギターのスティーブ・ゲインズがこの世を去り、バンドは解散へと追い込まれてしまいました。(他のメンバーも大けがを負っています)

<悲しみよりも悔しさが>
 考えてみると、好きなアーティストがこの世を去るというのは、僕にとって、それが初めてのことでした。そのせいか、その時のショックはかなりのものだった気がします。なにせそれまで何回も何回も聞いていたアルバムをピタリと聴かなくなってしまったのです。しかし、その時の感情は「悲しみ」だけではなく、それ以上に「悔しさ」で一杯だった気がします。それは、彼らの死がエルヴィス・プレスリーの死のようにピークを越えてからのものではなく、長い下積みの後にやっとこれから迎えようとしていたピークを目前にした死だったからです。「せっかく、これからだってのに、そりゃないでしょう!」そんな気持ちが、僕を暗くさせたのだと思います。高校時代、僕はやっぱり若かったのです。その悲しみは、後のジョン・レノンボブ・マーレーらの死とは、確かに違っていたかもしれません。
 「フリー・バード」よ永遠に羽ばたけ!

<締めのお言葉>
「もし、僕が明日この場所を立ったら、君は僕のことを覚えてくれるだろうか?」

レイナード・スキナード「フリー・バード」より

<参考資料>
「遺作 -ミュージシャンの死とラスト・アルバム-」浅野純編集(ミュージック・マガジン社)
アルバム「レーナード・スキナード」ライナーなど

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