愛の不毛を生き、映画化し続けたイタリアの巨匠


- ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni -
<男と女の愛の不毛>
 「男と女の愛の不毛を描き続けたイタリアの巨匠」
 イタリアの巨匠ミケランジェロ・アントニオーニといえば、そんなキャッチ・コピーが思い浮かびます。「さすらい」や「情事」は、そんな「愛の不毛」を象徴する作品ですが、見る角度を変えるとそれは、突然消えた愛する人を探す不条理なサスペンス映画でもあります。そう考えると、カメラマンを主人公とした「欲望」(1966年)は、殺人事件あり、ジェフ・ベックとジミー・ページのライブ映像あり、不思議な写真からの謎解きありとエンターテイメントとしても楽しめる作品になっています。
 とはいえ、彼の作品には事件を解決する名探偵が現れるわけではなく、ラストに明解な解決篇が用意されているわけではありません。「え!これで終わり?」となってしまうかもしれません。でも、人生における謎の多くは、死ぬまでその真実はわからないものです。(わからない方がいいかもしれないし・・・)「真実はひとつ!」と「名探偵コナン」のようには行かないものです。
 「なぜ、あの日、あの時、彼女は俺を捨てたのか?」
 そんな疑問を生涯抱え続ける人もいるかもしれません。実は、ミケランジェロ・アントニオーニという映画監督は、そんな愛する人の喪失体験をもとに映画を撮り続けていたようなのです。

 彼は実生活における女へのうらみつらみ、捉えどころのない女というものへのいら立ちの感情などをモチーフとして映画を撮ってきたのである。食事からセックスにいたるまで彼自身の実生活のコマゴマした体験が作品の上に生々しく反映するのは当然のことであろう。
田山力哉

<生い立ち>
 ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni は、1912年9月29日イタリア、中東部ヴェネチアの西に位置するフェラーラに生まれました。子供の頃から建築に興味があった彼は、その後、造形美術にひかれ、その後、映画と出会いました。
 1939年、彼は一度は銀行に就職しますが、すぐに仕事を辞めローマに出ると映画雑誌「チネマ」編集部で働き始めます。その後、映画実験センターに3か月通って、映画の基礎を学び、さっそく短編映画を撮り始めます。
 1942年、彼はロベルト・ロッセリーニの「飛行士還る」で共同脚本の一人に選ばれ、いよいよ本格的に映画界で働き始めます。しかし、1943年第二次世界大戦でイタリアが早々と降伏したためにドイツ軍が侵攻。彼はレジスタンス入りし、ドイツ軍と戦います。
 戦後、再び映画界で働き始めた彼は、1950年自らの脚本を映画化した「愛の殺意(ある愛の記録)」で監督デビューを果たします。この時、彼はすでに38歳になっていました。第二作「敗北者たち」で彼は女性脚本家スーゾ・チェッキ・ダミーコと初めてコンビを組みました。女性脚本家としての繊細な人物描写は、彼の作品に深みを与えてだけでなく、彼には理解困難だった「女の謎」を作品にもたらすことになりました。「椿を持たぬ婦人」、「女ともだち」などの作品は、こうして生まれました。
 アントニオーニは、1943年、マルセル・カルネの作品「悪魔が夜来る」の助監督をした後、2年間付き合ってきたヴェネチア出身のレティチア・バルボニと結婚していましたが、1957年、突然「もうあなたを愛していないの・・・」と言い残して、彼のもとを去って行きました。なぜ、自分は妻に捨てられたのか?浮気もしていないし、暴力をふるったり、酒浸りなわけでもないのに・・・。そのうえ、ちょうど同じ頃、スーゾ・チェッキ・ダミーコもまた彼から離れて行きました。彼は同時に二人の女性に去られてしまったのです。
 そんな割り切れない思いを抱きながら、彼は同じように恋人に逃げられて途方に暮れる男を描いた「さすらい」を撮りました。

「さすらい」(1957年)
(監)(脚)ミケランジェロ・アントニオーニ
(脚)エンニオ・デ・コンチーニ、エリオ・バルトリーニ
(撮)ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
(音)ジョバンニ・フスコ
(出)スティーブ・コクラン、アリダ・ヴァリ、ドリアン・グレイ、ベッツィ・ブレア

 幸いにして、この映画の撮影中、彼は新たな女神と出会います。それは、「情事」、「太陽はひとりぼっち」の主演女優となるモニカ・ヴィッティです。
 当時、モニカは別の男性と婚約中でしたが、彼女に一目ぼれしてしまった彼は彼女に婚約を破棄させ、46歳で2度目の結婚をします。モニカはこの時25歳で、すぐに彼は彼女を主演にした映画「情事」を撮り始めます。しかし、「さすらい」が興業的に失敗したことから、製作費が集まらず、完成に時間がかかってしまいました。

「情事」(1960年)
(監)(脚)(原案)ミケランジェロ・アントニオーニ
(脚)トニーノ・グエッラ、エリオ・バルトリーニ
(撮)アルド・スカヴァルダ
(音)ジョバンニ・フスコ
(出)モニカ・ヴィッティ、ガブリエル・フェルゼッティ、レア・マッセリ

 この映画は、恋人が突然行方不明になった男が、彼女を探す中で、いつしかその女性の親友と恋に落ちて行き、消えた女性の存在が忘れられてゆくという不思議な物語でした。この作品もイタリア国内でヒットせず、評論家からも評価されませんでしたが、フランスではカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞し、興業的にも大ヒットとなります。

「夜」(1962年)
(監)(脚)ミケランジェロ・アントニオーニ
(脚)エンニオ・フライアーノ、トニーノ・グエッラ
(撮)ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
(出)マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モロー、モニカ・ヴィッティ

「太陽はひとりぼっち」(1962年)
(監)(脚)ミケランジェロ・アントニオーニ
(脚)トニーノ・グエッラ、エリオ・バルトリーニ
(撮)ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
(出)アラン・ドロン、モニカ・ヴィッティ、フランシスコ・ラバル

 「夜」はベルリン国際映画祭金熊賞、「太陽はひとりぼっち」はカンヌ国際映画祭審査員賞。映画祭で次々に賞を獲得した上記の3作品は、その後、「愛の不毛」3部作と呼ばれることになります。

「赤い砂漠」(1964年)
(監)(脚)ミケランジェロ・アントニオーニ
(脚)トニーノ・グエッラ
(撮)カルロ・ディ・パルマ
(音)ジョバンニ・フスコ
(出)モニカ・ヴィッティ、リチャード・ハリス、カルロ・キオネッティ
 ヴェネチア国際映画祭金獅子賞、国際批評家連盟賞
 この映画でも主演しているモニカ・ヴィッティへのアントニオーニの思いはつのりますが、当のモニカの気持ちはもう冷め始めていましや。そしてのこの作品以後、彼女は彼から逃げるように他の監督の作品に出演するようになります。
 アントニオーニは、失意の中、イギリスに渡り、ヴァネッサ・レッドグレープを主演に迎え、新たな喪失の映画「欲望」を撮ります。ここから70年代いっぱい彼はイタリアを離れて仕事をすることになります。

「欲望」(1966年)
(監)(脚)ミケランジェロ・アントニオーニ
(製)カルロ・ポンティ
(原)ジュリオ・コルタザール
(脚)トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド
(撮)カルロ・ディ・パルマ
(音)ハービー・ハンコック
(出)デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレープ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン
 カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞
<あらすじ>
 主人公トーマスはプロのカメラマン。ある日」、彼はロンドンの公園で偶然一組のカップルを撮影します。ところが、カップルの女性が彼が写真を撮られたことに気がつき、そのフィルムを渡すよう要求。彼は一度はその場から逃げますが、彼女がスタジオに再び現れ、再びフィルムを返すよう求めたため、偽のフィルムを渡して帰します。その後、彼がそのフィルムを現像してみると、そこには銃を持つ人物と撃たれた男の姿が写っていました。

 この作品でアントニオーニは、当時、世界の音楽シーンに一大旋風を巻き起こしつつあったロンドンのロックのロックシーンに潜入。ロンドンの西にあったクラブ「リッキー・ティック」でのライブをフィルムに収めて、映画の背景に使用しています。若き日のジェフ・ベックとジミー・ペイジがツイン・ツインギターで同じステージに立ったこの映画での「ストール・オン」は、シングル化されている「幻の十年」と共に非常に貴重な録音のようです。
 ただし、音楽の担当はなんとジャズ界の大御所ハービー・ハンコックでした。(もちろん当時はまだ十分に若手でしたが・・・)

「砂丘」(1970年)
(監)(脚)ミケランジェロ・アントニオーニ
(製)カルロ・ポンティ
(脚)トニーノ・グエッラ、サム・シェパード、フレッド・ガードナー
(撮)アルフィオ・コンチーニ
(音)ピンク・フロイド
(出)マーク・フレチェット、ダリア・ハルプリン、ロッド・テイラー、ポール・フィックス、ハリソン・フォード
 この作品で、アントニオーニは舞台をヨーロッパからアメリカへと移します。道端で見つけたまったくの素人を主人公に配して、南カリフォルニアの砂漠を背景に撮られたこの作品は、当時、ピークを迎えていたサイケデリック・ムーブメントの影響を取り込んだ作品でもありました。この映画におけるピンク・フロイドのプログレッシブ・ロックと前衛的な爆発映像は、この時代を象徴するものでした。これまで理解不能な女性たちとの「愛の不毛」を描き続けてきたアントニオーニは、ここにきて「現代文化の不毛」をアメリカという現代文明を象徴する社会を背景に描いてみせたのです。
 さらに彼はこの後、舞台を中国に移します。1972年、当時中国トップに君臨していた江青女史からの依頼を受け、文化大革命が進む中国の姿をドキュメンタリー映像に収めることになったのです。それは、アメリカの対極に位置するもうひとつの現代社会、共産圏のリアルな映像を収めるチャンスでした。しかし、こうして完成したドキュメンタリー映画「中国」は、中国政府の意図に反するものになったため、長い間未公開のままになります。
 「愛の不毛」を描く監督というイメージが強いアントニオーニですが、時代の先端、社会のリアルを映像に収めようとした「社会の不毛」を描く監督だったともいえそうです。

 1974年、彼はアメリカに戻ると、ジャック・ニコルソン、マリア・シュナイダー主演の「さすらいの二人」を撮りますが、その後、長い沈黙が続きます。1982年「ある女の存在証明」で復帰を果たし、カンヌ国際映画祭で35周年記念賞を獲得、その存在感を示しますが、1985年に脳卒中で倒れてしまいます。
 長い治療とリハビリの後、1995年、彼は共同監督となったヴィム・ヴェンダースと共に、4つのエピソードからなる映画「愛のめぐりあい」を完成させます。マルチェロ・マストロヤンニ、ジョン・マルコビッチ、ソフィー・マルソー、ピーター・ウェラー、ジャン・レノなど世界各国の名優たちが出演したこの作品はヴェネチア国際映画祭で国際批評家連盟賞を獲得し、彼の人気の高さを証明しました。年齢的にも厳しくなってきたものの、彼はその後も映画作りに向かいます。そして、2004年には自ら監督した短編映画を含めたオムニバス映画「愛の神、エロス」を完成させます。(他の2本の監督はウォン・カーウェイとスティーブン・ソダ―バーグ)そして、それから3年後、2007年7月30日92歳まで彼は生き、この世を去りました。それはまさに映画と共に生きた生涯でした。

「私の仕事は映画の演出だが、それは”生きる”ことと同義である。私はそれに自分と共通したところのある人たちと、一緒に、さまざまな経験をするのだ」
ミケランジェロ・アントニオーニ

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