- マーチン・ルーサー・キング牧師 Martin Luther King Jr.-

<吹き荒れる逆風>
 モントゴメリー・バス・ボイコット運動での勝利により、キング牧師の名前は全米に知れわたりました。そのため、1957年に結成された南部キリスト教指導者会議(SCLC)は、当然のごとくキング牧師を議長に選出しました。その後、全米各地で行われた講演会での彼の人気はすさまじいものがありましたが、人種差別の問題が彼の活躍により解決されたわけではなく、逆に各地でその反動が起きていました。
 例えば、この年9月アーカンソー州のリトル・ロックで起きた暴動事件。この事件は高校における人種共学の実現を阻止しようとする白人差別主義者からの反撃でした。
 さらに彼は有名になったがゆえに暴漢(黒人女性)にナイフで刺されるという事件も起きました。危うく死ぬところだった彼は回復後、彼にとってイエス・キリストに次ぐ重要な存在だったマハトマ・ガンジーの故国インドを訪問。ガンジーの足跡をたどりながら未だカースト制が残るインドにおける差別の現状を見ることで気合いを入れ直しアメリカへと戻りました。

<シット・イン Sit In>
 1960年、あまりの忙しさに教会の牧師としての仕事ができなくなったため、彼は父親が牧師を勤めるアトランタのエベネザー教会にもどり、副牧師として再び活動に専念することになりました。そして、ちょうどこの頃、アメリカ南部の各地では「シット・イン Sit In」と呼ばれる新しい人種差別撤廃運動が拡がりをみせ始めていました。
 「シット・イン」とは、人種差別を行っているレストランで黒人が白人専用席に座って食事を注文、それが出てくるまで座り続けるというものです。この運動は学生たちを中心に全米に拡がり、そこには白人学生も参加するようになっていました。アトランタでもこの運動が行われることになり、キング牧師も参加することになりました。
 しかし、この運動に対し警察は不法占拠という罪状を持ち出し参加者を逮捕し始めます。なおかつ、キング牧師に対しては運転免許の期限切れによる保護観察処分中の犯罪として、6ヶ月間の重労働という実刑が下されました。このままでは刑務所内で暴行を受け殺される可能性もあると、周囲の人々は衝撃を受けました。そんな危険な状況から彼を救い出してくれたのは、意外なことに白人の政治家でした。
 当時、上院議員として頭角を現し始めていたジョン・F・ケネディが市長や裁判所に働きかけ、キング牧師を留置場から救い出してくれたのでした。この後すぐにケネディは民主党から大統領選に出馬。この時の行為が黒人層に好影響を与えたことで、大きく票をのばし見事に当選します。

<フリーダム・ライド Freedom Ride>
 モントゴメリーでローザ・パークスが始めた運動は、バス内で座席を人種によって区分けすることを止めさせることに成功しました。しかし、それがすぐに全国に広がったわけではありませんでした。そこで学生たちを中心とする公民権運動組織SNCC(学生非暴力調整委員会)は全米各地のバスを乗り継ぎながら、その現状を改善するためのデモンストレーション「フリーダム・ライド Freedom Ride」を実施します。
 この運動にも協力していたキング牧師は、ジョージア州オルバニーの街を訪れ、街の古い体制と対決します。しかし、この街の警察はモントゴメリーやリトル・ロックでの黒人たちの勝利が警察側の暴力よるものであったことを知っており、同じ過ちを繰り返さぬよう巧みな戦術を展開しました。
 彼らは黒人たちのデモに対していっさい圧力を加えず、デモ行進に随行することによりまるで自分たちも味方であるかのような態度で対応してみせたのです。これではマスコミも取材してくれず、運動はまったく盛り上がりをみせなくなります。非暴力に対する非暴力の対応、これはキング牧師が出会った新たな困難でした。このオルバニーでの敗北は、キング牧師以上に学生たちに大きな影響を与えることになります。彼らの一部に非暴力の限界を意識し、逆に暴力の必要性を考える動きが現れ始めたのです。

<バーミングハムでの勝利>
 オルバニーでの闘いは敗北に終わったものの、キング牧師にはもう後戻りも、悩んでいる暇もありませんでした。1963年4月、キング牧師は人種隔離政策で悪名高い街アラバマ州バーミングハムでのデモに参加します。ありがたいことに、この街の警察署長ユージン・コナーはオルバニー警察のようにずる賢いやり方をとらず、キング牧師を含むデモ隊メンバーを次々に逮捕、拘留するという作戦をとりました。(彼のあだ名は「ブル・コナー」と言いました)
 するとキング牧師は獄中から力強い声明文を発表、その影響で運動は大きな盛り上がりを見せ始めます。
「自由への大きな一歩を踏み出すのに、ニグロにとっての大きな躓きの石となっているのは、・・・正義よりも<秩序>の維持に執心している穏健派の白人である。このような人物たちは、黒人を子供とみなし、家父長主義的に、人が自由を獲得するまでのタイムテーブルを定めるのは自分たちの役割だと勝手に思いこんでいるのだ。・・・」
「バーミングハム監獄からの手紙」より

 デモ隊への参加人数はさらに増え、ついには小学生たちまでもが参加するようになりますが、それに対して警察は高圧ホースによる放水で対抗。小さな子供たちに警官たちが水をあびせ、吹き飛ばすシーンがニュース映像として全米に放映されると再び世論は無策な政府に対し批判を浴びせるようになりました。さらにはキング牧師が宿泊していたホテルの部屋がKKKのメンバーによって爆破される事件が起きると、いよいよ事態は悪化。街は暴動一歩手前の状況となります。
 ここまできてついに政府も重い腰を上げざるをえなくなります。ついにケネディ大統領は連邦軍を出動させ、街の治安維持に乗り出します。そして、5月20日連邦最高裁はバーミングハムの人種隔離法に違憲の判断を下します。(この裁定の速さはさすがアメリカです)こうして、キング牧師の非暴力闘争は再び輝きを見せ始めました。

<ワシントン大行進>
 バーミングハムでの勝利を受け、いよいよ人種差別撤廃に向けた運動は全国で盛り上がりをみせ始めます。それに対して6月13日、ケネディ大統領は人種隔離政策を廃止させるための新たな法律、公民権法を議会に提出することを宣言します。
 そして、この政府の動きを後押しするべくワシントンで自由と正義の実現を求める集会が計画されます。こうして、歴史に名高い「ワシントン大行進」が8月28日首都ワシントンで行われ、計画の倍以上にのぼる25万人もの人々を集めることになりました。
 この時、会場となったリンカーン・メモリアルパークに集まった人々に対して行われたキング牧師の演説は、まさにこの運動が到達した最も幸福な瞬間だったと言えるでしょう。(この時の有名な演説「I Have A Dream・・・」については、別ページ「約束の地への道を示した伝道者」をご覧下さい)

<公民権法の成立>
 素晴らしい盛り上がりをみせた運動は、その後に起きる数々の事件によって、それまで以上に前進と後退を繰り返すようになってゆきます。
 1963年11月22日公民権法を成立させようとしていたケネディが暗殺されます。これによりベトナム戦争の終わりは遠のき、公民権法の成立も送れましたが、ケネディの後を継いだリンドン・B・ジョンソンは翌年7月2日についにこの法律を成立させました。
 ところが、法律が変わってもそう簡単に人の心までもが変わるわけではありませんでした。それどころか、かえって人種間の緊張は高まることになります。
 この年、キング牧師はノーベル平和賞を受賞。彼の非暴力闘争は世界に認められましたが、そのことで現状が改善されたわけではありませんでした。それどころか、彼がアメリカに戻るとすぐ逮捕されてしまいます。その容疑はアラバマ州セルマにおいて無許可のデモを行おうとした行為でした。それに対し、彼は釈放後セルマから州都のモントゴメリーまでのデモ行進を行うと宣言します。
 その間にも黒人青年が警官に射殺されたり、白人の牧師がKKKによって殺されるなどの事件が続発。さらには警官隊によってデモ隊が暴行を加えられ、けが人が多数でるなど、厳しい状況が続きました。それでもデモ隊は行進を続け、5日間かけて無事モントゴメリーの街に到着しました。この行進の途中、ジョンソン大統領は黒人の有権者登録が進むよう公民権運動を改正することを約束しました。
 しかし、この運動の成功も束の間でした。もはや時代の流れは加速度的になり、次々と悲劇的な事件が起こります。

<ワッツ暴動>
 1965年8月11日ロサンゼルスのワッツ地区で大きな人種暴動が起き、34名の死者を出してしまいます。ゲットーと呼ばれる都市部のこうした区域は、南部のように人種隔離は行われていませんでしたが、逆に黒人コミュニティーは白人コミュニティーと自然に分離。仕事や教育環境の面で南部よりも人種間格差が広がっていました。ワッツでの暴動はそうした不満が行き場を失い、ついに暴力という形で吹き出したものでした。キング牧師が世界に広めたはずの非暴力の闘いはあっさりと同朋によって裏切られてしまったのです。しかし、悲劇はさらに続きました。
 1966年6月6日、公民権運動家としてキング牧師に次ぐ重要人物と言われた人物、ジェームス・メレディスが白人によって銃撃され死亡してしまったのです。
 彼はテネシー州のメンフィスからミシシッピー州のジャクソンまで340キロをたったひとりで歩くという「恐怖に対抗する行進」を始めたばかりでした。

<ブラック・パワー宣言>
 次々に起きる悲惨な事件によって、それまで一枚岩だった黒人解放運動参加者はしだいに分裂し始めます。特にSNCCの代表者だったストークリー・カーマイケルは、それまでの非暴力闘争は限界に達したとして、暴力を容認する方向性を打ち出します。こうして発せられた「ブラック・パワー宣言」に呼応するようにして、暴力によって警察権力に対抗するための組織「ブラック・パンサー党」がカリフォルニア州オークランドで結成されました。彼らの行動によって、それまでキング牧師が築いてきた非暴力による改革路線は大きな分裂の危機にさらされることになります。
 しかし、皮肉なことに、その後さらなる分裂をもたらしたのは、キング牧師自身の行った重要な選択によるものでした。

<ベトナム反戦運動への参加>
 1967年4月4日、ニューヨークのリヴァーサイド教会での演説で、彼はこう発言しました。
「今日の世界に存在する国々の中で戦争からもっとも利益をあげている腹黒い国の行いを最初に明白な言葉で非難することを避けておきながら、抑圧されてきたものたちの暴力的行為だけを非難することはわたしにはできません」

 キング牧師は、それまではっきりとした意思表示をしていなかったベトナム戦争に対し、あえて反戦の立場を表明したのです。そして、そのことが黒人たちの運動体のさらなる分裂の原因となります。それはなぜか?
 黒人たちは、それまでアメリカが行ってきた戦争において、常に積極的に協力する立場をとってきました。それは自分たちがアメリカという国家を支持し、国民としての義務をしっかりと果たすという意志を表示することで、初めて平等を要求する権利が生まれると考えていたからです。
 その点、ベトナム反戦を訴えることは、自らが共産主義者であり反米主義者であるという意思表示をしているととられかねません。だからこそ、長い間キング牧師を含め黒人運動家たちはみな、ベトナム反戦運動についてのコメントを避け続けていたのです。
 しかし、ベトナム戦争にかける多額の国家予算によって、アメリカ経済は年々圧迫され、その影響が貧しい人々、特に黒人たちの職を奪うことになっているのは明らかでした。そのうえ、ベトナムでその最前線に立ち、犠牲となっている兵士の多くは貧しいがゆえに戦場に向かわざるを得なかった黒人たちでした。(1960年代に徴兵された人数は、黒人の場合が30%で白人は18%にすぎませんでした)

<果たせなかった事>
 キング牧師はこうした社会の現状を明らかにし、人々に訴えるには今までのように黒人たちだけの運動では不十分だと考えるようになります。こうして、彼が考えた新しい運動、それは黒人だけでなくアメリカ先住民、メキシコ系、プエルトリコ系、そしてプア・ホワイトと呼ばれる白人低所得者層が一体となって再びワシントンへ行進しようというものでした。
 「貧者の行進」と呼ばれたこのデモは1968年の実施に向けて、準備が進められましたが、残念ながら実現せずに終わってしまいました。この年の4月4日「貧者の行進」の前に行うことになっていたデモに参加するためメンフィスを訪れていたキング牧師は宿泊していたホテルのバルコニーで何者かに撃たれ命を落としてしまったのです。享年39歳。まさに早すぎる死でした。
 ケネディ大統領が暗殺された日、彼は妻のコレッタに「私が40歳まで生きなれないだろうな」ともらしていたそうです。
 「貧者の行進」以外にも、彼が惜しくも果たせなかったことがあります。それはライバルでもあったもうひとりの黒人運動の指導者マルコムXとの共闘です。
 セルマでキング牧師が獄中にいる中、SNCCに招かれて同じ街でマルコムXが演説を行っていました。この時彼はNOI(ネーションズ・オブ・イスラム)から離れ、聖地メッカへの巡礼を終えた後でした。かつて、自らが主張した暴力による変革は誤りであったと、考えを変えつつあった彼はキング牧師との共闘が可能であると考えていました。しかし、この計画もまたキング牧師の暗殺により夢と消え、マルコム自身もキング牧師と同じ39歳の若さで暗殺されることになるのです。

<キング牧師の偉大さ>
 キング牧師の偉大さはガンジーから教えられた非暴力の闘争を最後まで貫き通したことにあります。しかし、彼自身もまた現状を変えるための運動だけでなく、未来を見すえた新しい運動を提案することで、その後多くの人々に影響を与えました。 
 人種差別が公民権の成立によって、表面上社会から消えたとしても、人々の心から「差別」という言葉が消えない限り、問題はけっして解決しないということ。
 さらに、差別の問題は黒人だけの問題だけでなく、メキシコ系、プエルトリコ系など、すべてのマイノリティーに当てはまるということ。
 さらに、マイノリティーとは民族的なものだけではなく、女性や障害者、同性愛者、貧困層など、今まで無視されてきた弱者のことでもあるということ。
 そして、ベトナム戦争により疲弊するアメリカの社会は、そのツケをマイノリティーに負わせているという事実。
 そのうえ、この傾向は今後益々エスカレートすることが予想され、アメリカ社会においては人種だけでなく経済的な公平性を確立することこそ、本当の意味での自由と平等の実現につながる。そう彼は主張していたのです。
 残念ながら、彼のそうした考え方は、その後ほとんどいかされることはありませんでした。そして、彼の予想通りその後アメリカ社会から表面上人種差別は消えましたが、逆に人種間の経済格差は増大。1992年にワッツ暴動よりも大きな被害をもたらしたロサンゼルス暴動が起きたのも、問題がより深刻化していることの証明と言えるでしょう。
 かつて差別されていた黒人層にも今やスポーツ選手やミュージシャンなど、富を持つものが少なからず現れ、そのためかつてのような民族としての一致団結した運動が困難になってきています。
 21世紀、状況はより複雑化し、多くの人々の心をひとつにすることは、益々難しくなっています。だからこそ、自由と平等を勝ち取る運動の原点にすべての人が立ち戻ることが必要だと僕は思うのですが、・・・。

<締めのお言葉>
「やっと自由に、自由になれました。全能なる神に感謝します。やっと自由になれました!」

キング牧師「ワシントン大行進でのスピーチ」より

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