挑戦を続ける映画音楽界のスーパースター


- ミシェル・ルグラン Michel Legrand -

「シェルブールの雨傘」

<映画音楽界のスーパースター>
「僕の音楽に決まったスタイルはない。自分がやることをひとつに絞るのではなく、常に新しいものを求めてゆくのが信条だ。今日はジャズ、明日はバッハを演奏する毎日でありたい」
ミシェル・ルグラン

 フランスが生んだ偉大な作曲家ミシェル・ルグランは、映画音楽の分野での活躍が一般的に知られていますが、ジャズの分野での活躍もアルバム「ルグラン・ジャズ」によってジャズの歴史に刻まれています。彼自身、型にはまることを嫌い自由に生きたアーティストでした。
 時に彼の音楽の役割は、「シェルブールの雨傘」のような作品において、ある意味監督以上の重要な役割を果たしていました。彼のように作曲家が映画の顔になるようなスター的存在になることは、最近ではほとんどありません。監督の名前(ジャック・ドゥミ)は忘れても、作曲家のミシェル・ルグランの名前は絶対に忘れられないはずです。そんな映画音楽界のカリスマ・スターについて、調べてみました。

<天才少年誕生>
 ミシェル・ルグラン Michel Legrand は、1932年2月24日パリに生まれました。父親のレイモン・ルグランは、シャンソン、ムード音楽などを演奏する楽団の指揮者で作曲・編曲家でもあり、映画音楽の作曲もしていました。(「裁きは終わりぬ」、「女性の敵」など)さらにフランスにジャズを紹介した人物としても、彼の父親は知られていました。母親は楽譜出版社を経営し、弟のジャック・エリアンは楽団の指揮者、姉のクリスチャンヌは歌手という音楽一家の一員でした。しかし、そんな中でも彼の才能はずば抜けていたようです。
 2歳の時、教会で演奏されていたバッハの曲のヴァイオリン・ソロに感動。
 3歳の時、帰宅の遅い母親を待ちながらオモチャのピアノを弾き始め、ラジオから聞えるシャンソンのコードを再現し始めました。その後、ラジオから聞えるジャズに魅了されるようになり、ステファン・グラッペリのヴァイオリンは特にお気に入りでした。(後に彼はこのグラッペリと共演することになります)
 4歳の時、祖母に連れられて見た音楽家の伝記映画に感動し、映画音楽の作曲家になることを夢見るようになります。以外に早くその夢はかないます。10代の頃から、彼は父親の仕事を手伝うことで映画音楽とかかわることになります。
 11歳の時、飛び級でパリのコンセルヴァトワールに入学。
 12歳の時、上級リルフェージュ第一位を獲得し、20歳で通常より4年も早く卒業。まさに神童でした。
 1953年21才の若さでデイジー・ガレスピーのジャズ・オーケストラの指揮・編曲を任されて、話題となります。(当初は、コロンビア・レコードのイージー・リスニングの作曲を手がけ、それがアメリカで話題となり、渡米するチャンスを得ることになったようです)
 アメリカで彼は作曲や編曲をしながらジャズと関わるようになり、独自のジャズ・アルバムを制作するチャンスを得ます。こうして生まれたのが、ジャズ史に残る名盤と言われるアルバム「ルグラン・ジャズ」(1958年)です。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンなどそうそうたるメンバーがもったいないほどそろったにもかかわらず、どのアーティストの色でもなくミシェル・ルグランの色に染まったジャズの名曲集は、ジャズ初心者の入門編としても最高の作品です。「ジャズこそが20世紀の音楽」と語っていた彼にとって、「ルグラン・ジャズ」は夢の実現でした。そして、次なる彼の夢の実現が、あの映画史に残るミュージカル映画「シェルブールの雨傘」での作曲でした。これで、映画音楽の作曲家になるという少年時代の夢が実現することになります。
「シェルブールの雨傘」 1963年
(監)(脚)ジャック・ドゥミ
(製)マグ・ボダール
(撮)ジャン・ラビエ
(音)ミシェル・ルグラン
(詞)ノーマン・ギンベル
(出)カトリーヌ・ドヌーヴ、ニーノ・カステルヌオーヴォ、マルク・ミシェル、エレン・ファルナー、アンヌ・ヴェルノン
 日本を代表する作曲家の久石譲は、音楽と映像がお互いを支え合う対等な存在を目指すことが理想と語っていましたが、映画作家とはあくまでも映画監督のことです。しかし、その例外がごくごくたまに出現します。例えば、「エデンの東」におけるジェームス・ディーン、「タクシー・ドライバー」におけるロバート・デニーロ、「ウエストサイド・ストーリー」におけるレナード・バーンスタイン、ジェローム・ロビンスなどがいます。そして、この作品におけるミシェル・ルグランの存在もまたそれに匹敵するほど重要な存在です。
 すべての台詞をメロディに乗せて歌うという究極のミュージカル映画を成功させた最大の功労者は、監督よりも作曲家ミシェル・ルグランの才能によるものだったと思います。1時間半にわたり音楽が絶えないのですから、作曲家の仕事は大変な分量になります。
「ミシェル・ルグランは作曲家ではなく、音楽の湧き出る泉だ」と言ったのは監督のジャック・ドゥミでした。
 確かにこれぐらいの勢いでメロディーを生み出さなければ、映画を完成させることはできなかったでしょう。そして、その結果この作品はカンヌ国際映画祭で見事にパルムドールを受賞しました。さらにこの映画の主題歌「I Will Want for You」は、映画訳されてカバー曲が世界中で大ヒットし、スタンダード・ナンバーとなりました。
 音楽以外の美術、色使い、衣装、撮影、どれもフランスらしいセンスが生かされ実にお洒落です。まったく古さを感じさせない作品です。
 ただし、最近この映画を見直して思ったのは、主人公が婚約者をあまりにあっさりと忘れてしまうのに少々驚かされました。「戦争によって引き裂かれた悲劇の恋の物語」だという印象だったのが、実は金に目がくらんだ女性が賢く立ち回っただけのようにも見えてしまうのです。なんだかなあ? 

「ロシュフォールの恋人たち」 1966年
(監)(脚)ジャック・ドゥミ
(製)マグ・ボダール
(撮)ギスラン・クロケ
(音)ミシェル・ルグラン
(出)フランソワーズ・ドルレアック、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジーン・ケリー、ジョージ・チャキリス、ダニエル・ダリュー、ジャック・ペラン、ミシェル・ピッコリ、グローヴァー・デイル

 「シェルブールの雨傘」のコンビは、その世界的な大成功の勢いに乗り、さらなるミュージカル大作に挑みます。そのために、アメリカから「雨に唄えば」で有名なミュージカルの大御所ジーン・ケリーと「ウエストサイド・ストーリー」で一躍世界的なスターの仲間入りを果たした当時の人気ナンバー1俳優、ジョージ・チャキリスを招き、フランス南西部のロシュフォールの街全体を舞台にしたミュージカル映画を撮影します。
 チャキリスのキレキレのダンスとジーン・ケリーの王道スタイルのダンスが、ミシェル・ルグランの歌と融合し、より贅沢な作品となりました。物語はよくあるすれ違いと偶然の出会いが交錯するラブ・ストーリーの王道で、それほど深い内容ではないのですが・・・。衣装も美術もダンスも見ごたえがあり、今見ても十分に楽しめる作品です。

<その他の代表作品>
「アメリカの裏窓」(1958年)、「女と男のいる舗道」(1962年)、「タヒチの男」(1966年)
「華麗なる賭け」(1968年)(スティーブ・マックウィーン、フェイ・ダナウェイ主演のこの作品の主題歌「風のささやき」も多くのアーティストがカバーし、世界的な大ヒットとなりました)
「太陽が知っている」(1968年)、「大反撃」(1969年)、「嵐が丘」(1970年)、「ロバと王女」(1970年)、「栄光のル・マン」(1970年)、「おもいでの夏」(1971年)、「水の中の小さな太陽」(1971年)、「ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実」(1972年)、「モン・パ」(1973年)、「オーソン・ウェルズのフェイク」(1975年)、「うず潮」(1975年),[真夜中の向こう側」(1977年)、「火の鳥」(1978年)、「ベルサイユのばら」(1979年)、「アトランティック・シティ」(1980年)、「愛と哀しみのボレロ」(1981年)、「ネバーセイ・ネバー・アゲイン」(1982年)、「愛のイエントル」(1983年)、「ディンゴ」(1991年)、「リュミエールの子供たち」(1995年)、「レ・ミゼラブル」(1995年)、「ブッシュ・ド・ノエル」(1999年)、「100歳の少年と12通の手紙」(2009年)、「チャップリンからの贈り物」(2014年)

 1980年代以降、彼の活躍の舞台は映画よりもオペラやクラシックなど新たな方向へと向かうようになりました。やはり彼は常に新しいものに挑戦したいタイプのようです。

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