- ミッシェル・ポルナレフ Michel Polnareff -

<永遠のフレンチ・ポップス、ミッシェル・ポルナレフ>
 1960年代後半、ロックをその象徴とする激動の時代は世界中に拡がりをみせていました。他の国の文化の影響を受けにくいとされる頑固なフランスもその例外ではありませんでした。従来のシャンソン(元々「シャンソン」とは歌のことであり、音楽のスタイルを表す言葉とは言い難いのです・・・)とは、まったく異なるロック的なサウンドが現れつつありました。その中でも、ミッシェル・ポルナレフのサウンドは、けっして欧米のロックのモノマネではなく、あくまでフランス的、ヨーロッパ的な感性をロックに持ち込んだ独特のものでした。その美しさは、フランス映画のワンシーンのように静かな情緒をたたえ、時代を越える普遍性を兼ね備えていました。だからこそ、未だに彼のサウンドは、CMの音楽などで繰り替えし登場しているのです。

<天才ピアニスト>
 1944年7月3日、第二次世界大戦の戦火を逃れ南仏の田舎町ネイラに疎開していた両親の元でポルナレフは生まれました。彼の父親は有名な音楽家で、彼は5才の時からピアノを習い始め、パリのコンセルバトワール(パリ音楽院)に入学、天才ピアニストとして、将来はコンサート・ピアニストになるべく音楽づけの毎日を送っていました。
 しかし、そんな押しつけられた生活に嫌気がさし、ジャズやロックなどアメリカの音楽にひかれ始めていた彼は、しだいにピアニストになることを拒否するようになり、兵役から開放されてからは銀行員や保険のセールスマンなど、職を転々と変え、ついには家を出てしまいました。

<ボヘミアン人生の始まり>
 こうして、モンマルトルの丘にあるパリの街を見下ろす寺院の階段で、彼はストリート・ミュージシャンとしての生活を開始しました。それは、まったくの無一文からのスタートでした。この当時の彼のアイドルは、エルヴィス・プレスリーポール・アンカプラターズなどアメリカのロックン・ロールのアーティストたちでした。彼はギター一本を手にアメリカのフォーク・ソングを英語で歌いながら、フランス各地を放浪し、その後英語圏でのデビューを目指してイギリスに渡ります。

<デビュー、若者たちのアイドルへ>
 しかし、ロンドンにおけるミュージック・ビジネスの金もうけ主義に幻滅した彼は、結局パリに戻ります。しかし、そこで彼は、見事レコード・デビューのチャンスをつかみます。残念ながら、英語の歌詞によるデビューは、レコード会社に拒否されてしまいましたが、そのデビュー曲「ノンノン人形」(1966年)は、フランス国内で大ヒットを記録。そのフォーク・ロック的なサウンドは海外でも評価され、「花のサンフランシスコ」で有名なスコット・マッケンジーが同曲をカバー、ファースト・アルバムに入れたほどでした。さらにこの年、彼はアンティーブ音楽祭において「愛の願い」で評論家賞を受賞。ファースト・アルバム「愛と青春のトルバドール、ミッシェル・ポルナレフ1」を発売します。
 さらに彼の発表したシングル「君との愛のすべて」が性表現の露骨さから発売禁止になるにいたり、その人気はいよいよ若者たちの間で絶大なものとなって行きました。

<世界的ブレークと放浪の旅>
 1968年になると、彼の曲「バラ色の心」がレーモン・ルフェーブル・オーケストラのインストロメンタル・カバーでアメリカを中心に大ヒット。1969年には、彼の日本でのデビュー曲となった軽快なロック・ナンバー「シェリーに口づけ」が発売され、いよいよ世界的な活躍が始まります。
 さらに、彼は自らの音楽活動以外に舞台劇の音楽にも進出、翌年にはカトリーヌ・ドヌーブとマルチェロ・マストロヤンニが共演した話題の映画「哀しみの終わるとき」の音楽も担当します。ところが、この時点で彼は音楽活動を突然休止し、半年近くの間、モロッコやギリシャへの放浪の旅に出かけます。

<モロッコ、ギリシャとミュージシャン>
 ところで、この当時のミュージシャンは、モロッコが大好きでした。ストーンズツェッペリンなどは休みといえばモロッコに出かけていたようだし、モロッコでのエネルギーとアイデアの充電によって、新しいサウンドが数多く生み出されていました。実際、ポルナレフもギリシャなどエーゲ海沿岸の民族音楽を自らの音楽に活かしていた。(モロッコは、インドとバリ島とならぶヒッピー三大聖地のひとつでした)

<絶頂期へ>
 長い旅を終えて、1971年彼はアルバム「ポルナレフの世界/ミッシェル・ポルナレフ3」を発表し、見事な復活をとげます。このアルバムからは、「愛のコレクション」、「愛の物語」がシングルとして大ヒット。1972年には、「愛の休日」そして、ロック・ナンバー「僕はロックン・ローラー」が大ヒットし、その勢いは最高潮に達しました。

<突然のアメリカ移住>
 そして、彼は突然アメリカへの移住を発表します。アメリカのサウンドへの憧れからスタートした彼の音楽活動にとって、アメリカでの成功は最大の夢であり、最終目標でもあったのです。
 こうして、彼は念願のアメリカ進出を果たしましたが、残念ながら憧れの地での成功は得られず、彼の名はいつしか過去のものになってしまいました。(彼の生み出した独特のサウンドはフランスという国の文化とアメリカのロックとの微妙なバランスで生み出されたものであり、彼がアメリカで英語で歌ってしまったなら、その魅力は半減してしまうのは明らかだったと思うのですが・・・)だからと言って、彼が不幸になったとは言えませんが、彼が長年憧れ続けたアメリカの西海岸に、彼の探していた「自由の世界」はあったのでしょうか?僕はそっちの方が気になります。

<サングラス>
 ミッシェル・ポルナレフと言えば、なんと言っても、あの独特のミラー・サングラスを忘れるわけにはゆきません。世界のポピュラー音楽界における三大サングラス男と言えば、エルトン・ジョン井上陽水、そしてミッシェル・ポルナレフというのは常識です?そして、この三人に共通していることがあります。それは、三人ともサングラスを取ると目が実に愛くるしいということです。特に、ポルナレフは、まるで女の子のようなつぶらな瞳で、まつげもやたら長いのです。これは、ある意味ロック・ミュージシャンとしては、致命的な欠陥だったのかもしれません。(本人は否定していますが、そうでなくても、彼は当時ゲイであると言われていました)彼がサングラスを必要としたのは、しかたがなかったのかもしれません。「目は口ほどにものを言う」とは、よく言ったものです。

<締めのお言葉>
「君の笑顔は素敵だ。目で微笑んでいる」
「皆そうでしょ」
「いや、たいていは唇で笑うのさ。そんなのはくだらない」

映画「ガラスの動物園」より

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