- マジック・サム Magic Sam -

<伝説一歩手前の悲劇>
 若くして死を迎え、伝説となったアーティストは、数多くいますが、伝説となることもなく無名のままこの世を去ったアーティストは、その何倍もいるに違い有りません。ここで取り上げるマジック・サムは、もちろんそんな無名のアーティストではありません。しかし、ジミ・ヘンジャニスマーク・ボランボブ・マーリーのように永遠に語り継がれる伝説を築き上げる一歩手前でこの世を去ったという点で、彼ほど不幸なアーティストも、珍しいはずです。

<ブルースとの出会い>
 マジック・サムことサムエル・G・マゲット Samuel G Maghettは、1937年2月14日ミシシッピー州のグレナダに生まれました。(生年については、1934年とか1936年とかいろいろの説がありますが、シカゴにある墓地には1936年と書かれています)
 1950年に彼はシカゴに移住し、そこで本格的なブルースと出会います。マディー・ウォーターズハウリン・ウルフエルモア・ジェイムスサニーボーイ・ウィリアムソンUなど、彼と同じようにミシシッピーから北上してきた南部の泥臭いデルタ・ブルースは、シカゴで都会の空気と出会い、さらに電気楽器の登場とともに洗練されて「シカゴ・ブルース」という一つの完成型を作り上げようとしていました。
 そんなブルースの本場で育ったサムは、ギター&ヴォーカルのアーティストとして活動するようになります。そして、1957年にブルース・レーベル「コブラ」で初の録音を行いレコード・アーティストとしてのデビューを飾ります。しかし、1959年、彼には兵役の命令が下されました。時はヴェトナム戦争のまっただ中だったのです。ところが、彼は当初兵役についたものの、戦場での殺人を受け入れることができず、軍隊を脱走してしまいました。そのため、逮捕された彼は刑務所送りになります。(当時、軍隊内部の人種差別は一般社会よりもひどかっただけでなく戦場では、黒人兵が常に最前線へ回されるのが当たり前になっていました)こうして、彼は大切な時間を刑務所で無駄にすることになりました。

<カムバック、そしてソロ・デビュー>
 1960年代の中頃になって、やっと彼は音楽活動を本格的に再会します。そして1967年、彼にとってのデビュー・アルバムとなる「ウェスト・サイド・ソウル West Side Soul」が発売されました。
 シカゴ・ブルースの伝統を受け継ぎながら、一歩新しいカラッとしたブルースを目指した、そのアルバムはいきなり名盤との評価を受けました。すべての曲がカバーだったにも関わらず、そこまで評価されたのは、それだけ彼の演奏に新しさがあったということなのでしょう。こうして、彼の名はやっとシカゴの街以外にも知られるようになりました。

<悲惨な生活と悲劇の始まり>
 やっと芽が出かかった彼でしたが、その生活は悲惨そのものでした。彼の妻と子供たちは、生活保護によってかろうじて暮らしており、彼自身も明らかに栄養失調だったといいます。そのうえ、アルコールの量もかなりのものだったようで、これらの不摂生が心臓病による早すぎる死の原因となったのは間違いないようです。
 1968年、彼は2作目のアルバム「ブラック・マジック Black Magic」を録音。このアルバムは、1969年になって発売されますが、結局これが彼のラスト・アルバムとなってしまいます。

<伝説のライブ>
 1969年、彼は生まれて初めて、そして最後となった一万人以上の観衆を前にしたライブを経験します。それが後にライブ・アルバムとして発売されることになった第一回アン・アーバー・ブルース・フェスティバルでのライブでした。
 このコンサートの直前、彼は栄養失調と疲労、そして心臓病が原因で倒れてしまい、医者は彼にしばらく静養しなければならないと言っていました。しかし、やっとつかみかけたチャンスであり、ブルース・ミュージシャンにとって夢のようなコンサートへの出演以来は、彼に命がけの演奏をさせることになりました。こうして、彼はこの晴れの舞台で一世一代のパフォーマンスを展開することになったのです。
 ブルース・バーロウ Bruce Barlowのベースとサム・レイ Sam Layのドラムス、それにギター&ヴォーカルのサムというわずか3人のバンドが繰り広げるファンキーかつパワフルなブルースとブギの世界は、聞く者誰もが驚く衝撃的なものでした。
 多くのブルース・ファンの間で、マジック・サムが伝説として語り継がれるようになったのは、このライブがきっかけでした。(また逆に言うと、このライブがなければ彼の名は遙か日本の地に届くこともなく忘れ去られていたかもしれないのです)

<成功目前の死>
 伝説のライブを終えたサムは、まるでそこで燃え尽きてしまったかのように、その年の12月に心臓病の悪化によってわずか30年の生涯を終えてしまいました。それは、あまりに早すぎる死でした。苦労の末につかみかけた成功を一歩前にして彼は力つきてしまったのです。
 さらに,、この時彼には、もうひとつ新たな展望が開けようとしていました。死の直前にスタックス・レコードとの契約話しが決まろうとしていたというのです。もちろん、スタックスと言えば、60年代にR&Bの黄金時代を築いた伝説のレーベルです。当時のスタックスは、1967年にオーティス・レディングを飛行機事故で失っていたとはいえ、まだまだ絶好調の時期でした。それに、そのころのスタックスにはブルースの大物アルバート・キングもいてブルースに関しても一流のレーベルだったのです。もし、サムがスタックスの一員になっていたら、いったいどんな作品が生まれていたのか?サザン・ソウルとシカゴ・ブルースが融合された新しいサウンドが生まれていたかもしれません。しかし、残念なことにそれは実現しませんでした。

<ブルース時代の終焉>
 彼の知名度がいまひとつである理由として、彼にはオリジナル曲がほとんどなかったという点も上げられるでしょう。実際、彼は他のブルース・マンの曲を自分流にアレンジすることに徹していました。したがって、彼の音楽は、そのギター・プレイとヴォーカルの表現にすべてが込められていたのです。そのため、彼の曲をカバーするミュージシャンが現れないためにその名は、記憶に残りにくかったのでしょう。
 しかし、どちらにしても、ブルースという音楽自体が、すでに黒人社会において過去のものになっていたということこそ、彼が不遇に終わった最大の原因だったのかもしれません。だとすれば、なおのこと、彼にはスタックスで新たなクロスオーヴァー・スタイルを見つけて欲しかったのですが・・・。

<締のお言葉>
「ブラック・ミュージックは、常に現状からの脱出をめざす音楽だ。当時(1960年代後半)の若者はブルースを見捨てた。それが、”気持ちを沈ませ”、”後ろ向き”で白人の価値観に”迎合”するものだったからだ。・・・実際ブルースは、意外にも、そのすぐ後にソウルがたどる運命を、先に経験していたにすぎなかった」
ネルソン・ジョージ著「リズム&ブルースの死」より

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