- マハトマ・ガンジー Mahatma Gandhi (後編)-

<非暴力・非服従闘争>
 1914年に始まった第一次世界大戦では、多くのインド人が遙かに離れたヨーロッパの地で戦闘に参加しました。ガンジーもまた救援部隊を率いて参加しています。しかし、そんなインド人の協力に対して、イギリス政府のしたことは実に失礼なものでした。イギリス政府はインド人を裁判無しで投獄できる特別法を制定。それは戦争中だけの特別法だったはずなのに、大戦後もそれ(ローラット法)は施行され続けます。独立を目指そうとするインド人への圧力は、かえって強まっていたのです。
 それに対してガンジーはインド全土でのストライキを呼びかけ、3億人もの労働者が参加する大規模なゼネストへと発展して行きました。支配者であるイギリス政府も、さすがにこの運動に対してはお手上げとなり、インドの独立運動はいっきに成功へ向かうかと思われました。ところが、イギリスの圧制に我慢しきれなくなった一部の民衆が暴徒化してしまい、警察官を殺害するという事件が起きてしまいました。
 非暴力からの逸脱を認められないガンジーは、ここで自ら盛り上がりつつあった独立への運動を停止してしまいました。彼がもし、老練な政治家もしくは過激な革命家であったら、この判断はありえなかったでしょう。実際、この事件でイギリスはガンジー中心の独立運動を甘く見るようになり、それまで以上に強い姿勢で彼らに圧力をかけるようになりました。

<イギリス製品の不買運動>
 1919年インド北部のアムリッツァで、政府の政策に抗議する1500人以上の無抵抗の市民が銃撃されるという大惨事が起きました。インドの独立運動は甘く見られ、いっきに押しつぶされる危機にあったのです。そんな状況の中、ガンジーは新たな反抗の手段を繰り出します。
 そのひとつは、イギリス製品に対する不買運動でした。もともとインドは綿製品の生産地であり、イギリスに輸出をすることで外貨を稼いでいました。しかし、産業革命によって工場の機械化がいっきに進んだことでイギリスの綿製品の値段は一気に下がり、それまで輸入していたインド製の綿製品を駆逐してしまいます。それどころか、インドはイギリスにとって巨大な市場と化しています。しかし、それだけにインドでの不買運動は、イギリス経済にとって大きな打撃となりました。
 ガンジー自身、自ら西洋式の衣類をすべて捨て、すでに過去のものとなりつつあった手動式の糸紡ぎ道具チャルカを使って、インド古来の製法による衣類を作るようになります。自らの手で作り出したものだけで、質素な生活をすることは時代に逆行するものでした。しかし、彼はそうしたインド式の生き方が誇り高いものであると、人々に理解させたのです。(インドの国旗の真ん中には、未だにチャルカが描かれています)

<塩の行進>
 1930年3月、進展をみせない独立への動きに抗議するため、ガンジーは再び新しい運動を始めます。この当時、インドでは塩を作ることが禁止されていました。そのため、国民はイギリスから輸入された高価な塩を買わなければなりませんでした。このバカげたやり方に対し、ガンジーは自らの手で塩を作ることで抗議しようと考えたのです。それも単純に塩を作るのではなく、海までの道のり350キロを自らの足で歩きながら、抗議の姿勢を示そうと考えたのです。
 すでに60歳を越え、質素な食生活でガリガリに痩せたガンジーの行進がこうして始まりました。「塩の行進」と呼ばれる、この有名なパフォーマンスは、一ヶ月近い日数を要し、その間に多くの人々が行進に加わりました。ちょうどこの頃、ニュース映像が世界に向けて発信される時代になっていたこともあり、彼の行動は世界中の注目を集めることになります。そのため、彼が海に到着し塩を作り出す頃には、インドの国民だけでなく世界中の多くの人々が彼に対して声援を送るようになっていました。(リチャード・アッテンボロー監督の映画「ガンジー」でもこの場面は最大の見せ場でした)
 それだけの注目を集めながらも、ガンジーは法を犯したということでイギリス政府によって逮捕されます。しかし、インド各地で抗議活動が活発化、刑務所に収まりきらないほどの逮捕者がでました。世界中の非難を浴びることになったイギリス政府は、ついに海岸部の住民のみという条件付きで、塩を作る許可を与えました。

<ガンジーという人物>
 ガンジーはエネルギーに満ちた活動的で攻撃的な男性的一面と指導者としては優しすぎる女性的な一面を合わせ持つ不思議な存在でした。たぶん、その男性的な側面は父親から、女性的一面は母親から受け継いだものなのでしょう。中でも母親からの影響は、彼にとってヒンズー教の教え以上に重要だったとも言われています。彼の母親プターリ・バーが属していたヒンズー教の一派は、他のヒンズー教の宗派に比べ、非常に厳格で偶像崇拝も許さず、実践を重んじていました。そのため、菜食主義はもちろん、あらゆる生き物を殺すことを許さず、暴力などはもっての他でした。そう考えるとガンジーの非暴力闘争の手法は、彼の普段の生き方の延長にすぎないとも言えます。
 もうひとつ、彼はあえてヒンドゥーの伝説にあるような寓話的生き方をしようとしていたとも言われています。なるほど、確かに彼が展開した数々のドラマはまるで伝説や寓話の世界の出来事のようでもあります。しかし、そうした彼の常識を無視した行動がなければ、彼はインドだけでなく世界中の人々の心をつかむことはできなかったかもしれません。世の中を大きく変えるには、寓話の世界を生きる覚悟が必要なのかもしれません。
 また、彼は自らのことを弁護士というよりは「世話人」と考えていたようです。ある時は病に伏す父親の「世話人」、父の亡き後は母親や家族を支える「世話人」、その後は南アフリカに住むインド人たちの「世話人」となり、ついには母国インド全体の「世話人」へとその役割を拡大していったわけです。そういう意味では、彼自身インドの政治的指導者になろうという気持ちよりも、インドが自活してゆくためのボランティア・リーダーになりたかったのでしょう。

「自己浄化の道は困難で、かつ険しい。完全な純潔を達成するためには、人は思想において、言葉において、行為において、絶対に喜怒哀楽の情から解放されていなくてはならない。愛と憎悪、愛着と嫌悪の相互する流れから、超越していなくてはならない」
マハトマ・ガンジー

<ガンジー逮捕と独立運動の行方>
 「塩の行進」でガンジーが逮捕され獄中にいる間にロンドンではインドに自治権を与えるか否かを検討する会議が開かれました。しかし、ガンジー不在の国民会議派は、この会議への出席を拒否。それでは会議の意味がないことは明らかだったため、翌1931年に行われた2回目の会議のためにガンジーは釈放されます。しかし、その会議において、またしてもガンジーは大方の予想に反する発言をします。彼は、イギリスからの提案である将来的に必ず自治権を与えるという申し出を断り、現状の領土のままでの完全独立以外あり得ないと発言したのです。これはある意味無謀とも言える発言でした。折り悪く世界は世界恐慌に巻き込まれており、かつての勢いを失いつつあったイギリスにとって、広大な植民地であるインドを失うことはあまりに大きな痛手だったからです。そのためイギリスはまたもや強硬手段に出ます。ガンジーは再び逮捕され、国民会議派は非合法組織とされ弾圧の対象となりました。
 1934年、ガンジーは出獄しますが、65歳という高齢になっていたこともあり、政治の世界からの引退を宣言します。この後は、ジャワハラル・ネルーが(後に初代首相となる)が彼の後を継ぎ独立運動を指揮して行くことになります。

<ガンジー引退後の独立運動>
 その後。1939年に第二次世界大戦が始まり、日本軍が東南アジアに進出します。イギリス軍はビルマを守りきれず、インドにも日本軍が侵攻しようと準備を始めました。その状況下でインドで独立運動が活発化すれば、もう抑えようがない、そう判断したイギリスはインドに対し戦後の自治権授与を提案します。しかし、国民会議派はガンジーの意志を継いでその提案を拒否。あくまでも即時独立を主張し続けました。そして、その判断は間違っていませんでした。なぜなら、第二次世界大戦が終わってもなお、イギリスはインドの独立を認めようとはしなかったからです。
 しかし、かつての経済力を失い、なおかつ第二次世界大戦で国力を消耗したイギリスにとって、それ以上インドの独立運動を抑え込むことは不可能でした。ついに、イギリスはインドの独立に向けた案を発表します。しかし、それによるとインドは、ヒンズー教の国「インド」とイスラム教の国「パキスタン」二つに別れることなっていました。当然、ガンジーは、その案に強く反対、あくまでインドは一つの国であると主張します。しかし、現実には国民会議派内部のイスラム系の人々は分離独立を主張しており、その流れを止めることは不可能だったのです。

<インド、パキスタンの分離独立>
 こうして、1947年8月15日インドは二つの国に別れて独立しました。しかし、完全に二つの宗派の人々が別れて居住することができるわけはなかったため、すぐにトラブルが起きます。ガンジーが恐れていたとうり、二つの宗教間には終わりなき紛争が始まったのです。それぞれの国では、少数派となった人々が弾圧されることになり、その延長としてインドとパキスタンもまた犬猿の仲になってゆきました。その結果、ついにはお互いが核兵器を持つに至るという危険な地域になってしまったのです。
 1948年、引退していたガンジーは再び大衆の前に現れ、対立する二つの宗教グループの和解を求めて断食を開始します。この時、ガンジーはすでに78歳。断食はまさに命がけのパフォーマンスでした。今にも倒れそうなガンジーの姿を目にして、両宗教グループの代表者は和解を了承します。こうして、なんとか不毛な闘いに終止符を打つことがきました。

<あっけない死>
 しかし、こうしたガンジーの平和的闘いは、たったひとりの人間の暴力によって、あっという間に終止符がうたれてしまいます。
 1948年1月30日、日課となっていた寺院でのお祈りに向かう途中、ガンジーは銃によって暗殺されました。皮肉なことに、犯人は彼と同じヒンズー教徒でした。彼はヒンズー教徒とイスラム教徒との共存を目指したがゆえに、仲間であるはずのヒンズー教徒たちから恨まれることになってしまったのです。彼の遺体はヒンズー教の習慣どおり火葬され、その遺灰はガンジス川に流されました。

<「偉大なる魂(マハトマ)」>
 ノーベル文学賞を受賞した詩人タゴールによって「魂の人(マハトマ)」と呼ばれたガンジーの魂は、その後も世界各地の平和運動や人権運動などに大きな影響を与え続けます。しかし、彼の力によって独立を勝ち取った故国インドにとって、「偉大なる魂」の影響力は残念ながらあまり大きくはなりませんでした。インドは独立後すぐに軍隊を持ち、カシミールの領有問題をめぐりパキスタンとの戦闘を行いました。さらにはチベットの独立問題では中国と対立し、戦争を行ったりもしました。さらには、対パキスタン向けとして開発された核兵器の保有によって、世界中を危機に巻き込むなど、平和主義とはほど遠い国になってしまいました。
 さらに、経済的にはハイテク分野での急速な発展はありましたが、それも裕福なエリート層が富を独占するという構図は変わらなかったため、世界で最も貧富の差がある国の一つになってしまいました。なんとも皮肉なことに、ガンジーが目指していたインドの伝統に基づいた質素な社会とは正反対の方向へと向かいつつあるのです。
 もし、100年後、世界が今より住み良い状況になっていたとしたら、そこには間違いなくガンジーの思想が活かされているだと僕は思います。それは現在の大量生産、大量消費の社会構造を世界全体が改めない限り、地球全体に幸福な未来はないと思えるからです。
 そんなわけで、最後にドイツの経済学者E.F.シューマッハーの有名な作品「スモール・イズ・ビューティフル」から、ちょっと長めの引用をして終わりたいと思います。(この本を未だお読みでない方は是非一度ご一読下さい!)

 私は彼のもとを辞するとき、自分が話をした相手は、人間社会がただモラルという原則によってのみ築かれることが可能だと信じる、ひとりの勇敢な人物なのだという印象を抱いた。危険な軍事行動に血道をあげてきた我々のあいだに、彼はある信念をもって、超然と屹立している。人類が互いを同等の兄弟として遇するときにのみ平和は達成される、それ以下の手段は効力をもたない、というゆるぎない信念をもって。
ガンジーへのインタビューを終えたH・N・ブレイスフォード(1946年)

<締めのお言葉>
「ガンジーが語ったように、世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく大衆による生産である。大量生産の体制によって立つ技術は、非常に資本集約的であり、大量のエネルギーを食い、しかも労働節約型である。・・・

 大衆による生産においては、誰もがもっている尊い資源、すなわちよく働く脳と器用な手が活用され、これを第一級の道具が助ける。大量生産の技術は、本質的に暴力的で、生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む。・・・

 この世に生をうけた人は誰でも、手を動かして生産的な仕事をするのがごく自然の姿であり、またそれは知恵さえあればできることだという感覚を取り戻すならば、私は失業問題は消滅し、やがてやらなければならないすべてのことをするにはどうしたらよいかという、次の問題に取り組めるだろうと思っている」

E.F.シューマッハー著「スモール・イズ・ビューティフル」より

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