- マハラティーニ&マホテラクイーンズ Mahalathini & Mahotella Queens -

<アフリカン・ポップス、4つの流れ>
 80年代から90年代にかけて、世界中でブームとなったアフリカン・ポップス。もちろん、アフリカン・ポップスといっても、あれだけの広い地域であれば、その種類も千差万別です。
 しかし、当時ブームの中心になっていた音楽には、ほぼ4つの流れがありました。(今でも、この4つは主流派と言えるでしょう)
 先ずひとつは、北アフリカ、イスラム圏マグレブ3国の「ライ」。お次は、その南に位置する西アフリカの「ジュジュ」「フジ」「パームワイン・ミュージック」などがありました。そして、その東に位置する中央アフリカ、ザイールを中心とするリンガラ・ポップ(ザイーレアン・ルンバ)があり、最後にアフリカの南の端、南アフリカを中心とするムバカーンガということになるのでしょう。
 これら4つのサウンドは、言語といい、楽器といい、まったく異なる音楽と言ってよいでしょう。とうてい、アフリカン・ポップスという名でひとくくりにできるものではありません。(またこの4つで代表させることにも疑問はあるのですが・・・)それぞれの音楽は、宗教、文化、言語、民族、それに植民地としての歴史などの要素が複雑に影響を与えあう中で生まれているため、同じ大陸で生まれながら、まったく異なる進化をとげたということです。
 4つのサウンドの音楽的なキーワードをあげると、「ライ」は「コーラン」、「ジュジュ」や「フジ」は「トーキング・ドラム」、ザイーレアン・ルンバは「ラテン音楽」、そしてムバカーンガが「ジャズ&ゴスペル」ということになると思います。

<南ア・ポップスの独自性>
 南アフリカの大衆音楽が他のアフリカのポップスと最も違う点は、それがアフリカ各地から南アフリカに移住してきた鉱山労働者たちを中心とする都市文化の元で成立した点です。そして、この土地がイギリスの植民地だったことで、そこにはキリスト教とそれに伴う文化、賛美歌やミンストレル・ショーなどの芸能が流入しました。そして、19世紀の終わり頃には、そこに南ア独自のポップスが生まれ始めていたようです。
 ここでクイズ!「都市文化」「キリスト教」「英国領」この3つから連想される音楽は?
正解は、そう。「ジャズ」です。
 南アでは1920年代から英国のレコード会社を通してジャズのSPが盛んに発売されるようになり、ラジオでもジャズがよくかかっていたといいます。そのため、南アのポップスにおけるインストロメンタルの分野においては、ジャズが大きな影響を与える要素になりました。

<アフリカン・ジャズの中心地>
 特にジャズ畑で有名なのは、1969年に録音され世界に衝撃を与えたジャズ・ピアノの傑作アルバム「アフリカン・ピアノ」があります。この作品の作者、ダラー・ブランドは南アの出身で、このアルバム意外にも「アフリカン・マーケット・プレイス」など、アフリカのポリリズムをピアノの世界に導入する新しいジャズを展開してみせました。(実は、僕が最初に自分で買った、ジャズのアルバムは「アフリカン・ピアノ」でした)したがって、この国は、以後ずっとアフリカにおけるジャズの中心地となっています。

<マラービ>
 こうして、ジャズの影響を受けながら1930年代、都市の黒人居住区(タウンシップと呼ばれているらしい)の酒場で演奏されるようになったのが、マラービと呼ばれる音楽でした。この音楽は、1940年代に盛り上がりのピークを向かえるのですが、これはいうならばスウィング・ジャズのアメリカ版といった感じだったようです。(南アフリカを代表すると言うよりアフリカを代表する女性ヴォーカリスト、ミリアム・マケーバも元はといえばマラービの歌い手でした)

<クウェラ>
 しかし、1950年代に入ると、マラービはダンス・ホールから街へと飛び出して行きました。それがクウェラという音楽で、元々は楽器を買うことができない若者たちが手製のギター、パーカッション、ウォッシュボードなどを使ってストリートで演奏していたのが始まりでした。そして、その主役となったのはヴォーカルではなくブリキの笛(ペニー・ホウィッスル)でした。
 ストリート生まれのファンキーなインストロメンタル・サウンド、クウェラは若者たちの音楽を演奏するきっかけを与えただけでなくレコードとしても、ヒットを記録し、南ア製ポピュラー音楽の原形となって行きました。

<ムブーベ>
 そしてもうひとつ南アのポップスのもつ大きな特徴は、この地に住む黒人たち、ズールー人お得意のアカペラ・コーラスが与えた影響です。このコーラスは、1939年に大ヒットした曲「ムブーベ(ライオン)」にちなんでムブーベと名付けられ、後にこれがクエラのバンドと組み合わさることにより、ムバカーンガが生まれることになりました。(「ムバカーンガ」とは、南ア独特の料理で、ゴッタ煮的なスープの名前だそうです。「チャンプルー」とか「サルサ」とか「ソウル・フード」とか食べ物と音楽は世界中どこでも関わりが深いようです)

<ムバカーンガ>
 こうして、鉱山労働者として働くために集まってきたアフリカ各地の人々が持ち寄ったリズムが、ジャズの大鍋によってグツグツと煮込まれ極上のスープとして仕上げられ、1950年代にムバカーンガというヴォーカル&インストロメンタル音楽が生まれました。さらに、1960年代に入ると、この音楽のバンド編成は、ベース、ドラムス、ギター、オルガンという基本的な電気スタイルが確立され、現代につながるスタイルがほぼ完成されました。そして、この時期に登場し、その後70年代にディスコに押されて活動を停止していた時期をのぞき常にトップ・スターとして活躍し続けたのが、「ソウェトのライオン」ことマハラティーニなのです。

<マハラティーニ>
 彼は1937年に南アフリカのヨハネスブルグ近郊、アレクサンドラの黒人居住区に生まれました。彼は10代前半から大人たちに混じってバンドに加わるとその後は誰にもマネすることのできない独特の声(ライオン・ヴォイス)を武器にムバカーンガのNo.1として活躍し続けます。そのうえ彼は、マホテラ・クイーンズという単独でも素晴らしい活躍をしていた女性コーラス・トリオ(南アのアイ・スリーといったところか?)を従え、これまた単独で素晴らしいダンス・サウンドを展開していたファンク・バンド、マッゴナ・ツォホレ・バンドをもバック・バンドに従えているのです。(サックス奏者、ウェスト・ンコーシ率いるこのバンドは、南アのJB'sということになるのでしょうか?)

<アース・ワークス>
 ムバカーンガの素晴らしさは、マハラティーニを聞けば明らかですが、当然ながらかつてアパルトヘイト(人種隔離政策)が存在していた時代には、彼らの音楽が海外に紹介されることはほとんどありませんでした。
 そんな状況の中、彼らの音楽をいち早く海外に紹介したのは、イギリスのレーベル「アースワークス」でした。(1983年に設立され、1987年にヴァージン・レーベルの傘下に入っています)
 アースワークスは、ジンバブエを代表するミュージシャン、チムレンガの闘士、トーマス・マプフーモを海外に紹介したことでも有名ですが、1985年に発売された「ビート・オブ・ソウェト The Indestructible Beat Of Soweto)と、それに続く2作「サンダー・ビフォー・ドーン Thunder Before Dawn」(1987年)、「フリーダム・ファイアー Freedom Fire」(1990年)は、南アフリカのポップスを紹介したコンビレーション・アルバムの中で、内容的も、歴史的に最も価値の高いアルバムといえそうです。
 この3作は、南アフリカで1981年から1989年にかけて録音された南ア・ポップスを集めたものですが、その主役はやはりマハラティーニ&マホテラ・クイーンズであり、そのバック・バンドのマッゴナ・ツォホレ・バンドでした。
 ここで何故歴史的価値も高いかというと、このアルバムの録音時期は、まさに南アフリカにおけるアパルトヘイト崩壊への最後の混乱期と重なっており、そんな時代の変化によって南アフリカ自体が世界から注目を浴びるようになり、それをきっかけにして「ソウェトのライオン」は海外に進出し、その独特のライオン・ヴォイスを疲労することができたというわけでもあるのです。

<アパルト・ヘイトが生んだ音楽>
 こうして、南アフリカの都市部では次々に新しいダンス・サウンドが生まれたわけですが、それには当然それなりの理由があったと言われています。
 各地から鉱山にやって来た黒人たちは、白人政権の政策により、単身赴任を強制されていました。そのため、彼らは週末の夜になると暇を持て余し、同時に家族と会えない寂しさを紛らわす必要があったため、バンド活動に喜びを見出す者が多かったというのです。
 さらに、白人政権は黒人たちを出身部族別に分けて居住させるという分離政策をとっていました。(ズールー人、ソト人、コーサ人など)そのため各部族間の交流も一時はすっかり途絶えていたといいます。マハラティーニたちは、そんな状況を打破するために、あえて民族の壁を越えるよりゴッタ煮的なサウンドを目指したということのようです。(ミュージック・マガジン1990年の2月号、バンド・リーダーでもあるウエスト・ンコーシのインタビューより)

<締めのお言葉>
「政治と教会は同じだ」と彼はよく言った。
「やつらは民衆を無知文盲のままにしている。でも今にジャーが現れておっしゃるだろう。「私こそが神であり、お前たちは私をたたえるべきである」と。説教する奴らは間違っている・・・奴らの言う最も重要なことは、死に関することだ。君たちを死に追いやり、すべての受難の後で天国に行くという。そのためにあらゆる受難をくぐり抜けるんだと!冗談じゃない、一番大切なのは生きることさ。生きることなんだ!」

スティーブン・デイヴィス著「ボブ・マーリー - レゲエの伝説 - 」より

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