「ゾウを消せ 天才マジシャンたちの黄金時代」より

- ロベール・ウーダン、フーディーニ・・・ -

<伝説のマジシャン>
 フランス人マジシャン、ロベール・ウーダンによって確立された近代マジックは、19世紀半ばから20世紀初めにかけて急速に発展しました。現在のイリュージョン・マジックやクローズ・アップ・マジックの基本のほとんどは、この時期に生み出されたと言われます。
 映画もまた映像を用いたマジックを原点に20世紀初めに誕生したマジックの発展形ともいえる芸術でした。ここでは、そんな近代マジックの原点であり、映画「幻影師アイゼンハイム」のモデルともなった伝説のマジシャン、ロベール・ウーダンとアメリカにおいて異なるスタイルで一時代を築いたカリスマ・マジシャン、「脱出王」フーディニを中心にマジックの歴史を振り返りたいと思います。
 フーディニが活躍した時代のアメリカは、まさに黄金時代でした。世紀末からローリング・トゥウェンティーズ(1920年代)にかけて天井知らずの発展を遂げた夢の国アメリカにピッタリのど派手な演出による脱出マジックは時代の象徴だったとも言えます。しかし、カリスマ的な人気を誇った彼はマジシャンとして常にコンプレックスを抱えていました。それは彼がマジシャンたちの間で技術や演出の面で高い評価を得ることができず「脱出技の達人」としか見なされていなかったからです。そのため、彼は自分の芸名の元になった憧れのマジシャンに対し憎しみすら抱くようになります。そのマジシャンこそ、「近代マジックの父」ロベール・ウーダンでした。
 先ずは、伝説のマジシャン、ロベール・ウーダンから始めましょう。

ロベール・ウーダン誕生>
 「近代マジックの父」ロベール・ウーダンは、本名をジャン・ウジェヌ・ロベールJean Eugene Robert-Houdinといい、1805年にフランスのブロアで生まれています。時計職人の見習いをしていた彼は、ある時、本屋で時計作りの本を買ったつもりが店主の間違いによりマジックの本を持ち帰ることになりました。家に帰ってそのことに気づいた彼は、返品しようと思いますが、その前にその本を読んでその面白さに大興奮します。この偶然の間違いが一気に彼をマジシャンに転向させるきっかけとなりました。
 22歳になり見習い期間を終えた彼は故郷に帰るための駅馬車に乗りますが、旅の途中に食中毒になり倒れてしまいました。気がつくと彼は旅回りの奇術師トリーニに助けられていて、そのトリーニの技を間近に見た彼はすぐに弟子入りを決断しました。
 トリーニは、ローマ教皇ピウス三世の前でマジックを披露したことでも知られる人物でしたが、ピストルを用いたマジックの最中に誤って自分の息子を射殺して、殺人罪で刑務所に入れられた過去をもっていました。ロベールが出会った時、彼は刑期を終えて出所したばかりだったようです。彼は自分が殺してしまった息子と同じ年頃のロベールを息子のように可愛がり、自分の技術を惜しみなく彼に教えたといいます。
 ただし、このトリーニという人物についての逸話は、すべてロベールが作り上げたものではないかという説もあります。実際は彼は、アマチュアのマジシャンでもあった金持ちの叔父さんから、そのテクニックを学んだのではないかとも言われています。(映画「幻影師アイゼンンハイム」にもトリーニらしき人物が登場しています)

<マジシャンとしての活躍>
 トリーニと別れ独立したロベールはパリに住み、そこで有名な時計職人ジャック・ウーダンという人物のもとで働くようになり、彼の娘セシルと結婚します。そこで彼は、彼女の旧姓をもらいロベール・ウーダンという名前に改名したそうです。その後、彼は時計職人としての技術をいかし、時計だけでなく機械仕掛けの自動人形を作り始めます。
 1845年、40歳になった彼は「不思議の夕べ」というタイトルのマジック・ショーを開催。パレ・ロワイヤルに付属する小劇場のオーナーになり、本格的にマジシャンとしての活動に入ります。意外な事にマジシャン、ロベール・ウーダンの誕生は遅いものでしたが、すでに彼の技は完成の域に達していたようです。
 彼のショーにおける人気プログラム「鈴なりのオレンジの木」は映画「幻影師アイゼンハイム」にも出てきました。

「鈴なりのオレンジの木」
 先ずはウーダンが舞台を見ている観客の一人からハンカチを借り、それをテーブル上に置いてある卵の中に入れてしまいます。そして次に彼はそれを卵の横に置いてあるレモンの中に入れ、さらにそれをその隣に置いてあるオレンジに入れてしまいます。(もちろん、入れたように見えるだけですが・・・)
 オレンジを持った彼はそれを手のひらにのせながらどんどん小さくしてゆきます。するとそれは最後には粉上の物質になるので、その粉をガラスのビンに入れた彼はそこにアルコールを注ぎ火をつけます。そこへ木箱に植えられた小さな木を持ち込み、前述の火から出た煙の中に入れます。すると、その木に真っ白い花が咲き始めます。しかし、彼が杖を振るとその花は消えてしまい、そこにはオレンジの実がなっています。
 そのオレンジの実を何個か取った彼は、それを観客に渡し本物であることを確認させます。そして、最後に残ったオレンジの実を持った彼はそれに「割れろ!」と命令。するとそのオレンジの中から最初に彼が借りたハンカチが出てくるというわけです。

 この素晴らしいマジックには彼が生み出した近代マジックのエッセンスが詰め込まれてしまいます。時計職人でもある彼が作った機械仕掛けの精密なトリック。スライハンドと呼ばれる手先の器用さで行う基本の技術。そして、それらのトリックを活かすために考えられたシンプルで美しい装置と演出。これらを一つの作品にまとめ上げることで、彼は総合芸術としての近代マジックの完成形を生み出したのです。
 彼のマジックには、誰にもマネできないテクニック、誰にも作れない精巧な仕掛け、誰にもマネできない美しい演出がありました。
 1856年、彼はイギリスに招かれヴィクトリア女王の前で公演を行い、ヨーロッパナンバー1・マジシャンの称号を得た後、突然引退。劇場も義理の兄弟に譲り渡してしまいました。このあたりの突然の引退の謎については、映画「幻影師アイゼンハイム」で重要なテーマになっています。そして、その入りに出された劇場を仕掛けも含めて買い取ったのが、後に映画の世界で大成功することになるあのジョルジュ・メリエスでした。
 ところが、彼の物語には続編が存在します。

<伝説のマジシャン復活>
 1856年、彼はフランス政府の特命により現役復帰します。ナポレオン3世の指示により、彼は当時フランス領だったアルジェリアに派遣され、フランス政府に反抗する部族の指導者たちの前でマジックを見せることになりました。それは現地で反抗する部族に大きな影響を与えている呪術師に対し、フランスからやって来た魔術師が彼らを驚かせるような魔術を見せることで、彼らを黙らせることが目的でした。彼は支配国フランスの最強兵器として派遣されたのでした。(ある意味、平和的でいいのかもしれませんが・・・)
 アルジェリアに渡った彼は町の劇場でショーを行うだけでなく族長たちを集めてのショーも開催します。その時、彼が見せた演目として有名なのが「重くて軽い箱」というプログラムでした。

「重くて軽い箱」
 彼は観客たちの中から最も力がありそうな人間を選び、その男を舞台に上げてそこに置かれた箱を持ち上げさせます。もちろん、それは最初は彼に軽々と持ち上げられます。その後、彼は杖を振ってこう言い、呪文を唱えます。
「もう、あなたにはさっきの力が残っていない!」
 もう一度その男は箱を持ち上げようとしますが、今度はまったく持ち上げることができません。
「アラーの神よ!」と叫んだ彼はその場から逃げ出したといいます。
 もちろん、仕掛けは簡単です。箱には底に鉄板が仕込まれていて、床下には電磁石が仕掛けられていました。あとはその電磁石に電気を流せば、磁力が発生して箱は床にくっつくわけです。
 当時、電磁石は最新のテクノロジーで、その存在を知る人はほとんどいませんでした。ちなみにイギリスでファラデーが電磁誘導についての発見を発表したのが1831年のことです。しかし、マックスウェルが電磁石の方程式を完成させたのが1864年ですから、電磁石についての研究はまだ理論すらなかったことになります。
 フランス政府は、この時の彼の活躍を高く評価。彼は天才マジシャンであると同時にフランスを救った英雄という称号まで与えられることになりました。
 こうして彼は再び引退し、その後、自らの人生と様々なマジックの解説を一冊の本にまとめて発表します。「ロベール・ウーダン回顧録 外交官、芸術家そしてマジシャン」として発表されたその本は、その後長くマジシャンたちにとってのバイブルとして読まれ続けることになります。
 1871年、彼はこの世を去りますが、「回顧録」とともに彼の劇場は多くの後輩たちによりマジックの殿堂として受け継がれてゆくことになります。そのステージで活躍したマジシャンの中には、その後、マジックから映画製作へと活躍の場を移し、伝説的なSF映画の元祖「月世界旅行」を撮ることになるジョルジュ・メリエスもいました。

「マジシャンは曲芸師ではない。マジシャンとは、マジシャンの役を演じている役者なのだ。」
ロベール・ウーダン

フーディーニ誕生>
 「ロベール・ウーダンの回顧録」を読んで奇術師を目指した数多くの少年たちの中にエーリッヒ・ヴァイスという少年がいました。1874年、ユダヤ教のラビの息子としてハンガリーの首都ブタペストで生まれた彼は数年後に家族とともにアメリカに移住。ラビとしてアメリカ各地を転々としていた父親と共に移動していた一家はニューヨークに落ち着くことになりました。
 1891年のある日、彼は前述の回顧録と出会い、ウーダン少年と同じようにマジックに魅せられてしまいました。そして、彼はそれまで勤めていた婦人服の裁断の仕事を辞めて、プロのマジシャンになろうと弟のテオとコンビを結成します。彼は回顧録の著者ロベール・ウーダンの名前「ウーダン」と彼の師匠「トリーニ」を組み合わせ、「ウーディーニ」という名前を作り、それを英語読みにした「フーディーニ Harry Houdini」を芸名としました。
 1893年、シカゴで行われた世界博覧会で「フーディーニ兄弟」としてマジックを披露。手を縛られた状態でトランクに入り、そこから一瞬にして脱出するという脱出マジックをメインにヴォードビルの劇場などを中心に活動し始めます。しかし、スライハンドなどの手先を用いるマジックが苦手な彼のマジックはいまひとつ人気を獲得できずにいました。そんな時、彼はオーフィウム興行チェーンの大物マーティン・ベックと出会い、彼から「脱出マジック」に徹して、それを売り物にするように薦められます。そして、そこから彼の成功物語が始まることになりました。
 彼はその後各地で公開デモンストレーションを行い、センセーショナルな挑戦ネタを仕込むことで新聞の見出しを飾り、タダで宣伝を行うようになります。こうして、フーディーニの黄金時代が始まることになりました。1900年には、ヨーロッパ公演ツアーを行い、イギリス、フランス、ドイツからロシアまでを巡りました。その途中にも彼はイギリスではロンドン警視庁刑事部で公開マジックを行ったり、デイリー・ミラー紙に手錠抜けのトリックを見破ってみろと挑戦したり、ロシアではロシア製の可動式監獄を用いて脱出マジックを見せるなど、各地で話題をつくり観客を集めて行きました。なんともこの辺がアメリカ的で、それまでのヨーロッパのマジシャンたちとはまったく異なるところです。

<「脱出王」フーディーニ誕生>
 その後、彼は新たなプログラムとして、水で一杯の大型ミルク缶に手錠をしたまま入り、そこから脱出する「水中脱出マジック」を取り入れます。このあたりから、いよいよ彼はカリスマ的な人気をもつ肉体派のマジシャンとしてアメリカを代表するスターの一人となり始めます。当時の彼のキャッチ・コピーはこうでした。
「不思議な謎の超人
 ハリー・フーディーニ
 あの手錠のキング!
 世界でただ一人、丸裸のマジシャン」

 彼はこうして大きな名声を得るものの、マジシャンとしての評価は上がらず、そのことにコンプレックスを感じていました。そこで彼はマジック界での地位向上を目指し自ら「月刊マジシャン」を発行。編集、執筆も自ら行いますが、そこで行われたのは業界のライバルたちにケチをつけることで、ついには伝説のマジシャン、ロベール・ウーダンの業績を批判するに至ります。そして、その記事を「ロベール・ウーダンの仮面をはぐ」として出版します。しかし、この本は、その後、多くの間違いが指摘されるようになり、彼の思い上がりは仲間たちからさらに批判されるようになりました。彼の場合、その目立ちたがりの性格は周りの空気を読めないことにつながり、それが観客を喜ばせる心配りの欠如にも結びついたのでしょう。マジックには観客の心をつかむ技術も必要不可欠だということです。
 1912年、彼はドイツでのツアー中に最高傑作とも言われる脱出プログラム「中国の水牢」を発表します。ガラスばりの巨大な水槽の中に逆さにつるされたフーディーニは拘束衣を着た状態でさらに手錠をかけられ、足も固定されていました。最悪の場合は、水槽を割って脱出させるという準備がされ、水槽に水が入れられてゆきます。そして、会場が緊張に包まれる中、水槽にカーテンがかけられます。そして、数秒後、カーテンが開くと、そこには水びたしのタキシードを着たフーディーニが立っていました。

<ゾウを消せ!>
 彼はその後、脱出マジック以外のマジックで成功を収めようと優れたマジックのアイデアを買い、それを演目に加えてゆきますが、なかなか評価を得ることはできませんでした。
(当時、すでにマジックの種を考えるアイデアマン的なプロが存在していました。一流のマジシャンは自分でアイデアを考えるのに加え、そうしたアイデアマンからのアイデア購入が当たり前になっていたようです)しかし、そんな彼に汚名挽回の絶好のチャンスが巡ってきます。それは1918年に彼がニューヨークのエジプシャン・ホールで行ったプログラム「かの有名なマジシャン、フーディーニによるゾウの雲隠れ」です。文字どうりゾウを一頭、大型の貨車に乗せた状態から消してしまうというものです。
 このショーは見事に成功。数百人の観客たちの前でゾウは消えてしまいました。ただし残念なのは、会場の広さに比べるとゾウを入れていた貨車が小さすぎ、中のゾウが消えたのかどうかを多くの観客は見ることができなかったことです。本当は貨車を動かして中をより多くの観客に見せればよかったのですが・・・。それができない理由があったようです。
 このマジックの種は、貨車を動かせなかった理由からもわかります。ゾウはもちろん消えてはおらず、貨車の中にいたため、重すぎてそれを動かすことができなかったのです。では、ゾウはどこに隠されていたのか?それは貨車の中に仕掛けられた可動する大きな鏡の向こう側にいたと思われます。貨車の中に斜めに仕掛けられた鏡により、三角形の空間ができ、そこにゾウを押し込んで鏡で隠すとその鏡に映る貨車の壁によって、何もない貨車の空間が見えるようになる。そういう仕掛けだったと推測されます。

<皮肉な死>
 その後も彼は脱出マジック以外の成功を目指すものの最後まで大きな結果を出せませんでした。そして、その栄光の人生は突如終わりを迎えます。
 1926年10月、彼は劇場の楽屋に挨拶に来た学生にあなたの自慢の腹筋を試してみていいですか?と聞かれ、お腹を殴らせました。ところが、腹筋に力を入れる前に殴られたため盲腸が破裂。痛みが治まらず二日後に入院したところ、腹膜炎を併発していることがわかり、もう手術しても間に合わない状態になっていました。
 こうして彼は1926年10月26日、52歳の若さでこの世を去りました。皮肉なことにその死は脱出マジックの失敗ではなく、彼の売りものだった強靭な肉体のせいでした。

「大切なのはトリックじゃない。マジシャンなんだ。」
ハリー・フーディニ

<マジック史の英雄たち>
 最後に二人の偉大なマジシャン以外の歴史に残るマジシャンたちを紹介しつつ、彼らのお言葉を頂戴して終わろうと思います。そうそう今回参考にさせてもらった本「ゾウを消せ」には、マジックの歴史とともに有名な古典的マジックの種が明かされています。これがまた「目からウロコ」で楽しめます!ここに書かれているマジックの種を理解すれば、多くのマジックの種もかなり推測できる気がします。現在行われているマジックのほとんどは、それらの古典的マジックの発展形のようです。マジックの基本は、この当時にほぼ完成され、後はそこで用いられる種の仕掛けの部分で素材やメカの進化があるだけなのかもしれません。

「マジックは立ち止まらない。時代とともに進歩していくか、取り残されていくかのどちらかだ。」
ネヴィル・マスケリン(1839年〜1917年)
(イギリス・マジック界の中心的人物。マスケリン劇場をロンドンのエジプシャン・ホールに開設した)

「謎で心を満たしてやりなさい。人の心は謎を求めてやまないのだから。」
ハリー・ケラー(1849年〜1922年)
(エンターテイメントに徹して人気者となったアメリカを代表する。マジシャンとして世界中を巡業したことでも知られます)

「マジックは、衆人の目にさらされながらやらなければならない。映画の制作にはこれがない。」
ジョルジュ・メリエス(1861年〜1938年)
(特殊効果を用いた元祖SF映画「月世界旅行」を作った映画監督。マジシャンから映画の世界に転進した人物。映画とは元々マジックの一ジャンルだった!)

「私がやりたいのは、奇跡を起こして楽しんでもらうこと。ですから、だますなんてことは決していたしません。」
ハワード・サーストン(1869年〜1936年)
(ハリー・ケラーの後継者としてアメリカを代表するマジシャンとなった人物。子供をステージに上げ、観客参加型のステージを展開した先駆者)

「僕はたまにミスをする。けれど、ロバは絶対にしない。」
チャールズ・モリット(1860年〜1936年)
(未だに謎に包まれている「ロバの消失マジック」のアイデアを考えたイギリス人マジシャン。鏡を用いた錯覚マジックの天才)

「芸の何たるかを知らない人は、マジックの演技を正しく理解できない。」
デヴィッド・デヴァント(1868年〜1941年)
(バランスのとれたマジシャンとして尊敬を集め、マスケリンのパートナーとしても活躍した)

「僕が考察した技を盗みたければ盗め。いつでも奴らの一歩か二歩先をいってやるから。」
P・T・セルビット(1881年〜1938年)
(イギリスのマジシャン。1920年に「美女の胴体切り」を発表し、一大センセーションを巻き起こした)

「とうの昔の話をしているだけとお思いでしょうね。そう、歴史を。
 ええ、マジックは歴史なんです。」

ガイ・ジャレット(1881年〜1972年)
(1920年代ブロードウェイのショーの舞台装置開発で活躍。マジシャンたちの間で有名な仕掛けの創造者であり、ハワード・サーストンの右腕的存在)

「つまり演劇などの完璧な筋書きの導き方のように、マジック・ショーも、パフォーマー主導型のマインドコントロールだということができる。あるタイミングで一定の方向に目を向かせたり、何かに注意を向けさせて別のものから気をそらせたり、どきどきさせたり、特別な意味を与えたりなど、話全体の流れをつかさどるのはマジシャンだ。導き方がしっかりしていれば、ショーが成功する。客がマジシャンのリードと解釈を受け入れれば、技にあれこれ頭をめぐらせることなく、率直にだまされる。」
ジム・ステインメイヤー(1959年〜)
(「ゾウを消せ」の著者でマジック史の研究者であると同時にマジック・ショーの企画者として多くのマジシャンたちの裏方を勤めてきた存在)

<参考>
「ゾウを消せ 天才マジシャンたちの黄金時代 Hiding The Elephant」
 2003年
(著)ジム・ステインメイヤー Jim Steinmeyer
(訳)飯泉恵美子
河出書房新社

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