
- ママス&パパス The Mamas & The Papas
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<「夢のカリフォルニア」への思い>
ママス&パパスが、元々はニューヨークを中心に活躍していたフォーク・アーティストたちの集まりであり、彼らの大ヒット曲「夢のカリフォルニア」は、そんな彼らが暖かな土地カリフォルニアにはせた思いが生んだ曲だということは意外に知られていません。
実は、彼らは当時まだ未発達だったウェスト・コースト・ロックの開拓者であり、花飾りを身につけて西海岸を目指したヒッピーたちの先駆者でもあったのです。その意味で、彼らはまさに「フラワーピープルにとってのママス&パパス」だったわけです。
しかし、そんな彼らはヒッピー世代のコミュニティーが60年代末に夢破れ崩壊していった過程さながらに、70年代にはいるころには内部崩壊し、この世から姿を消してしまいました。
「夢のカリフォルニア」は、まさに夢の理想郷「失われた60年代カリフォルニア」への思いを込めた望郷の歌であり、鎮魂の歌なのです。
<ママス&パパスの源流>
ママス&パパスの源流をたどるには、1960年代初めのニューヨークへと話しを戻さなければなりません。ママ・キャスことキャス・エリオットは、夫のジム・ヘンドリックス、ティム・ローズと3人でビッグ・スリーというフォーク・トリオを結成し、アルバムも発表していました。
同じ頃、デニー・ドハーティーは、後にラヴィン・スプーンフルを結成することになるザル・ヤノフスキーらとともに、ハリファックス・スリーというバンドを組みアルバムの録音も行っていました。
しかし、二つのバンドはすぐに解散、そのメンバーが集まって、キャス・エリオット&ビッグ・スリーが結成されアルバムを録音、さらにそのメンバーに、後にザルとともにラヴィン・スプーンフルを結成するジョン・セバスチャンが加わりマグワンプスという幻のバンドが結成されました。しかし、このバンドはアルバムの録音をしたものの、実質的な活動をしないまま解散してしまいました。アルバムも結局未発表のままとなっています。(この後すぐにラヴィン・スプーンフルが結成され、独自のポップ・サウンドで一時代を築くのです)
<ニュージャーニーメン>
キャスは、なんとこの後ジャズ・シンガーとしての活動を始め、デニーは、ニュージャーニーメンに参加することになります。そして、このバンドにジョンとミッシェルのフィリップス夫妻が所属していたわけなのです。時代はフォークから電気楽器を用いたフォーク・ロックへの変化の時をむかえようとしていました。ニュージャーニーメンもフォーク・ロックへの転換を目指しエレキ・ギターを導入、その活動の場をカリフォルニアへと移しました。そして、そこで再びキャス・エリオットと合流。ついに、1965年キャス・エリオット、デニー・ドハーティー、そしてフィリップス夫妻からなるザ・ママス&パパスが誕生しました。(ちなみに、ニュージャーニーメンの前身であるジャーニーメンには、スコット・マッケンジーが在籍していた。このつながりが、後にジョン・フィリップス作の大ヒット曲「花のサンフランシスコ」を生むことになる)
<夢のカリフォルニアにて>
彼らは先ずLAで昔からの友人だったバリー・マクガイアのバック・コーラスとして活動を始め、彼の紹介で、できたばかりのレーベル、ダンヒルのオーナー、ルー・アドラーと知り合い、契約を交わすことになりました。(バリー・マクガイアは、同じ年「明日なき世界」でソロ・デビューしています。この曲は、なんとベトナム戦争を批判したため放送禁止になったにも関わらず、全米ナンバー1に輝いた曲で後にRCサクセションも「カバーズ」で取り上げています)
こうして、デビュー・シングルには、フィリップス夫妻がバリー・マクガイアのために書いた曲「夢のカリフォルニア」が選ばれ、1965年に発売されます。そして、この曲はいきなり全米4位の大ヒットとなり、セカンド・シングル「マンデイ・マンデイ Monday.Monday」はいっきに一位を獲得、ファースト・アルバム"If You Can Believe Your Eye and Ears"もロング・セラーを記録し、彼らは一躍トップ・スターの仲間入りを果たしました。
時は1965年、ボブ・ディランがフォーク・からロックに転向し、フォーク・ロックの原点と言えるザ・バーズの「ミスター・タンブリンマン Mr.Tambourine Man」(ボブ・ディラン作)が6月には全米ナンバー1になっていました。
西海岸から登場したママス&パパスは、そんなフォーク・ロックの流れともうひとつサンフランシスコを中心に盛り上がりつつあったフラワー・ムーブメントの流れの両方にのって、一気にブレイクして行きます。(彼らのファッションは、代表的なフラワー・ムーブメントのそれでした)
<理想のグループから幻想のグループへ>
どのグループより美しいハーモニーをもつ彼らは、まるでシスコに生まれつつあったコミューンのように理想的なファミリー・グループというイメージを売り物としていました。しかし、その理想の姿が幻想であることは、すぐに明らかになって行きます。
ミッシェルとデニーの不倫関係を知った夫のジョンがミッシェルをグループから追放してしまったのです。結局、彼女はグループに復帰し、形だけのファミリーがかろうじて守られます。しかし、そんな状況でも、彼らはヒット曲を連発しています。1966年、セカンド・アルバム"The Mamas & The Papas" (全米4位)を発表し、そこからは"I Saw Her Again"(5位)、"Words Of Again" (73位)、"Dedicated To The One I Love"(2位)などのヒットを連発しています。翌年発表のサード・アルバム"The Mamas & The Papas Deliver"も全米2位に達するなどグループ内の不和が嘘のように彼らは活躍し続けます。
<夢の崩壊へ>
1968年に入ると、いよいよグループは崩壊への最終局面を向かえようとしていました。夫婦間に完全な亀裂が入っていたジョンとミッシェルは再び衝突し、彼女は今度こそグループを追放されます。キャスも、自らがリードをとって録音したグループの曲を自分のソロ・アルバムとして発表してしまい、いよいよグループはバラバラになってしまいました。
その後、ダンヒルとの契約により、4人はアルバムを制作しなければならなくなりますが、なんとその録音はジョン以外のメンバーがバラバラに録音したものをダビングして作られたものだったのです。(ラスト・アルバム"People Like Us"1971年発表)
その後、80年代に入り、ジョン、デニーとスコット・マッケンジーで、ママス&パパスが再結成されますが、すでにキャスはこの世を去っており(1974年、心臓麻痺で死亡)、ミッシェルも二度と戻ることはなく、かつての素晴らしいハーモニーが甦ることはありませんでした。
<フラワー・ジェネレーションの中心として>
彼らの活躍は、フォーク・ロックというジャンルをポップスとして、アメリカ全体に広めただけでなく、シーン全体の中心としての役割を果たしていたとも言われています。
1967年開催の大イベント、モンタレー・ポップ・フェスティバルでは、彼らは発起人となっただけでなく、コンサートのトリを務めており、まさに主役としての位置にいました。そして、「ママ・キャス」と呼ばれ、多くの人々に親しまれたキャス・エリオットは、その風貌どおりに面倒見の良さが有名で、多くのアーティストたちにとって母親的存在だったようです。まだデビューしたてで、初々しかったジョニ・ミッチェルのめんどうをみたり、後にロック史を変えることになるクロスビー、スティルス&ナッシュの結成を助けたりとフォーク・ロック初期のママ的役割を果たしました。ママス&パパスの大ヒット曲のひとつ「クリーク・アリー Creeque Alley」(1967年全米5位)には、そんなフォーク・ロック界のアーティストたちとの出会いが歌われています。(ザル・ヤノフスキー、ジョン・セバスチャン、ロジャー・マッギン、バリー・マクガイア・・・)
「60年代ヒッピー世代のママ&パパ」は、同時にアメリカン・ロックの源流とも言える「フォーク・ロックのママ&パパ」でもあったのです。
<想い出のカリフォルニア>
グレーの冬の空のもと、暖かなカリフォルニアに想いをはせる「夢のカリフォルニア」という曲のもつ懐かしさは、単なる暖かな土地への憧れから、二度と帰れない懐かしき時代、再び会うことのできない素晴らしき人々、素晴らしき音楽への憧れへと、その価値を少しずつ増しつつあるのかもしれません。
<締めのお言葉>
「悲しい映画を観ると、もう一度観たくなるの。今度はハッピー・エンドになるんじゃないかと思って」
映画「雨のニューオーリンズ」より
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