「真鶴 Manazuru 」

- 川上弘美 Hiromi Kawakami -

<「センセイの鞄」>
 川上弘美の2001年の小説「センセイの鞄」は、山口智子と柄本明の主演でテレビ・ドラマ化されました。それを見て、僕は久しぶりに向田邦子の新作を見ている気持ちになれました。そして、僕は前からファンだった山口智子演じる主人公とこの小説の著者、川上弘美さん、そのどちらにも惚れてしまいました。
 そんなわけで、原作の小説を読んだ後、すぐに僕は本作「真鶴」を読みました。しかし、正直、えっ?って感じでした。「センセイの鞄」とはまったく異なる作品に驚かされました。そして、この本は「男」には理解不能なのかもしれない。そんなことも思いました。すると、その後、しばらくして高橋源一郎師匠の「ニッポンの小説2」でこの小説が取上げられていました。
 高橋師匠は、本を読む時、気になる個所をチェックしてゆき、あとでそこを読み返して分析してみるそうですが、この本の場合、チェック個所が膨大になったにも関わらず分析不能であることに驚いたと書いていました。やっぱり、あの師匠でさえお手上げだと書いていたのですから、僕に理解が難しかったのも当然なのです。しかし!それで終わっては、このサイトの存在価値がなくなってしまいます。ということで、僕もこの小説にもう一度挑んでみることにしました。

<女性ならではの文章>
 「難しい」とは言っても、この本の文章はシンプルで読みやすいものです。問題は、著者の感性が女性ならではのもので、それが「男」には理解しずらいと思えることでした。例えば、この小説にはこんな文章があります。

 抱き合っていると、からだの輪郭だけになってしまったような心地になる。青茲の輪郭を、わたしの輪郭がなぞる、とけあいそうで、とけあわない輪郭の、なかみばかりが吹きよせられ、均らされ、また吹き寄せられる。
 そいのあいだよりも、そのあとのほうが、もっとからだがほどけるので、しばらく動けない。


 この文書は男には書けませんよね。さらに、生まれたばかりの娘(百)の唇と夫のことを語る次の部分は、母親をやったことのある女性じゃないと理解困難だと思います。

 やはり、いとおしい、ではなかった。熱いくちびるが一瞬うとましかった。うとましいと大事とは、反するものではないことを知った。男のからだを、そのようにうとましいと思ったことはなかった。男のからだが、夫のからだが、何より必要だと思っていた。百のからだは、必要ではなく大事なのだった。

 さて、どうやってこの本を読むか?とりあえず、僕も気になる部分をチェックしてゆきながら、後でその部分を並べ直してみました。すると、それらの文章は、いくつかのジャンルに分類できることがわかりました。
(1) 幽霊らしき女(もしかすると、主人公の夫と関係があったかもしれない)
(2) 主人公の娘(百)
(3) 主人公の母親
 他にも、行方不明の夫(礼)と妻子ある恋人(青茲)、二人の男に関する部分もあるのですが、この小説の読みどころは、やはり3人の女性と主人公の対話にありそうです。
 では、あらすじにそって、見てみたいと思います。

<あらすじ>
 ある日突然、夫が行方不明になった主人公の京。彼女はその後、家で文筆業をしながら女手ひとつで娘(百)を育て、母親と3人、夫の姓を名乗ったままで暮らしていました。そんなある日、彼女はふと伊豆の港町、真鶴へと一人旅に出かけます。すると、それまで気になっていなかった誰かが彼女についてきていることに気がつきます。それは幽霊なのか、消えた夫と何か関係がある誰かなのでしょうか?
 小さかった娘は大きくなり、もうすぐ彼女の元から離れようとしていました。そして、子育てを手伝ってくれていた母親もいつの間にか年をとり、どちら家族に対しても、彼女は別れを意識するようになり始めていました。
 その頃、彼女の恋人となった妻子ある男性(青茲)との関係は、彼女の心がまだ失踪した夫を忘れられずにいることから終わりの時を迎えようとしていました。
 なぜ、彼女は真鶴にひかれるのか?
 そして、彼女を真鶴に導く「謎の女」とは誰なのでしょうか?

 先ずは「謎の女」(以下「女」とします)に関する文章をいくつか選んでみました。

歩いていると、ついてくるものがあった。
 まだ遠いので、女なのか、男なのか、わからない。どちらでもいい、かまわず歩きつづけた。


ついてくるのは、海のものかと思った。夫は海が好きだった。

またついてくるものがある。
 こんどは女だ。ついてくるもののことを、誰に話したこともない。むろん、夫にも


 どうやら最初、この「女」は、男か女かもはっきりせず、人間かどうかもはっきりしていなかったようです。さらにいうと、そうした存在は「女」以外にもいるようで、それは人間的な存在ですらない場合もあるようです。

とたんに、ついてきた。密度の高いものだった。人間ではない、毛のはえた動物のようなもの。安定期に入り、つわりがおさまったころのわたしに、似たもの。水の匂いも、一緒にきた。頭を強くふると、ついてきたものは、離れた。

 なんだか不気味な存在です。しかし、彼女と行動を共にするようになったその「女」は、自ら彼女のもとにやってきて彼女に何かを伝えようとしているようでした。それは消えた夫、礼と関係がありそうです。

しばらく後に、その女が二日つづけてきたので、ふたたび真鶴に行こうと思った。礼となにか関係のある女だという気がした。


「礼、生きてるの?」
「さあ。」
「どこで、知ったの。」
「忘れた。」
 女の答えは、はかばかしくない。真鶴にきて、女はぜんたいに濃さを増したが、それ以上聞いてもしかたないと思った。


 いつしか「女」は彼女が娘といっしょの時にも現れるようになります。しかし、彼女は「女」が自分と娘の関係に割り込むことが許せません。

かえりみちで、ついてきた。あの女だ。
夕食の最中も、ついていた。ぬすんで食べる。百のものも、わたしのものも。
・・・
自分が怒ったのだということに、しばらくしてから気づく。女は逃げた。百とわたしのあいだに入ってくるものは、ゆるさない。そう思っていたことに気づく。


 それでも「女」は彼女に少しずつ関わってくるようになり、ついには向こうから話しかけてくるようにもなります。そして、ついに「女」が「真鶴」へ彼女を呼び寄せた理由が明らかになってきます。

 女に、話しかけられた。ついてくる女から、である。
 このごろ話しかけることはあるようになったが、向こうから話にくることは、まだ少ない。
「そろそろ、準備をして」女は言った。・・・
「ゆくんでしょう」女は、はきはきと言った。こんなにはきはきと話すのも珍しい。
「どこへ」
「真鶴」
 やはり真鶴だった。真鶴に、何があるのか、女に聞いた。
「七月には、船がでる」
 船は海を越えてずっと先へゆくのよ。女は話し続けた。・・・


 さらに「女」は彼女と娘の関係にも口をはさむようになり始めます。

 きもちがぼんやりしてくる。女のはんぶんすきとおった体の間に、海がみえる。よく光っている。百、だいすき。急に思う。さいすき、という言葉では言い尽くせない、でもほかに言葉を知らないから、だいすき、と、また思う。
「あなた、子どもにかかずらいすぎ」女に言われる。


 彼女と「女」の関係はいよいよ近づき、二人だけが存在する特異空間までもが登場します。

「近く、なった見たい、あなたと」女は嫣然と笑みながら言った。
 それで、音が聞こえなくなっているのだろうか。音だけではない、今さっきまで動いていたものらも、動きをとめてしまっている。給仕も客も、さいぜんにみたのと同じ姿勢で、誰かがこねた人形のように固まっている。

 彼女と「女」の関係はついに、二人の一体化にまでいたります。

「ほらみて、また濡れてる」女が腕をさしだした。こまかな雨が降ったりやんだりしている。女の肌は、雨粒をはじかず、ひたひたと濡れてゆく。
「わたしたち、ほんとうに近くなったのね」言うと、女はうなずいた。
「気をつけてね」女が背後にまわりながら言った。
 なにを?そう聞いてふりかえったときには、女は消えていた。からだの中ほどに違和感がきた。みぞおちの、すぐ下が激しく痛んだ。
 体重、少しヘル、という礼の日記の文字を思い出した。両腕を自分のからだにまわし、だきしめた。つよく、だきしめた。


 二人の一体化は、もしかすると二人は元々同一人物だったのではないか?そんな疑問をもたらします。そして、彼女はその後、ついに「女」と最初に出会った時のことを思い出します。

 ゆがんだあれは、たしかにわたしの顔だったのに、いつの間にか違う者の顔に変わっていった。
 あっと息をのんだ。
 あのときだったのだ。はじめて、はっきりとついてきたのは。

(礼を尾行して地下鉄に乗った時のこと。そこに「女」がいた)

 いつしか「女」は彼女と娘との関係についても語り合うようになります。どんどん二人は近づいてゆきました。

ばかね、と女が言う。
ついてくるのも、ひさかたぶりだ。
礼のことならば、いまは、知らない。ぷいと言うと、女は笑った。
生きている人間は、いそがしいのねえ。
そう言って、笑った。
そういえば、いそがしく変わりながら、生きてきた。けさの景色も、昼にはうつる。夜の気分も、朝にはかわる。去年の帽子は、今年もう、かぶらない。
「百ともちがってしまったしね」思わず、女にうったえる。親身になってくれるはずもないのに。
「生んだ子は、なおさら、そうなのよね」
はしなくも、女は身をいれてきた。
「じっとみつめて、どんなふうに変わってゆくのか愉しんで悦んで、でもある日、フ、とどこかに行っちゃうのよね」


 やはり「女」は彼女の一部なのでしょうか?ついに二人は彼女の中でひとつになり、そこにはかすかな痛みだけが残ったということなのでしょうか?

もう、何もついてこない。
からだのまわりが、ひらびらしていて、少しさむい。
胸もとに痛みがすこしきて、すぐに去った。この痛みにも、なじんだ。なじみながら、これからは、ほのぐらいところをあるいてゆくのだ。ほのぐらさの果てには、この家に差しているような光がまた、あらわれるのだろうか。


 「女」と彼女の関係がひとつになったのだとしたら、彼女と娘「百」との関係は、その逆だったということかもしれません。ということで、次に娘の百に関する文章を並べて見ます。

百はこのごろむっつりしている。機嫌が悪いというのではなく、にこやかにするのには力が必要なとしごろなのだ。ただそのままにしていると、むっつりしたさまになる。

 年頃の少女だから難しいのか?それとも母親との関係がうまくいっていないのか?もしくは、母親から離れるためにあえて距離をおこうとしているのか?

 リビングに戻ると、百は雑誌を開いていた。髪切ろうかな、とつぶやいている。切るのも似合うと思うよ。そう言うと、またむっつりした。今夜はお鍋だって。しばらくしてから百は言った。いつから百は近いものではなくなったのだろう。遠い、よりは近い、けれど近い、よりは遠いものになっていった。

 かつて自らの身体の一部であった娘は、父親との関係とは異なりもうひとりの彼女だったといえます。元々が他人の父親とは異なるより深い人間関係が生じているからこそ、二人の間の変化は複雑なのかもしれません。
 それでも育ち行く子どもを見つめる目線は父親にもあるわけなので、僕にも少しは理解できます。

 こんなふうに傷みをくわえることのできるのは、百だけだ。容赦がない。やわらかなところへ、かまわずくわえてくる。跡になって膿むとも知らず。百には、やわらかな部分しか、さらせないのだ。かたくおおって守ればいいものを、むかし、百を自分のからだが所有していたことをおぼえていて、へだてをつくって拒むことはできない。

・・・育ってゆくことは、うとましい。育っている百がうとましいのではなく、育つということじたいが。よけいなものを、たくさんまき散らす。本人にはどうしようもない。だからかわいそうになる。幼くて、知らなくて。
 ふえゆくことが、うとましいのだろうか。からだや、きもちや。子供を生もうとしている女も、そういえば、うとましい。もてあました。百を生もうとしていた自分を。


 こうした娘と彼女の確執は、さらにもうひと世代上の彼女とその母親との関係にも存在します。彼女の場合は、夫との関係(夫婦)により、一度親子関係は切れています。娘と姑の関係の難しさはわかりやすいのですが、こうした姑と息子の関係となると、これまた理解しずらいものがあります。

母は、だから礼を好いていなかったのだろう。近いものを遠ざけられた、はこびかたが上手で、かけらや切れ端がいくつも残るようではなく、ぴったりとあった大きさの箱に、詰めこみもせず隙間が空くでもなく、易々とわたしをしまいこみ、はこんでいってしまった。近かったのに、礼という男が遠ざけた、娘。

 女の子の母親であるということは、彼女の母親は先輩であり、自分の娘(京)と孫を育てた経験から語れることには重みがあります。

・・・年ごろ、じゃなくて、始まり、なのよ、たぶん。
「はじまり?」
終わりの、始まり、かしら。
「おわり」
そうよ。もうあの小さな京はいなくなっちゃって、ちがう人になってしまう、そういう、終わり。
「そんなたいしたものだったかしら」と、わたしは笑った。母も笑った。そんな簡単に大人にならないわ。なれないわ。今だって、なんだかまだ一定しないし。言いあって、また笑う。
百に、もっとふれたいのね、あなた。
母がしずかに言った。
でも、人は、そんなにかんたんに、人にふれさせてもらえないのよね。
つづけて、言った。
わけもわからぬままぞくりとして、母の顔を見た。子供でも?血をわけて腹をいためた子供でも?いそいで聞いた。
あら京ったら、あなたこそ子供になってるわよ。


それにしても「真鶴」とは彼女にとって何だったのでしょうか?
夫の礼の死んだ場所?
そして、その夫の霊が彼女を招いた場所?
さらに母と娘、そして孫の親離れに、子離れの思い出の場所となったことで、「真鶴」は、より深い意味をもつことになるのでしょう。熱海のようなにぎやかな街ではなく、静かで小さな真鶴の街には僕も昔行ったことがあります、真鶴から船に乗ってスキューバ・ダイビングのポイントまで行った記憶があります。正直、街についての記憶はほとんどありません。どこにでもある小さな港街だったように思います。ただそこが、海につながる入り口だったことは間違いありません。母なる海への玄関口であることも「真鶴」である条件のひとつなのでしょう。

 まなづる。ささやいてみる。なつかしくなる。真鶴にいるのに、真鶴がなつかしくなる。まなづる。胸もとに、また痛みがくる。

 礼、遠いいつか、あなたとも、会えるのね。
 真鶴の夜の海のさざなみのたつおもてに、燃えさかる船はしずんでいった。何もないところから来て、何もないところへ戻ってゆく。百のやわらかな声が遠くでひびき、公園いっぱいに光が満ちた。


 改めてこの本を読んでみると、女性作家による本格的な私小説というある意味時代錯誤的な作品でもあります。でも21世紀の今、こうした私小説を書くことは、新しい試みでもあり、そこに加えられた幻想的な雰囲気は泉鏡花の現代版のようで魅力的です。そんな怪しい雰囲気を生み出している仕掛けのひとつ、漢字が少なく、句読点の異常に多い独特の文体も曲者です。
 細かく区切られ、小津安二郎の映画のセリフ回しのようになるこの小説の文章は、それだけでレトロな雰囲気を感じさせます。プロの作家は、作品によって文体を変えられるようではないとだめなのかもしれません。
 なんだか、タマネギの皮をむくように、結局、この小説の中身はよくわからなかったようです。でも、面白かった!あなたも、是非、この小説に挑戦してみてください。

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