マンガの歴史 History of Manga

- 世界をリードする日本文化「MANGA」の歴史 -

<はじめに>
 今や世界のエンターテイメントの中心になった観のあるジャパニメーション。ハリウッドの映画界も日本のアニメに注目し、その実写映画化権の獲得競争が繰り広げられています。そんな日本のアニメを掘り下げて行くことは、「漫画」の歴史を知ることにつながります。
 今回、その漫画に手をつけようと思うのですが、そこで改めて思ったのは、僕が育ってきた時代はそのまま漫画の発展期に当たっていたということです。といっても、僕が漫画にはまっていたのは小学生の頃ぐらいまでで、それ以降は小説や映画の世界に移行してしまったので、1980年代以降の漫画は斜めに見ていたように思います。それでも、1990年代に入ってからは我が家に男の子が生まれ、再びアニメをテレビで見るようになり、本は読んでいなくても漫画にはかなり詳しくなりました。
 さて、ここでは日本の漫画史における事件や主な作品を年代を追って書き出してみたいと思います。

<20世紀以前の漫画>
 世界の美術史から見ても最古の「漫画」にあたる存在は、平安時代末期に書かれた「鳥獣人物戯画」ではないかと言われています。それは写実的な絵画とは異なる「遊び心」をもって描かれた「エンターテイメント絵画」を「漫画」とみるなら間違ってはいないのかもしれません。ただし、当時の絵巻物は、ごく一部の貴族や僧侶たちのものにすぎませんでした。「漫画」が大衆のための娯楽文化として大きく発展するためには、印刷機などの複製技術の登場が不可欠だったのです。その意味では、18世紀初め(江戸中期)に大阪などで人気を得た「鳥羽絵本」と呼ばれた戯画本こそ、本当の意味の「漫画」だったといえるのかもしれません。大阪生まれのその娯楽文化は、すぐに江戸にも広がります。こうして、18世紀末の写楽による役者絵や1814年に登場した葛飾北斎の「北斎漫画」など、浮世絵文化として、さらなる人気を獲得してゆきました。しかし、こうした浮世絵の発展だけから「漫画」が生まれたとはいえないでしょう。そこには写実性や批判的視点、それにギャグの要素、それにストーリー性などが不足していたからです。では、そうした要素をどこから補ったのでしょうか?意外なことに、それは海外の漫画から吸収されたものでした。

<海外からの漫画文化流入>
 海外から漫画文化を持ち込んだ原点ともいえるのは、1862年(文久2年)に横浜の外国人居留地で創刊された漫画雑誌「ジャパン・パンチ」です。イギリス人のチャールズ・ワーグマンによるこの雑誌は、日本人の風俗や時代の流れを風刺する内容で、明治20年まで続き、文明開化の日本に大きな影響を与えました。そのため、日本では諷刺画のことを「パンチ」と呼ぶようになり、後の「平凡パンチ」などのもとになります。
 ちなみに、「パンチ Punch」とは、もともとがイギリスの有名な諷刺雑誌のタイトルです。しかし、さらにそのもとになっているのは、「パンチネロ Punchnello」という17世紀イタリアの人形劇の主人公の名前です。そのずんぐりむっくり体型の道化師パンチネロの名前が略されて「パンチもしくはポンチ」という名前が生まれたのでした。「ジャパン・パンチ」の影響を受けながら社会諷刺週刊誌として、1877年に創刊されたのが「團團珍聞(マルマルチンブン)」です。武家の出身で英国留学の経験があった野村文夫という人物が自由民権運動の盛り上がりを背景に作ったこの雑誌は全国各地で売られ人気を獲得。その影響を受けて様々な諷刺雑誌が誕生することになります。
 次に日本の漫画に大きな影響を与えたのは、フランス人の画家ジョルジュ・ビゴーです。もともとヨーロッパで一大ブームとなっていたジャポニズム・アートに憧れて日本にやってきた彼は、日本で画学を教えながら、1887年諷刺雑誌「トバエ」を創刊します。(もちろん「トバエ」とは、「鳥羽絵」からとられた名前です)彼は17年間日本で出版活動を続け、日本の軍国化に警鐘を鳴らし続けますが、警察からの弾圧を受けるようになり日本を離れざるをえなくなりました。しかし、こうした彼の姿勢はその後、日本人にも受け継がれてゆくことになります。
1900年代
1901年 宮武骸骨が雑誌「滑稽新聞」を創刊
1902年 「時事新報」に日曜漫画欄「時事漫画」が登場
1905年 北沢楽天が週刊誌「東京パック」を創刊
1906年 「東京パック」に対抗して、「大阪パック」創刊
1907年 絵葉書で出来た本が大人気となり、そのブームに乗り、宮武が遺骨が「絵葉書世界」を創刊

<宮武骸骨、登場!>
 骨太なジャーナリズム的諷刺漫画の世界を日本で発展させ、今や伝説的な存在となった人物、それが宮武骸骨です。「ジャパン・パンチ」が終刊となった都市、1887年、宮武骸骨は「頓知協会雑誌」を創刊。ところが、その痛烈な政治批判は明治政府にマークされることとなり、明治憲法の発布式のパロディー描写が不敬罪にあたると訴えられます。彼は、雑誌を発禁にされただけでなく、罰金と禁固刑を言い渡されます。普通ならこれで出版活動は終わるところですが、彼はそうしませんでした。刑期を終えた彼は、すぐに出版活動を再開します。雑誌の名前を変えた雑誌において、彼は牢獄での生活をネタにするなど、まったく悪びれることはありませんでした。そんな彼の雑誌を支える自由な風潮も当時はまだ十分に残っていたということでもあるでしょう。
 1901年に彼が大阪で創刊した「滑稽新聞」は、こうして彼の出版活動を象徴する雑誌として今や伝説的存在となりつつあります。様々なアイデアと過激な思想を盛り込んだこの雑誌は、その後も治安当局に摘発され続けますが、彼は資材を投げ打って出版し続けます。
 ペンによる反政府活動を続けた宮武骸骨の存在は、時代を越えて今でも多くのファンをうならせ続けています。

<ポンチ絵ブーム>
 前述の「團團珍聞」に政治諷刺漫画を描いていた田口米作は、1896年三号にわたり6コマ漫画「江ノ島鎌倉長短旅行」を発表。デコボコ・コンビ「長」と「短」の珍道中を描いたこの三連作漫画は、漫画史における初の連載コマ漫画といわれています。
 明治28年(1895年)に日清戦争が始まると、それを題材にした浮世絵師たちによる戯画錦絵が次々に発表され、ポンチ絵ブームが起きました。(ポンチはパンチがなまったもの)そこへ宮武骸骨の「滑稽新聞」が登場すると、その人気に便乗して東京でも対抗する漫画雑誌「東京パック」が創刊されます。東京の漫画界を代表する存在となった北沢楽天のこの雑誌と宮武の「滑稽新聞」はともに好調時には、全国で8〜10万部を発行していたといいます。こうした時代の流れに乗って、大阪では「大阪パック」が、さらに1907年には初の少年向け漫画雑誌「少年パック」も創刊されました。
 しかし、1910年「大逆事件」によって、政府批判が困難な時代が訪れ、多くの雑誌が反政府的とされ廃刊に追い込まれてゆきます。
1910年代
1915年 岡本一平が東京漫画会を結成。(後に日本漫画会となります)
第一回漫画祭開催。
1916年 岡本一平、近藤浩一路ら東京美術学校卒業生らを中心に「トバエ」創刊(ヨーロッパ美術の影響を受けた漫画誌として漫画史に大きな影響を与える)
1919年 宮武骸骨が雑誌「赤」を創刊(プロレタリア運動のブームに乗った内容)

<大正デモクラシー>
 1917年、ロシア革命が起きます。その後、世界中で社会主義が大きなブームとなり、日本でも社会主義思想が急激に広まりをみせ、「大正デモクラシー」の時代がやってきます。1918年、富山で主婦たちが起こした米騒動は全国に広がりをみせ、当時の寺内内閣は総辞職に追い込まれてしまいます。漫画の世界でも、そうした流れを受けて「プロレタリア漫画」と呼ばれるジャンルが登場し、宮武骸骨はズバリ「赤」という漫画雑誌を創刊しています。漫画が再び勢いを取り戻したこの時代に、その地位を確立し、文化としての漫画を完成の域へと高める役割を果たしたのが、あの岡本太郎の父親、岡本一平でした。

<岡本一平>
 岡本一平は、1886年北海道の函館に生まれています。5歳の時、東京日本橋へと引越した彼は、東京美術学校で西洋画を学びました。画家として成功を目指すものの、その夢はかなわず、26歳の時、朝日新聞社に入社。社会面に絵と文章による社会諷刺漫画を描き始めます。自ら「漫画漫文」と名づけたこのスタイルは、一躍人気を獲得。これ以後、漫画家は絵だけではなく自ら文章も書くのが常識となってゆきます。
 さらに彼は「朝日新聞」に「人の一生」という連載漫画を執筆。唯野人成(タダノヒトナリ)という平凡な男のサクセス・ストーリーを絵と文章によって何年にもわたって描き続けたこのシリーズは「漫画小説」と呼ばれました。彼は当時娯楽の中心となりつつあった活動写真の大ファンだったことから、フィルムのコマを意識した連続漫画を描きました。「映画小説」ともいわれた、このスタイルも、その後のコマ割り漫画に大きな影響を与えることになりました。
 さらに彼の功績として特筆すべきなのは、東京在住の漫画家たちに声をかけ、1915年東京漫画会を結成したことです。この団体は後に日本漫画会と名前を改め、漫画家たちの親睦だけでなく、漫画祭や展覧会、講演会などを開催。職業漫画家という新しい職業を広く世間に認知させることになりました。さらに彼は仲間たちと日本初の漫画同人誌「トバエ」を発行。フランスやドイツの雑誌からの影響を取りいれた実験的な内容で、美術としての漫画のレベル向上を目指す画期的な試みでした。
 数多くの作品を発表し続けた彼は、それらの作品を「一平全集」としてまとめて発売。全十五巻のセットが、なんと5万セットも売れたといいます。当然、彼はそのおかげで多額の印税を受け取ることになりました。そして、そうして得た収入を用いて、彼は妻のかの子と息子の太郎、そしてなんと妻の恋人までも連れて、2年3ヶ月にわたる世界旅行。さらには太郎を芸術家にするため、パリに留学させることができたのです。この時代、未だ先進国の仲間入りもしていない日本からパリへと留学させるのにどれだけのお金が必要だったのか?そう考えると、漫画なくして芸術家、岡本太郎も、「太陽の塔」も生まれることはなかったのです。まだ漫画は生まれたばかりでしたが、それでもその分野で成功することは、現在の人気マンガ家に匹敵する報酬を得ることも可能だったというのは驚きです。
1920年代
1923年 「アサヒグラフ」が「正チャンの冒険」と「親爺教育」(ジョージ・マクマナス作のアメリカ製漫画)を連載開始
報知新聞が「ノンキナトウサン」(麻生豊)を連載
1924年 本格的な子供向け漫画誌「子供パック」創刊
1928年 「現代漫画大観」全10巻が刊行される。漫画全集のブームがおきる
元祖少女漫画「とんだはね子」(北沢楽天)
1929年 北沢楽天が自らの欧米旅行をもとに「世界漫遊漫画」を「時事漫画」に発表
岡本一平の作品を集めた「一平全集」が5万セット突破!

<戦争の時代へ>
 岡本一平の「人の一生」と並び、連載漫画の名作重要なのが麻生豊の「ノンキナトウサン」(1923年)です。同じ年、アサヒグラフに連載されていたアメリカの作家ジョージ・マクマナスの「親爺教育」の影響を受けたといわれるその漫画は、ダメなとうさんの波乱万丈な人生を描いた味わい不快ギャグ漫画として大きな話題になりました。
 トボけたキャラクターを主人公にその人生を描いた連載ギャグマンがの原点はこの「ノンキナトウサン」と言われています。さらに大人のアイドルが「ノントウ」だったのに対し、子供たちのアイドルとして、新たな子供向け漫画の世界を切り拓いたのが「正チャンの冒険」(1923年横島勝一(画)織田小星(文))でした。
 北沢楽天によって創刊された「東京パック」は、1928年第四次「東京パック」として新たな時代に突入。当時の時代背景を映し出すように、エロチック漫画とプロレタリア漫画が紙面の中心となり、再び人気を盛り返しました。しかし、戦争の始まりとともに出版事業は困難な状況となり、1941年にはこの雑誌も休刊となります。
 大人向けの漫画が、時代の右傾化とともにどんどん厳しくなってゆく中、逆に戦争直前まで勢いがあったのは子供漫画の世界でした。
 特に有名な作品としては、1931年「少年倶楽部」での連載が始まった田川水泡の「のらくろ」は、その代表的な作品として11年間にわたって連載が続きました。1930年に出版された「長靴の三銃士」(牧野大誓(画)井元水明(文))。1934年から「幼年倶楽部」で連載が始まった阿本牙城による「タンクタンクロー」は、コメディー・タッチとはいえ、史上初の戦場用サイボーグ漫画でした。
 「のらくろ」の人気を受けた動物漫画としては、1935年から7年にわたって「幼年倶楽部」に連載された「コグマのコロスケ」もありました。その他にも、時代を反映した子供漫画「冒険ダン吉」(島田啓三)や「日の丸旗之助」(中島菊夫)などもブームも起こしました。しかし、そうした人気漫画も戦争の始まりにより連載中止を余儀なくされることになります。
1930年代
1930年 「読売新聞」が日曜版漫画付録「読売サンデー漫画」を創刊
「長靴の三銃士」(牧野大誓(文)井元水明(画))
1931年 少年倶楽部に「のらくろ」連載開始(田河水泡)
1933年 中村書店が児童向け漫画本の刊行開始
1940年 新漫画家協会発足。機関誌「漫画」刊行
1943年 益子善之「月月金チャン」(戦意高揚漫画時代の始まり)
1944年 この年後半から終戦まで主要新聞から漫画が消える

<終戦後の漫画界>
 1945年、終戦とともに漫画界はすぐに動き出します。終戦の日から2週間後には漫画雑誌「漫画」が復刊。翌年には時代を象徴する新時代の総合諷刺雑誌「VAN」が創刊されます。(横溝正史の小説も掲載されていた)
 この時代は特に社会諷刺雑誌がブームとなり、「真相」(1946年)、「クマンバチ」(1947年)などが次々に登場しました。そして、そんな終戦後の厳しい時代に早くも現代へとつながる作品も登場しています。1946年「夕刊フクニチ」に連載が始まった「サザエさん」(長谷川町子)です。
 しかし、その後、日本は朝鮮戦争による特需景気などにより、高度経済成長時代へと突入。社会の安定とともに社会諷刺、政治批判のマンガは急激に減ってゆきます。そんな中、1954年に創刊された「文藝春秋臨時増刊 漫画読本」は、娯楽的な要素をもつ新しいタイプの漫画を収めて新たな漫画ブームの火付け役となりました。

 同じ頃、新たに登場した漫画本のスタイルとして「貸本マンガ」があります。
 一冊10円程度でマンガ本を借りて読めるというのは、現在のレンタル・ビデオ店のシステムと似ていてある意味必然的に生まれたブームともいえそうです。そして、貸本マンガの登場は、貸本漫画専門店と貸本漫画雑誌を生み出すことにもまりました。
 1956年に大阪で創刊された「影」は、そんな貸本漫画誌の先駆けでしたが、その中に連載されていた辰巳ヨシヒロの「幽霊タクシー」の中で漫画界では初となる「劇画」という言葉が登場しています。「劇画」の登場により、それまで子供向けか大人向けどちらかだった漫画の読者層は、その中間層ともいえる青年たちにも広がり始めることになります。そうした青年層に受けた作品の代表作が、白土三平の「忍者武芸帖」です。
 単なる忍者アクション漫画ではなく、農民やそれ以下の扱いを受けていた階層の人々が支配層である侍たちに反乱を起こすという社会派のストーリー展開は、当時日本中に広がりをみせていた安保闘争を思わせるものでした。ただし、これらの作品は貸本の作品だったことから発行部数は少なく6000部程度だったようです。そのため、日本が経済的に豊かになりだし、大手出版社により安価な週刊誌が登場するようになると、こうした貸本漫画の時代は1960年代半ばには、いっきに終わりを迎えることになります。

<貸本漫画出身者>
 つげ義春、白土三平、辰巳ヨシヒロ、さいとうたかお、水木しげる、楳図かずお、小島剛、永島慎二、佐藤まさあき・・・などは、恐怖漫画系、もしくは「ガロ」系の青年漫画の作家たち。
 彼らに対し、その対局に位置する同時代の作家には、手塚治虫、石森章太郎など、児童漫画の作家たちがいました。

1940年代
1945年 終戦から二週間後、「漫画」が復刊
「フクチャンマンガ」横山隆一
1946年 「ヤネウララちゃん」(南部正太郎)が大阪新聞に連載開始
「ブロンディ」(チック・ヤング)が週刊朝日に連載開始
「子供マンガ新聞」創刊(子供向けの安価なマンガとして広く普及する)
「サザエさん」(長谷川町子)が「夕刊フジ」に連載開始(その後、朝日新聞にて連載となる)
1947年 関西を中心に赤本マンガのブームが広がる
「バット君」(井上一雄)が漫画少年に連載開始
「新宝島」(酒井七島(構)手塚治虫(画))
1948年 「月刊子供マンガ」、「コドモ大阪」など子供向けマンガ誌が相次いで創刊される
「冒険ターザン」横井福次郎
岡本一平死去
1949年 「サザエさん」(長谷川町子)朝日新聞にて連載開始
「冒険王」(秋田書店)、「おもしろブック」(集英社)創刊
1950年代
1952年 「イガグリ君」福井英一(「冒険王」に連載)
「鉄腕アトム」手塚治虫(「少年」光文社)
「チョウチョウ交響曲」うしおそうじ
1953年 「リボンの騎士」手塚治虫
1954年 「赤胴鈴之助」武内つなよし(「少年画報」)
「火の鳥」手塚治虫
1955年 少年向けマンガ雑誌「ぼくら」(講談社)、子供向けマンガ雑誌「なかよし」(講談社)、少女向けマンガ雑誌「りぼん」(集英社)
大人向け漫画雑誌「漫画読売」、「漫画タイム」などが次々創刊
「二級天使」石森章太郎
1956年 「フクちゃん」横山隆一(「毎日新聞」)
「おせんち小町」うしおそうじ
1957年 辰巳ヨシヒロの「幽霊タクシー」で「劇画」という言葉が始めて使用される
「赤胴鈴之助」がラジオ・ドラマ化され、一大ブームとなる
1958年 日本初の長編アニメ映画「白蛇伝」(東映動画)
1959年 初の少年週刊漫画雑誌「少年マガジン」(講談社)、「少年サンデー」(小学館)
「忍者武芸帖」白土三平(全17巻の刊行開始)

<少年マンガの時代>
 初の少年マンガ雑誌「少年マガジン」の創刊は、1959年3月26日。当初の目玉作品はマンガではなく川内康半の小説「月光仮面」でした。当初はそれほど売り上げも上がらずにいましたが、1966年に梶原一騎(原)川崎のぼる(画)の名作「巨人の星」が連載されたあたりから、売り上げが急激に伸び始め100万部を突破。さらに1967年に赤塚不二夫の「天才バカボン」、1968年に高森朝雄(原)ちばてつや(画)の「あしたのジョー」などが登場し、150万部を突破します。
 1959年「少年マガジン」の発売からわずか一週間後には、「少年サンデー」が創刊され、いよいよ少年マンガの競合が始まることになります。1963年に「少年キング」、1968年に「少年チャンピオン」、1969年に「少年ジャンプ」が創刊され、大手の雑誌が出揃うことになります。これらの雑誌が競合することで、売り上げはどんどん伸びてゆき、1978年に「少年チャンピオン」が200万部を突破し、1980年には今度は「少年ジャンプ」が300万部を突破。同誌はさらに売り上げを伸ばし、1985年に400万部を、1989年にはいよいよ500万部を突破した後、1991年には600万部を越え、1994年ピークとなる記録653万部という売り上げを記録しています。

1960年代
1960年 貸本漫画誌「刑事」創刊(トップ社)さいとうたかお、永島慎二、つげ義春らが寄稿
「スポーツマン金太郎」寺田ヒロオ(第一回講談社児童漫画賞)
1962年 「おそ松くん」赤塚不二夫(少年サンデー)イヤミの名文句?「シェー!」が大流行
1963年 日本初のテレビ・アニメ「鉄腕アトム」(手塚治虫)放映開始
この後、「鉄人28号」「8マン」「狼少年ケン」なども放映開始
「8マン」平井和正(原)桑田次郎(画)
少女向け雑誌「少女フレンド」(講談社)、「マーガレット」(集英社)創刊
1964年 「オバケのQ太郎」藤子不二雄(少年サンデー)
「サイボーグ009」石森章太郎(少年キング)
青年向けマンガ雑誌「ガロ」創刊(長井勝一編集)
日本漫画家協会設立
1965年 「フジ三太郎」サトウサンペイ(朝日新聞)
「カムイ外伝」白土三平
「墓場鬼太郎」水木しげる(少年マガジン)
「ハリスの旋風」ちばてつや(少年マガジン)
「おそ松くん」第10回小学館漫画大賞受賞(赤塚不二夫時代始まる)
講談社「別冊少女フレンド」創刊
1966年 「巨人の星」梶原一騎(原)川崎のぼる(画)の人気により「少年マガジン」の売り上げが100万部を突破
テレビアニメ「鉄腕アトム」最終回
「おそ松くん」テレビで放映開始(おそ松、カラ松、トド松、一松、十四松、チョロ松だけでなく、チビ太、イヤミ、デカパン、ハタ坊らのサブ・キャラもブレイクし、赤塚不二夫時代始まる)
「幼い子供たちをこの四年間、ブラウン管の前にクギづけにさせてきた<鉄腕アトム>が大晦日の夜死ぬ。スーパーマン的なアトムの力も、そのたくましい正義感も、現代社会が持つ非情さにやはり無力だった。
「殺さないで」「もっとつづけて」番組の終了をテレビで流してから、作者の手塚治虫さんのもとには毎日こういう幼児やママさんたちの助命嘆願が殺到しているという」

毎日新聞12月24日
1967年 「山椒魚」「李さん一家」「紅い花」つげ義春(「ガロ」)
「ルパン三世」モンキーパンチ
「天才バカボン」赤塚不二夫(「少年マガジン」)
石森章太郎「ジュン」連載開始
「COM」(手塚治虫主催の虫プロの雑誌)「火の鳥」連載開始
永島慎二「フーテン」(COMに掲載開始)
「漫画アクション」(双葉社)、「ヤングコミック」(少年画報社)
1968年 「あしたのジョー」ちばてつや(少年マガジン)
「ねじ式」つげ義春「(ガロ)
「ハレンチ学園」永井豪(少年ジャンプ)
「ビッグコミック」(小学館)、「少年ジャンプ」(集英社)、「プレイコミック」(秋田書店)
1969年 「ゴルゴ13」さいとうたかお
「少年チャンピオン」(秋田書店)
アニメ「サザエさん」放映開始

<「ガロ」誕生>
 1964年9月に創刊された漫画雑誌「ガロ」は、青年向けの内容であると同時にアート志向のセンスをもつ日本の漫画が究めたひとつの到達点ともいえるものでした。それ以前に白土三平の「忍者武芸帖」や水木しげるの「鬼太郎夜話」をヒットさせていた編集者、長井勝一は、1950年代半ばに自ら三洋社を立ち上げ数々の話題作を世に送り出し、漫画界の新しい時代を築きつつありました。しかし、結核を患ってしまたために入院を余儀なくされ、三洋社は解散してしまいます。それでも彼の漫画に賭ける情熱は変わることはなく、1962年、青林堂を設立し再び活動を始めます。時代は貸本ブームの終わる頃で、彼は新しい時代に向けて一般書店で販売するための新雑誌を企画。こうして、彼は白土三平の作品を中心とする漫画雑誌「ガロ」を創刊。(「ガロ」の名前は、白土三平の作品に登場するキャラクター「大魔のガロ」からとられました)学生運動が盛り上がりをみせた1960年代後半、「ガロ」は学生たちの間で絶大な人気を誇りました。こうして、白土三平の「カムイ伝」、つげ義春の「紅い花」、林静一の「赤色エレジー」、水木しげるの「イソップ式漫画講座」、滝田ゆうの「寺島町奇譚」などの名作が次々に誕生しました。
 子供向けの漫画で育った若者たちが、自分たちの世代のための漫画を得たことで、漫画文化は青年層をも取り込み始め、より文学的、より前衛的、より政治的ま作品を生み出すようになってゆきました。
 「ガロ」はその後、1996年に長井が75歳でこの世を去ってもなお発行され続けましたが、1997年についに休刊となりました。その後も一度は復活するものの、1998年またも休刊しています。
 「ガロ」によって育てられた作家たちは数多く、彼らによって、大人向けの漫画は完全に定着。日本の漫画の質は世界に類を見ないほどの高いレベルに達することになります。

「いま当時の『ガロ』を振り返ってみるとその大きな特色は『片隅の抒情』ではなかったかと思う。つげ義春をはじめとしてその弟のつげ忠男、あるいは滝田ゆう、辰巳ヨシヒロ、林静一、亡き楠勝平ら。彼らの作品にはどこか社会の片隅にいる人間の醒めた悲哀があった。世の中は東京オリンピック以降、高度経済成長の明るく豊かな時代になっていたが、『ガロ』にはそうした明るさに背を向けるところがあった。といって反抗とか抵抗という強い姿勢ではない。暗い、隅っこのところでうずくまっていたいとう静かな諦念。」
川本三郎「時には漫画の話を」より

1970年代
1970年 「ヤスジのメッタメカガキ道講座」谷岡ヤスジ(「アサーッ」「鼻血ブー」「オラオラ」などの言葉が一大ブームとなる)
「子連れ狼」小池一夫、小島剛夕
1971年 「仮面ライダー」石森章太郎(「変身もの」の一大ブームがやってきました)
「リイドコミック」(さいとうたかおプロ)
1972年 「ベルサイユのばら」池田理代子(週刊マーガレット)
「ポー一族」萩尾望都(別冊少女コミック)
「同棲時代」上村一夫
「ドカベン」水島新司(少年チャンピオン)
海外コミックの専門誌「WOO」創刊
「まんがNo.1」(赤塚不二夫による編集)
アニメ「科学忍者隊ガッチャマン」
1973年 「釣キチ三平」矢口高雄(少年マガジン)
「ブラック・ジャック」手塚治虫
1974年 「ガキデカ」山上たつひこ(少年チャンピオン)
「ドラえもん」藤子F不二雄
「オバQやドラえもんが子供たちの心をとらえたのは、彼らが現実とは違う世界の住人だからだ。いわば「原っぱ」の住人だったからだ。子供は、彼らになら心を開くことが出来る。選ぶことが出来る。そして、彼らとコンタクトを取ることによって大人へと成長してゆくことが出来る。」
川本三郎「時には漫画の話を」より
アニメ「アルプスの少女ハイジ」、「宇宙戦艦ヤマト」放映開始
1975年 第1回「コミックマーケット」開催(アマチュア漫画家による同人誌展示即売)一般参加者は700人
宝塚歌劇団公演「ベルサイユのばら」が大ヒットし、「ベルばら」ブーム巻き起こる。
「鳴呼!!花の応援団」どおくまん
「まことちゃん」梅図かずお(少年サンデー)
「楳図かずおにとって、子供とはいつも外界におびえている者である。親の保護もなく大人の理性もなく、ただ寒風のなかでふるえる木の葉のように、世界のなかで孤立している。恐怖心で心をはりさけそうにしている。だからこそ子供は神に接近できる。大人となって理性や常識を獲得したとき恐怖心は消失し、そのとき、神もまた消えてしまう。」
川本三郎「時には漫画の話でも」より
アニメ「まんが日本昔ばなし」放映開始
1976年 「ブラック・アングル」山藤章二
「ガラスの仮面」美内すずえ
1977年 「風と木の詩」竹宮恵子
「銀河鉄道999」松本零士
「手塚治虫全集」全300巻の刊行開始
1978年 「がんばれ!!タブチ君!!」いしいひさいち(この作品の大ヒットから4コマ漫画のブーム始まる)
「綿の国星」大島弓子
「1、2の三四郎」小林まこと(少年マガジン)
アニメ「未来少年コナン」(宮崎駿)放映
1979年 「うる星やつら」高橋留美子
「じゃリン子チエ」はるき悦巳(漫画アクション)
「狩人の星座」里中満智子
1980年代
1980年 「Dr.スランプ」鳥山明(少年ジャンプ)
「悪女」深見じゅん
「少年マガジン」「少年サンデー」「少年キング」「少年ジャンプ」「少年チャンピオン」五誌の発行部数合計が1000万部を突破!
1981年 「タッチ」あだち充
「キャプテン翼」高橋陽一(少年ジャンプ)
アニメ「Dr.スランプ アラレちゃん」放映開始
4コマ漫画専門誌「月刊ギャグダ」創刊(竹書房)
「ビッグコミック・フォアレディ」(小学館)
第7回「コミックマーケット」参加者が1万人を突破
1983年 「童夢」大友克洋が日本SF大賞を受賞
「課長 島耕作」弘兼憲史
「美味しんぼ」雁屋哲、花咲アキラ
「ネ暗トピア」いがらしみきお
1984年 「AKIRA」大友克洋
「大友克洋の絵は汗臭さを感じさせない。インスタントラーメンをすする四畳半族を描きながらも彼の絵は血と汗と涙にならない。あくまでも陽気なニヒリズムが支配している。
大友克洋の絵のもうひとつの魅力は、何かが欠けているという感覚である。彼は人間にせよモノにせよ風景にせよ実に精密に描く。マニアックなまでにディテイルに執着して描く。しかし、それがコマ全体の中に置かれたときどこかに欠如感が残る。」

川本三郎
長編アニメ映画「風の谷のナウシカ」宮崎駿
「COMIC ばく」(日本文芸社)
衆院予算委で少女雑誌の過激なセックス描写が問題として取り上げられ、少女コミック雑誌の休廃刊が発生する。
1985年 「ドラゴンボール」鳥山明
「レディース・コミック ジュール」(双葉社)
「ビジネスジャンプ」(集英社)
「COMIC ばく」につげ義春の「無能の人」シリーズが登場
1986年 「ちびまる子ちゃん」さくらももこ(りぼん)
「日本経済入門」石ノ森章太郎
「コージ苑」相原コージ
1988年 「ほのぼの」いがらしみきお
「沈黙の艦隊」かわぐちかいじ
「うちのママが言うことには」岩館真理子
アニメ映画「となりのトトロ」宮崎駿
アニメ映画「火垂の墓」高畑勲
「少年ジャンプ」が発行部数500万部を突破!
1989年 「はじめの一歩」森川ジョージ(少年マガジン)
「伝染るんです」吉田戦車(ビッグコミック・スピリッツ)
「オバタリアン」堀田かつひこ
「マンガ日本の歴史」石ノ森章太郎
手塚治虫死去
第15回「コミックマーケット」参加者が10万人を突破
1990年代
1990年 「クレヨンしんちゃん」白井義人(漫画アクション)
「ナニワ金融道」青木雄二
国立近代美術館で「手塚治虫展」開催
1991年 「となりのやまだ君」いしいひさいち(朝日新聞)
1992年 「美少女戦士セーラームーン」武内直子(大ブーム!)
「金田一少年の事件簿」金城陽三郎(原)さとうふみや(画)
「ゴーマニズム宣言」小林よしのり(週刊SPA!)
1994年 「名探偵コナン」青山剛昌(少年サンデー)
「目を閉じて抱いて」内田春菊
「少年ジャンプ」の発行部数が653万部に到達。これがピークとなる。
1995年 アニメ「攻殻機動隊」士郎正宗(ビデオが全米売り上げランクのトップになる。
アニメ映画「新世紀エヴァンゲリオン」
1996年 「ポケットモンスター」(別冊コロコロコミック)
1997年 アニメ「ポケットモンスター」放映開始
1998年 第24回「コミックマーケット」参加者が40万人を突破

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