- マルセル・デュシャン Marcel Duchamp -
<ワン&オンリーの芸術家>
美術とは網膜に刺激を与えるだけの存在ではない。このことに生涯こだわり続けた究極の前衛芸術家。
どの派にも属さず、どのジャンルにも属さない。常に見る者、評価する者を裏切り続けたトリック・スター。
人生そのものが芸術だったともいえる孤高の存在、マルセル・デュシャン
Marcel Duchampは、1887年7月28日フランス北部ノルマンディー地方の小都市ブランヴィル近郊に生まれました。二人の兄とともにアーティストを目指した彼はパリに出てアカデミー・ジュリアンに通いながら印象派やフォービズムなどの影響を受けます。
その後、ピカソやブラックが中心となって盛り上がりをみせていたキュビズムに傾倒、その思想を取り入れた作品「チェス・プレイヤーの肖像」(1911年)「階段を降りる裸体No.2」(1912年)などを制作します。「チェス・プレイヤーの肖像」では、対戦するプレイヤーの思考の動きや時間経過を絵の中に描きこみ、「階段を降りる裸体.2」では、女性が階段を降りる動きを連続写真のように分解して描き出すことで、キュビズムから一歩進んだ世界観を生み出しました。しかし、そうした彼の試みをキュビズムの作家たちは、キュビズムからの逸脱と批判。そのため、1912年にパリで行なわれたアンデパンダン展の出展を自ら取りやめてしまいます。
ところが、翌年開催のアメリカ初の近代美術展「アモーリ・ショー」では、逆に彼の作品が高い評価を受けることになりました。美術の歴史が浅く、変な固定観念をもたないアメリカの人々は素直に彼の作品の持つ新鮮さを受け入れたのです。後に、彼はニューヨークに移住し市民権を獲得することになりますが、こうしたアメリカの自由な気風は彼に合っていたのかもしれません。
<レデ・メイド作品の誕生>
そして、この年、彼は「絵画」という絵の具とキャンバスからなる「目に訴えることしかできない美術」とは異なる新しい芸術の創造を開始します。それが最初のレディ・メイド作品「自転車の車輪」(1913年)です。自転車の車輪を台所によくある木製の丸イスに立てただけの作品は、どの家にでもある、ごくありきたりの物を組み合わせることで、非日常的で人を驚かせるまったく新しい美術作品になりうることも証明してみせました。これは「美術作品とは何か?」という基本的な概念を覆す偉大な発見だったといえます。続いて1914年に発表されたのが「ビン掛け」と呼ばれる作品で、これはトタン製のビン乾燥機です。(そのほか、コート掛けを横にして固定した「わな」、除雪用スコップを立てただけの「折れた腕の前に」などの作品がありました)
「この壜乾燥機はもう使いものにならなくなって、浜辺で波にさらされている。そこにはいつの間にか遺棄物の孤独な威厳が宿り、使いものにならず何の役にも立てないながらそれは生きている。実存の淵に立って、不安がらせる、馬鹿げたそれ自身のいのちを生きているのだ。人も不安にさせるもの
- これこそ芸術への第一歩だ」
マルセル・デュシャン
1915年、彼はニューヨークに移り住み、そこで8年がかりで制作しながら結局は未完成に終わることになる幻の大作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(この作品は通称「大ガラス」と呼ばれています。ただし、鳥のカラスではなくガラスのことです)の制作に取りかかっています。透明な二枚の大きなガラスにはさまれた上下二つに分かれた不思議なオブジェは様々な解釈を生み、20世紀前衛芸術における伝説となります。
1917年、彼は次なるレディ・メイド作品「泉」を発表します。便器に架空の作者名R・Mattと署名したことで、便器ですらも芸術となりうるとしたこの作品は、ニューヨークで行なわれたアンデパンダン展に出品を拒否されました。しかし、出品を拒否されるという事件もまたこの作品によってデュシャンが行なった表現行為だったともえいます。彼はその作品が自分の作品であることを隠したまま、実行委員長を辞任。さらに自分が発行する雑誌の中で「泉」の作者リチャード・マットを弁護。その後、別の人間が便器を「泉」とした別の展覧会に出品したものに、わざわざ彼はリチャード・マットというサインをしてもいます。徹底した既成概念の破壊はその後の美術界に大きな影響を残すことになります。(その後、フランスの展示会でこの「泉」がハンマーで壊されるという事件も起きています。犯人は警察にこれもまた表現行為だ!デュシャンも理解するだろうと語ったとか・・・)
コンセプチュアル・アートに暗に包まれているのは、その作品のアイデア、またはコンセプト(概念)が、作品そのものの制作よりも重要であるという原則である。既製品に別の意味をもたせて提示することによって芸術作品としたデュシャンの「レディ・メイド」も、言葉や文章を用いた絵画も、さらにマグリットのシュルレアリスム作品でさえも、その作品でさえも、その作品のもつ衝撃は
- むろんその衝撃の度合いはさまざまに異なるものの - 制作の出来映えによってよりもむしろ、その作品を生み出した着想によってもたらされる。制作自体はせいぜい純粋に機能的なもので、概念を表現するという目的のための手段にすぎないのだ。
「サザビーズで朝食を」フィリップ・フック
<ニューヨーク・ダダ>
こうして彼はニューヨーク・ダダの中心的人物となり、二つの雑誌「ザ・ブラインド・マン」「ロング・ロング」を発行します。
1918年、彼は彼自身にとって最後の絵画作品となった「TuM’(おまえは私を)」を発表。絵画とはいっても、そこに描かれているのは自転車の車輪や帽子掛け、コルク栓抜きなどの影、それらと並べられたカラー・チャートが組み合わせられた画面は絵画でもないオブジェでもない、もうひとつの世界を生み出していました。しかし、もう彼にとって「絵画」という表現行為は過去のものとなっていたのかもしれません。
この年、彼はアルゼンチンのブエノスアイレスに向かい、翌年、久々にパリにもどるとヨーロッパのダダ・グループと交流。この頃、彼はあの有名なダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の複製に髭を描いて「L・H・O・O・Q」として発表。これもまた彼の作品を代表するスキャンダラスな傑作として、彼の名を世界中に知らしめることになりました。もちろん、この手法は世界中の子供たちが社会の教科書の登場人物の写真や似顔絵に昔からやっていることと同じじゃないか!という批判もあるでしょう。しかし、マルセル・デュシャンという一流の芸術家があえて「髭を描く」という行為を行なったからこそ、そこに価値が生まれたと考えるべきでしょう。
1920年、ニューヨークにもどった彼は、同時代を代表する写真家マン・レイに自分の女装姿を撮影させています。そうして誕生したもう一人の彼(彼女)はローズ・セラヴィと名づけられますが、当然それもまた彼が生み出した作品のひとつと考えるべきなのでしょう。自らの生き方、心の中のもうひとりの自分までも、さらけ出して作品化するとは・・・恐るべき芸術家です。
翌年、彼はマン・レイとともに雑誌「ニューヨーク・ダダ」を発表。再び「大ガラス」の制作を始めますが、結局完成できないまま放棄。
<引退生活>
1923年、彼はフランスに帰国し、パリに活動拠点を移します。後に、この頃からデュシャンは芸術活動から引退したといわれるようになります。10年にわたる沈黙の後、彼は1934年に新作に着手します。しかし、それは未完のままになっていた「大ガラス」のためのメモ、写真、スケッチのレプリカを集めたもので、300個限定制作というものでした。(通称「グリーン・ボックス」)翌年には、自身の作品のミニチュア版レプリカを収める「トランクの箱」の制作を開始。1941年に完成させました。
どちらの作品も、マルセル・デュシャンの回顧展ともいえるものですが、自らの過去の作品を再利用(リメイク)するという発想は、彼にポップアートやヒップ・ホップの世界で当然のように用いられているサンプリング的手法の原点だったともいえます。その上、自らレプリカを作ることによりオリジナルの価値を下げてみせたのも、アンディ・ウォーホルの先駆だったといえます。
<再びアメリカへ>
第二次世界大戦中、再びニューヨークに移り住んだ彼はそのままアメリカの市民権を取得。1946年、「(1)落ちる水(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」の制作を開始。以後20年かけて制作は秘密のうちに続けられ1966年に完成します。1968年、フランス滞在中に彼はこの世を去り、この作品は通称「遺作」と呼ばれることになります。彼ほど次々と既成概念を覆し続けたアーティストは珍しいでしょう。「手作りであることの価値」を覆し、「オリジナルであることの価値」を覆し、「完成作品の価値」を覆し、「芸術作品そのもの価値」を覆し、最後には「芸術家デュシャン自身の価値」をも覆すことまでしてしまったのです。
これらの行為を本当に作為的にやっていたのかどうか?それを判断できるのは本人だけですが、今となってはそれも明らかではありません。しかし、芸術活動をやめたと噂されながらも密かに「遺作」を作り続けていたデュシャンは死ぬまで芸術家であることをやめていなかったことは確かでしょう。デュシャンを認めるか認めないか。その判定作業をさせることもまた優れた芸術活動であり、自らをそうした神話的存在に仕立て上げたマルセル・デュシャンという人物は間違いなく恐るべき芸術家だと僕は思います。
[参考資料]
「20世紀の美術」美術出版社(監修)末永照和
「現代思想ピープル101」新書館(著)篠原資明(編)今村仁司
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