
- マーク・ロスコ Mark Rothko -
<究極の抽象絵画>
マーク・ロスコという画家の名は、以前から知っていました。キャンバスに巨大なボーダーを描いただけなのに、なぜ20世紀を代表するアーティストと呼ばれているのか?
もちろん、それが単なる縞模様ではなく、微妙な色具合の絵の具を繊細なタッチで塗り重ねたものであることはわかるのですが・・・。
彼の作品の実物をまとめてちゃんと見たことがないので、テレビや本による印象しかないのが残念です。ただ、彼は自分の作品について、美術の本質について、多くの言葉を残しています。そこからなら、何か参考にんまるものがわかるかもしれません。たとえば、彼は自分の作品について、こう語っています。
「絵を描くことが自己表現に関わると考えたことは、これまでに一度もありません。絵とは、自分以外のひとに向けた世界に関わるコミュニケーションにほかなりません。このコミュニケーションの内容に納得すると、世界は生まれ変わります。・・・」
もしかすると、彼の作品を理解できるかどうかで、その人が見る世界は大きく違ってくるのかもしれません。彼が命を賭けて描いた作品について考えてみました。
<絵画は何を表現してきたか?>
そもそもこれまで人間は絵画によって何を表現してきたのでしょうか?
かつて、それは「自然に対する畏怖」や「神への信仰」を表現する「祈り」だったといえます。
その後、絵画は「部族の歴史」や「祖先の記憶」を残すための「記録媒体」の役目も果たすようになります。
写実技法の発展により、美しい花々や山や海などを写し取る「写真」の役割も果たすようになりました。
歴史的事件や災害などを後世に残すための「映像証言」の役割も果たしていました。
もちろん、愛する女性や子供たちを永遠に残すためのタイムカプセルとしては、今でも大きな役割を果たしています。
しかし、こうした役割の多くは、カメラやテレビ、映画の登場に奪われつつあります。では、それでもなお残される絵画が表現すべき対象とは何なのでしょうか?
誰もが携帯カメラを持つ時代になって、写生の技術は必要なのか?コンピューターで様々な映像を自由に加工できる今、絵を描く行為にどれほど意味があるのか?今や、画家たちは自分は「何のために」「何を」「どのようにして」描くのか。そこを突き詰めることから始める必要があるのかもしれません。
ジャクソン・ポロックは、それを「ポアリング」という技法によって、偶然性を持ち込みながら表現してみせました。
パブロ・ピカソは、その時代に合わせて、常に表現対象、表現方法を変えることで、絵画から彫刻までジャンルを超越してみせました。
アンディ・ウォーホルになると、表現する対象さえ選べば、その表現手法はコピーでも版画でも映画でもテレビでも何でもOKと宣言しました。
では、マーク・ロスコというアーティストは、巨大な縞模様(画面分割と呼ぶべきか)によって何を表現しようとしていたのでしょうか?
<絵画を構成する要素>
1958年、マーク・ロスコはある講演会で自分が描いている作品の対象について、その構成要素について説明をしていました。どうやら、彼は沈黙しているようにも見える静かな作品を描きながら、それを補うように多くのことを語っていたようです。
「絵画にはふたつのことが関係します。イメージの独自性と明瞭さ、そしてどこまで語るか。美術作品とは、7つの成分を最大限の効果と具体性を発揮するように組み合わせ、巧妙に考案された品物なのです」
もちろん、ここで語られている「7つの成分」についても、彼はくわしく説明しています。
1.死に対する明瞭な関心はなければならない-
命には限りがあると身近に感じること - 悲劇的美術、ロマンティックな美術などは死の意識をあつかっている。
2.官能性 - 世界と具体的に交わる基礎となるもの。存在するものに対して欲望をかきたてる関わり方。
3.緊張 - 葛藤あるいは欲望の抑制
4.アイロニー - 現代になって加わった成分
- ひとが一時、何か別のものに至るのに必要な自己滅却と検証。
5.機知と遊び心 - 人間的要素として。
6.はかなさと偶然性 - 人間的要素として。
7.希望。悲劇的な観念を耐えやすくするための10パーセント。
僕なりに解説を加えるとすると・・・
1.「死」の存在は、「死に対する恐怖」以上に、よりよく生きるためのモチベーションとして欠かせないものだと思います。
2.「官能性」またの名を「セクスィー」なくして芸術は生まれないのです!
3.「セクスィー」を抑制することによって葛藤が生まれ、そこから生まれる「禁断の愛」もまた芸術にとって重要な題材のひとつです。「ロミオとジュリエット」はすべてのラブ・ストーリーの基本です。
4.物事を客観的にとらえる「アイロニカル」な視点は、近代になって民主主義が生まれて以降に誕生したものです。
5.人生を嘆くだけでなく、それを笑い飛ばすという発想もまた人類が新たに生み出した優れた文化です。
6.人生において、いつ何が起こるかわからないように、芸術にも偶然性を持ち込むことで、はかなさや美しさが表現可能になるのです。
7.「希望」なくして「未来」なし。芸術に意味があるなら、それは「未来」を輝かせるものでなければなりません。
この7つの成分のどれをどの程度混ぜ合わせるか?彼はその成分比に基づいて、数学的に作品の構成比率を決めていたといいます。自らの情念のおもむくまま、筆の動きに任せるように作品を仕上げるのが、現代アートだと僕は思っていましたが、どうやらそれは単なる思い込みだったのかもしれません。作品が一見してシンプルなものになればなるほど、その作品の構造、構成は、しっかりとした計算に基づいて導き出されなければならない。そして、そのために必要な自分なりの計算式を作り上げること、それが現代のアーティストに求められているのかもしれません。
<マーク・ロスコ>
マーク・ロスコ Mark Rothko は、本名をマルクス・ロトコヴィッチといいます。生まれたのは、1903年9月25日、現在のラトヴィア共和国のドヴィンスク(当時はロシア領)でした。ロシアにおいて人種差別の対象となっていたユダヤ人だったこと、さらにはロシア革命が起きつつあったことから、彼の一族は1910年にアメリカのオレゴン州ポートランドへ移住しました。
1921年、優秀な少年だった彼は奨学金を得て名門イエール大学に入学しますが、WASP中心でユダヤ人差別が激しかったことに嫌気がさし、早々に中退してしまいます。その頃には、アートの街ニューヨークで美術の道に進むことを決意していた彼はニュースクール・オブ・デザインに入学します。
1928年、NYのグループ展に初めて出展。この時、彼は25歳で、やっと美術の世界でスタートラインに立ったのでした。
1929年、美術教育にも関心が深かった彼はブルックリン・ジューイッシュ・センターで子供たちに絵を教え始めます。1933年に彼が初の単独個展をポートランド美術館で行った際には、子供たちの作品も飾っており、彼が美術教育に熱心だったことがわかります。それだけ彼は美術と何かについてこだわり続けていたのでしょう。
1935年、アドルフ・ゴッドリーフらと前衛アートのグループ「ザ・テン」を結成し、グループ展を開催します。ところが、この作品展はニューヨーク・タイムズ紙で酷評されてしまいます。この後、彼はそうした評価に反撃するかのように、美術論に関する執筆を始めます。
1940年、37歳になった彼は英語風に名前をマーク・ロスコと改め、アメリカの市民権を獲得します。この時期、第二次世界大戦の戦場となったヨーロッパを逃れて、マルセル・デュシャンら多くのシュルレアリストがアメリカに渡って来ました。ニューヨークは彼らの活動拠点となり、ロスコもその影響を強く受けることになりました。この頃から彼は、ギリシャ神話の悲劇的な要素を描くようになり、少しずつ具象から抽象へと変化し始めることになりました。
1946年、この年から彼は作品に題名をつけることをやめ、番号のみとします。
1949年、縦長のキャンバスに複数の色の帯を描く「マルチ・フォーム」が登場。ロスコ・スタイルとして完成されることになります。
<ロスコ・スタイルのブレイク!>
1951年、MOMAのグループ展「15人のアメリカ人」にジャクソン・ポロック、クリフォード・ステイルらとともに彼が選ばれます。しかし、彼は自分の作品が他の作家の作品と同じスペースに展示されることを嫌い、さらに照明を暗くするように要求して学芸員を困らせました。
彼はこの後も自分の作品を一箇所にまとめて展示することにこだわり続け、遺作についてもバラバラになることを拒否していました。そのため、彼の死後、その遺作の処遇にもめることになり、結局3つの美術館にのみ作品が残されることになりました。(そのうちの一つが、日本の川村美術館です)彼は自分の作品が展示空間と一体となり、全体で一つの作品になることを求めていたのです。
1955年、ビジネス誌「フォーチュン」が、彼の作品を優良な投機対象として紹介。一躍彼の作品の値段が上昇し始めます。これは彼のとって、まったく予期せぬ出来事でした。
1958年、ヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ代表に選出されたことで彼の名前はさらに知られることになります。さっそくニューヨークのセレブが集まる高級レストラン「フォーシーズンズ」から壁画の制作依頼を受けた彼は、そのための作品を30点近く完成させます。
ところが、自分の作品が投機の対象として売り買いされ、そのレストランもそんな投機家をはじめとするセレブの店と知った彼は、「食事に5ドル以上かかる店は犯罪だ」と納品を拒否してしまいます。(注文を受けた時に気づけよ!とつっこみたい気もしますが、高額の注文をける根性はさすが天才です。凡人には絶対に無理でしょう)
ところが、そんな彼の暴挙?は彼の知名度と評価をさらに高めることになります。売られなかった彼の作品はMOMAの回顧展に出展され、高い評価を受けることになりました。
1962年、ハーバード大学学友会館から壁画の依頼を受け、こちらは1964年無事に完成しました。(たぶん学食は5ドルで食べられるでしょう)
1964年、ヒューストンにあるセント・トーマス大学の礼拝堂のための作品依頼を受けます。これは、後に「ロスコ・チャペル」と呼ばれることになり、彼のライフワークとなります。
1967年、壁画のために18の作品を完成させますが、礼拝堂が未完だったために保存されることになります。
1968年、65歳になった彼は検査により大動脈瘤が明らかとなり緊急入院。医師からは一辺1m以上の作品を制作しないようにという指示を受けます。(なぜ1mか?)仕方なく彼はアクリル絵具で小さな作品のみを描くようになりますが、その作風はさらに暗いものとなります。
ついには妻をとも別居し、健康がさらに悪化、肺気腫も患いいよいよ危機的な状況となります。
1970年、シーグラクのために制作された壁画のうち9点をロンドンのテート・ギャラリーに寄贈。それが彼のために準備された「ロスコ・ルーム」に展示されました。しかし、その公開の日、彼はニューヨークの自宅で多量の精神安定剤を服用後、自らカミソリで命を絶ってしまいました。
1971年、セント・トーマス大学の礼拝堂がついに完成し、「ロスコ・チャペル」が誕生しますが、その時すでに作者はこの世にいませんでした。
「・・・ロスコは、悲劇の感情を引き起こす絵画との対話、そうした絵画に取り囲まれる場の体験をつくりだそうとした。・・・」
「感情の場の創造」という彼の考え方は、その後のアートの世界において一大潮流となるミニマル・アートやインスタレーションの先駆となりました。単純そうに見える彼の作品は、よく見るとその帯状の色は透けて見えたり、ぼんやりと色にむらがあったりと変化に富んでいます。それは同じ悲劇の感情にも様々な表情があることを思わせ、奥の深さを感じさせます。
「私は悲劇、忘我、運命といった人間の基本的な感情を表現することだけに関心があります」
マーク・ロスコ
その色にこめられた感情はほとんどが悲劇だったようですが、悲劇を体験することはけっして自殺したくさせるわけではありません。ある意味、彼は作品を描き続けられたからこそ、生き続けられたと考えるべきでしょう。素晴しい芸術は、それがたとえ悲劇であっても、見るもの聞くものに生きる喜びや力を与えます。
「絵画は奇跡を起こさなければならない。
絵画はそれを体験する誰とも同じように、天啓でなければならない」
マーク・ロスコ
しかし、イエス・キリストもそうだったように「救い」を与える力を与えられた者の多くは、そのために命を削り、命を縮めてきました。彼もまたそのひとりだったのかもしれません。「ロスコ・チャペル」の完成は彼にとって、大いなる救いだったかもしれません。
<参考>
「現代アートの巨匠 先駆者たちの<作品・ことば・人生>」 2013年
美術手帖(編)
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