
- マーティン・スコセッシ Martin Scorsese
(前編)-
<スコセッシ映画の魅力>
僕はマーティン・スコセッシ監督の映画が大好きです。たぶん、このサイトが好きな方の中にも、彼のファンの方が多いのではないかと思います。彼の作品が持つ魅力とはなんでしょうか?
もしかすると、彼は未だ生涯の最高傑作のものにしていないのかもしれません。彼は完璧で隙のない映画より、未完成でも勢いのある映画を作り続けている映画監督です。そのせいでしょうか、彼は未だアカデミー賞をとったことがありません。彼の作品は、ある意味アカデミー賞の枠をはみ出しているのです。
彼はエスニック集団がぶつかり合うアメリカという国の縮図、歴史の一断面をニューヨークという舞台を借りて描き続けています。(ユダヤの視点からニューヨークを描いているのがウディ・アレン、同じくアフロ・アメリカ系のニューヨーク史ならスパイク・リーです)彼の作品群は教科書では読めない知られざるアメリカの裏面史とも言えるでしょう。
彼は、時代と映像に合わせて、ジャンルを越えた音楽を選び出す天才でもあります。特に彼はロック世代ど真ん中なので、ロックの名曲を見事に使ってくれています。
彼は、俳優の身につける衣装や小物に徹底的にこだわることで、時代と個性を見事に表現しています。もちろん、そのこだわりは撮影に使用されている建物や土地、セットにも現れています。
彼は、ステディー・カムの使用やカメラの超長回し、白黒画面、凝りに凝ったカットのつなぎ方など、映画の命である撮影手法、編集方法を自由自在に使い分けることのできる映像の魔術師でもあります。
彼は、映画を愛しているがゆえに、とことん研究をしています。それは前向きの愛であり、人々を幸福にする愛でもあります。だからこそ、同じ映画を愛する者としては好きにならずにいられないのです。
<ニューヨークに生まれて>
マーティン・スコセッシは、1942年11月17日、ニューヨークのロングアイランド、フラッシングに生まれました。父方母方の祖父母はともにシシリー島からの移民でした。その後彼は、映画「ゴッドファーザー」や彼自身の多くの作品に登場するイタリア系アメリカ人として、青春時代をニューヨークの下町で過ごしました。
彼が少年時代を過ごしたマンハッタンのエリザベス通り周辺は、特にシシリー系移民たちが多く住む地域で、独自の文化圏をそこで築き上げていました。彼は子供の頃から喘息に悩まされていたため、3歳の頃から映画好きの父に連れられて映画館に行き始めたそうです。画家になりたかったというスコセッシ少年は映画館から帰ると、その日見た映画の一場面を絵に描き写していました。彼の父親は洋服の仕立て屋をしていたため、着るものに対するこだわりが強く、このイタリア式伊達男のセンスが後に衣装だけでなく画面構成全体へのこだわりとして生かされることにもなります。その後、彼はテレビで放映される映画にも熱中、古典的名作やイタリア系の人々のために放映されていたイタリア映画に魅せられるようになります。(この頃、彼が感動した映画は、「バグダッドの盗賊」(1940年)「自転車泥棒」(1948年)「赤い靴」(1948年)「波止場」(1954年)「エデンの東」(1955年)「市民ケーン」「第七の封印」(1957年)などです)
彼の古い映画へのこだわりと造詣の深さ、そしてイタリア映画からの影響の大きさは、この頃から始まっています。(後に彼は2002年製作の映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」をイタリア映画の聖地、チネチッタ・スタジオで撮影しています)
<神の僕の落ちこぼれ>
彼が11歳の頃、街に若いカトリックの司祭がやって来ました。そのやる気と人柄の影響で、彼はキリスト教により深く傾倒して行きました。もともと貧しいイタリア系移民の若者たちにとって、夢のある未来の選択肢は、ギャングたちの仲間入りかボクシング、野球などプロ・スポーツへの道がほとんどでした。しかし、彼はここでもうひとつの選択肢「神の僕」となる道を選びました。
14歳の時、彼はカトリックの神学校に入学します。彼は神父になる道を歩み始めたのでした。ところが、そんな彼の真面目な心はあっという間に挫けてしまいます。その最大の原因は、女の子、そしてロックン・ロールに代表される新しい若者文化の登場でした。結局彼は神学校を一年で飛び出してしまいます。(と言っても、彼のキリストへの気持ちが失われたわけではありません。だからこそ、後に彼は多くの苦難を乗り越えて映画「最後の誘惑」を作り上げるのです)
再び彼は映画にのめり込みます。そして、これこそ自分にとっての進む道であると再確認し、改めてニューヨーク大学の映画専攻クラスに入学しました。
<映像の神様との出会い>
当時、ニューヨーク大学には映像についての偉大な教師、ヘイグ・マヌーギアン教授がいました。スコセッシは1960年から5年間、彼の指導のもと映画に関する技術を幅広く学ぶことになります。
ちょうどこの時期は、フランスで始まったヌーヴェルヴァーグの全盛期にもあたり、その他フェデリコ・フェリーニやミケランジェロ・アントニオーニなど前衛的なイタリア映画の監督たちが大活躍していた時期でもありました。さらにニューヨークでもジョン・カサベテスがドキュメンタリー調の「アメリカの影」を撮るなど、ハリウッド映画とはまったく異なるスタイルの映画が次々と生まれた活気にあふれる時代でした。(もちろんこれは映画だけでなく、芸術全般に言えることでしたが・・・)
彼はそんな素晴らしい時代に、芸術の都ニューヨークで映画にどっぷりとつかる毎日を送ることができたわけです。
<監督デビュー>
1963年、彼は学生時代に処女作となる作品「君みたいな素敵な娘がこんな所で何しているの?」を製作しました。それまでの監督たちがみな助監督として修行を積んでからデビューしていたのに対し、彼はいきなり映画監督として活動を開始したわけです。
この頃の彼に大きな影響を与えた作品としては、マイケル・パウエルの「血を吸うカメラ」(1960年)、フェデリコ・フェリーニの「8・1/2」(1963年)、ロジャー・コーマンのエドガー・アラン・ポー・シリーズ第一作「アッシャー家の惨劇」(1960年)などがあります。
その後彼が製作することになる作品群の「芸術性」「B級っぽさ」「血の臭い」の基礎は、すべてこれらの作品に収められていたと言えそうです。
<不遇の時代>
彼の映画修行は、素晴らしい教師と良い環境に恵まれたものでしたが、残念なことにそれは映画を作るための資金集めにはほとんど役立ちませんでした。1965年から製作を始め4年がかりでやっと完成させた彼の初長編映画「ドアをノックするのは誰だ?」は、評論家受けは良かったものの興行的にはまったくだめで、そのため彼に次回作のチャンスが回ってくることはありませんでした。(ちなみに、彼の作品における常連俳優ハーヴェイ・カイテルは、この作品からの付き合いです)生活するために、映画以外の仕事をしなければならなくなった彼は、このころ最初の奥さんとも離婚しています。
彼は母校のニューヨーク大学で講師の口を世話してもらい映画について教えることで、なんとか生活する日々が続きます。この頃の教え子の中には、オリバー・ストーンやジョナサン・キャプラン(映画「告発の行方」やテレビ・シリーズ「ER」で有名)、スパイク・リーらがいたそうです。
<ウッドストック>
そして同じ頃、彼はウッドストックで行われたロック・フェスティバル「ウッドストック」の記録映画の撮影と編集に関わりました。この時の彼の活躍は、後にザ・バンドのドキュメンタリー映画「ラスト・ワルツ」へとつながることになります。
「映画を監督したのは編集のマーティン・スコセッシだ。マイケル・ワドリイ監督のことを悪く言うつもりはないけれど、彼は基本的にステージのセンター・カメラを担当していただけで、『おい、こっちだ。この画を抑えろ。こいつ瞑想のセッションをやるそうじゃないか。誰か行って撮ってこいよ』みたいなことを言っていたのは、マーティンだった」
ジョナサン・キャプラン
<西海岸からの誘い>
映画界になんのつてもない彼にとって、もともと製作本数が少ないニューヨーク映画界でのチャンスはあまりに少なすぎました。かといって、ニューヨーク育ちの彼にとって、映画の都ハリウッドはまったく未知の存在でした。そんな八方ふさがり状態の彼に、西海岸に住む「映画の神様」から声がかかります。彼の作品「ドアをノックするのは誰だ?」を見たB級映画の神様ロジャー・コーマンが彼に監督としてやってみないかと声をかけてくれたのです。
「明日に処刑を」(1972年)
アーサー・ペンの「俺たちに明日はない」の大ヒットにより、この時期ハリウッドでは数々のギャング映画が2匹目のドジョウを狙って作られていました。スコセッシ初の本格的商業映画「明日に処刑を」は、その典型とも言える作品でした。しかし、題材は二番煎じでも、そこにはスコセッシらしいひねりがしっかりと加えられ、興行的にも見事なヒット作となりました。
この映画のクライマックス・シーンで主人公のデヴィッド・キャラダインがイエス・キリストのように張り付けにされるシーンがあります。この時の恋人役だったバーバラ・ハーシーはこの時スコセッシにある本を持ち込みました。それはキリストの生涯を描いた小説で、これが後に「最後の誘惑」として映画化されることになります。16年後、彼女は映画化決定の情報を得るとすぐにスコセッシに電話をかけ、マグダラのマリアの役をつかんでいます。
スコセッシ監督は、実はかなり長い期間をかけ映画の題材を育て熟成させています。2002年公開の「ギャング・オブ・ニューヨーク」にいたっては、20年以上アイデアをあたためていました。そこには、運命的出会いや時代の要請があるのでしょう。だからこそ、あの映画の完成直後の9・11テロ事件には歴史の必然を感じてしまいます。
「ミーン・ストリート」(1973年)
「明日に処刑を」のヒットで状況は一気に好転しました。資金獲得のめども立ち、彼は「ドアをノックするのは誰だ?」の続編でもある「ミーン・ストリート」の撮影を開始します。この映画は彼が育ってきたニューヨークのイタリア系移民社会を描いた作品で、彼が経験してきた自分の住む街の出来事をモデルにしています。
さらにこの映画には、この後彼の分身として多くの作品に出演することになるロバート・デニーロが出演しています。(すでに彼を使っていたブライアン・デ・パルマがスコセッシに紹介してくれたのがきっかけだったそうです)この映画の成功でスコセッシだけでなくデニーロの名前も世界中に知られることになります。
「アリスの恋」(1974年)
スコセッシの作品群は、彼の青春時代の体験を中心とするイタリア系社会を描いた作品がほとんどですが、そうでない作品の中の代表作とも言えるのがこの作品です。主人公のアリスを演じたエレン・バースティンは、この作品でアカデミー主演女優賞に輝いています。ちなみに僕が見た最初のスコセッシ映画がこれでした。電車に乗って札幌まで見に行った懐かしい映画です。この映画に子役として出演していたジョディ・フォスターは、スコセッシに気に入られ、次回作の「タクシー・ドライバー」の娼婦役に抜擢されることになります!
「タクシー・ドライバー」(1976年)
ポール・シュレイダーによって書かれたこの映画の脚本は、もともとブライアン・デ・パルマに持ち込まれたこのだったそうです。「イエロー・キャブ」「デニーロ」「ニューヨーク」「スコセッシ」「バーナード・ハーマン」「ジョディ・フォスター」「ハーベイ・カイテル」らの見事な個性によって生まれた「孤独の街」ニューヨークのイメージ・ビデオのようなこの作品は、ニューヨークを描き続けるスコセッシにとって70年代のピークを示す作品となりました。
この映画の詳細については、「タクシー・ドライバー」のページをご覧下さい。
「ニューヨーク・ニューヨーク」(1977年)
スコセッシは「タクシー・ドライバー」でカンヌ映画祭グランプリを受賞。その勢いで大作ミュージカル「ニューヨーク・ニューヨーク」の製作を開始します。1940年代のジャズ黄金期を描いたこの作品は、音楽好きでニューヨークの街を愛する彼にとって夢のような企画でした。
しかし、初めて好きなように作れるチャンスを得たことが災いしたのか、この作品はストーリー的にも上映時間的にも、「終わりなき混乱の映画」になってしまいました。延々とフィルムを回し続けたことで、この作品の初回編集時の上映時間は4時間半になってしまったのです。当然、映画会社はその大幅カットを命令し、公開時には一気に半分の2時間ちょっとにされてしまったのです。僕も、この映画を当時見ましたが、わけがわかりませんでした。それもしかたなかったのでしょう。
(ちなみに、この映画のノーカット版が1980年になって公開され、ビデオも出ています)
「ラスト・ワルツ」(1978年)
「ニューヨーク・ニューヨーク」の大混乱のさなか、彼にもうひとつの企画が回ってきました。それはザ・バンドの解散記念コンサートをドキュメンタリー映画に撮るというものでした。「ウッドストック」の撮影、編集で高い評価を得ていた彼に監督を依頼したことで、この映画はロック史に残る名作となりました。この映画については、映画「ラスト・ワルツ」、ザ・バンド、それとビル・グレアムのページをご覧下さい。
<どん底の日々>
大混乱の後に公開された「ニューヨーク・ニューヨーク」は興行的にはまずまずでしたが、あまりに制作費をかけすぎたため大赤字となりました。なにせ当初予算を200万ドルもオーバーしてしまったのです。さらに自身の離婚問題も重なって、もともとその傾向があった鬱病が悪化、ついに入院してしまいました。(確かに演技とはいえ、「タクシー・ドライバー」でのあの演技を見れば普通じゃない気がしますが、・・・)
彼にとって、どん底の状態が2年以上続きましたが、そこから彼を救い出すきっかけになったのは、やはり映画でした。ある日、彼をお見舞いにやって来たロバート・デ・ニーロが持ってきた脚本が彼を現実社会へと連れ戻します。それどころか、再び彼を映画界の頂点へと導くことになったのです。それがイタリア系ボクサー、ジェイク・ラ・モッタの伝記映画「レイジング・ブル」の脚本でした。
「レイジング・ブル」
彼はこの作品を監督しながら、これが自分の最後の作品になるのではと思っていたといいます。それほど、彼はこの時追いつめられていたのです。この映画の白黒映像の美しさは、そんな彼の悲壮な決意の現れだったのかもしれません。殴り合うことでしか自らを表現できない男の壮絶な闘いは、映像でしか自らを表現することができないスコセッシ自身の生き様そのものだったのでしょう。
ところで、この作品がなぜ白黒フィルムで撮られたのか?それにはちゃんとした意図がありました。それはこの作品の準備段階に撮られた8ミリフィルムの試写を見たスコセッシの友人であり「血を吸うカメラ」の監督でもあるマイケル・パウエルが「血の赤が画面の美しさを台無しにしている」と言ったのがきっかけだったのだそうです。
確かに試合中、この映画では大量に血が流れ、飛び散ります。カラー映像の場合、リングの白の影響もあり、非常にその赤が強烈に見え、それ以外の部分の印象を消してしまいかねません。デニーロは白人なのでなおさらです。そう考えると、白黒フィルムの使用は必然的な選択だったのかもしれません。
この映画で、デニーロは中年期の主人公を演じるためなんと25キロも撮影中に太るという荒技をやってのけました。これは健康上かなり危険なことだったようですが、おかげで見事アカデミー主演男優賞を獲得しました。
「キング・オブ・コメディー」
続く作品「キング・オブ・コメディー」は、名優デニーロと超大物コメディアン、ジェリー・ルイスが共演する「ブラック・ユーモア」というより「笑えないコメディー」映画の傑作でした。それは、あまりにブラックすぎて笑いをも凍らせてしまったようです。しかし、この映画におけるデニーロの演技は、彼の生涯最高のものだという説もあります。笑いもつきつめると、悲劇にまで到達してしまうということなのでしょうか?そう言えば、ウディ・アレンの映画で、こんなセリフがありました。
「コメディーとは、悲劇プラス時間である」
時間がたてば悲劇こそがコメディーになるというわけです。さすがの名言じゃないでしょうか。
もしかすると、スコセッシ作品はすべてコメディーなのかも?
<中締めのお言葉>
『タクシー・ドライバー』を試写した時のこと、
「待った!ちょっと止めてくれ!」私は大声を出していた。
「デニーロのうしろの、悪魔のような客を演じているこのもの凄い俳優は誰なんだ?」
「あれがスコセッシさ」
マイケル・パウエル(映画監督)
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