
1927年
- 量子力学において不確定原理が示した世界像とは?
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<物質の本質を探る旅>
20世紀、人類はロケットによって宇宙の果てに向かう旅への第一歩を踏み出しました。しかし、同時にそれとは逆の方向、物質の本質に迫るミクロの旅にも向かい、そこから大きな成果を得ました。物質の本質とは何なのか?その究極の構成要素は何なのか?その疑問に対する最終的な答えは未だに得られてはいません。しかし、その探求の旅によって、人類は驚くべき真実と出会うことになりました。それは20世紀を代表する天才物理学者アインシュタインですら予想できなかった衝撃的な事実でした。物質の本質を探る小さな世界への旅に出発しましょう。
<量子力学の黄金時代>
人類の宇宙への旅が1903年のライト兄弟の初飛行から始まったように、物質の究極に迫る旅もまた20世紀の始まりと同時に大きく動き出しています。
1900年にマックス・プランク Max Planckが「量子論の基礎」を発表。物質の基本となる「量子」についての研究が本格的にスタートすることになります。
1901年に第一回のノーベル賞を受賞したウィルヘルム・コンラッド・レントゲンが発見したX線は、その研究において大きな役割を果たすことになります。
1902年、キュリー夫人がラジウムの抽出に成功。
放射性物質を研究することで物質を構成する原子、電子、分子などの役割が明らかになり、ラザフォードが「原子崩壊の原理」を発表します。
こうして、物質を構成する究極の存在を研究する学問「量子力学」が一気に発展し始めることになりました。20世紀初めのこの時期から1920年代末までの30年は「量子力学」における黄金時代となりました。(物理学全体にとっても)
この30年にいったいどんなドラマが展開し、何が明らかになったのか?できるだけわかりやすく書いてみたいと思います。
<量子力学>
科学にはいろいろなジャンルがありますが、「量子力学」はその中でもかなり特殊なジャンルといえるでしょう。科学の歴史について掻かれた名著「科学思想の歴史」(C・C・ギリスピー著)の中にこう書かれています。
「物理学とは、実在が観察されるのとは別個に、思索によって実在を概念的に把握する試みである」
「量子力学」とは思索によって物質を構成する極小の粒子を概念的に把握する学問です。1930年に初めてサイクロトロンが完成するまでは、量子力学のための大掛かりな実験設備というものもなく、その研究のほとんどは物理学者たちの頭の中を中心に行われていました。(これが理論物理学者という奴ですね)
アインシュタインらに代表される天才物理学者による思考実験こそが当時の物理学者における革命の原動力だったのです。(はっきり言って、天才しか参加できない分野です)
<量子力学の始まり>
19世紀末、ケンブリッジ大学のJ・J・トムソンは陰極線のビームが電界や磁界によって曲がることを発見。その粒子の質量が一番軽い原子の1/1840であることを明らかにしました。この粒子は電子と名付けられ、物質を構成する基本的存在として認められることになります。ここから原子と電子についての本格的な研究がスタートすることになりました。
1900年代の初めに数々の研究がなされた後、1911年にラザフォードが原子核の周りを電子の群れが回っている状態のことであるというモデルを発表します。それは太陽の周りを火星や地球が回っている太陽系の姿をイメージしてもらえれば判りやすいと思います。実際、物質の構造を当時の研究者たちが明らかにできた最大の原因のひとつは太陽系という巨大なモデルが存在していたことだったといわれています。そして、それと最初に明らかになった原子核の周りを一個の電子が回っている水素の原子構造がそっくりだったこと。この二つの類似するモデルがあったからこそ、研究者たちは自信を持って、そのモデルを基本とした研究を進めることができたといわれています。大きさは違っていても物質には共通する「形」というものが存在し、それには究極の真理が隠されているのかもしれません。
「『形態』すなわち物質の背後にある新しい意味での構造的パターンは、個としての特徴をもたないその構成要素より重要である」
ランスロット・L・ホワイト著「形の冒険」より
<ラザフォードの原子モデル>
ラザフォードが発表したモデルはすぐに多くの研究者に認められ、それをもとに新たな研究が進められることになります。量子力学界の指導者的存在だったデンマークの物理学者ニールス・ボーアは、原子の構造がわかった以上、それによって元素の特徴を説明することができるはずだと主張。多くの研究者たちは、ラザフォードのモデルを疑うのではなく、それを使って次なる発見へと突き進んで行きました。この時代の研究者たちはライバルとして競い合うというよりは、お互いに意見を積極的に交換し、情報を提供し合う、今で考えられない研究共同体のようなものを形作っていたようです。それは当時、この分野の研究はあくまで基礎的な研究であり、経済的な利益に結びつくとは考えられていなかったせいもあるかもしれません。まして、この研究が後に原子爆弾を生み出し、東西冷戦における主役になろうとは誰一人思ってはいなかったのです。そんな研究者たちの中心的存在だったボーアはラザフォードのモデルをもとに具体的に元素の姿を描き出しました。
例えば、原子核のまわりを1個の電子が回っているのが水素原子なら、その同じ軌道上をもう1個電子が回るとヘリウム原子になります。(原子番号2)しかし、その軌道上にはもう電子が回る余地はないため、もう1個電子が与えられるとその電子はその外側の新たな軌道上を回ることになります。(これが原子番号3のリチウムLi)
2番目の軌道上には8個まで電子はその外側の新たな軌道上を回ることになります。(これが原子番号10の元素Neネオンです)ここで注意すべきは、それぞれの原子の状態がどうやって別の種類に変化するのか?ということです。
原子核のまわりの電子を1個たたき出せば、その物質の原子番号はひとつ減り、別の物質になります。そして、この時、電子の軌道が内側のそれへと移動することになり、そのエネルギーの差が光となって放射されることが、実験により確認されました。ここで重要なのは、物質の変化は電子の軌道が、ある軌道からある軌道へと変わる「瞬間」に起きるということです。この「瞬間」という言葉がクセモノです。物質の変化(物理用語でいうと「遷移」)は、少しずつ起きるのではなくある瞬間に突然起きるということで、その中間状態は存在しないということなのです。
<「不確定性原理」の意味する世界>
ここで初めて、物質の構造と太陽系の構造の間の大きな違いが明らかになりました。なぜなら、物質が遷移するということは、ある時、突然、地球が消え、別の軌道上に現れるということなのです。ビリヤードの玉のように衝突によってはじき出されるのではないのです。電子とはある軌道上に存在する粒子なのではなく、ある確率でその軌道上に現れる幽霊のような存在と考えるべきなのです。それは時には、ビリヤードの玉のような存在の時もありますが、時には気配だけの存在になってしまうということなのです。
1927年にウェルナー・ハイゼンベルクが発表した有名な「不確定性原理」とは、このことを数式化したもので、それと実質的に同じことをウォルフガング・パウリもまた「排他原理」という名の法則により証明していました。これらの法則が示していることを、ごく単純にいうとこうなります。
「ある電子の位置がどこにあるのかを数学的に記述、確定することは絶対に不可能である」
考えていると、このことはごく当たり前のことかもしれません。なぜなら、電子の位置を測定するためには、その位置を確認するために光を当てるなど、なんらかの影響を与える行為が必要不可欠だからです。しかし、光を当てた時点でもう電子はそれ以前の位置にはいられなくなってしまうのです。
逆にもし、ある電子がどの物質のどの原子のどの軌道上に存在しているかを確定できたとすると、その物質全体を数学的に完璧に表現できるということになります。それが可能であれば、それを拡張してゆくことで巨大なスーパー・コンピューターによって、より大きな物質も数学的に記述できることになり、最終的には人間も、地球も、宇宙もすべてが数式によって表現できるということになるはずです。ところが、それは不可能である、とハイゼンベルクは証明をしてみせたわけです。
この結果は、多くの科学者にとって衝撃的な結果であり納得のできないものでした。数式によって世界を表現することをその最終目標としてきた物理学者たちにとって、それは受け入れがたい結果だったのです。特に、次から次へと歴史的な科学理論を発表していた当時最大の物理学者アインシュタインにとって、その結果は受け入れがたいものでした。彼は「量子力学がもたらした理論に対し、死ぬまで不満を持ち続けました。彼が言った有名な言葉、「神はダイスをもて遊ばない」は、ある物理学の会議で会ったニールス・ボーアに対してアインシュタインが述べたものです。しかし、この時、ボーアはアインシュタインにこう言って切り返したと言われています。
「あなたは、物の性質をいわゆる神の問題に帰するときには、注意が必要だと思いませんか?」
20世紀最高の物理学者アインシュタインにとって、この問題は死ぬまで彼を悩ませることになりました。
<量子力学の確立>
1927年、こうした理論を完成させた量子力学界の導師(グル)といわれた存在、ニールス・ボーアは「量子論の確立」を発表。この時点で「量子力学」はほぼ完成の域に達したといえます。この時点で「量子力学」はほぼ完成の域に達したといえます。この後も、より小さな粒子であるクォークの存在が明らかになり、さらにそれより小さな物質の研究が続けられていますが、実用可能な技術として使うには、この時点の「量子力学」で十分だったといえます。
「量子力学」は物質の存在を確率論によって記述するという不完全とも思えるものでしたが、それでも実用上はなんの問題もありませんでした。なぜなら、目に見える物質の動きを記述するために、電子や原子レベルの挙動は確率論によって把握することで十分に無視できることが明らかになったからです。したがって、我々が目で見る世界の現象を記述するには「量子力学」で十分正確だということです。
「たとえ神が世界を完全無欠な機械仕掛けに造り上げたとしても、そのごく小部分の働きを予測するために我々が無数の微分方程式を解く必要はなく、サイコロを振ればかなりの程度で答えが得られる程度のことは、少なくとも、神は我々の不完全な知性に委ねてくれているのだ」
マックス・ボルン(物理学者)
もちろん、今後世界を変えるような粒子が発見される可能性もありますが20世紀末の時点では1920年代以後、社会をも変えるような発見はなかったといえるでしょう。1920年代以降、世界を大きく変えることになる二つの発明の基礎はこの時、ほぼ完成したといえます。ここでいう、二つの発明とは、原子爆弾とコンピューターです。
原子爆弾は核分裂という量子力学の研究によって発見された現象から生まれた兵器です。
そして、コンピューターの心臓ともいえる半導体をより高性能により小型化することができたのも、量子力学から生まれた集積回路の発展によるものです。
20世紀を変えた最も重要な科学ジャンルは、相対性理論でもなく、遺伝子工学でもなく、実は量子力学だった。意外にこのことは知られていないように思います。そして、量子力学が今後さらに進んでゆくと、それはすべての量子がいとつになっていた瞬間である「ビッグバン」の謎を解き明かすという究極の問題に行き着くことになるのです。
<確率論の謎>
実は「量子力学」が完成されたといっても、そこには本質的な部分で未知の部分があります。それは、そこで用いられている「確率論」という分野が未だ謎に包まれてるということです。 あなたがサイコロを振ると1の目が出る確率は1/6です。1回目のチャレンジであなたは4の目を出しました。それでは次に振った時、1の目が出る確率は?
1回目が違ったのだから、2回目は確率が高くなるはず、そう思いませんか?
ところが、実際には前にどの数字を出していようと、サイコロを振った時に1の目が出る確率は1/6なのです。
たまに偶然が重なって1の目が10回続けて出ることもあるかもしれませんが、それを1000回続ければ間違いなく1000×1/6しか、1の目は出ないはずです。これっておかしいと思いませんか?
なぜなら、その前の回に振ったサイコロの目が何だったのかは、次のサイコロに影響を与えないはずなのです。なのになぜ1000回振ると結果はみな同じになってしまうのでしょう?不思議じゃないですか?この確率の不思議は未だに謎のままです。そんなわけのわからない理論を用いて確立された「量子力学」をアインシュタインが認められなかった気持ちがわかる気もします。
<締めのお言葉>
「・・・・・われわれは究極の物質を探し求め、宇宙万物に働く四つの力を一つに統一しようという野心を持ち続けている。そうした試みはとりも直さず、宇宙誕生の瞬間に向かって、人間の尺度からすれば無限の時をさかのぼることに他ならないだろう。
われわれの目の前に存在するのは、永遠の未来ではなく、無限の過去なのである。・・・・・」
松井孝典著「宇宙誌」
20世紀科学史へ
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