世界を数学で表現することはできるのか?

「数学的小説:確固たる曖昧さ A Certain Ambiguity : A Mathematicval Novel」

ガウラヴ・スリ Gaurav Suri 、ハートシュ・シン・バル Hartosh Singh Bal

<幸福なる19世紀>
 19世紀の人類は幸福でした。それは人類全体に「文明の進歩」に対する夢があり、未来を信じることが可能だったからです。自分たちは、そんな希望を実現するための「素晴らしい武器」を持っていると信じていました。その最大の武器のひとつが「科学」でした。「科学」の力によって人類の生活は、19世紀急激に進歩を遂げています。(ほとんどの科学的発明の原理は、19世紀中にほぼ出そろっています)「科学」は単に「便利さ」だけをもたらしたのではありませんでした。「科学」は「人類」に文明の進歩によって幸福がもたらされることを保証する「宗教」のような存在になっていました。
 ただし、19世紀にはまだ多くの人が「神」の存在を信じていたことも未来への希望を信じさせる原因のひとつでした。さらに忘れてならないのは、「宗教」とは言えないのかもしれませんが、実質的には新興宗教のひとつともいえる「社会主義」も、19世紀にその勢いを増しつつありました。
 それぞれ信じるものは異なっていても、誰もが絶対的に信じうる何かをもっていたのが19世紀だったといえます。しかし、20世紀に入り様相は一変し始めます。19世紀が「迷いなき進歩の時代」だったとするなら、20世紀は「革命と混沌の時代」になったといえます。「ロシア革命」、「世界大戦」、「公民権運動」、「植民地の独立戦争」、「相対性理論」、「インターネット革命」、「不確定性理論」、「モータリゼーション革命」、「地球温暖化」、「遺伝子操作・クローン技術」、「イラン革命」、「文化大革命」、「サイケデリックムーブメント」、「ヌーヴェルバーグ」、「プラハの春」、「ベルリンの壁崩壊」、「ロシアの分裂」、「原子力革命」、「環境破壊」、・・・様々なジャンルにおいて様々な壁が破壊され、より自由に、より平等になる方向へと世界は変わりましたが、その反動として様々な混乱も生まれ、世紀が終わるころには、19世紀に信じられていた「秩序」のほとんどが失われたことで、人類は、再びかつての「宗教」(イスラム教や各種の新興宗教)に回帰したり、新たな精神世界ともいえるネット上の「仮想世界」へと逃げ込むようになりました。
 では、もう新たな秩序を探求することは無駄なのでしょうか?この小説は、そんな疑問に「数学」の力で挑もうとした「文学」です!
「実に面白い!」と「ガリレオ」シリーズの湯川先生なら言いそうな作品です。でも、「文学」ですら困難なことが「数学」で可能になるわけがない・・・そう思うのは当然です。じゃあ、ちょっとだけ「あらすじ」をご紹介してみましょう。

<あらすじ>
 主人公はラーヴィ・カプールというインド人の青年です。彼は数学者だった祖父の遺言と遺産のおかげでアメリカの名門スタンフォード大学に入学。そこで卒業を前に、友人のピーターと共に専門外の科目「無限の概念」についての授業を受けることにします。担当の教授ニコ・アリプランティスは、初回の講義の時、こう生徒たちに語りました。

「この講座を貫くテーマはふたつある。前もってそれを話しておくことで、これから本題に切り込んでいく際に、きみたちが目標を見失わないよにうしたいと思う。ひとつめは、きみたちが心を開けば、大いなる美を見出せるだろうということだ。数学の核心には美があると、とわたしは思っている。簿記の計算式より音楽作品にずっと近い」

 さらに教授は「数学」という学問について、こう定義してみせました。

「G・H・ハーディというイギリスの有名な数学者は、よい数学とはよいパターンを作ることだと述べている。画家は形と色でパターンを作り、詩人は言葉で作る。数学者は観念でパターンを作る」

 なるほど!そこまで言われたら講義を聴きたくもなるというものです。もちろん、本当かなあと疑問を感じる方もいらっしゃるかもしれません。だって、それならもっと数学の人気はあっていいはずだし・・・。そんな質問に対しては、教授はこう答えています。

「それは、数学が観るスポーツではないからかもしれない。実際にやってみないと味わうことはできないし、やってみるには忍耐と意思の力が要る。それでも、やれば必ず美しさを見出せる」

 というわけで、この小説では読者も生徒たちといっしょになって数学の問題を解くことになります。ただし、数式は使わないのでご安心下さい。電卓も不要です。パズル的な頭の回転は必要ですが、それ以上の数学的知識や才能は不要です。
 授業の初めに教授は、生徒たちに「無限」からイメージするものをあげさせています。そこで上げられたのは、「宇宙」、「時間」、「神」、「数」、「空間」などでした。しかし、その中の「神」には疑問の声もあがりました。「そもそも存在するの?」ということでしょう。
 なんとこの小説は、そんな大きな疑問に真面目に取り組んでいます。そのきっかけとなったのは、主人公の祖父がかつてアメリカに留学していた時に起きた事件でした。
 ニコ教授が彼の祖父のことを知っていて、彼のお気に入りの整数論の論文は、実はその祖父がアメリカの留置場で書いたものだったことがわかります。しかし、なぜ祖父は逮捕され留置場に入れられていたのか?ラーヴィは祖父の裁判について調べ始め、現代と並行して祖父の時代が描かれることになります。
 かつてアメリカに優秀な数学者として招かれていた祖父は、田舎の小さな町でキリスト教について冒涜的な発言をしたために逮捕されていました。その時に検事と祖父が留置場で対話をした記録を見つけたラーヴィは、そこで行われていた「数学」の講義に引き込まれてしまいます。そこで行われていたのは、過去の数学者たちの苦闘の歴史を振り返りながら、世界の姿を数学の公理から描き出そういう試みでした。数学こそ世界を記述することのできる唯一の基準と考えていた祖父と数学を愛しつつも敬虔なクリスチャンでもあった検事との対話を読みながら、ラーヴィは様々なことを学び、同じ教室の仲間たちと共に、数学と人生について多くのことを学ぶことになります。
 祖父はその後釈放されたのか?ラーヴィは大学卒業後の進路をどうするのか?そして、彼らが見出した「数学による世界描写」とはいかなるものなのか?
 「数学小説」というタイトルに偽りはありません。

<非ユークリッド幾何学がわかる?>
 この小説は数学の歴史を追うように展開し、読者は彼らが挑んだ問題を解決しながら読み進むことになります。その発想がすごいのですが、それ以上にそれをわかりやすい物語に仕上げた文章力に脱帽です。読者はただただ頭を柔らかくして、じっくりと読んでいただければ、数学の歴史とともに人類の世界観の拡大を体験することができます。僕自身、今までさっぱり理解不能だった「非ユークリッド幾何学」が表わす世界のことが少しだけ理解できるようになりました。あなたも脳科学者、茂木先生がいう「アハ体験」がきっとできるはずです。
 ということで、僕が理解できた部分をここでご紹介させていただきます。
 先ずは、ユークリッド幾何学の基本となる公理から始めてみましょう。実に当たり前のことのようですが、たったこれだけの法則から世界を記述しようというのですから凄い!

「ユークリッドの公理」(公準)
(1)任意の点から任意の点へ直線を引くこと(ができる)(「直線」とはなんぞや?ということですね)
(2)線分を延長して直線にすること(ができる)(「線分」とは区切られた「直線」のことということですね)
(3)任意の中心と半径で円を描くこと(ができる)(「円」とは何か、ということですね)
(4)すべての直角は互いに等しい(「直角」とは、互いに等しい隣接角のこと)
(5)二本の直線に別の一本の直線が交わるとき、同じ側にできる内角の和が二直角より小さければ、元の二本の直線は、限りなく延ばすと、二直角より小さい内角がある側で交わる。
(この最後のひとつがくせものです。頭の中でイメージしてみてください。図に描いてみれば簡単にわかると思います)

<非ユークリッド幾何学の世界とは?>
 ここで(5)だけが妙に複雑なことに違和感を覚えた方は鋭い!この法則を見出したギリシャの数学者ユークリッドも、そのことが不満だったようです。そして、そのことにはどうやら理由があったようです。どうやら、(5)は他の4つの法則とは異なる意味をもっていたのです。なぜなら、(1)~(4)については、絶対的法則であるものの、(5)に関しては、その法則が成立しない世界は数学的にあり得ることが明らかになったのです。それが「非ユークリッド幾何学」の世界です。そして、その「非ユークリッド幾何学の世界」でもちゃんと(1)~(4)の公理は成立することが確認されています。それでは(5)の公理が異なる世界とは、いったいどんな世界なのでしょうか?
 そんな非ユークリッド幾何学の世界を我々はある程度想像することができます。例えば、平面上で成立している公理をその平面を歪んだものにしてみたらどうなるか?2次元の世界で公理が成立するように、3次元の世界でも公理は成立するのです。では同じように異なる次元を想定すればそれぞれの世界で4つの公理はやはり成立するはず。そして、その次元は理論上いくらでも増やせるはずです。
 実はユークリッド幾何学とは異なる非ユークリッド幾何学の世界の存在は、すでに証明されています。なんと我々が今生きている世界がそうなのです。ユークリッド幾何学によって想定されているように見えている世界は、たまたまその範囲におさまっているだけで、実際は非ユークリッド幾何学に基づく世界だったのです。
 アインシュタインが明らかにした「重力によて空間は曲げられる」というのが、その根拠です。このことは太陽が光を曲げている事実が測定されて証明されている事実です。そんな空間が曲げられた世界は、非ユークリッド幾何学によって規定されることになるわけですが、それでも我々の世界はちゃんと成立しているわけです。
「空間は必ずしも均一なユークリッド幾何学を持たない」

 このあたりまではまだわかりやすいのですが、この小説では、より数学的な基礎的概念である「数」とその「集合」の問題を扱っています。そこで先ずは「数」の分類から始めます。

「数の分類学」
 ピタゴラスの弟子のひとりヒッパソスは、2の平方根は2個の整数の比で表わすことができない数(無理数)であることを証明。無理数と有理数のちがいは、有理数は整数と整数の比(分数)で表わせる。具体的には、無理数を数学で表わすと小数点以下の数学は永遠にバラバラに登場し、繰り返し(循環小数)や「0」(有限小数)になることがない。ということです。
(π=3.1412・・・・はそのひとつ)
(1)実数には有理数と無理数が含まれる(すべての数が含まれます)
(2)有理数は有限小数もしくは循環する無限小数である(有限小数とは、1.26とか、3.67など、循環する無限小数とは、3.333333・・・とか6.474747・・・とかのことです)
(3)無理数は循環しない無限小数である(代表的な例は、円周率3.1412・・・・・・)

 この「数」の分類に基づき世界に存在している「数」の集合について、基本的な法則が導き出されます。

<基礎的な集合論>
(1)自然数の濃度(No)=有理数の濃度(どちらも無限に存在しますが、それぞれの数字を一対一で対応させることが可能です。その意味で濃度が等しいといえます)
(2)実数の濃度(C)>自然数の濃度(No)(無理数も含んだすべての「数」である実数は、明らかに自然数や有理数よりも多いため、同じ無限でもそのレベルは上になると考えられます)
(3)任意の集合Sに関して、P[s]の濃度>Sの濃度(ここでP[s]とは集合Sの「べき集合」のこと)
(注)<べき集合とは?>
 例えば、「S」という集合が、A,P,Zからなるとします。すると、Sのべき集合は、「A」、「P」、「Z」、「A,P」、「A、Z」、「P、Z」、「A、P、Z」、「 」になります。当然、「S」のべき集合は集合「S」自体よりも多くの要素を含むことになります。
(4)Sが無限集合ならば、P[s]、P[P[s]]、P[P[P[s]]]・・・は、しだいにレベルの大きくなる無限である。
(5)したがって、無限に多くのレベルの無限が存在する
(6)Nを自然数の集合とすれば、P[N]の濃度=C

 そして、ここで数学界における最大の難問の一つ「連続体問題」が登場します。
「連続体問題とは?」
 自然数の濃度(No)より大きく、実数の濃度より小さい濃度をもつ集合は存在するか?(0と1の間に自然数が存在しないように、NoとCの間に別の無限集合は存在しないのか?と言い換えることもできます)
 当然、ここで問題となるのは無理数の存在です。実は無理数がどんな数字なのか?どんな間隔で現れるのか?その法則性はまったく謎なのです。そのため、無理数の濃度は想定困難なため、無理数も含んだ実数の濃度は、自然数の濃度より大きいとわかってもどの程度多いのか、その程度は予測不能です。

<非ユークリッド幾何学との類似性>
 不思議なことに、ここで非ユークリッド幾何学の発見と類似した状況が明らかになります。ユークリッド幾何学において(5)が成立しない異なる世界を想定できたように、もしC(実数)とN(自然数)の間に連続的な異なる集合が存在したら、それはそれで集合論の基本法則が成立する異なる世界が存在しうることが証明されているのです。この二つの幾何学と集合論における類似性は、もしかすると同じ問題の異なる側面なのかもしれない・・・。そう思えてきませんか?
 残念なことにユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のように集合論を頭の中でイメージすることは困難です。(それができるのが、数学の天才たちなんですが・・・)それでもやはり、これらの数学によって想定できる何か別の世界(それが実在するかどうかは別として)が存在することは間違いなさそうです。そして、その異なる世界を結ぶ鍵といえるのが「無理数」の正体をつきとまることかもしれません。
 もし、「無理数」の中に存在する法則を見つけることができたとしたら、我々は異なる次元の存在を認識できるようになるのかもしれないのです。

<数学で世界を描く意味>
 最後に、こうした数学的な世界の記述についての公理から何がわかり、それが何の役に立つのか?問題はそこだという人も多いでしょう。そのひとつとして重要なことは、世界をユークリッド幾何学によって完璧に記述することは不可能であるということ。もしかすると非ユークリッド幾何学によってなら記述できるかもしれないが、非ユークリッド幾何学によって記述できる世界もまた無限に存在すると考えられるため、完璧な記述は永遠に不可能なのかもしれません。(この結果は、物質の構成要素である原子や分子の位置を光によって測定することは絶対に不可能であるという物理学における不確定性理論と結びついていると考えられます)量子力学の登場により、物理学においては「不可能」とされていましたが、数学においては不可能ではないのですが、「無限の計算をする必要があるために実質的に不可能」といえるわけです。
 こうした理論を確立することに何の価値があるの?何が楽しくてそんな研究に人生を捧げているの?そう思われるかもしれません。たぶん研究者たちにとって、そうした基礎的な研究の価値は、その結果に対する評価の高さにあったり、それからどれだけ特許を生み出させるかという金銭的問題にあるわけでもありません。それは問題が解決した時に得られる幸福感であり、俗に「アハ体験」と呼ばれるものを実感できるからでしょう。僕もかつて物理科を卒業して自動車系の精密機械メーカーに勤めて開発課で働いていたことがありが、当時は問題解決そのものに喜びを見出していた気がします。誰も未だ見たことがなかった新しい世界像を垣間見ることができたのですから、最初に月に立った宇宙飛行士アームストロング船長の喜びにも匹敵するはずです。さらにいうなら、そうして得た快感を他人に分け与える喜びもまた大きなものでしょう。実はそれが教育の原点であるはずです。
 是非、あなたにもそんな「アハ体験」をしてほしいと思います。
 そして僕もまた、今こうしてこの小説の面白さを伝える喜びを感じさせていただいています。

<偉大なるギリシャの数学者たち>
 最後におまけとして「ユークリッドの共通概念」をご紹介させていただきます。ユークリッドの公理の前段階として、より基本的な前提条件として考えられたものです。ばかみたいに当たり前の内容かもしれませんが、たったこれだけの規則から初めて、基本的な数学論から科学の基礎を作りあげたギリシャの偉大な哲学者たちには脱帽です。
<ユークリッドの共通概念>
(1)ひとつのものと等しいものは、互いに等しい
(2)相等しいものに、互いに等しいものを加えたものどうしは等しい
(3)相等しいものから、互いに等しいものを引いたものどうしは等しい
(4)互いに一致しているものは互いに等しい
(5)全体は部分より大きい

「数学的小説:確固たる曖昧さ A Certain Ambiguity : A Mathematicval Novel」 2007年
(著)ガウラヴ・スリ Gaurav Suri 、ハートシュ・シン・バル Hartosh Singh Bal
(訳)東江一紀
草思社

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