- マイーザ Maysa -

<魔性の女>
 「魔性の女」という言葉は、まさに彼女のためにある言葉なのかもしれません。その大きな緑色に輝く瞳に見つめられ、どれだけの男たちが彼女の虜になったことでしょうか。そして、どれだけの女たちが、その影で涙に頬を濡らしたことでしょうか。
 それだけではありません。彼女はその瞳以上に魅力的なハスキーで奥の深い声を持っていました。その声の魅力は、国境も言語も越えて世界中に彼女のファンを生み出し、その数は未だに増え続けています。
 彼女は、正統派の美人ではないかもしれません。それどころか、彼女は最初の夫と別れてからストレスによるアルコール依存症となり、その後どんどん太って行きました。なんとピーク時には、100キロ近い巨体になっていたのです。にもかかわらず、彼女は死ぬまで男たちを引きつける魅力をもっていたようです。その魅力は彼女の歌を聴くと納得できるはずです。
 サンバ・カンソンというサンバとジャズ、ブルース、それにシャンソンを組み合わせた音楽スタイル、その女王としてブラジルの夜のヒロインとなった「魔性の女」マイーザ。
 ウイスキーを片手に眠れぬ夜を過ごすとき、彼女の歌声は最高のお供となることでしょう。

<究極の玉の輿>
 マイーザは、1936年6月6日サンパウロに生まれました。彼女の家、モンジャルジン家は地元でも有名な旧家で、彼女の父親は国税局で働く公務員であると同時に酒好きで有名な遊び人でした。
 彼女は、聖心女学院というお嬢様学校で良き花嫁となるよう大切に育てられました。そして、そんな親の期待に応え、見事に素晴らしい花婿を捕まえます。それはなんと、当時ブラジル最大の富豪と呼ばれていたマタラーゾ家の御曹司でした。(なんとこの頃のマタラーゾ家は、ブラジルナンバー1の富豪であるだけでなく、全世界での10本の指に入る富豪だったと言われています)
 しかし、彼女は小さな頃からピアノを勉強しており、12才にして作曲を始めた音楽的才能にあふれた少女でもありました。そして、そんな彼女の才能を見抜いたのは夜の街の有名人だった父親でした。彼は自分の娘が優れた才能を持ちながらそれを活かすことができずにいることが納得できず、なんとかすることを思い立ちます。(当時のブラジル上流社会は古いヨーロッパの身分制度が残る時代錯誤の貴族社会でした。そこでは家に入った嫁に自由などあるはずもなくまして音楽活動など許されるはずもなかったのです)

<父の作戦>
 ある日彼は音楽業界で働く友人たちを家に招待し、娘の歌を聴かせることにしました。その時、彼女はまだ19才でしたが、お腹の中にはすでに赤ん坊がいました。そんなことは知らない音楽業界の大物たちは、お腹の大きな娘の娘の登場に驚かされます。しかし、それ以上に驚かされたのは彼女の妖艶で大人びた歌声でした。彼らは彼女の歌声にノックアウトされた最初の男たちとなったのです。

<デビューへの苦肉の策>
 さっそく彼女をレコード・デビューさせるべくサンパウロのコンチネンタル・レコードという会社に話しが持ち込まれます。しかし、なぜかその企画は中止になってしまいました。どうやら名家としての対面にこだわったマタラーゾ家からレコード会社に圧力がかかったようです。結局、既存のレーベルからのデビューは不可能と判断したある人物がそのための新レーベルを起こし、そこから彼女はデビューを果たすことになります。
 デビュー・アルバム「マイーザの世界へようこそ Convite para ouvir Maysa」は、こうして世に出ることになったのですが、その売上はすべてガン撲滅のための基金に寄付されました。それはマタラーゾ家の者が歌手としてお金を稼ぐことを許せなかったためにとられた苦肉の策でした。

<驚くべき新人アーティスト>
これからは、他の人と幸せに
もう疲れたわ
あなたの冷たい眼差し
今までのことで
わかってくれなかったあなた
未来が二人のために
開けていることを

デビュー曲「オウサ」より
 19才で世に出るまで、何不自由なく暮らしていたはずの少女が、なぜこんな歌詞を書くことができたのでしょう。そして、なぜ彼女は誰もが魅了されてしまう強烈な女の魅力を身につけていたのでしょう。それはまるで、彼女がその後自分が体験することになる人生について、あらかじめ知っていたかのようでした。

<人気爆発と結婚生活の破綻>
 こうしてデビューを飾った異色のアーティストにマスコミが飛びつかないはずがありませんでした。すぐに彼女の名はブラジル中にひろまります。そのうえ、彼女の歌が金持ちお嬢さんの道楽どころか、驚くほど大人の世界をとらえた素晴らしい歌であることが、その人気に拍車をかけました。すぐに彼女にはテレビ番組へのレギュラー出演の依頼がきます。
 こうして訪れた突然の人気爆発とあまりの露出過多にはじめはそれにつきそっていた夫もついに切れてしまい離婚を申し出ます。夫を愛していた彼女は、歌と夫への愛の板挟みとなりますが、結局歌を選びます。こうして、「マタラーゾ」の名前をとった歌手、「マイーザ」が誕生したのです。

<サンバ・カンソンとは?>
 サンバ・カンソンの最初の曲と言われる「リンダ・フロール」は1919年に作られました。したがって、歴史的にはかなり古い音楽ということになります。カーニバルにおける「ダンスのための音楽」サンバが、必然的に「聴くための音楽」へと変化していったもの、それがサンバ・カンソンということになるでしょう。それは日本における「演歌」に近い存在かもしれません。そこで歌われている歌詞の内容はやはり日本の演歌に近く「失恋」「嫉妬」「恨み」など、暗いものが多かったようです。
 ついでながら、彼女の存在は日本における淡谷のり子の存在を思い出させます。彼女もまた全盛期は派手なスキャンダルで有名なカリスマ的ブルース歌手でした。
 当然メロディーもスローなサンバとも言えるバラードが中心で、そこにジャズやブルース、シャンソンのフィーリングを持ち込んだものでした。その代表的なスターが50年代に活躍したマイーザやドロレス・ドゥラン、ドリス・モンテイロで彼女たちの活躍でサンバ・カンソンの黄金時代が築かれました。しかし、そんな暗い歌の世界は、時代の変化とともに若者たちに嫌われるようになり、より明るいポップスとしてボサ・ノヴァが登場してくることになったのです。

<サンバ・カンソンからボサ・ノヴァへ>
 夫と別れ落ち込んだ彼女は酒に溺れ、しだいに体重が増え始めるとともに歌声の渋みがさらに増して行きます。いよいよ彼女は歌に人生をかけるようになり、1960年故郷のサンパウロからリオ・デ・ジャネイロへとその住まいを移しました。
 当時リオでは新しい音楽「ボサ・ノヴァ」がその産声を上げようとしていました。マイーザもその新しい流れの中で新しい自分を見つけようとしたのかもしれません。さっそくボサ・ノヴァ系のミュージシャンたちをバックに迎え、彼女は唯一のボサ・ノヴァ・アルバムとなった「ボサ・ノヴァの小舟」を録音します。こうして彼女は、サンバ・カンソンとボサ・ノヴァのつなぎ目の役目も果たすことになったのです。

<魔性の女>
 この後彼女は、このアルバムのソング・ライターであり、バック・ミュージシャンだったボサ・ノヴァ界の重要人物の一人ホナルド・ボスコリと恋に落ちます。この時彼には後に大スターとなる歌手ナラ・レオンという婚約者がいたのですが、マイーザのカリスマ的とも言える魅力の虜になったボスコリはまるでヘビに睨まれたカエルの様だったと言われています。この頃のマイーザはすでに100キロに近い巨漢だったはずですから、ヘビという例えは的はずれかも知れませんが・・・。
 もちろん、この恋もそう長くは続かず、ボスコリはアルコール漬けになったままのマイーザから逃げるように去って行きました。
 マイーザ自身、そんな状態から抜け出そうとアルコール依存症から抜け出すための治療を受けたりもしていたようですが、結局死ぬまでそこから抜け出すことはできなかったようです。

<海外へ、ボサ・ノヴァの伝道師>
 彼女はその後、ブラジルを離れ、ヨーロッパやアメリカ、そして日本まで足をのばす活躍を繰り広げています。多くのボサ・ノヴァ系アーティストたちに先駆けた彼女の公演は、ボサ・ノヴァを初めて海外へと広めることになりました。
 頭が良かった彼女は、ポルトガル語だけでなく、フランス語や英語、スペイン語も達者だったらしく、その後スペイン人の実業家と結婚しスペインに住んでいたこともあるようです。
 1977年1月24日、彼女はリオ市内で自動車事故を起こしこの世を去りました。まだ40才という若さでしたが、結局酔っぱらい運転が彼女をあの世に旅立たせてしまったようです。

<ブラジルの人々に愛された歌姫>
 彼女ほどスキャンダラスな話題を提供し続けたアーティストは珍しかったのですが、だからといって彼女が一般大衆に嫌われていたのかというと、そうではなかったようです。
 アルコール中毒から一時回復し、コンサート活動を再開した彼女がある大きな会場でのコンサートを前にそのプレッシャーに絶えきれずアルコールに手を出してしまったことがありました。それも歌詞が思い出せなくなるほどべろべろに酔っぱらい、コンサートを続けられなくなってしまいました。彼女はあまりの惨めさに涙を浮かべながらステージを去ろうとしたのですが、その時会場からは、彼女に対するヤジではなく暖かな拍手がおこったというのです。
 危険が一杯の女マイーザ、しかし、その存在はブラジルの人々にとって愛すべき存在として語り継がれているようです。

<締めのお言葉>
「マイーザの両の瞳は、穏やかでない二つの大洋だ」

マヌエル・バンディラ(ブラジルの詩人) 

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