「愛人ラマン L'Aant」

- マルグリット・デュラス Marguerite Duras -

<半自伝的小説>
 この小説はマルグリット・デュラスの半自伝的な小説といわれています。母親と二人の兄との関係はかなり事実に近く、かつて彼女がベトナム在住中に体験した出来事がもとになっています。そのため、この小説が1984年に発表された当時は、その赤裸々なSEX描写がスキャンダラスにとりあげられ大きな話題になりました。
 しかし、その小説が発表された1984年当時なら、そこに書かれていることはそれほど過激でもなく、物語もそうドラマチックというわけではないかもしれません。(もちろん、15歳の少女がはるかに年上のアジア人男性と愛し合っていたということだけでも、1920年代という時期から考えて衝撃的なことですが・・・)この小説の魅力は、なんといっても彼女独特の文章にあるといえます。
 彼女はあるインタビューで、自分の文章についてこう説明したそうです。
「流れるようなエクリチュールです。そう、出会うものは何でも区別することなく、ほとんど選びとるということでもなく運んでゆくエクリチュール、そしてとくに、すべてを無罪たらしめる - この場合で言えばね、兄を、母を、植民地主義の忌まわしさを、全部を無罪たらしめるエクリチュール」

 なるほど、この小説に何度も登場するメコン河のゆったりとした流れのように、この小説の文章は静かに、時も、場所も、語る主体も、どれもが自在に変化しながら流れてゆきます。
「言いそえれば、わたしは十五歳半だ。
 メコン河を一隻の渡し船がとおってゆく。
 その映像(イマージュ)は、河を横断してゆくあいだじゅう、持続する。
 わたしは十五歳半、あの国には季節のちがいはない。
 いつも、同じひとつの、暑い、単調な季節、ここは地球の上に細長い熱帯、春はない、季節のよみがえりはない。・・・」


 それは海とは異なりゆっくりとではあっても確実に上流から下流へと動いています。そして、様々なもの、土は木だけでなく、死体やゴミまでをも巻き込みながら、それを海へと運びます。優れた小説は書き出しの1ページだけ読めば、そこに文章の輝きを見出せるものです。
 残念ながら僕はフランス語が読めないので、その文章を日本語訳されたもので読むしかありません。そのうえ、僕は男なので女性目線でこの小説を読むこともできません。これはかなりのハンデのはずです。どうしても、この小説に登場する主人公の愛人である男性に感情移入しがちです。

「映像は、手すりにもたれる白人の娘に男が言葉をかけるよりまえ、男が黒塗りのリムジンから降りたときから始まる。男が娘に近づきはじめ、娘のほうで男が怖じ気づいていると気がついていたときから。
 最初の瞬間から、娘はたぶんこんなふうだと知っている、つまり男が自分の言いなりになる、と。・・・・・」


「彼女は男に言う、あなたがあたしを愛していないほうがいいと思うわ。たとえあたしを愛していても、いつもいろんな女たちを相手にやっているようにしてほしいの。男は愕然としたように、まじまじと彼女を見つめる、男はたずねる、それがおのぞみなんですか?彼女は、ええ、と言う。」

 もちろん、それはそれでひとつの読み方であり、あらゆる芸術はそうやって作者とは異なる視点や立場から読まざるを得ないものです。しかし、彼女独特の文章のリズムのようなものは、男も女も年齢も関係なく「文章」の魅力に興味のある人なら必ずひかれる魅力がある気がします。
 変幻自在な視点の変え方、時空の、時系列の変え方、場面転換の仕方、それぞれが何かの意図をもって行われているはずです。この小説を書いた時、彼女はすでに作家生活40年を越えていました。それだけに、単なる才能や感覚だけではない「文章力」によって、この作品は生み出されたはずなのです。
 驚くのは、この小説の中に描かれているイマージュの数々は、まるでついこの間の出来事のように新鮮さを失っていません。まるで、どこかの少女が昨日体験したことを友人に語っているかのように書いているのです。技術は老練。しかし、感覚は少女のまま。それがこの小説の魅力であり、マルグリット・デュラスという作家最大の魅力なのだと思います。

「わたしはもうわかっている。何かを知っている。女を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではない、念入りなお化粧でもなく、、高価な香油でもなく、珍しく高価な装身具でもないということを、わたしは知っている。問題は別のところにあると、わたしは知っている。どこにあるかは知らない。ただ、女たちがここだと思っているところにはないと、知っているだけだ。・・・」

 付記によると、この小説が書かれたのは、ある時、彼女の息子ジャン・マスコロが家族の写真を整理してアルバムを作ろうとしたのがきっかけだったそうです。それを見ていた彼女がそれらの写真を集めて写真集を作り、それにコメントをつけてみようと考えました。この小説の草稿に「絶対的な映像」というタイトルがつけられていたのは、元々写真がメインの作品を予定していたためでしょう。そして、その影響は写真がなくなって文章だけになってもなお強い影響を残しているわけです。

「わたしはよくあの映像(イマージュ)のことを考える、いまでもわたしがひとりきりになって見るある映像、その話をしたことはこれまで一度もない。いつもそれは同じ沈黙に包まれたまま、こちらをはっとさせる。自分のいろいろな像のなかでも気に入っている像だ、これがわたしだとわかる像、自分でうっとりしてしまう像。」

 さらに付記によると、この小説に登場する中国人男性は実際はヴェトナム人で背は低く二枚目でもなく、彼女の送り迎えをしながら彼女を口説こうとしていたが、彼女は相手にせず、ベッドをともにしたのは一度だけだったといいます。さらに興味深いのは彼女が18歳で老いてしまったと書いている部分です。

「思えばわたしの人生はとても早く、手の打ちようがなくなってしまった。十八歳のとき、もう手の打ちようがなかった。十八歳から二十五歳のあいだに、わたしの顔は予想もしなかった方向に向かってしまった。十八歳でわたしは年老いた。だれでもそんなふうなのだろうか、尋ねてみたことは一度もない。・・・」

 実は彼女は高校時代をパリですごし、その後は私立のお嬢様学校に通っていました。そして、その頃ある男子学生と恋におちて妊娠。しかし、両親ともに子供を産むことには反対だったため、彼女は中絶手術を受けました。もし、その時子供を産んでいたら、彼女の人生はまったく異なるものになっていたかもしれませんが、彼女は子供をその時、産みませんでした。彼女はこの選択をした瞬間から大人の女性になったのかもしれません。

「愛人 ラ・マン」 1992年
(監)(脚)ジャン=ジャック・アノー
(原)マルグリット・デュラス
(脚)ジェラール・ブラッシュ
(撮)ロベール・フレース
(音)ガブリエル・ヤーレ
(ナレーション)ジャンヌ・モロー
(出)ジェーン・マーチ、レオン・カーフェイ、メルヴィル・ブボー、リサ・フォークナー、アルノー・ジョバニネッティ
 この小説は映画化もされ。世界中で大ヒットしています。映画化の際、監督のジャン=ジャック・ルノーからデュラスは協力の依頼を受けましたが、作品についての意見が合わず、結局彼女は映画への協力を断ったそうです。彼女は日仏合作映画「二十四時間の情事」の脚本だけでなく、自ら映画を監督している前衛的な作品を得意とする映像作家でもあります。それに対しどちらかというと娯楽映画畑の監督であるアノーとの仕事が上手く行くとは思えないだけに、意見がぶつかるのは当然のことだったのかもしれません。

<マルグリット・デュラスの略歴>
 この小説の作者マルグリット・デュラスは、1914年4月4日ヴェトナムのガーディンという街で生まれています。両親はフランス人でしたが、彼女はヴェトナムで育つことになりました。教育者だった彼女の父親は、カンボジアの首都プノンペンの学校で校長をを勤めていた時、病に倒れ、彼女が7歳の時、この世を去りました。父親が亡くなった後も、彼女の母親はカンボジアを離れず、教師として働きながら、彼女と二人の兄を女で一つで育てました。
 1929年15歳の時、彼女はお嬢様学校に入学し、寮生活を始めます。そのため、彼女は週末やバカンスの時、メコン川をフェリーで行き来するようになります。そして、そのフェリーの船上で、彼女はこの小説のモデルとなる男性と出会ったのでした。
 1933年彼女は大学に入学するため、パリに移住します。第二次世界大戦中に彼女は処女作となった作品「あつかましき人々」を執筆。これが1943年に発表されることになりました。この頃、次男のポールがサイゴンで死亡し、彼女はその死に大きなショックを受けることになりました。小説にはこのことも書かれています。そのうえ、戦争中、彼女は夫ロベールと共にレジスタンス活動に参加。しかし、その夫と妹がゲシュタポに逮捕され、夫は収容所で終戦を迎え、助かったものの妹はその前に命を失ってしまいました。
 1947年、33歳の時、夫の親友だったディオニス・マスコロとの間に子供が生まれます。(この時、すでに彼女はロベールとは離婚していました)
 1950年、36歳になった彼女は最初の長編小説「太平洋の防波堤」を発表。ここからいよいよ本格的に彼女の作家活動が始まります。
 1958年、フランスを代表する映画監督アラン・レネからの依頼を受け、映画「24時間の情事 ヒロシマ・モナムール」の脚本を執筆。この作品はカンヌ映画祭の正式出品作となり、世界的な注目を集めることになりました。
 1961年、彼女がジェラール・ジャルロと共同で脚本を書いた映画「かくも長き不在」(監督はアンリ・コルピ)がカンヌ映画祭で最高賞のパルムドールを受賞。
 1966年、彼女は自作の戯曲「ラ・ミュジカ」を自らが監督して映画化。その後は、製作や監督もつとめる映像作家として活躍するようになります。
 1974年、映像作品としての代表作といえる映画「インディアン・ソング」を発表。主演は、デルフィーヌ・セイリング、ミシェル・ロンスデールでした。この時期の彼女は、小説家というよりも前衛的な映画作家としての活動が中心でした。
 1981年、これもまた代表作のひとつとなった映画「アガタ」を発表。主演は、ビュル・オジェ、ヤン・アンドレアでした。
 1982年、一度は抜け出したかにみえたアルコール依存症が最発症。そのため、入院治療を行うことになります。
 1984年、本書「愛人」が発売され大ヒット。フランスにおける文学の最高賞であるゴンクール賞を受賞し、世界25ヶ国語に翻訳されることになりました。この年、彼女はすでに70歳でした。なんと70歳を過ぎて、このみずみずしい文章が書けるとは、・・・・もしかすると、18歳で大人になってしまったという彼女は、そこから年を重ねるということを辞めてしまったのかもしれません。とはいっても、彼女ですら、残念ながら肉体的な老いを止めることは不可能でした。
 1996年3月3日、ヴェトナムからスタートした彼女の波乱万丈の人生は、残念ながら82年でその時の歩みを止めたのでした。

「書くこと、それが私の生活を満たし、生涯を魅惑してきたたったひとつのこと」
マルグリット・デュラス

「私たちはどこに進んでいるのかわからない。しかし、それは進まない理由にはならないでしょ」
マルグリット・デュラス

「愛人ラマン L'Aant」 1984年
(著)マルグリット・デュラス Marguerite Duras
(訳)清水徹
河出書房新社(世界文学全集I−04)

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