地球最後の日を迎える前にできること

「メランコリア MELANCHOLIA」

- ラース・フォン・トリアー Lars von Trier -
<残り24時間の世界にて>
 もし、あと24時間で地球が無くなってしまうとしたら、あなたは残りの時間をどう過ごしますか?
 もし、あなたの住まいが街中にあるならば、あなたの望みとは関わりなく、周囲の混乱に巻き込まれたあなたは生涯を振り返る暇さえ耐えられないかもしれません。それでも、あなたがこの映画の主人公のように人里離れた所に家族と一緒に暮らしているのなら、あなたにはそれなりの選択権が与えられるでしょう。
 自分だけが24時間後に死ぬのなら、食べたい物を食べるとか、会いたい人に会うとか、見たい映画を見るとか、様々なことが考えられますが、家族も一緒で、人類すべても一緒の運命となると、かなり話は違ってきます。そんなSF映画だからこそ可能な極限状況を体験させてくれるのが、この作品です。
 ただし、この映画は「メランコリー(憂鬱)2部作」と呼ぶべき作品(構成)で、「第一部ジャスティン」の方は、ファミリー映画であってSF映画とはいえません。

<「第一部ジャスティン」マリッジブルー狂騒曲>
 第一部は「地球の崩壊」を描いた終末SFではなく、「心の崩壊」を描いた結婚群像映画と呼ぶべき内容です。しかし、かつて60年代に登場しSF界を変革した「ニューウェーブSF」では、心の世界を描くことこそ、SFの目指すところとされていました。当時ニューウェーブの騎手だった作家のJ・G・バラードは、SFの描くべき領域についてこう書いています。
「現実の外世界と精神の内世界が出会い、融けあう領域。成熟したSFの真の主題は、この領域にのみ見いだされる」
J・G・バラード

 そう考えると、「第一部」はそんな「心」と外宇宙「惑星」との共鳴を描いているといえるのかもしれません。
<あらすじ>
 「第一部ジャスティン」は、鬱病に苦しんできたジャスティンが結婚式を挙げるため、義理の父となる人物が経営する田舎の豪華なホテルに向かうところから始まります。式に遅刻しただけでなく、式が始まってからも何度もトラブルを起こし、ついには式を崩壊させてしまう新婦を支えるのは姉のクレア。長年、クレアは心の病を抱える妹を支えてきましたが、その日のジャスティンは身体が重くて動けない状態で、そのため式はどんどん遅れて行き、ついには両家の家族が険悪な雰囲気になり始めます。彼女の身体の重さは、結婚という生涯の呪縛に対するマリッジ・ブルーから来る反応だったのか、それとも近づきつつある惑星「メランコリア」の重量がもたらすものなのか?しかし、この時点で見えるのは、空の彼方に輝く明るい星だけです。
 式の雰囲気はどんどん悪化。彼女の母親(シャーロット・ランプリング)の異常さがジャスティンの精神に受け継がれたことも明らかになります。どう考えても、彼女の結婚生活が上手く行くとは思えません。その崩壊は時間の問題となって行きます。

<「第二部クレア」地球滅亡>
 「第二部クレア」は、人類終末SFとして惑星メランコリアの接近が描かれます。多くのSF映画では、ここで人類は惑星が接近する方向を変えようとしたり、被害の少ない所へ逃げようとパニックに陥ったりするところです。しかし、この映画は人のいない田舎が舞台で、そんな終末を前にしたパニックは描かれません。どうやら人々は、静かに死を受け入れたようです。(ニューヨークや東京がどうなっているかは、想像するしかありませんが・・・)
 ジャスティンを支えてきたと同時に彼女の行動を支配もしてきたクレアは、この危機的な状況を受け入れずにいました。夫(キーファー・サザーランド)も、そんな彼女を心配し、星の観測を行いながらもその危険性を隠し続けます。しかし、そんな彼の努力も報われないことが明らかになります。
 ある意味、人類の英知を代表するように描かれたクレアの精神が崩壊してゆく中、逆に最も弱い存在だったジャスティンがクレアを救う側にまわって行きます。もしかすると、ジャスティンは重力の影響を受けただけでなく、惑星メランコリアの意志を受け入れようとしていたのかもしれません。
「地球は邪悪な存在よ、だから、宇宙から消えてしまっても、何の問題もないのよ」とクレアに語るジャスティンは、すでに地球人ではないかのようです。そして、彼女はクレアとその息子のために小さなシェルターを作り始めます。果たして、そのシェルターは三人を救うことができるのでしょうか?

<リアリズムの追及>
 「ジャンル映画」という言葉があります。例えば、「ギャング映画」ならば、その種の映画ならではのストーリー展開や登場人物の設定があり、観客はそれが「ギャング映画」であると認識することで、容易に映画の世界に入ることができるというものです。映画界には、様々なジャンル映画がありますが、その王道的存在に「SF映画」があります。本格的なSF映画が登場したばかりの1950年代に較べると、最近はSF映画も多種多様になったのですが、それでも「SF映画」と観客が認識した時点でその作品は「ジャンル映画」として認識されることになってしまいます。
 たぶん監督はそうなることは避けたかったはずです。
 それにこの映画の目指すところは、観客に世界の終わりを体感させることにあるはずです。そのために、監督はあえてこの作品をドキュメンタリー・タッチで撮ろうと工夫しています。「第一部」の結婚式では、あえてカメラは手持ちのブレるカメラが使用されています。さらに出演者には、カメラがどう移動して撮影するか指示されず、必然的にカメラ目線がありません。そのためにパーティーの場面は実にリアルで、観客はそこに自分も出席している気分になります。(このあたりは、ロバート・アルトマンの群像映画を思わせます)
 一転してSF映画的になる「第二部」でもリアリズムへのこだわりは続きます。SF映画的にならないため、CGの使用は極力控えられ、その代わりに目に見えない小道具が使われています。例えば、惑星の引力によって引き寄せられる大気。惑星の接近によって歪んだ磁場による電波障害、電子部品の破壊。(停電、車のエンジン停止など)馬や鳥や動物たちの異常な行動などです。

<絵画のような演出>
 DVDで見ると、この作品のオープニング映像は再生装置が壊れたのかと思うかもしれません。まるで絵画が動き出したかのような斬新な映像に驚かされます。その不思議な映像の後なので、本編はなおさらリアルに見える気がします。
 この映画の全編に使われているのは、ワグナーの「トリスタンとイゾルデ」(前奏曲)です。悲劇の恋の伝説を描いたワグナーの有名なオペラからなので、人類の絶滅という悲劇の物語にロマンチックな雰囲気を与えてくれ、ただただ暗い雰囲気になることを抑えています。代表作「ダンサー・イン・ザ・ダーク」だけでなく、常に救いのない悲劇の映画を撮り続けてきたラース・フォン・トリアー監督にとって、史上最大スケールの悲劇となったこの作品ですが、最後にはやはり「救い」が用意されています。
 それにしても、もし、地球の残り時間が1日しかないなら、あなたはどうしますか?

「メランコリア MELANCHOLIA」 2011年
(監)(脚)ラース・フォン・トリアー
(撮)マヌエル・アルベルト・クアロ
(編)モリー・マリーヌ・ステンスゴード
(衣)マノン・ラスムッセン
(出)
キルステン・ダンスト(ジャスティン/「エターナル・サンシャイン」、「マリー・アントワネット」・・・ワガママな女性を演じたら世界一!)
シャルロット・ゲンズブール(クレア/かつてはワガママ少女がピッタリの女優でしたが、すっかり大人になった彼女は今やその世話役です!)
キーファー・サザーランド(クレアの夫/地球の残り時間は「24時間」?)
シャーロット・ランプリング(この母親なら、この姉妹も納得の神経症的役どころです)
ジョン・ハート(「エイリアン」、「エレファントマン」、「天国の門」・・・2017年1月25日この世を去りました)
ステラン・スカルスガルド(ラース・フォン・トリアー作品には「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、「ドッグヴィル」にも出演)
アレキサンダー・スカルスガルド(ステラン・スカルスガルドの長男)
ウド・キア(ラース・フォン・トリアー作品には「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、「ドッグヴィル」にも出演)
カンヌ国際映画祭主演女優賞(キルステン・ダンスト)
全米批評家協会作品賞、主演女優賞
ヨーロッパ映画賞作品賞、撮影賞、プロダクション・デザイン賞

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