「夫婦善哉」

- 豊田四郎、森繁久弥、淡島千景 -

<古くても新しい名作>
 人間の心の複雑さは世界と共に複雑化しているのでしょうか?
 昔は、何もかもシンプルで良かったとよくいいますが、人間の心も昔の方が単純だったのでしょうか?
 今どき、「寅さん」のように判りやすい人などいるとは思えませんし、坂本竜馬のように純粋で前向きな人物もいないかもしれません。しかし、よく考えてみると、それは彼らが映画やテレビで描かれている人間像をもとにしているだけで、実際はどうだったかはわからないのです。昔の映画がわかりやすさを追求するがゆえに、単純な人間像しか提示できずにいた可能性も十分あるはずです。それに100年やそこらで人間の本質が変わるものでしょうか?たとえば、夏目漱石など明治の優れた作家たちの作品を改めて読むと、そこに描かれている人間たちは現在の我々と変らない複雑な人間性をもっているように思えます。ならば、映画においても優れた作品の中には複雑な人間性を描き出しているものもあるのでは?
 たとえば、1937年の山中貞夫監督作品「人情紙風船」を見ると、江戸時代の人々もまた現代人のような悩みを抱えていたことがわかるはずです。この映画が撮られた戦前の日本人は、少なくとも複雑な人間性をもっていたと思われます。そんな「古くても新しい名作」のひとつとして思い浮かぶ作品の中に、「浮雲」とこの「夫婦善哉」があります。偶然なことに、日本映画の歴史に燦然と輝く名作「浮雲」と「夫婦善哉」の二作品は、同じ年1955年に作られています。それだけでなく、どちらも妻のある駄目男と美しく魅力的な女性の不倫を描いた作品です。ただし、「浮雲」が東京を舞台にした笑いの一切ない徹底した悲劇のドラマで、原作が林芙美子、脚本が水木洋子という女性コンビによる作品なのに対し、「夫婦善哉」は大阪を舞台にしたお笑いもありの関西的な作品で、原作は織田作之助、脚本は八住利雄と男性による作品になっています。主人公を演じた俳優も、前者が森雅之と高峰秀子という美男美女コンビなのに対し、後者は、森繁久弥と淡島千景のゆるーいコンビです。(ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンのコンビを思わせます)しかし、改めて見直してみると、この映画には意外にお笑いの要素は少なく、コメディーというよりも悲劇とみるべき作品のように思えます。たまたま同時期に作られた不倫の映画が、土地柄によってはこんなに違ってしまう。そんな感じがする二作品です。そして、主人公の人間性もまたなかなかに複雑で面白みがあるのです。

<魅力的な主人公>
 森繁久弥演じる化粧品問屋のドラ息子は、遊び人なだけでなく怠け者でずる賢い男。しかし、グルメで料理上手、面白味がある憎めないキャラクター。
 淡島千景演じる芸者上がりのお上さんは、愛想の良い人気芸者だっただけでなく、商売上手なやり手のキャリアウーマンで、主人公と始めた飲み屋を大繁盛させてしまいます。セックスが大好きで、男に騙されやすく、子供が苦手で家庭生活はまったく苦手なタイプといえます。
 どちらも人間的に駄目な部分があって、社会人としては大いに問題ありですが、周りの人々に愛されるキャラクターではあります。この映画を見た人なら、男性なら淡島に、女性なら森繁に、惚れてしまうこと間違いなしです。
 僕の大好きな本で、映画の名セリフを集めた「お楽しみはこれからだ」という本があります。(和田誠著)その中で、この映画についてこう書かれています。

「日本映画で最初に思い出すセリフは何か」と言われれば、ぼくは、
「おばはん、頼りにしてまっせ」
ということになる。・・・
このセリフには物語の中の男の性格、女の性格、背景となる世界の情感が溢れているようで好きなセリフである。森繁の表現も見事だったが、大阪弁でなければ出せないニュアンスであろう。
 実はこの「おばはん、頼りにしてまっせ」は原作にはなかった映画オリジナルのセリフ。悲劇の作家織田作之助26歳の作品に脚本家を担当した八住田利雄はさらに深みを加えたといえます。1923年という時代が実にリアルに描かれているのも魅力です。

 また和田さんは俳優森繁久弥について、こんな風にも書いています。

・・・俳優としてえらくなるにしたがって役柄の方は少しずつアクが抜けて善良になり、魅力が減って行ったのは残念なことだ。
 この後、森繁久弥は「社長シリーズ」などでさらに人気を獲得することになりますが、キャラクターとしてはやはりこの映画の主人公の方が魅力的だったのかもしれません。

(少なくとも、森繁久弥に関しては、当時の方が人間的により複雑な人間像を演じていたことは間違いなさそうです)

<監督、豊田四郎>
 生涯最高の演技ともいえる二人の演技を引き出したこの映画の監督、豊田四郎とはいかなる人物なのでしょうか?
 彼が生まれたのは1905年12月25日。京都生まれの関西人です。といっても、映画の世界に入ったのは、京都ではなく東京の松竹蒲田撮影所で、1924年のことでした。入社後、松竹の大船調ホームドラマを確立した巨匠、島津保次郎のもとで修行を積んだ彼は、1929年「彩られる唇」で監督デビューしています。
 当時はまだサイレント映画の時代でしたが、彼は吉村公三郎、渋谷実らとトーキー研究会を作り、その後、城戸四郎撮影所長にトーキーを撮らせてほしいと直談判しますが認めてもらえませんでした。(日本で最初のトーキー映画は、松竹の五所平之助監督の「マダムと女房」で1931年のことですが、完全にトーキーへ移行するのは1935年頃のことになります)
 ちょうどその頃、新たに設立された東京発声映画製作所から誘いがあり、彼はそちらへ移籍。1937年、そこで石坂洋次郎のベストセラー小説「若い人」の映画化を担当することになりました。

「若い人」 1937年
(監)豊田四郎(原)石坂洋次郎(脚)八田尚之(撮)小倉金弥(音)久保田公平(出)大目方傳、市川春代、夏川静江、英百合子
 函館のミッションスクールを舞台に教師と生徒の微妙な人間関係を描いた新世代のドラマ。自由奔放なヒロインを演じた市川春代が一躍人気者となり、同時に文芸映画の監督として豊田四郎の名を不動のものにした作品。

<トーキー映画の時代>
 サイレント映画では、弁士ができる仕事に限界がありました。それがトーキーになったことで、より複雑な解説や登場人物同士の会話が可能になり、急激に自由度が増しました。そのおかげで、セリフが多く、登場人物同士の会話が多い文芸作品の映画化がしやすくなったといえます。こうして彼は次々と文芸映画を撮ってゆくことになりました。林芙美子原作の「泣虫小僧」、阿部知二原作の「冬の宿」、伊藤永之介原作の「鶯」(どれも1938年)、それにハンセン氏病の療養所で働く女医(夏川静江)の手記を映画化した「小島の春」などの作品を発表してゆきます。
 1941年に日中戦争が始まると映画会社への統制が始まり、東京発声は東宝に吸収されてしまいます。そのため東宝に移籍することになった彼は、その後しばらく東宝争議など戦後の混乱に巻き込まれることになり、自由に映画を撮れる状況が続きます。それでも、1953年、森鴎外原作の「雁」(高峰秀子主演)で見事に復活し、得意の文芸映画を次々に発表してゆきます。
 有島武郎の「或る女」(1954年)、室生犀星の「麦笛」(1955年)、そして同じ年、織田作之助の「夫婦善哉」を映画化することになりました。

「夫婦善哉」 1955年
(監)豊田四郎(原)織田作之助(脚)八住利雄(撮)三浦光雄(音)団伊久磨
(出)森繁久弥、淡島千景、司葉子、山茶花究
 大阪船場の化粧品問屋の若旦那(森繁)は、妻も子もある身にも関わらず人気芸者(淡島)と駆け落ちし、病気の父親に勘当されてしまいます。彼女の部屋に転がり込んだものの、グータラで働こうとしない主人公を養うため、彼女は一度はやめた芸者の仕事にもどります。
 その後、彼女は若旦那の料理の腕前を利用して小料理屋を開業、店は大繁盛します。しかし、元々働くのが苦手な主人公は、病に倒れてしまいます。そのうえ、父親が亡くなったことで、実家の問屋は完全に義理の兄弟にのっとられてしまいました。いよいよ二人っきりになった夫婦の仲にはしだいに亀裂が生じてきます。

 森繁久弥の駄目男なのに憎めないキャラクターぶりは、関西弁のおかげもあって、ぴたりとはまっています。この役があまりにはまっていたこともあり、その後、彼は似た役を演じ続けることになります。続編の「新夫婦善哉」、谷崎潤一郎原作の「猫と庄造と二人のをんな」、山崎豊子の「暖簾」・・・。
 この映画の淡島千景は本当にチャーミングです。これぞ日本が誇るいい女の典型です。二人の俳優にとって、この映画は生涯の最高傑作でした。実は、本人はそうは思っていなかったようですが・・・。

 この作品によって、名監督の仲間入りを果たした豊田監督は1958年には井伏鱒二原作の「駅前旅館」をヒットさせ、その後、森繁、伴淳三郎、フランキー堺などの俳優たちとともに「駅前シリーズ」が生まれることになります。
 1977年11月13日、彼は1967年に彼が監督した映画「千曲川絶唱」の主演俳優、北大路欣也の結婚披露宴でスピーチを行った直後、心筋梗塞で倒れ、この世を去りました。
 1950年代から1960年代にかけて、東宝映画の屋台骨として映画の黄金時代を支えた陰の功労者のひとりでした。

20世紀邦画劇場へ   トップページヘ