「メトロポリス Metropolis」

- フリッツ・ラング Fritzz Lang -

<SF史に残る映画を生んだドイツ>
 未来に対し警告を発する近未来SFの先駆的映画。この作品がドイツで生まれたのには、もちろん理由があります。この映画の撮影が行われた1925年頃のドイツは、この映画で描かれているメトロポリスの社会状況とよく似ていました。
 1918年、第一次世界大戦で敗れたドイツは、巨額の賠償金を背負わされたことで経済状況が急激に悪化。全国的にリストラの嵐が吹き荒れたことで、大企業のトップクラスと一般労働者の収入格差が広がり、1917年に起きたロシア革命以降、共産党の影響力が増し、ドイツ国内は政治的な混乱の時代となっていました。その混乱の中、ナチス・ドイツが急激に勢いを増すことになります。
 そして、この時代ドイツは映画において世界の最先端に立っていました。この映画の監督、フリッツ・ラングだけでなく、F・W・ムルナウやエルンスト・ルビッチなどの大物監督を輩出し、ドイツ表現主義と呼ばれた独特の映像美は世界中の映画に影響を与えていました。
 ドイツの巨大映画会社ウーファは、その中心的存在で、1924年ゲルマン民族の叙事詩的作品「ニーベルンゲン」を見事に映像化したフリッツ・ラングに対して、巨額の投資を惜しみませんでした。今見ても、斬新で巨大なセットを作り上げるのに必要とされた巨額の製作資金(500万マルク)の存在なしにこの映画は生まれなかったはずです。

<フリッツ・ラング>
 この映画の監督フリッツ・ラング Fritzz Langは、1890年12月5日オーストリアのウィーンで生まれました。パリで建築家を目指し工科大学で学びながら漫画家、ファッションデザイナー、画家として青春時代を過ごした彼は、ウィーンに戻って軍隊生活を体験。1918年、彼はベルリンに移住し、デクラ社で映画の脚本読みとストーリー編集を担当。
 1919年、初監督作品「Halbblut」を発表。「黄金の湖」(1919年)などのミステリー作品、日本趣味映画の「Harakairi」を監督。その後の犯罪王を描いた「ドクトル・マブゼ」(1922年)のヒットで一躍、ドイツを代表する存在となりました。(「ドクトル・マブゼ」を彼はその後1932年、1960年に自らリメイクしています)
 1924年、彼はゲルマン民族の叙事詩「ニーベルンゲン」を2部作の超大作として映画化し、大ヒットさせました。
 同じ年にアメリカを訪問した彼は、ニューヨークの高層ビル群に強い衝撃を受けました。まるで巨大な生き物のように見えるニューヨークの摩天楼のイメージこそ、「メトロポリス」の原点だったといえます。彼はこの映画の製作を始めるにあたり、こう語っています。
「わたしの新しい映画は、文明の進歩の騒々しいリズムをとらえようとする前代未聞の作品である」
 彼はニューヨークの街がまるで一匹の巨大な生き物のように脈動していることに感動。その見た目だけでなく、そこで生きる人々の人生のリズムをも映像化しようと考えたのでした。もともと建築を勉強しただけでなく漫画家でもあり、ファッション・デザイナーでもあった彼にとって、この映画の企画は自らの才能すべてを注ぎ込むことができる最高の挑戦だったといえます。
 しかし、彼が描こうとしたのは単なる都市礼賛の物語ではありませんでした。そこで生きる大衆の行動にある種の危機感を感じ、その不安の正体を映像化しようとしたのです。
「世界はなんの法則ももたずに、群集の時代に突入した。ここに『メトロポリス』の本当の主題がある」
クロード=ジャン・フィリップ

 こうした大衆社会のもつ危険を予見した映画のストーリー自体は、今見ると単純すぎてもの足りなさを感じるかもしれません。確かにこの映画は、人間が描けていないかもしれません。その点ではこの映画に対する評価が人によって異なるはずです。
 ただし、巨大なエレベーターや不思議な発電装置、バベルの塔のようにそびえる摩天楼、そして暴徒と化した人間たちの集団は、まるで巨大な生命体のように描かれていることも見逃せません。映画にとって、人間を描くことは最大のテーマです。しかし、映画にはまだまだ他の可能性もあるはず。そんな監督のチャレンジ精神が感じられる作品ともいえるでしょう。

<オットー・フンテ>
 映画という総合芸術がなしうる可能性を芝居をフィルムに焼き付けただけの存在から大きく広げ、さらなる可能性を示唆したという点でもこの作品の歴史的価値は高いのです。
 この映画だけでなく「ドクトル・マブゼ」や「ニーベルンゲン」それにジョセフ・フォン・スタンバーグの「嘆きの天使」(1930年)などの美術も担当しているドイツ出身のオットー・フンテ Otto Hunteの存在もこの作品になくてはならない存在でした。彼はこの映画の高層ビルの模型や未来の車、飛行機などをデザインするために数ヶ月を費やしたといいます。当然、映画の撮影が始まると、その製作にさらに巨額の費用を要することになり、500万マルクを使ったと言われています。さらにこの映画では、暴動の場面などに多くのエキストラを必要としたため、のべで3万6000人もの人々が出演したということです。

<その後のラング>
 こうして、この映画はドイツ映画史に残る大作となりましたが、その巨額の投資を回収できるほどヒットしたわけではありませんでした。それでも監督の評価が下がることはなく、その後も彼は映画を撮り続けることができました。ハリウッドなら彼は抹殺され、二度と映画は撮れなかったかもしれません。ヨーロッパとアメリカにおける芸術に対する評価の違いは、彼にとって幸いでした。それどころか、彼にはより大きな後ろ盾が現れます。

「ここに、われわれに必要な映画を、われわれに提供してくれる人物がいる!」
アドルフ・ヒトラー

 彼の作品を見てこう叫んだというヒトラーは、彼をナチスの宣伝活動にスカウトしようと当時の宣伝省ゲッペルスを派遣。彼にドイツにおける映画の管理、そしてナチス・ドイツのための作品製作を依頼します。もちろん、彼はこの依頼にこたえる気にはなれませんでした。第一、彼の母方はユダヤ人の血をひいており、彼もまた迫害にあう立場にあったからです。そこで彼は正直に自分がユダヤ人の血をひいていることを説明したところ、彼らはこう言ったそうです。
「ユダヤ人かどうかは我々が決めること。だからまったく問題はない」
 もちろん、そんな言葉で彼はナチスに協力する気にはならず、すぐにドイツを出てパリに逃げ、その後アメリカへと亡命します。(1924年に結婚したナチ党員だった脚本家のフォン・ハルボウとも離婚しています)

<アメリカから故国へ>
 1935年にアメリカの市民権をとった彼は、「激怒」(1936年)、ヘンリー・フォンダ主演の「暗黒街の弾痕」(1937年)など、犯罪映画の名作を発表。戦時中は「マンハント」(1941年)、「死刑執行人もまた死す」(1943年)、「恐怖省」(1944年)など、反ナチズムをテーマとする作品を発表。
 1944年の作品「飾り窓の女」でエドワード・G・ロビンソンと共演したジョーン・ベネットは、元祖ファムファタール(運命の女=犯罪の陰に女あり=悪女)と呼ばれることになり、彼はフィルムノワール映画の巨匠としてハリウッドでも活躍することになります。
 ドイツを捨てた彼ですが、1958年に久々に故国に帰り、1959年にはインドを舞台にした「大いなる神秘」(1959年)、「ドクトル・マブゼ」のリメイク「怪人マブゼ博士」(1960年)を撮り、1964年にはジャン=リュック・ゴダールの「軽蔑」に映画監督の役で出演。ゴダールらヌーヴェルヴァーグの監督たちからのリスペクトだけでなく、世界中の映画人からリスペクトされ続けた20世紀を代表する映画作家でした。

「メトロポリス Metropolis」 1927年(製作は1926年)
(監)(脚)フリッツ・ラング Fritze Lang
(脚)テア・フォン・ハルボウ
(撮)カール・フロイント、ギュンター・リター
(音)ゴットフリート・フッベルツ
(出)アルフレート・アーベル、ブリギッテ・ヘルム、グスタフ・フレーリッヒ
<あらすじ>
 時は2026年、メトロポリスは一握りの支配者によって労働者が使役される不平等な社会です。主人公のフリーターは社長ジョン・フリータセニの息子で、世の中を知らないまま育ったお坊ちゃまです。そんな彼がある時、偶然に労働者の娘マリアとの出会い労働者の悲惨な現状を知ることになります。労働者たちのリーダー的存在のマリアは説教師でもあり、街の改革を求める運動を指揮していました。彼女の存在に危険を感じた社長はマリアを監禁し、人間型ロボットの発明に成功した科学者ロトワングにマリアの身代わりロボットを作るように命じます。しかし、そのロボットは大衆を扇動し大きな暴動を起こし、街を大混乱に落としいれることになります。

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