天才女優の誕生と冒険、そしてビッグママへ

- ミア・ファロー Mia Farrow and ウディ・アレン Woody Allen -

<ドラマチックすぎる伝記>
 名女優であり、そのエキセントリックさで右に出るもののない存在、ミア・ファローの自伝となれば、様々な名作映画の裏話が書かれているに違いない。そう思って読むと、ちょっと拍子抜けかもしれません。だからといって、面白くないのかというと、その逆です。この本には、名作映画の裏話よりも興味深く、本物の映画よりも奇想天外で、どんなゴシップ雑誌よりもスキャンダラスな「小説」をも越えるドラマがつまっています。
 それもこれも、ミア・ファローという「天使のような心を持つ」肝っ玉母さんが、なぜかハリウッドに舞い降りたからこそ生まれたドラマだといえます。ここではあらすじをご紹介しますが、詳細は彼女の自伝「去りゆくものたち What Falls Away」をお読み下さい。その本のタイトル(原題)がいかに彼女の人生を物語っているのかがよくわかるはずです。
 彼女の人生はまるで女性版の「フォレスト・ガンプ」みたいです。

<天才女優の生い立ち
 ミア・ファロー Mia Farrow は、1945年2月9日にアメリカ、ロサンゼルスで生まれています。父親はオーストラリア生まれで、様々な放浪の旅の後にアメリカにたどり着き、その後、ハリウッドで映画の仕事に関わることになった異色の映画監督ジョン・ヴィリアース・ファロー。母親はアイルランド生まれで、少女時代にスカウトされてハリウッドに渡り、人気映画女優になったモーリン・オサリヴァン。(ターザン映画のヒロイン役で一躍ブレイクした後も「アンナ・カレーニナ」など多くの作品に出演した大物女優)彼女は6人の兄妹たちとともにビバリーヒルズの豪邸で育てられました。まさにセレブですが、そのまま成長していればたぶんどこにでもいる二世女優で終わっていたはずです。ところが、そんな彼女の人生における転機が早くも9歳の時に訪れます。
 もともと病弱だった彼女はある日小児麻痺であることがわかりました。当時、小児麻痺の患者は伝染病患者として隔離病棟に入院しなければなりませんでした。そのため、彼女は突然家を出され、ひとり暗い病室に閉じ込められることになります。そのうえ、一人ぼっちの病院内で、彼女は隣の病室にいた少女がある日死んでしまったことを知りました。その時から彼女は、自分が死と隣り合わせに生きていることを自覚するようになったといいます。幸い彼女は無事退院することができましたが、家に帰った時、彼女はもう自分が普通の子供ではなくなっていると感じていました。

 今にして思えばすべては巡りあわせだったのかもしれない。小児麻痺病棟で、私はそれまで信じていたのとは違う世界を見た。それは家族に守られた陽のあたる暖か世界の裏側、恐怖と影、死の支配する世界だった。病棟から生還したとき、私は子供の世界をあとにしていた。

<孤独な生活へ>
 彼女の父親ジョンは、「80日間世界一週」でアカデミー脚本賞を受賞するなど、映画界で活躍していましたが敬虔なクリスチャンで、哲学や文学を好み、映画は芸術ではなく娯楽に過ぎないと考えていたようです。そのため、ハリウッドの業界人とは意見が合わず、しだいに仕事を減らすことになります。そんな中、ミアが大好きだった兄のマイクが軍の飛行訓練中に事故死してしまいます。
 女優業を引退していた彼女の母親と父親の関係はそこから急激に悪化してゆきます。もともとハリウッドでも有名なプレイボーイだったこともあり、夫婦関係はさらに冷え込んでいました。そんな家にいることが嫌になった彼女は、進んでイギリスの修道院付属学校に入学します。
 小児麻痺病棟にいた頃から、熱心な文学少女となっていた彼女はすでにハリウッドの華やかな生活から離れ、そのまま修道女になることを考えるようになっていました。彼女の心は、ハリウッドからも家族からも遥かに離れていたのです。そんなある夜、彼女に父親から電話がかかってきました。その時、彼女は不吉な感じをもちながらも電話を無視して眠ってしまいました。彼女にとって父親は、この時、呪うべき存在になっていたのかもしれません。ところが翌朝、彼女は母親からの電話で父親が心筋梗塞で死んでしまったことを知ります。兄のマイクに続く父親の死により、彼女は二人の大切な男性を失うことになりました。このことが、彼女を後に年上の男性と結びつけることになる最大の原因になったのかもしれません。

<生活するための闘い>
 6人の子供たちの生活を支えていた一家の大黒柱を失ったファロー一家に父の死を嘆いている暇はありませんでした。52歳になっていた母親は舞台女優として再び働き始め、ミアもまた学校にもどることをあきらめ、とりあえず女優として稼ぐためニューヨークで仕事を探し始めます。父親は生前彼女が女優になるとを許さなかったので、父の死が女優ミア・ファローを生んだともいえます。ただし、両親がたとえハリウッドの大物だとしても、それだけで役がもらえるほどアメリカのショービジネス界は甘くはありませんでした。まして、彼女は当時15歳で演技経験もほとんどありませんでした。しかし、運命は彼女をヒロインにするために、着々と準備を進めていました。そして、彼女には偶然訪れることになるチャンスをものにするだけの優れた才能が確かにあったのです。彼女には、才能ある人々を寄せ付ける独特のオーラがあったのかもしれません。
 ある日、彼女はホテルで行われるパーティーに招待され、いやいやながらエレベーターに乗っていました。するとそのエレベーターに乗ってきた謎の男が会場についてもエレベータから降りず、一階に戻ってしまいます。そして、同じようにエレベーターでの上り下りを繰り返し始めました。普通なら怖くなって途中で降りてしまうはずです。ところが彼女がわけもわからずに、その可笑しな行動につき合い、上り下りを繰り返したのです。すると、その人物が彼女を昼食に誘ってくれました。なんとその謎の男はあの有名な画家サルバドール・ダリでした。
 こうしてダリとその妻ガラに気に入られた彼女は、その後もダリをつき合い続けることになります。「類は友を呼ぶ」ってやつでしょうか。

<「ペイトンプレイス物語」>
 1963年、彼女はニューヨークで舞台劇「まじめが肝心」に出演します。彼女の両親と親しかった芸能関係者が彼女の芝居を見に訪れ、その中にはあのヴィヴィアン・リーもいました。(ちなみにヴィヴィアン・リーもまた普通ではない女優でした)彼女はミアの演技が気に入り、知り合いのエージェントやジャーナリストに軒並み宣伝してくれたおかげで、多くの業界人たちが見に来てくれました。その中にたまたまテレビ業界の関係者がいて、彼女に新番組の出演依頼が来ました。それが後に大ヒットシリーズとなるテレビ・シリーズ「ペイトンプレイス物語」の試作版です。
 「ペイトンプレイス物語」は、1956年にアメリカで大ベストセラーとなった同名小説のテレビ化作品でした。(出演者には、若き日のライアン・オニールもいました)ニューハンプシャアー州の小さな町で育った女性作家グレース・メタリアスが書いた原作小説は、ごく普通の田舎町で起きた家族間のトラブルをセックスや暴力などを交え、ドロドロした裏側まで描き出したセンセーショナルな内容でした。当時としては、衝撃的だった未婚の母や中絶手術を真正面から取り上げたことでアメリカにおけるフェミニズム運動の先駆とも言われる作品です。当然、テレビ化も大きな話題となり、それまでの明るいだけのホームドラマとは異なる作品として1960年代を代表する作品となり、その後のテレビ・ドラマの歴史を変えることになります。(20世紀末にブームとなった「ツイン・ピークス」もこのドラマの延長線上にあるといえます)
 ただし、この大ヒットドラマによりスターの仲間入りを果たした彼女にとっては、このドラマはくだらない作品、ソープ・オペラのリアル版にしか思えなかったようです。もともと彼女はテレビの人気アイドルになる気などなく、舞台か映画の世界で活躍することを目標にしていました。

<フランク・シナトラとの出会い>
 19歳になった彼女は、ある日ドラマの撮影が空いた時間に映画「脱走特急」の撮影現場をのぞいていて、キャンバス・チェアーに座る俳優と目が合い一瞬で恋に落ちてしまいます。それは当時すでに50歳になろうとしていた大御所フランク・シナトラでした。しかし、親子としか思えないカップルの誕生は、彼女のファーザー・コンプレックスのせいだけとはいえませんでした。シナトラの二人目の妻で当時別れたばかりだった大女優エヴァ・ガードナーは、ミアにこう言ったそうです。

「フランクと私とは実の子供には恵まれなかった。でもその生まれなかった子供の身代わりがミア、あなたなのよ!」

 1966年、二人はマスコミからの批判にさらされながらも結婚します。彼女はシナトラ・ファミリーの一員となったことで、今まで以上に様々な人々と出会うことになります。例えば、あのジョン・F・ケネディ一家とも家族ぐるみの付き合いをすることになります!
 結婚後も、女優業を続けていた彼女は、シナトラの主演作「刑事」での共演が決まっていました。ところが、その撮影が始まる前に彼女に主演映画のオファーがきます。それはポーランドからやってきた33歳の天才監督ロマン・ポランスキーのアメリカ第一作「ローズ・マリーの赤ちゃん」でした。厳しいスケジュールになることはわかっていましたが、女優としてのキャリアを優先するにはこのチャンスを逃すわけにはいかないと考えた彼女は出演を決断します。ところが、撮影が始まると、現場では監督のポランスキーと主演のジョン・カサベテスが度々対立。撮影がどんどん遅れてしまいました。ニューヨーク・インデペンデント映画の大物監督でもあるカサベテスはアドリブを重視する独自の演出で知られていました。それに対してポランスキーは脚本を重視する完璧主義者でした。二人は水と油ほども違ったのですから対立するのは当然でした。撮影は何度も暗礁に乗り上げましたが、なんとか完成にこぎつけます。しかし、撮影期間が大幅に延びてしまったため、彼女は「刑事」への出演をキャンセルすることになりました。
 彼女が自分との共演よりも、主演作品を選んだことで、二人の間には大きな亀裂が生じてしまいました。シナトラは突如、離婚のための書類を秘書を通して彼女の元に送りつけました。「ローズ・マリーの赤ちゃん」は大ヒットし、彼女の代表作となりますが、シナトラとの別れは決定的となり、彼女は居場所を失ってしまいます。

<ビートルズとの出会い>
 シナトラと別れ途方にくれている彼女に、妹から連絡が来ます。新しい生き方を教えてくれるスピリユアルな集まりに一緒に出ようという誘いでした。それはインドからやって来た宗教家マハリシ・マヘシ・ヨギによる講演会でした。ヨギの教えにひかれた彼女は、妹とともにインドで修行するためインドに向かいます。そして、インドでの修行に参加してしばらく後、あのビートルズのメンバーがそこに現われます。ロックファンの方ならご存知でしょう。ビートルズがジョージ・ハリスンに率いられてヨギの元に現われた時、そこには先輩修行者としての彼女がいたのです。
 彼女はガンジス川が見える岩の上でジョンとポールがギターを弾きながら歌う姿を見て、初めて同世代の若者たちのことを知ったといいます。それまで彼女にとって、同世代の若者たちは子供にしか見えていなかったようです。ビートルズのメンバーは、彼女にまだ当時未発表だった「オブラディ・オブラダ」を歌ってくれたといいます。ちなみに同じ時、そこにはあのドノヴァンもいました。
 こうして、1968年のインドで彼女は次の世代の英雄たちと出会ったのでした。ついこの間までは、フランク・シナトラやビビアン・リー、サルバドール・ダリ、ジョン・F・ケネディとつき合っていた同じ人がビートルズとインドで修行しているなんて、なんと不思議なことでしょう。これじゃまるで「フォレスト・ガンプ」です。
 その後、ヨギの元を離れインドを放浪していた彼女は、弟のジョニーに発見されます。そして、再び芝居の世界に戻る決意を固めてイギリスに向かうことになりました。

<アンドレ・プレヴィンとの出会い>
 彼女が最初の仕事に選んだのはエリザベス・テイラーとの共演作「秘密の儀式」(1968年)でした。その後、彼女は再びハリウッドに戻り、本格的に映画俳優として活動し始めますが、時代は1960年代末。彼女も、アメリカ西海岸で盛り上がっていたベトナム反戦運動に積極的に参加するようになり、ビートルズだけではなくジョニ・ミッチェル、ジュディ・コリンズ、ママス&パパスボブ・ディランレナード・コーエンらの音楽とも出会っています。そして、そんな時代の空気を反映した映画「ジョンとメリー」(1969年)に出演し、ダスティン・ホフマンと共演。新たな青春像を生み出しました。そして、この映画の撮影中に彼女が出会ったのが、彼女にとって二人目の夫となる人物、アンドレ・プレヴィンです。
 アンドレ・プレヴィンは、ジャズ・ピアニストとしてキャリアをスタートさせた後、MGMで映画音楽の作曲を担当。「ポーギーとベス」(1959年)、「あなただけ今晩は」(1963年)、「恋の手ほどき」(1958年)、「マイ・フェア・レディ」(1964年)と4回アカデミー編曲集を受賞しています。映画音楽の世界にジャズ的な要素を持ち込んだ先駆者だったといえます。しかし、元々はクラシックの世界で活躍することが目標だった彼は、1963年セントルイス交響楽団の指揮者に就任。彼女と出会った時期は、ロンドン交響楽団の常任指揮者に就任したばかりだったようです。
 彼女はアンドレと暮らし始め、すぐに双子の赤ちゃんを出産し、1970年には正式に結婚。この後、双子のひとりが知能性発育不全だったことが明らかになり、子育てにも苦労することになります。しかし、母親として生きる喜び、子育ての幸福感を知った彼女は、さらに子供を欲し、ベトナムから戦災孤児ラーク・ソンを養女として迎えます。
 そんな中でも彼女は仕事を続けています。この時期の代表作としては、ジャック・クレイトンが監督しロバート・レッドフォードと共演した大作「華麗なるギャツビー」(1974年)があります。まだまだ彼女のベビー・ラッシュは続き、3人目の実の子供フレッチャーを生んだ後、さらにもう一人ベトナムから女の子デイジーを、韓国から孤児の女の子スンイを迎えています。
 6人の子供を抱えながらも彼女は仕事を続け、スンイとフレッチャー二人を連れて彼女はエジプトで向かい、そこで映画「ナイル殺人事件」(1978年)に出演。しかし、この後、アンドレとの結婚生活は破綻し二人は離婚します。彼女は女優と母親二つの仕事で手一杯で、妻という仕事にまわす時間がなかったのでしょう。

<ウディ・アレンとの出会い>
 1980年、彼女はある日、俳優マイケル・ケインに誘われ、レストランにミック・ジャガーに会いに出かけました。そこで、彼女が出会ったのが、彼女の次なる恋の相手ウディ・アレンでした。ウディの傑作「マンハッタン」に感激していた彼女は、彼宛に手紙を送っていたことから、ウディと会話をし、その後、彼の秘書からデートの誘いをもらいました。
 この頃、彼女は新たな養子を迎えています。それは脳性小児麻痺の子モーゼス。これで彼女は7人の子供を育てることになります。
 この後、彼女とウディとの恋は一気に進展します。やはり二人には10歳の年齢差がありましたが、映画に関して意見があったこともあり、すぐに愛し合う関係になります。ただし、ウディは結婚も同居も望まなかったので、二人は別居したままの事実婚を続けることになります。ウディは映画でもあるように、子供が大嫌いなのでそれはある意味当然かもしれません。(そう考えると、二人の関係は初めから無理があった気がするのですが・・・)
 しかし、映画に関しては二人は最高のコンビでした。ウディの黄金期ともいえる時代は彼女とのコンビがあって初めて可能になったといえます。
「サマーナイト A Midsummer Night's Sex Comedy」(1982年)
「カメレオンマン Zelig」(1983年)
「ブロードウェイのダニー・ローズ Broadway Danny Rose」(1984年)
「カイロの紫のバラ The Purple Rose of Cairo」(1985年)
「ハンナとその姉妹 Hannah and Her Sisters」(1986年)
(この映画の姉妹は、ミアの姉妹関係を下敷きにした作品で、実際に彼女の自宅で撮影されています)
「セプテンバー September」(1987年)
(チェーホフの「桜の園」を意識した物語。撮影後、ウディが納得できず、すべて撮り直しになった)
「私の中のもうひとりの私 Ansther Woman」(1988年)
「ウディ・アレンの重罪と軽罪 Crimes and Misdemeanos」(1989年)
「アリス Alice」(1990年)
「ウディ・アレンの影と霧 Shadows and Fog」(1992年)
「夫たち、妻たち Husbands and Wives」(1992年)

 ウディの作品は毎年秋に撮影が始まりタイトルも決められていなかったため、「WAFPウディ・アレン・フォール・プロジェクト」と呼ばれていました。彼は撮影前にしっかりと絵を頭の中に描いているので、無駄な撮影は少ないのですが、完璧主義者なために撮り直しも多く、編集と撮り直しを同時進行するために、次の秋に同時に2本進行することもありました。そのため、どの作品にも出演していた彼女は、この間、ウディ作品以外には出演せず、常に彼の作品のために時間を使うことになりました。

<ウディ・アレンの裏の
 こうしてウディとの関係が深まる中、彼女のもとに11年ぶりの養子ディラン(女の子)が加わりました。(この子の場合、ウディの養子選びに加わりました)さらに「セプテンバー」の撮影中、彼女はついにウディの子を身ごもります。そして、ジナ・ローランズが主演した「私の中のもうひとりの私」の撮影中に二人の子サッチェルが生まれました。
 そんな頃、17歳になったスンイが突然映画女優になるためにオーディションを受けると言い出し、まわりを驚かせました。実は、この頃すでに彼女はウディと関係をもっていたことが後に明らかになります。
 「アリス」の撮影中、ウディは自分が選んだお気に入りの子ディランを養女にしたいと言い出します。逆に本当の子供であるはずのサッチェルを彼は嫌い、その違いは異常とも思えるほどだったそうです。もう少し客観的に見られる人がいれば、もっと早くウディの性的な異常性に気づけたかもしれません。しかし、ある日その異常さが突然明らかになります。彼女がウディの部屋で養女スンイの裸の写真を見つけたのです。ここからウディのスンイの恋愛関係が明らかになり、その後、ウディがまだ小さなディランに対しても性的な行為を働いていたことが明らかになったのです。
 彼はそれでもなお、ディランを養女にしようと訴訟を起こし、スンイはミアのもとを去りウディのもとに行き、その後二人は結婚しています。
 やれやれ、ウディ・アレンのファンとしては実にがっかりな話です。
 ハリウッドのど真ん中に生まれ、修道院と病院で育ち、兄と父を早くに失い、フランク・シナトラのファミリーとなり、トータル14人もの子供を育てた天使のような女性ミア・ファロー。早くに父親と兄を失った彼女が愛した年上の男性たちとは結局上手く行かず、最後の一人には子供までも奪われることになりました。彼女の自伝のタイトル「去りゆくものたち」は実に重い意味を持っているのです。
 
 セラピー教ともいえるウディは、セラピーに人生相談をするほどにはまっていて、それだけでも十分にまともとは思えなかったはずです。「セラピー」、「弁護士」、「銃」、「睡眠薬」へのアメリカ人の過度の依存は、日本人の我々からみると異常としか思えません。(彼は映画が完成すると必ず「主治医連特別試写会」を行っていたそうです!)彼のセラピー依存についてウディの友人レニー・ガーシュはこう言っていたそうです。

「ウディのセラピーが失敗だったかどうかはわからないよ。もしセラピーを受けつづけていなかったら、あいつは今頃連続殺人犯で指名手配中の身だったかもしれないぜ」

 あまりにもアメリカ的な病におかされた男と天使のように純粋な女性との出会いは、神のお導きによる運命的なものだったのでしょうか?
 彼女にとって映画俳優という仕事は、14人の子供を育てるために必要なお金を稼ぐ手段にすぎなかったのでしょうか?
 優れた女優たちの多くがドラマチックな恋や不倫や子供との問題などに苦しむことになったのはなぜでしょう?
 それは優れた俳優であるがために起きた問題だったのでしょうか?
 それとも、そうした人生の苦しみに耐えたからこそ、彼女たちは優れた女優になれたのでしょうか?
 かつてハリウッド女優には、様々な伝説がつきものでした。しかし、今では、そうした伝説をもつ女優は皆無です。
 もしかすると、そうした伝説的女優最後の一人が彼女になるかもしれません。そんな気がします。

<参考>
「ミア・ファロー自伝 去りゆくものたち Whats Falls Away」
 1997年
(著)ミア・ファローMia Farrow
集英社

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