- マイケル・ジャクソン Michael Jackson -

PART 1

<マイケルへの誤解>
 思えば、僕はマイケル・ジャクソンとはほぼ同世代です。(プリンス、マドンナも)しかし、彼が生きた波乱万丈の人生を想像することができません。彼の人生はあまりにも一般人とはかけ離れているので、まるで宇宙人を見ているように思えるのです。だからこそ、彼に対するバカげたゴシップ・ネタも素直に受け入れられてしまうのかもしれません。
 ディズニー・ランドを1人で借り切ったなんて言う話しは、彼にとってはたいしたことではないかもしれません。
 彼はビートルズの楽曲すべての権利を所有してたこともありました。(その他にもスライや数多くのミュージシャンたちの権利を買い占めています)
 「ああ、マイケルならそれもあり得るかも」というわけです。
 マイケル・ジャクソンの音楽的偉業が大きなものになればなるほど、彼に関する誤解もまた巨大化し、ついには彼の死がそれを伝説としてしまったのです。僕自身も、そんな彼についてのゴシップを面白おかしく話半分で信じていました。
 今回、ミュージシャンであり、マイケル・ジャクソンの研究家でもある西寺郷太(ノーナリーヴス)が書いた「新しい『マイケル・ジャクソン』の教科書」という本と出会い、改めてマイケルの人生について客観的に見直すことができました。(熱烈なファンとしての視点に偏らないように意識した西寺さんの文章には好感が持てました)僕自身も、今回改めてマイケルについて調べてみて、様々な発見がありました。特に映画「ウィズ」への出演を機に彼の人生が大きく変化したことは大きな発見でした。
 そこでマイケルのページを映画「ウィズ」公開の前後で区切りつつ2部構成で書いてみました。

<マイケル誕生>
 マイケル・ジャクソンは、1958年8月29日アメリカ中東部インディアナ州ゲイリーに生まれました。その街は五大湖周辺に多い典型的な工業都市で、彼の父親ジョー・ジャクソンは工場でクレーンのオペレーターとして働いていました。もともとR&Bバンドを組んでいた彼の父親は、プロのミュージシャンになることを夢見ていましたが、結婚し子供を育て始めるうちにその夢をあきらめていました。ところが、子供たちに音楽的才能があることに気付いた彼は、息子たちをミュージシャンにしよう考えるようになります。「自分が果たせなかった夢を子供に託す」というイタイ親になってしまったジョーは、今なら間違いなくDVの罪で逮捕されるであろうスパルタ教育で子供たちに音楽教育を施しました。(この父親の存在は、ビーチ・ボーイズにおけるブライアン・ウィルソン、それにマーヴィン・ゲイのことを思い出させます。彼もまた父親の影響で人格形成に歪みが生じた人物なのかもしれません)
 母親は、そんな厳しすぎる父親から子供たちを守る方にまわり子供たちをかわいがります。だたし、彼女は「エホバの証人」という特殊な宗教の熱心な信者でした。手術のような緊急時も輸血することを認めないなど、異常なほど厳格な教えで知られる宗教を信じる母親は、子供たちにテレビも見せず、現代社会からはかけ離れた生活を求めました。
 異常なほど厳しい父親と世間知らずの母親による教育のもとで、子供たちは育てられることになりました。それでも兄弟たちは学校に通っていたので、他の子供たちから様々なことを知ることができましたが、6男のマイケルは5歳の頃には兄たちと一緒に歌いだしていて、まともに学校にすら通えないまま芸能界入りしてしまいます。彼はステージの上で育てられた子供でした。
 小学校4年の時、クラス担任にもう少し算数の勉強をした方がいいと言われて、マイケルはこう答えたといいます。
「お金のことは、ぼくのマネージャーがやってくれるのでいいんです」

 後にジャクソン・ファイブがアイドルとして成功すると、彼の兄弟や父親までもが宿泊先のホテルにファンの女性たちを連れ込むようになり、マイケルは彼らの行為に衝撃を受けたといいます。(それはもちろん母親には秘密でした)純粋すぎるマイケルにとっては、父親や兄弟もまた信じられなくなっていました。それでも家族は、彼にとって最も大切な存在であり続けます。家族に対するこうした矛盾した感情を、彼は死ぬまで持ち続けることになります。

<ジャクソン・ファイブ誕生>
 父親の指導のもと、ジャクソン家の男兄弟5人でジャクソン・ファイブが結成され、三男のジャーメインがリード・ヴォーカルを担当します。ところが、年の離れたマイケルの歌の上手さとカリスマ性が際立っていたことから、途中でマイケルがリード・ヴォーカルに昇格します。(これはジャーメインにとって、マイケルへの嫉妬心を生むきっかけとなりました。兄弟間の確執もまた後にマイケルを苦しませることになります)
 マイケルの天才的なヴォーカルによりジャクソン・ファイブの人気は州外にまで広がり、ついに彼らはソウル・ミュージックの聖地ニューヨークのアポロシアターで前座をつとめるようになりました。そこ頃、彼らと同じステージのメイン・アクトには、後にレジェンドと呼ばれることになる素晴らしいアーティストたちが登場していました。
 ジェームス・ブラウンテンプテーションズオージェイズ、サム&デイヴ、ジャッキー・ウィルソン・・・彼らのステージを彼はステージ袖からじっと見続けていました。後に彼が有名にした「ムーンウォーク」は、この頃、彼が最も尊敬していたジャッキー・ウィルソンのダンスからヒントを得たものといわれています。マイケルの勉強熱心さはこの頃から際立っていたようです。

<モータウンとの契約>
 1968年7月、ジャクソン・ファイブにモータウン・レコードからオーディションを受けるようにと連絡が届きます。彼らはインディアナ州ゲイリーの街を中心に活躍を続けていましたが、ダイアナロスやグラディス・ナイトらがたまたま彼らの歌を聴き、モータウンへと推薦してくれました。さらにヴァンクーバーズのリーダー、ボビー・テイラーが彼らに目をつけモータウンのオーディションを受けさせたことで、ついに当時黄金時代を迎えていたモータウンのオーディションを受けるチャンスを獲得、見事に合格します。
 当時、モータウンのワンマン社長のベリー・ゴーディーは映画界進出の夢に向けて、会社をロサンジェルスに移転させる準備を進めていました。(結局この無謀な挑戦に失敗したことで、モータウンは崩壊に向けた下り坂を歩み始めることになります)
 黒人ミュージシャン憧れの存在だったモータウンは多くの黒人ミュージシャンを抱えていましたが、その契約条件は現在ではあり得ないほど、企業側有利の一方的な内容でした。その例をあげると。
 モータウンから他社に移籍する場合は、5年間アルバムを発表してはならない。
 モータウンから他社に移籍したら、在籍時の名前を使用することは許されない。(ジャクソン・ファイブは、CBSへの移籍の際、ジャクソンズと名乗ることになります)
 モータウンのアーティストは社の指示に従って録音を行い、レコード化する曲は社が選ぶ。ただし、録音にかける費用はアーティストが負担する。

 これはごく一部ですが、なんとも不当な契約条件です。多くの条項の中に書かれたこうした内容にほとんどのアーティストは気づかず、たとえそのことを指摘しても「なら契約やめますか?」と言われるだけのことでした。おまけにこうして出来上がったレコードの印税もモータウンでは、ごくわずかなものでした。ジャクソン・ファイブの場合は、当時わずか2.7%でしたが、CBS移籍後はそれが27%に跳ね上がることになります。(その後、ソロ・アーテイストとして彼は42%を受け取るまでになります!)
 かつてシュープリームスを解雇されたフローレンス・バラードは契約により、元シュープリームスという肩書を使用できず、生活保護を受けるまで追い詰められ、32歳という若さで失意の死を遂げました。グラディス・ナイトは、スターたちの影でチャンスを与えられず飼い殺し状態が続いたため、他社に移籍し、そこから大スターへの道を切り開くことになりました。ソングライターたちもその境遇の悪さに独立し、自分で会社を立ち上げたホランド=ドジャー=ホランドがいます。
 モータウンの問題点はまだまだ挙げられますが、モータウン帝国を一代で築き上げたベリー・ゴーディーの音作りの才能とヒットさせるための手腕、アーティストと曲を選ぶ優れた選択眼は、誰よりも優れていたのは確かでした。(少なくても1970年代前半までは)そんな彼が自分も耳で間違いないと選んだのが、ジャクソン・ファイブだったことは間違いのない事実でした。

<ジャクソン・ファイブ・デビュー>
 1969年10月、元々プロとしての実績があった彼らはモータウンのNo,1ヒット・メーカー、ホランド=ドジャー=ホランド(H−D−H)の素晴らしい曲を得て、すぐにその才能を開花させました。"I Want You Back"でいきなり全米ナンバー1に輝き、さらに続けさまに3枚のナンバー1ヒットを放ちます。("ABC"、「小さな経験 The Love You Save」、"I'll Be There"どれも1970年)モータウンの積極的サポートもあり、彼らは当時人気最高の番組だった「エド・サリヴァン・ショー」に出演し、その名を全国区に広めることに成功します。すると、「アイ・ウォント・ユー・バック」に続き、「ABC」、「ザ・ラブ・ユー・セイブ 小さな体験」、「アイル・ビー・ゼア」の4曲が連続してナンバー1になるという快挙を達成します。
 しかし、モータウンはマイケルが声変わりすることでジャクソン・ファイブの人気は終わる可能性が高いと考えていて、稼げる間に稼ごうと1年間に4枚のアルバムを発売。さらにマイケルをソロ・デビューさせ、映画「ベン」の主題歌「ベン」もナンバー1ヒットとなりました。
 1972年には、初の海外ツアーを行い、1973年には来日もしています。

<脱アイドル・グループ>
 1970年代も半ばになり、マイケルが少しずつ大人に近づくにつれて、ジャクソン・ファイブはキッズ・アイドルとしては扱われなくなり、黒人コーラス・グループとして生き残りをかけることになります。そして、その時期はちょうどソウルの黄金期から新たな「ニューソウル」への過渡期にあたっていました。
 スティーヴィー・ワンダーマーヴィン・ゲイは、政治的な内容を認めないモータウンの社長と激しいやり取りの末にそれぞれが「インナー・ヴィジョン」や「ホワッツ・ゴーイン・オン」のような名作アルバムを発表しています。二人の先輩が発表したニューソウルの傑作にマイケルも大きな刺激を受け、自分たちもベリー・ゴーディの言われるがままの作品から卒業したい、そう思うようになり始めます。
 ただし、ソウルの世界ではもう一つ大きな流れが生まれようとしていました。それはディスコ・ブームの始まりです。1971年、伝説的テレビ音楽番組「ソウル・トレイン」が全国放送となり、ディスコの時代が始まり、1970年代半ばにはそれが世界的に広まりつつありました。そんな時代に合わせてモータウンもディスコ・ヒットを連発し始めます。ジャクソン・ファイブも、1974年にはディスコ・ナンバーとしての最初のヒット「ダンシング・マシーン」を発表。マイケルは、いち早く「ロボット・ダンス」を取り入れ、ダンサーとしての才能を発揮し始めます。
 そんな中、彼らはアフリカでのライブ・ツアーに出発します。それまで自分たちが過ごしてきたアメリカの都市部での暮らしとはまったく違う、ルーツとなる土地での生活を見た彼らは衝撃を受けます。リアルにアフリカの貧しさを目の当たりにした彼らにとって、「アフリカへの回帰」や「アフリカの黒人たちとの共闘」という考えは浮かぶことはありませんでした。それどころか、彼らは「自分たち黒人をアメリカという文明社会に連れてきてくれた白人に感謝の念すら感じた」と語ったというのです。どうやら彼らは奴隷として彼らの先祖がどれだけ苦労してのかを知る機会もなかったようです。それでは「ニューソウル」の歌うべきことなど、到底理解できなかったはずです。

<脱モータウン>
 ベリー・ゴーディーのもとでは、スティービーやマーヴィンのように自由に作品を作ることが許されないと知ったジャクソン・ファイブのメンバーは、モータウンからの移籍を考え始めます。それを実現することはかなり困難だと思われましたが、ベリー・ゴーディにそれまでの自分の役割を奪われてしまったマイケルの父親ジョーはここで久々に本領を発揮し始めます。こうして、ジャクソン・ファイブの移籍に向けた交渉が始まりますが、やはり交渉は難航します。契約により、彼らがジャクソン・ファイブを名乗る権利は失われることになります。さらに、ジャクソン兄弟の一人ジャーメインがベリー・ゴーディーの娘と結婚したため、一人モータウンに残る道を選択。ジャクソン・ファイブはもうそろわなくなりました。しかし、それでもなお、彼らはモータウンからの移籍にこだわります。こうして、彼らはなんとかモータウンを離れ、メジャーのCBS傘下EPICと契約しました。

<ギャンブル&ハフのもとで>
 1976年、EPICに移籍した兄弟は、ジャクソンズを名乗ることになり、以前よりも大きな権利が与えられ、印税も大幅にアップしました。しかし、自分たちの思い通りにはアルバム制作をやらせてはもらえませんでした。しかし、彼らは当時、人気ナンバー1のソング・ライター&プロデューサー・コンビであるギャンブル&ハフのもとで録音を行うチャンスを与えられました。(ケニー・ギャンブルとレオン・ハフ)
 ギャンブル&ハフといえば、フィラデルフィア・インターナショナル(PIR)の中心として「フィリー・ソウル」のブームを築いたコンビ。スタイリスティックスオージェイズ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツ、スリー・ディグリーズなどの曲を提供しプロデュースを担当し、美しいオーケストレーションとダンサブルなリズムで「ソウル・トレイン」の中心となり、モータウンの人気を奪うようにポップス界全体に影響を与えたチームです。
 MFSBを中心とするスタジオ・ミュージシャンをバックに行われるシグマ・スタジオでの録音でマイケルは、音楽制作の作業について多くのことを学ぶことができました。それは言われるままに参加していたモータウンの現場とはまったく異なる現場でした。ベリー・ゴーディーとの出会いの後、マイケルはギャンブル&ハフと出会い、この後もクインシー・ジョーンズ、テディ・ライリーとその時代のトップを走っていたプロデューサーたちと仕事をすることになります。これはマイケルにとっては幸いなことであり、それが彼が各時代でトップ10ヒットを生み出し続けた彼の原動力だったといえます。(彼は1970年代から2010年代まで、すべての時代に全米トップ10ヒットを放った唯一のミュージシャンです)

<映画「ウィズ」と様々な出会い>
 1977年、マイケルにとって大きな転機となる映画「ウィズ」への出演が決まります。黒人だけのミュージカル「ウィズ」の映画化は、モータウンがダイアナ・ロスの主演映画第3弾として企画されました。当然、モータウンからの移籍騒動で訴訟ともなったマイケルの出演をベリー・ゴーディーが望んだとは思えません。しかし、マイケルの友人だったダイアナ・ロスの勧めと映画を監督することになった白人の巨匠シドニー・ルメットがマイケルの出演を望んだために実現したようです。
 映画への出演どころか俳優としての初仕事となったマイケルにとっては、この出演はその後の映像作品、ダンス・パフォーマンスにとって重要な意味を持つことになります。この映画への出演は、後にさらに重要な意味を持つことになります。それはこの映画の音楽担当クインシー・ジョーンズとの出会いです。この出会いがきっかけで二人のコンビがあの「スリラー」を生み出すことになります。
 他にも、この映画への出演は彼に多くの出会いの機会を与えてくれました。
 この映画はニューヨーク派を代表する監督であるシドニー・ルメットの作品ということで、撮影はニューヨークのスタジオで行われました。そのため、マイケルはロサンゼルスの自宅を離れ妹のラトーヤと二人ニューヨークで生活することになり、それまでにはなかったナイトライフを体験する機会を得ることになりました。特に彼にとって刺激的だったのは、あの伝説のディスコ「スタジオ54」で出会った人々でした。1977年といえば、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の大ヒットもあり、ディスコ・ブームはピークを迎えていました。(オープンはこの年の4月でした)

 アンディ・ウォーホルウディ・アレン、ライザ・ミネリ、ミック・ジャガー、スティーブン・タイラー(エアロスミス)、ダイアナ・ロストルーマン・カポーティイヴ・サンローラン、グレイス・ジョ−ンズ、ジョン・トラヴォルタ、サルヴァドール・ダリ、エルトン・ジョン、フランク・シナトラ、バーブラ・ストライサンド、フレディ・マーキュリー、ジョン・ディーコン(クイーン)・・・そこには様々なジャンルの大物たちが夜な夜な現れ、刺激的な夜が展開していたようです。
 ちなみに、この頃「スタジオ54」に入るには、それなりのスタイルとそれなりの知名度が必要でした。そのため、店の前では入場者の選別が毎日行われていて、当時シックのメンバーとしてブレイクする前のナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズは入場を断られた経験がありました。その時の二人の怒りをもとにして作られた曲が、あの大ヒット曲「おしゃれフリーク(ラ・フリーク)」でした。店内はドラッグの無法地帯ともなっていて危険な場所でもあり、経営者が脱税容疑で逮捕されるなどして、この店は1980年に閉店してしまいます。
 この店の常連になったマイケルは、同じく店の常連だったクイーンのフレディ・マーキュリーと親しくなり、音楽的にも共通の趣味をもつことからスタジオで共作をするようになります。(もともとがソウル好きだったジョン・ディーコンも)そこから二人のよる新曲も誕生しますが、それが世に出ることはついにありませんでした。
<海賊ファッション>
 マイケルは、アダム&ジ・アンツの大ファンでもありました。ヴィヴィアン・ウエストウッドがデザインした海賊風のファッションはマイケルのお気に入りとなり、彼お得意の軍服風のジャケット・デザインが誕生することになりました。

<本格的なソロ・デビューへ>
 移籍後、ギャンブル&ハフのもとで、ジャクソンズは「The Jacksons」(1976年)と「Goin' Places」(1977年)2枚のアルバムを発表しますが、どちらも大ヒットにはほど遠い結果でした。EPICは、ジャクソンズとの契約を延長する気がなくなっていたようで、ここで最後に彼らの思い通りにアルバムを録音する許可を与えます。ダメ元で作られたともいえるサード・アルバム「デスティニー」(1978年)からは、マイケルのオリジナル曲「Shake Your Body」が大ヒット。EPICはその結果を評価して、マイケルの本格的ソロ・アルバム制作にゴーサインを出します。ついにマイケルは念願の本格的ソロ・アルバムを作ることになります。
 ソロ・アルバムを自力で作るにしても、プロデュースまではまだ無理だと思っていたマイケルは、プロデューサー選びに悩みます。そこで映画「ウィズ」で知り合ったクインシー・ジョーンズに相談しようと電話をかけます。
「誰か僕のアルバムのプロデューサーを紹介してもらえませんか?」
 すると、しばらく間をおいてクインシーは、僕じゃだめかい?と答え、ここに歴史的なコンビが誕生。1979年、マイケルにとって、実質的な初ソロ・アルバムといえる「Off The Wall」が発表されます。このアルバムからは、マイケルが作った「Don't Stop Till You Get Enough(今夜はドント・ストップ)」がダンス・ナンバーがナンバー1ヒットとなり、「Rock With You」も連続してナンバー1となります。他にも、「Off The Wall」、「She's Out Of My Life(あの娘が消えた)」もヒット。マイケルはソロ・アーティストとしてやって行く自信をえました。
 しかし、マイケルの思いとは裏腹にジャクソンズの他のメンバーたちは、グループでの活動を優先するべきと主張。マイケルもそんな兄弟たちの願いを裏切ることができず、ジャクソンズとしてのアルバム「トライアンフ Triumph」(1980年)を発表。マイケル人気もあり、このアルバムもヒット。翌年の「トライアンフ・ツアー」も大成功となります。そのため、マイケルは単独での活動がより困難になり、ついに彼はジャクソンズからの脱退を決行します。

<歴史的アルバム「スリラー」誕生>
 1982年4月、ソロ・アーティストとして独り立ちするための勝負を賭けたアルバム「スリラー Thllier」の録音が、ロサンゼルスのウェストレイク・スタジオで始まります。プロデューサーはもちろん前作に続きクインシー・ジョーンズで、ソングライターとして前作にも参加していた元ヒートウェイブのロッド・テンパートンが参加。ブルース・スウェディンが重要な役目のスタジオ・エンジニアとして呼ばれました。アルバム制作のためにクインシーは600曲に及ぶデモテープを持ち込み、ロッド・テンパートンは33曲の自作曲を持ち込みましたが、そこから収録する曲を選ぶ作業だけでも大変だったでしょう。
 ポール・マッカートニーとのデュエット曲「ザ・ガール・イズ・マイン」は最初に録音され、すぐに収録が決まりましたが、フレディー・マーキュリーとの共作曲「State of Shock」は契約問題などにより収録は見送られました。その他にも、当時、一大テクノブームを巻き起こしていたYMOの「Behind the Mask」も候補曲に挙がっていたようですが、これも見送りになりました。そして、完璧主義者のクインシーは細部にこだわるために作業を遅らせ、マイケルはどんどん新しいアイデアを持ち込むことで完成を遅らせてしまいます。そのうえ最初の完成作を聞いたマイケルはミックス、編集作業の出来の悪さにがっくりして涙を流して悔しがったといいます。結局マイケルは、作業期間を10日間延長してもらい、再度ミックスダウンを行いギリギリに完成させたといいます。sのおかがで、録音が完成してから2週間でアルバムを店頭に並べるという驚きの作業が実行されることになりました。
 1982年12月に発売された「スリラー」は、2006年時点のギネス記録によると世界一売れたアルバムに認定されていて1億400万枚。(ちなみに、2位はAC/DCの「Back In Black」の4200万枚、3位イーグルスの「グレイテスト・ヒッツ」の4100万枚、4位「サタデー・ナイト・フィーバー」の4000万枚)
 さらに全9曲の中から全米チャートのベスト10になんと7曲がランク・インし、グラミー賞では、最優秀アルバム賞を含め史上最高8部門での受賞という快挙を成し遂げました。前作の「Off The Wall」がまったく賞に縁がなかっただけに、この結果はマイケルに大きな自信をもたらしました。
 改めて振り返ると、彼はこのアルバムによって音楽業界の戦略を大きく変えました。それどころか音楽業界がCD以外の分野、MTV、映画、テーマパークのアトラクション、コマーシャル、出版、ニュース番組などなど、あらゆるメディアを含めた巨大産業へと発展するきっかけを生み出したとも言えるでしょう。その意味で、このアルバムはただ単に世界一売れたアルバムである以上に世界の音楽業界の流れを変えたという意味でより重要な作品だったと言えそうです。
<ヴァン・ヘイレン>
 「スリラー」からの3作目のシングル「ビート・イット」の録音にはゲスト・ギタリストとして、エディ・ヴァン・ヘイレンが参加していますが、ギャラは0だったといいます。ギャラの代わりにブースには6本パックのビールが2箱置かれていたといいます。(ヴァンヘイレンの他のメンバーは、なぜギャラをもらわなかった?と聞いたそうですが、単にやりたかったからやっただけとのことでした)録音中、あまりに演奏が熱くなったのか、突如スピーカーが火を噴いたという伝説が残されています。

<MTV時代とマイケル>
 しかし、このアルバムがここまで売れたのは、単にこのアルバムに収められた曲が優れた曲だっただけでなくもうひとつ別の原因がありました。それはこのアルバムが発表された年、1982年がMTV時代の到来と一致していたことが挙げられます。
 1981年、音楽ビデオ専門の有料放送局MTVが誕生。音楽と映像をセットで楽しむのが当たり前の時代がここから始まりました。ヒット曲を出すには優れた映像もセットで作らなければならない・・・そんな状況が生まれつつあり、多くのミュージシャンたちがシングル曲のためにプロモーション・ビデオを制作するようになり、ミュージック・ビデオの傑作が次々と生み出されることになりました。この後、MTVの世界からは多くの映画監督が誕生しています。(ジョナサン・デミ、デヴィッド・フィンチャー、デレク・ジャーマン、スパイク・ジョーンズなど)
 マイケルの凄腕マネージャー、ジョン・ブランカは、MTVが生み出す新しい時代を見越し、「スリラー Thllier」のヴィデオ・クリップ集を販売することを計画。マイケル自身もそのアイデアが気に入り、自らのダンスと映像センスを投入し、それまでにない巨費を投じた製作が行われました。「ブルース・ブラザース」などの監督ジョン・ランディスを迎えて製作された「スリラー」のヴィデオ・クリップには80万ドルが投入されたといいます。
 意外なことに、当初「スリラー」のヴィデオ・クリップは、MTVでほとんど放映されていませんでした。なぜなら、当時のMTVは契約者のほとんどが白人富裕層だったため、黒人アーティストの映像は好まれないと放送局が判断。1983年3月以前は、黒人アーティストの映像作品はわずか3%しか放送されていませんでした。
 そのため、マイケルの2曲目のシングル「ビリー・ジーン」の放映をMTVに拒否されたことに対し、マイケルが所属するCBSレコードが「放映しないなら自社の作品をすべて引き上げる」と圧力をかけ、ここから黒人アーティストの作品がMTVで放映される時代が始まったのでした。(もちろんマイケルの作品が素晴らしかったからこそ、MTVの視聴率も上がり、ウィン・ウィンの状態が生まれたのですが・・・)
 彼はこうして音楽業界の戦略を大きく変えることになりました。それどころか音楽業界がCD以外の分野、MTV、映画、テーマパークのアトラクション、コマーシャル、出版、ニュース番組などなど、あらゆるメディアを含めた巨大産業へと発展するきっかけを生み出すことにもなりました。

<モータウン25周年>
 1983年3月25日、モータウン・レコードの25周年記念ライブが開催され、そのステージ上にマイケルの姿がありました。ベリー・ゴーディーと独立の際、法廷闘争にまでなった関係からすれば、それはあり得ないことでした。しかし、マイケルの異常なまでの人気を考えれば、彼が出演しない記念行事では格好がつかない。そう判断したベリー・ゴーディーは、苦渋の選択をして自らマイケルに出演を依頼したようです。
 当日、マイケルは先ずジャクソン・ファイブのメンバーとしてステージに上り、その後、一人で新曲の「ビリー・ジーン」を披露しました。そして、この時、マイケルが見せたのがあの「ムーン・ウォーク」でした。このステージが5月16日にテレビで放送されると、一躍「ムーン・ウォーク」はアメリカ中の話題となり、ダンサーとしてのマイケル人気は世界に広まることになりました。ちなみにこのマイケルの「ビリー・ジーン」のダンスは、1974年のミュージカル映画「星の王子さま」におけるダンサー、振付師のボブ・フォッシーによる「スネーク・ダンス」がもとになっています。映像で見ることもできるので、是非ご覧ください。本家も素晴らしいです。(衣装もそっくり)マイケルは黒人エンターテイメントだけでなくミュージカルも大好きで、他にもフレッド・アステアのダンスはかなり参考にしているようです。そこに彼が舞台袖で見ていたジャッキー・ウィルソンのダンスをミックスすることで世界を驚かせたダンスが誕生したわけです。(何事にもそのオリジナルがあり、模倣がすべての始まりなのです)
 ここからいよいよマイケルの時代が始まりますが、逆にベリー・ゴーディーのモータウンは下り坂を歩み、1988年には大手のMCAに売却されてしまいます。

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