ポップの王となった無垢なるカカシの悲劇

- マイケル・ジャクソン Michael Jackson -

PART 2
<孤独な王の憂鬱>
 1984年、マイケルは母親と兄弟たちに泣きつかれ、ジャクソンズの再結成ツアー「ヴィクトリー・ツアー」に参加しました。6人兄弟で収入を6等分するという条件やスポンサーとなったペプシコーラのCMに出演するなどの義務を負わされた彼は再びうんざりさせられます。このツアーの合計収入は、5000万ドル(124億円)を越え、それまでの最高額だったローリング・ストーンズの3000万ドルを軽く越える金額となりました。マイケルは世界一お金を稼げるスターとなりました。
 この頃から、マイケルは彼が生み出すお金を目当てに集まる欲にかられた人々に常に悩まされるようになります。「ヴィクトリー・ツアー」を仕切っていたボクシングで有名な悪名高いプロモーター、ドン・キングは、マイケルによって首になっています。
 いよいよマイケルはジャクソンズとしての活動にうんざりし、兄弟たちのために働かされるより、自分のやりたい音楽を追及するため、ソロ活動に専念することに決めました。しかし、こうして彼は兄弟と別れ、父親と離れ、スタッフを切ってしまったことで、いよいよ孤独の王になってしまいました。

<USA・フォー・アフリカ>
 1984年、エチオピアの飢饉から飢えた人々を救うためのチャリティー・レコード「Do They Know It's Christmas」がイギリスで発売されました。この企画は世界中のミュージシャンたちに影響を与え、アメリカでもハリー・ベラフォンテが発案者となり「USA・フォー・アフリカ」の企画が立ち上げられました。プロデューサーに指名されたのは、時代の寵児となっていたクインシー・ジョーンズ。そして、曲作りはライオネル・リッチーとマイケルが担当することになりました。
 1985年1月28日、ロサンゼルスのA&Mスタジオで45人のスターたち「USA・フォー・アフリカ」により「We Are The World」の録音が行われました。プロデューサーのクインシーにとっては、参加するメンバー選びだけでも大変なことだったはずです。何せ「エゴ」の塊のような大スターたちの中から、人種とジャンル、性別も考えて、絶妙なバランスでメンバーを選び、それぞれのメンバーにフレーズを割り振らなければならないのです。そして、録音当日にはそうやって選んだ個性が強すぎる顔ぶれのメンバーを集めて、歌合わせを行うのです。考えただけで、胃が痛くなるような作業です。その日、スタジオの入り口には、「ここでエゴを捨てて下さい」という張り紙が貼られていたといいますが、どこまで効果があったのか?
 アフロ・アメリカンのアーティストとしては、男性側がマイケルとライオネル・リッチーの他に、スティービー・ワンダー、レイ・チャールズ、スモーキー・ロビンソン、アル・ジャロウ、ジェイムス・イングラム、ジャクソンズ・。女性では、ダイアナ・ロス、ティナ・ターナー、ディオンヌ・ワーウィック、ザ・ポインターシスターズ、シーラE、ラトーヤ・ジャクソン・・・。
 白人は、男性がケニー・ロジャース、ボブ・ディランブルース・スプリングスティーン、ダリル・ホール&ジョン・オーツ、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、ビリー・ジョエルポール・サイモン、スティーブ・ペリー(ジャーニー)、ケニー・ロギンス、ウィリー・ネルソン・・・。女性は、リンジー・バッキンガム(フリート・ウッドマック)、キム・カーンズ、シンディ・ローパー・・・
 当初、マイケルはクインシーにリード・ヴォーカルはライオネル・リッチーとマイケルが担当し、残りのメンバーにはバックコーラスをやってもらおうと提案したといいます。もちろん、クインシーはその案を認めるわけはありません。大御所たちがバックコーラスだけで満足するわけはないのです。さすがは、マイケル、空気の読めなさは半端ではありません。結局、クインシーの提案により、大物アーティストたちにワンフレーズづつ歌ってもらい、それを一曲にまとめることに決まりました。
 こうして完成した「We Are The World」は、世界中で大ヒット。しかし、作曲者よりも、プロデューサーのクインシーの方が評価され、ほとんどの曲を作ったマイケルはあまり評価されませんでした。(実際、クインシーの方がこのレコードでは苦労したのだと思います)

<ビートルズを買う>
 1983年2月、アニメ・オタク仲間であり、ミュージカル・オタク仲間でもあるポール・マッカートニーの自宅を訪れたマイケルは、そこでポールから彼が版権を所有する楽曲のリストを見せられました。そして、彼は版権ビジネスについて彼に語り始めました。

「これは素敵なビジネスなんだ。音楽の価値がわからない投資家じゃなくて、その楽曲の意義がわかる僕達みたいなソングライターが大切にするものさ」
 この時、マイケルは驚くと同時にポールにこう言ったそうです。
「ポール、じゃ、ぼくはいつかビートルズを買うかもね」

 なんと1984年、ビートルズだけでなくリトル・リチャードやポインター・シスターズなどの版権を所有する音楽出版社ATVが売りに出されました。当然、多くの企業や投資家がその購入に動き出しました。オノ・ヨーコやポール・マッカートニーも購入を考えましたが、高額での入札が予想されたため、あきらめていたようですが、CBS、コカコーラ、ヴァージン、シンコー・ミュージックなどが入札に参加。ところが落札したのは、なんとマイケルでした。この結果にポールは少々機嫌を悪くしたようですが・・・。マイケルは周囲の驚きの声に対し、こう語りました。

「なぜ、白人が黒人の権利を買うのを非難されずに、黒人が白人の権利を買えば叩かれるのでしょうか。エルヴィスの楽曲を書いたオーティス・ブラックウェルは黒人です。彼は黒人だということで契約をいい加減にされたせいで、一文無しで亡くなりました。・・・」

 まあ、この言葉には一利ありますが、そもそも版権ビジネスってなんでしょう?マイケルがこうして楽曲の版権を買い集めても、マイケルが印税収入を増やすだけだし、単なる富の集中にしかならない気がするのですが、・・・。後に彼は「幼児虐待疑惑の裁判」のために巨額の費用が必要になり、この版権を手放すことになります。

<初の完全自作アルバム>
 クインシー・ジョーンズとの最後のコンビ作となったアルバム「BAD」(1987年)。彼は、7年間のブランクにアルバムためのオリジナル曲を書きためていました。しかし、その間ブラック・ミュージックの世界では、大きな変化が起きつつありました。
 1986年、Run-DMCが「ウォーク・ディス・ウェイ」を大ヒットさせ、ヒップ・ホップがいよいよメジャーのポップ・ミュージックとして定着することになります。ヒップ・ホップのアーティストやそのファンたちが身につける独自のストリート・ファッションは、マイケルのゴージャスなファッションとは対極にあり、そのままではマイケルは時代遅れの存在となっていたはずです。「BAD」はそんな時代の変化に彼が合わせようと苦労した作品でもありました。だからこそ、このアルバムもまた大ヒットを記録したのでしょう。しかし、「スリラー」に比べると「BAD」の評価は低く、雑誌「ローリングストーン」で「ワースト・アルバム」に選ばれるなど、彼に対するバッシングのムードが広がりつつあったともいえます。
 そんな状況から逃れるためだったのか、この時期にマイケルはロサンゼルス郊外に広大な土地を購入し「ネヴァーランド」の建設と引っ越しを行っています。そこは彼にとってまさに現実逃避の場だったといえます
 1991年、アルバム「BAD」から4年後、マイケルはクインシー・ジョーンズではなく若手のテディ・ライリーをプロデューサーに迎えアルバム「Dangerous」を発表します。当時、「ニュージャック・スウィング」によってブラック・ミュージック界をけん引していたプロデューサーであるテディーとのコンビにより、マイケルは再び時代の寵児になろうとしていました。(テディ・ライリーはボビー・ブラウンやキース・スウェットのプロデューサー)
 アルバム「Dangerous」はマイケルの狙い通り、前作「BAD」の3000万枚を上回る3200万枚を売る大ヒットとなりました。

<マイケルへの誤解>
 1993年2月10日、マイケルはアメリカを代表する人気番組「オプラ・ウィンフリー・トーク・ショー」(アメリカ版「徹子の部屋」)に出演します。そこで自分が「尋常性白斑症」であることを告白します。肌の色素が破壊されることで部分的に色が白くなってゆく病気のため、マイケルはメイクによってそれをゴマかしていたのです。「マイケルは整形によって色を白くしようとしている」という疑惑は誤りだったようです。彼はその病気のために常に日光に当たらないようにしなければならず、大きな帽子や手袋などの過剰な日光防止装備を必要としていたのでした。
 1993年、マイケルは大きな事件に巻き込まれます。彼の親友として知られていた13歳の少年ジョーディ・チャンドラーがマイケルを虐待を受けたとして訴えたのです。以前から、少年愛の性癖が疑われていたマイケルは、この訴訟により性犯罪者、異常性格者としてマスコミの攻撃を受け始めることになります。
 彼が作り上げた「ネヴァーランド」には多くの子供たちが招待され、世界の子供たちのためのチャリティー活動にも熱心だったマイケルでしたが、それが異常な愛情のカモフラージュのためだったとしたら・・・。マスコミは一気にマイケル叩きに走ったわけです。そうすれば新聞でも、雑誌でも売れるのですから。
 後に明らかになりますが、ジョーディーの訴えは彼の元の父親に裏で操られて行われたものでした。子供を近づかせた後、家族ぐるみで付き合うようになり、その関係を使い少しづつ要求をエスカレートさせてゆく。マイケルも初めは親しくしていましたが、しだいにその関係がおかしいと感じるようになり、ついにはその関係を切ります。そうなると、相手はそれまでの関係を利用して訴訟を起こし、多額の和解金をせしめようと考えるわけです。後にジョーディーの父親は家族に対するDVで訴えられており、子供を守るために訴訟を起こすような人物ではなかったことが明らかになります。
 マイケルは、そうした胡散臭い連中にとっては格好のカモだったのでした。

<精神的な落ち込みの原因>
 彼は肌の病気以外にも、CM撮影中に起きた事故での大やけどにより皮膚の再生手術を受けて以後、痛みを抑えるために鎮痛剤を使用し始めていました。ところが、ダンサーとしての肉体疲労や訴訟などの心的ストレスを抑えるため、いつしか鎮痛剤の使用に歯止めがかからなくなっていました。彼には心から信頼できる人がいなかったため、鎮痛剤がその代わりになっていたのでしょう。
 1994年5月26日、マイケルはそんな心にできた穴を埋めるため突然、結婚を発表します。それも相手はあのエルヴィス・プレスリーの娘、リサ・マリー・プレスリーでした。二人の結婚は世界中を驚かせましたが、実はマイケルは子供時代からスーパースターとしてエルヴィス家と付き合いがあり、彼女は心を許すことができる数少ない存在だったようです。似たような境遇で育ったという点では、彼女はお似合いの女性だったのかもしれません。しかし、二人は1996年あっさりと離婚します。そしてマイケルは再び心の穴を埋めるため、2度目の結婚をします。今度の相手は、皮膚の病気の治療のために通っていた病院の看護師の女性でした。二人の間には、今度はプリンスとパリスという二人の子供が誕生します。
 2001年、彼はラスト・アルバムとなるアルバム「インヴィンスィブル Invincible」を発表します。このアルバムは当初は1998年に発表される予定だったのですが、マイケルの完璧主義がどんどん制作にかける時間を引き延ばしていったようです。

「・・・作品というものは永久に残るタイムカプセルなんだ。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂のように永久に地球に残るんだ。みんなが、すべてそういう気持ちでやればいいのに」
マイケル・ジャクソン

 2003年、彼は再び「少年への虐待容疑」で訴えられます。前回と異なり民事ではなく刑事事件として扱われたため、マイケルは手錠をかけられて収監され警察で取り調べを受けることになりました。マイケルにとっては屈辱的な事態であり、音楽活動どころではなくなりました。2005年6月、やっと彼は無罪判決を勝ち取りますが、マスコミによるマイケル・バッシングによって、彼のイメージは完全に「有罪」となっていました。そのダメージから彼が立ち直り、ライブ活動の再開を発表したのは2009年のことになります。こうして、「This Is It ツアー」の準備が始まることになりました。

<最後のツアーへ>
 マイケルの新たなツアーのための準備が始まり、出演するダンサーたちのセレクションが始まりました。2年に及ぶ長期契約を獲得するため、世界中から一流のダンサーたちがオーディションに集まっていました。その中には、日本を代表するダンサーとなったケント・モリもいました。(彼はマイケルに気に入られ、メンバー入りを打診されますが、契約中だったマドンナのツアーから降りることができず、泣く泣くメンバー入りをあきらめました)
 もちろん、出演者以上にこのツアーに賭けていたのは、マイケル本人でした。彼にとっては、自分自身の汚名を晴らす場でもあり、巨額の訴訟費用を回収する場でもあったツアーは、失敗するわけには行かないものだったのです。それが彼を薬物の大量摂取へと導いた可能性は高いでしょう。
 マイケル・ジャクソン、彼はこうして生きながらおとぎ話の主人公になり、死して英雄となりました。

<ショー・マスト・ゴー・オン>
 純粋培養されて育った天使のような少年マイケル。少年時代の彼にとっては、人生とはステージ上で繰り広げられるショーと区別がつかなかったかもしれません。厳しい父親の叱責も貧しい暮らしも、ステージの上では忘れることができました。

「ステージに上がると、何が起こっているのかわからなくなる。ほんとだよ。とてもいい気分になって、そこが僕にとって、この世で一番安全な場所みたいな感じがするんだ」
1977年のマイケルのインタビューより、「ロック伝説」ティモシー・ホワイト著

 ステージ以外の人生を知ったのは、映画「ウィズ」の撮影のためにニューヨークで暮らし始めた頃からでした。その頃の彼は世界について知りたいことばかりで、未来にも多くの夢を描くことができました。

 インドに行ってみたいというマイケルに、なぜインドに?と記者が問うと
「『飢える』っていうのが実際にどういうことなのか見てみたいんだ。聞いたり読んだりするんじゃなくて、この目で見たいんだよ」
 世間知らずというのは簡単ですが、その後、マイケルはアフリカ・ツアーで「飢える」ということについて知ることになり、「USA・フォー・アフリカ」に貢献することになります。

 彼は自分の気持ちに正直に生きることが可能だったし、それが周囲から認められてもいました。たとえ「子供が好きだ」といっても、彼自身が子供であればどうってことはありませんでした。だからこそ、彼には悩みなど何もなかったのでしょう。

「ぼくは子供が好きだ - ほんとに大好きだ。それに音楽も。
 数多くの歌やすばらしいストーリーを書いて、それを表現したり最善をつくしたいと思ってる。
 だから、僕には何も悩みがない。ほしいものを手に入れたし、自分にそれができるってことが、わかってるわけだからね。
 ぼくの心の中で、ぼくを苦しめるものは何もない」

1977年のマイケルのインタビューより、「ロック伝説」ティモシー・ホワイト著

 彼が大人になり、ビッグスターになればなるほど、彼の純粋さは利用され、疑われ、嘲笑されることになってゆきました。振り返ると、映画「ウィズ」への出演は、彼を「おとぎの国(ネバーランド)」から「大人の国」へと旅立たせ、二度と帰ることができないようにしてしまったターニング・ポイントだったのかもしれません。その映画でカカシを演じたマイケルは、優れた仲間たちと共に「ポップの王」への道を歩み出して行くことになります。彼はもう二度と純粋無垢なカカシに戻ることはできないのです。

 彼は「ウィズ」の撮影が終わってしまうことについて、当時こう答えています。
「そりゃあ、悲しいよ。メーキャップをしたまま家に帰ったとき、鏡の前でかかしになり切って踊り続けることがある。それとか、夜にベッドから起き出して、鏡の前でいくつかの動作をしてみたりね。
 それをはじめると、頭の中はかかしの世界でいっぱいになる。安らぎを感じるんだ。まるで、そう - 魔法のように」

1977年のマイケルのインタビューより、「ロック伝説」ティモシー・ホワイト著
 
「・・・かかしは脳味噌を持っている。自分には脳味噌がないと考えているけど、実はちゃんとあるんだよ。ずっと持っているんだけど、本人が知らないだけなんだ。とにかく、それを表現することが大切なのさ」

 最後に彼が尊敬していたモータウンの先輩であるマーヴィン・ゲイの言葉を。
「マイケルの歌には、雰囲気としてのせつなさではなく、本物の感動を呼び起こすクオリティがある。
 いつだってそれを失わないんだ。
 どんなジャンルであろうが、あの子の歌の根本にはいつもブルースがあるんだ。」


<ご冥福をお祈りします>
 スキャンダルまみれのまま、この世を去ったマイケルですが、今後少しづつ彼に対する誤解は解け、もうすこし正しく彼は評価されるようになってゆくのでしょう。
 確かにステージ上で燃え尽きるために用いたともいえる薬物は、確実に彼の寿命を縮めてしまったようです。同じようにエルビスも、ジミヘンも、ジャニスも、命を激しく燃やすためにその寿命を犠牲にしてしまいました。でも、それは彼らが自ら選んだ道です。
 天国では、誰にも疑われることなく子供たちと自由に遊園地で遊べるはずです。
 でも、彼が本当にやりたかったのは、やっぱり音楽エンターテイメントの完成品を作ることだったはずです。
 死後に公開された様々な映像作品からは、そんな彼の幸福そうな姿が見られます。
 しかし、その裏には完璧な作品を生み出すための精神的な葛藤があったのでしょう。
 天国なら、そんなプレッシャーを感じずに作品作りを楽しめるかもしれません。薬物に頼ることなく。
 音楽ビジネスに大きな変革を起こした無垢なる少年のご冥福をお祈りします。
 ここまで大きな変革を起こせたのは、彼が奇跡を起こせるただ一人の「ホープフル・モンスター」だったからに他ならないでしょう。

<締めのお言葉>
「彼は大突然変異のほとんどは災厄的なものとみるほかないとし、それらを「怪物」と呼んだ。しかし、時たままったくの幸運で、ある一つの大突然変異がある生物を新しい生活様式へ適応させるようなこと-彼はそれを「前途有望な怪物」ホープフル・モンスターと呼んだ-もある、と彼は論を進める。大進化はこうした前途有望な怪物たちがまれに成功することによって進むのであり、ある個体群の中での小さい変化の積み重ねによるのではない、というのである」

リチャード・ゴールドシュミット著「進化の物質的基礎」についてより

<参考>
「新しいマイケル・ジャクソンの教科書」 2009年
(著)西寺豪太
ビジネス社

「ロック伝説」
(著)ティモシー・ホワイト

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