- ミヒャエル・エンデ Michael Ende -

<ミヒャエル・エンデの世界観>
 ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」や「モモ」を読んだことのある方は、その小説の奥に込められた経済、文化、社会、宗教などについての深い洞察に感心されたことと思います。ミヒャエル・エンデとはいかなる人物か?そう思われた方も多いのではないでしょうか。彼が書いた大人向けの作品「鏡のなかの鏡」を読んだ方は、さらにその疑問を深めたのではないでしょうか。(なにせ難しいので・・・)
 そんなわけで、以前からここで彼のことを取り上げたかったのですが、彼の対談を収めた「エンデと語る - 作品、半生、世界観 -」(朝日選書)という本と出会い、やっと可能になりました。僕が彼に聞いてみたかったことの多くがそこに書かれていました。エンデの生い立ち、デビュー、作家生活、そして彼自身の世界観について、僕なりにまとめてみたいと思います。

<エンデ少年の生い立ち>
 ミヒャエル・エンデは1929年11月12日南ドイツ、バイエルン州の山間にある街ガルミッシュで生まれました。彼の父親エトガー・カール・アルフォンス・エンデは画家でした。シュルレアリスム的な独自の画風を持っていたエトガーは、素描やエッチングなどの作品を数多く描きましたが、残念ながら高い評価を得ることができず、生活は常に苦しかったそうです。その上、彼の作品の多くは第二次世界大戦中の空襲により、多くの作品が焼失してしまいました。(エンデの大人向け作品集「鏡の中の鏡」には、残されたエトガーの作品が数多く用いられています)そうした苦しい生活を支えていたのは、彼の母親ルイーゼでした。彼女は、真面目で地味な父親に比べ、明るく活発な性格で、家庭を明るくするだけでなくマッサージなどの資格を取得して家計をも支える大黒柱的存在でした。こうした両親の元、彼は母親のポジティブな生き方と父親の芸術性を上手く受け継ぎながら成長してゆきました。彼が一人息子だったこともあり、父親は教育については非常に熱心で、特に父親自身が大きな影響を受けていたドイツが生んだ偉大な思想家ルドルフ・シュタイナーの影響を彼に強く残しました。

<厳しい時代に生きて>
 彼にとっては、素晴らしい両親に育てられた幸福な少年時代でしたが、社会はけっして良い状況ではありませんでした。彼の少年時代、ドイツは第二次世界大戦に突入、彼の同級生の多くは戦場で死に、彼自身も召集から逃れて反ナチスの抵抗組織に入るという激動の連続だったのです。
 それでもかろうじて生きのびた彼は、戦争が終わった後、高校である女の子に恋をしました。ところが女の子の両親に交際を認めてもらえず、二人を引き離すためもあって、彼はシュッツトガルトにあるシュタイナー学校に入学させられることになりました。(どうやら彼はけっして真面目なタイプではなかったようです)
「私たちが、自身の生をこれでよし、としているのが実は思い違いであるような場合、それを気づかせるエロスがやってきては、私たちの生活を一度ガタガタにゆさぶる。そのためにエロスは存在しているのかもしれない」
(なんかちょっとカッコよすぎる言い訳のような気もしますが・・・)

 もちろん、彼とその女の子の出会いが、そんな関係だったのかどうかはわかりません。とにかく彼女のおかげで、彼はシュタイナー学校創立当時の優秀な教師たちから教えを受けるチャンスに恵まれることになりました。しかし、すでに多感な少年時代を終えて17歳になっていた彼にとって、シュタイナー式の教育はすんなりと受け入れられるものではなかったようです。おまけに、第二次世界大戦という激動の時代を生きたことで、彼はもうすでに大人の世界に入りかけていたのです。彼がシュタイナーの理念を理解できるようになたのは、卒業後しばらくたってからのことになりました。シュタイナーを理解する方法について、彼はこう語っています。
「けっして彼を現代の大学教授のように思って読んではならない。・・・シュタイナーを読むということは、読み手の思考のなかにたえず創造のプロセスが生じるのをうながすことなんですから。読み手がいわば一瞬たりとも休むことなく、自己の思考を新たにはたらかせていかなければならない・・・」

<子供たちへ>
 彼にとっては、この体験があったからこそ、自分がいつの間にか通り過ぎてしまった子供時代こそが、人生において最も大切な時期であると考えるようになり、そんな時期の子供たちには大人にはない優れた能力があることも理解できたのでしょう。
「・・・子供というのは、まだ精神世界と外の環境を同一にして生きているから、両者の区別をしたりしない。ところが大人は、内と外との分裂の中にいるから、本を読んでそのことを意識したり解釈したりする。・・・」

 そんな子供たちに対して、彼は以下のような人間になってほしいと願っていました。
「直観に根ざして一回一回モラルを創造しうる人間、他から与えられた尺度や、社会の慣習に根拠を置くのではなく、ある状況に直面した瞬間、そのたびごとの道徳的決断をくだす、しかも自己の創造性からその決断をくだす人間・・・」

 そして、こうした大人に育ててゆくためにこそ、芸術は存在するのだと彼は訴えていました。
「教育は、ひとつの芸術なのだから。そして芸術とは、今日も何度も話したように、創造のプロセスなのだから、一瞬一瞬が前例のない瞬間だ。子供に対しながら、その一瞬一瞬を新しく生み出す力・・・私がファンタージェンと名づけるこの力こそ教師に求められる才能です」

<芝居の世界からのスタート>
 その後彼は仲間たちと劇団を立ち上げ、芝居にのめりこんでゆきます。そして、ミュンヘンの俳優学校に入学し、そこで2年間俳優になるべく学びましたが、彼が目指していたのは俳優よりも台本作家でした。卒業後、彼は小さな劇団に所属し、俳優として活動しながらオリジナルの脚本を書き始め、それを発表しようとしますがそれらの作品が売れることはなくしだいに経済的にも追い込まれます。
 そんな頃、彼は完全にシュタイナーの思想から離れると同時に父親に対しても反抗するようになります。父親の絵画を否定し、その生き方をも否定した彼の態度に嫌気がさした父エトガーは、ついに家を出ていってしまいました。結局、父親は別の女性と暮らすようになり、家に戻ることもこともなく、彼はその責任をとり母親のめんどうをみてゆくことになります。
 そうした厳しい状況が続く中、彼は政治風刺漫談の台本を書く以来を受け、かろうじて生活できるようになり、その後はラジオの台本作家など、フリーのライターとして仕事を得ることができるようになりました。

<ジム・ボタン誕生>
 ある日、画家志望の昔の同級生からいっしょに絵本を作ろうという誘いを受け、彼は子供向けの文章を書き始めました。ところが、その文章は絵本には収まらず、どんどん長いものになり、気がつくと一冊の長編小説になっていました。こうして誕生したのが、1960年発表のデビュー作「ジム・ボタンの機関車大旅行」です。
 この本は発売当初、ほとんど注目されず、再び彼は生活に困る状況になります。しかし、西ドイツ児童文学賞を受賞したことで一躍注目を浴び、見事ベストセラーとなりました。この時、ミヒャエル・エンデは30歳になっていました。
「一冊の本は、何かの思想のお説教であってはならない、と私はいいましたが、それは著者がかかわった思想の成果ではあるはずなのです。一篇の詩は、知恵をしのばせておく必要はないのですが、知恵から生まれた結果ではなければなりません。・・・」

 彼の語ることからは、彼が真面目すぎるほど真面目であることがよくわかります。けっして彼は天才肌の多作なアーティストではありません。コツコツと自らの思いを積み上げながらも、その根本の発想は常に「自由」である彼の創作態度は職人と芸術家を見事に両立させるといえるでしょう。そして、芸術について、その創作についての彼の姿勢はこの時からすでに出来上がっていたようです。

「本物の芸術では、人は教訓など受けないものです。前よりりこうになったわけではない、よりゆたかになったのです。心がゆたかに・・・」

「著者としてもつべき世界観を、私は前もって十分に勉強しておきます。その上で創作に向かうとき、私は勉強したことをすべて忘れます。・・・その思想内容は、私という人間の構成要素になりきっていなければならない」


 彼は本当に素晴らしい芸術とは、人間の素晴らしさを表現するのではなく、人間の醜さを表現したものだともいっています。人はその作品を見て涙したり、怒ったりするが、けっして自分も同じことをしようとは思わないはずだ、そう語っています。
「・・・舞台の上でモラルがお説教されればされるほど、観客はよけい非道徳的になる、と。芸術は本質的には非道徳的なものであり、道徳化されてはならないものだとすらいえます」

<現代社会への批判>
 1971年、彼はイタリアに移住。そこで15年間暮らしながら「はてしない物語」や「モモ」などの代表作を発表します。その代表作「はてしない物語」や「モモ」には、彼が考える現代社会の姿が描き出されています。
「私は今日の世界はすべて資本主義体制だと見ます。マルクス主義だって、いまでは資本主義になっています。ただ西側が私的な資本主義であるのに対して国家単位とした資本主義になっているということだけです。・・・・・もう論じあきた、と人々が感じるのは、資本主義体制が永久に続くという前提の枠内でばかり議論が続けられているところにあります。・・・」

 そして、彼はある意味あの「9・11同時多発テロ」を予見していたようなことも発言しています。
「バベルの塔です。高く、もっと高く、と積み上げる。・・・でも必ずいつか崩れる瞬間がきます。もうほんのちょっとしたら小さなきっかけで、この塔をすっかりひっくり返してしまうには十分です」

 残念ながら現代社会は経済のシステムと深く結びついていて、そこから切り離すことができません。そのうえ、その経済システムは21世紀に入り、よりグローバル化し、それぞれの国の経済がすべて株式市場でつながって、一国の経済システムが破綻するとその影響はすぐに全世界に広まるようになりました。人類にとって最も重要な脅威、それは現代の経済システムがプラス成長を基本として、すべて組み立てられているということにあります。このことが変わらない限り、人類の文化もまた、それを目的に形作られ、食料問題、エネルギー問題、環境問題、そして地球温暖化の問題、すべてにおいて事態は悪化し続けるはずなのです。多少、事態の悪化を遅らせることはできても根本的な解決は絶対に不可能でしょう。
「経済成長をこのまま続けるための新エネルギーは何か?それは私にとって二義的な問いであり、緊急の関心事ではありません。どうやって、この経済成長から人間を自由にするか、です」

<もうひとつの未来像>
 では、どうすれば経済システムを変え、社会システムを変え、文化をそして人間を変えることができるのか?その答えが簡単に得られるわけではないのですが、彼はいくつかのヒントを与えてくれています。その中のひとつとして「シュタイナーの三層構造」の重要性について述べています。
「シュタイナーの三層構造」とは?
シュタイナーは社会の機能を三つの要素に分けます。
(1)経済(2)法(3)精神
(1)経済の分野においては、常に「助け合い」の精神、「友愛」の精神を重視。現代の資本主義システムではなく、どちらかといえばイスラム社会における金融システムに近いのかもしれません。
「・・・今日の経済界のたたかいは、生産力を高めるためではなくて市場をどうやって広げるかのたたかいでしょう。つくることは問題ではない、つくったものの捨て場所さがしです。・・・」
(2)法律の分野では、常に「平等」の精神を重視することを求めます。確かに国、個人、犯罪者、被害者、すべてに対して平等に判断を下すことこそが、今の司法に求められていることなのかもしれません。
(3)精神の分野で最も重要なのは、やはり「自由」です。芸術活動における「創造」はもちろんのことですが、普段の何気ない生活の中でも常に精神を自由に保つ文化こそが、人間にとての幸福なのだと、僕も思います。
「・・・そして、人間のなかに自由がないとなると、創造力も認めないことになります。人間の創造性というのは、いつも因果律的束縛なしに、何かまったく新しいものを、自分のなかから生み出すことです。新しい芸術フォルム、新しい理念、新しい行動様式、それを自分のなかから出してくること。そしてまさにそのなかにこそ、人間の価値があると私は思います。・・・」
 シュタイナーは、この三つの分野が混同されることなく、それぞれの基本を守り、バランスをとれば社会は健全さを保つことができると語っていました。

<テクノロジーと文明>
 彼は新しい社会を創造するために重要と考えているポイントとして、テクノロジーによって魂と文明が離れ離れになってしまったことをあげています。発達しすぎてしまったテクノロジー(遺伝子操作、携帯電話、原子力、インターネット、生命医学、バーチャルリアリティーなど)に人間の魂と通じるものが本当にあるのか?と問いかけています。
 ではどうすればよいのか?
「・・・テクノロジーの外界を変えて、人間の内的世界を映し出しうるものにするか、あるいは人間の内面世界を拡大して、テクノロジーを抱え込むこともできるようにするか?答えは私にはまだわかりません。ただ、私は、本を書きながらひたすらその試みをしている。・・・」

<我々に何ができるのか?>
 では、具体的に我々には何ができるのでしょうか?
シュタイナーの三層構造の重要性はわかっても、それを現実社会に応用するには、社会システムの変更だけで無理なのは明らかです。理想の社会システムを実現するには、その基本となる人間の心が変わっていなければならないのですから。
「・・・・そもそも、始めることのできる唯一の点は、そこにしかありません。つまり精神生活において、です。出発点にできるのは、いつも精神生活です・・・」
 そんなこと永久にできるとは思えない。僕も、そう思います。ただし、人間は絶対に不可能だとわかっていても、どこかに希望を見出し、それを心の支えとして生きているものです。
「人間が希望をもつということ、それは自然のなりゆきを見て希望させられる理由があるから、もつというのではありません。どう見ても情勢は絶望的だ、そのとき、「にもかかわらず」もつ希望だから徳とされるのです。この世界に、愛する理由も見つからない。にも関わらず、人間は愛します。・・・」

<物事を評価するための覚悟>
「私たちは、しょっちゅういろいろな物事について、これは良いとか悪いとか、あれは悪い、とか口にします。いい、悪い、というのは「質」のことですよね。それ、いったい何ですか?「質」を言葉で言い換えられますか?・・・でもそれを教えることは、できるのです。すぐれた芸術、すぐれた文学、すぐれた音楽・・・これにふれて、ふれえ、ふれぬくことによって「質」の知覚が生まれます。「質」と「質」との微妙な差異を感じ分ける力も、人間のなかに目覚めさせ、みがきあげることができます。・・・」
 そうそう、僕のこのサイト、この文章にとって最も重要なアドヴァイスも書かれていました。これはあらゆる評論家、解説者、インタビュアー、教師たちが、常に心にとどめておかなければならないことだと思います。
「あるすぐれた絵についてどう語るか。その語っているやりかたが、対象である絵と同等の質をもつことによってのみ、その絵の質の高さを言い表すことができるのです。・・・」
 そして、あらゆる芸術家に対する彼の言葉もありました。
「・・・芸術は、じつはみな「質」で勝負しなければならない。芸術が「質」という手段で世界のことを語るならば、それはおのずと人々を納得させる」

<永遠の時を迎えて>
 数々の名作をイタリアで生み出した彼でしたが、その後再び彼はドイツに戻ります。そのきっかけは、女優だった彼の妻インゲボルク・ホフマンの死でした。彼は妻の死にすっかり落ち込んでいたようですが、再び彼に救いの女神が現れます。それはなんと日本人の女性でした。それも彼の著書「はてしない物語」の翻訳をした翻訳者の佐藤真理子さんでした。彼が日本人の女性にひかれたのは、彼がかなりの日本びいきだったことからもわかります。
 こうして、1989年二人はめでたく結婚します。しかし、その後の彼の活躍もそう長くは続きませんでした。彼もまた、胃がんに冒され余命わずかだったのです。1995年、彼は66歳というまだまだ亡くなるには惜しい年齢でこの世を去りました。
 彼の代表作「モモ」では、時間泥棒によって奪われた「時間」を主人公のモモが取り返す物語が描かれています。多くの人は、この物語を「人がいかに時間を有効活用せず、無駄に使っているか」と捉えているようです。しかし、エンデが言いたかったのは、「いかに生きるか」ではなく「いかに死ぬか」だったのかもしれません。
 時間をつかさどる存在であるマイスター・ホラは「死」についてこういっていました。
「もし人間が死とはなにかを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね」
「その時は、おまえの時間もおしまいになる。あるいは、こういうふうにも言えるかもしれないね。おまえ自身は、おまえの生きた昼夜と年月すべての時間をさかのぼってゆく。と。・・・
 そこは、おまえがこれまでになんどもかすかに聞きつけていたあの音楽の出てくるところだ。でもこんどは、おまえもその音楽にくわわる。おまえ自身がひとつの音になるのだよ」

 ミヒャエル・エンデ、彼の本は永遠に読まれ続けることで人類がかなでるハーモニーのひとつになることでしょう。もちろん、そうなれるのは彼だけではなく誰でもがそうなれるはずです。回りの世界を知ることで、初めて自己を知ることができる、そう書き続けた彼のように目を内にだけ向けるのではなく、外に向けることを忘れずに行きたいものです。もちろん、子供たちにもそのことを伝えたいと思います。

<締めのお言葉>
「あなたが自己を認識したければ
 世界のなか、あらゆる周囲に目をそそぎなさい
 あなたが世界を認識したければ
 あなたのなか、自身の深みに目を向けなさい」

ルドルフ・シュタイナー著「箴言集」より

20世紀文学全集へ   20世紀異人伝へ   トップページへ