- ミシェル・フーコー Michel Foucault -

<20世紀を代表するカルトな思想家>
 20世紀後半に活躍した思想家の中でも特に人気の高いポスト・モダニズムを代表する存在。
 スキンヘッドで強面の風貌。
 同性愛者としてエイズで亡くなったという生き様。
 フランス最高峰の学校を出た大学教授でありながら、学生たちとともに反体制運動に参加した反骨精神。
 もうひとりの人気哲学者サルトルとの論争など。
 ミシェル・フーコーがカルト的な存在となる要素は数々ありました。
 哲学に興味がない人でも、ミシェル・フーコーの名は聞いたことのある人は多いでしょう。20世紀を代表するカルト・ヒーローのひとりミシェル・フーコーが提示した哲学とは何だったのか?彼の人生と彼の著作をたどりながら迫ってみたいと思います。
 彼はかつてこう語りました。
「私の書物のどれもが私の自伝の一部なのだ」
 ならば、彼の人生を追いながら彼の哲学を知ろうと思います。

<過酷な少年時代>
 ミシェル・フーコーMichel Foucault は、1926年10月15日フランスのポリティエ市に外科医の長男として生まれました。1940年、彼が14歳の時、ドイツ軍がフランスに攻撃を開始。彼は兄弟と共に疎開することになります。その後、パリがドイツ軍によって占領され、彼らが住んでいた祖国の家もドイツ軍に接収されてしまいました。自分たちの国が他国によって支配される混乱の時代を体験したことは、彼に大きな影響を与えることになります。

「私は思うのですが、私の世代の少年、少女は、こうした歴史的な大事件によって、その子供時代の基盤を固められているのです。迫りくる戦争という脅威こそが、私たちの舞台背景であり、私たちの生みの枠組みだったのです。・・・・・
 私が、歴史と、私たちが巻き込まれている出来事や個人的な経験との関係に魅了されているのは、おそらくこうした理由からでしょう。私は思うのですが、そこにこそ、私の理論的欲求の核となる部分があるのですよ」

ミシェル・フーコー

<悩み多き青春時代>
 終戦後の1946年、彼はフランスにおける最高レベルの学校である高等師範学校に合格。ところが、この頃、彼は周りにも同性愛者であることを知られるようになっていて、そのことによる差別から情緒不安定となり自殺未遂事件を起こしてしまいます。この時期の彼は人生の目標を定められず、そんな中、当時ブームになりつつあった共産党に入党します。しかし、共産主義も彼に心の平安をもたらしてくれることはなく、再び自殺未遂事件を起こします。そんな彼にとって、唯一の喜びは「勉強」だったようです。

「私が16歳か17歳の頃、わかっていたのは、一つのことだけでした。学校での生活が、外部の脅威や政治から守ってくれる環境だったのです。勉学の環境の中に、知的環境の中に保護されて生きるという考えに私はいつも夢中になりました。私にとって、「知識」とは、個人の存在を守るべく役に立つものであり、また外部の世界を理解させてくれるものなのです。私はそう思っています。「知識」とは、物事を理解することで、生きてゆくための手段となるものなのです」

 そして、彼は自殺についこうも語っています。
「自殺しようという欲望はすべて、自分があっちか、こっちか、どこかにいるというものではなくなって、いたるところにあらわれているような世界、自分にはどの部分も見渡せ、どの部分も自分という絶対的な存在に所属していることが示されているような世界を実現するものだ。・・・・・自殺すること、それは想像をめぐらすための最大の手段なのである」
自殺を肯定しているともとれるこうした彼の発言は、その後大きな論争を巻き起こすことにもなりました。

<教師から哲学者へ>
 教師としての仕事を得たもののフランスでの窮屈な生活に行き詰まった彼は、1955年スウェーデンのウプサラ大学でフランス語教師として働きながら自らの博士論文の執筆を開始します。1958年、彼はポーランドのワルシャワにできたフランス文明センターの講師に就任。翌年、ドイツのハンブルグにあるフランス文化学院へと転勤。そこでやっと博士論文の「狂気と非理性」を仕上げました。この論文によって彼は博士号を取得。再び、パリでの生活が始まります。(この論文は、1964年に短縮版「狂気の歴史」として出版され、それが一般的に知られることになります)

「狂気の歴史」(1964年)
 「狂気」とは何か?実は、「狂気」自体を定義することは不可能です。そのために「狂気」という概念を生み出した社会の制度や学問体系の歴史によって、その本質を明らかにしようとしています。

「狂気は、未開の状態では、発見されることはありえません。狂気は、ある社会のなかにしか存在しないのです。つまり、狂気というのは、狂気[とされるもの]を孤立させるような感情のあり方、狂気[とされるもの]を排除し、つかまえさせるような反感(嫌悪)のかたちがなければ、存在しないのです。・・・・・」

 16世紀以前、ヨーロッパでは狂気と理性は区別されていませんでした。狂気は無秩序のしるしであり人々を楽しませるものという考え方もあったのです。17世紀以降、デカルトは狂気とは思考の成立を不可能にさせるものとしました。キリスト教において、かつては「貧しさ」は「清さ」であり「天国への近道」とされていたが、しだいに「いい貧乏人」と「悪い貧乏人」という区分けが生まれ。そうした正常ではない人々を隔離するための施設が各地に生まれ出しました。「狂気」はそうした「正常に働ける人」とは異なるはみ出し者として分類され始めたのです。
 18世紀後半、個人が社会や自然環境にうまく適応できない状態を「狂気」と考えるようになります。そして、そう判定された者は監禁されるのが常識となってゆきます。(ただし、当時は犯罪者などとの区別もなかった)19世紀になると、そうした正常ならざる人々のための保護施設が生まれ、「精神病患者」として隔離される時代になります。しかし、19世紀の終わりになるとフロイトの登場により、それは治療可能なものとなります。彼らは神のごとき存在の精神科医によって分析され、治療される道がひらけました。
 「狂気」とは、こうして分類され隔離される治療されることによって、初めて生み出された概念だったのです。

「臨床医学の誕生」(1963年)
 かつて医者は患者に「どうしたのですか?」とたずねました。しかし、18世紀末頃から、彼らは「どこが悪いのですか?」とたずねるようになったといいます。その変化の原因は何か?それは人間の身体を機械のように部分から成り立つ構造物と見なすようになった「まなざし」のせいと考えられます。こうした医学の「まなざし」は、人間を「正常な人間」と「異常な人間」に区分する基準となってゆきました。

 1966年、彼は次なる著作「言葉と物」を発表します。するとこの著作は、構造主義の流行とともに大ヒットとなります。さらにこの年、彼はチュニジアのチュニス大学で教えることになり、アフリカへと出発します。

「言葉と物」(1966年)
 16世紀から20世紀にかけてヨーロッパにおいて、どのような認識論上の変化が起き、現代にいたる人間科学やその根底にあるヒューマニズム(人間中心主義)が生まれたのか?16世紀までの学問において、重要な基準となっていたのは「類似」でした。例えば、絵画においては空間を模倣し、いかに「類似」させるのかが評価の基準でした。17世紀にはいると、その基準は「類似」から「比較」へと変わり、そのために「分析」が重要な役割をになうようになります。同じ頃、言語の世界では「主語と述語」の関係が成立したと言われています。これは生物学における「構造」の発見、経済学における富の持つ「価値」の発見に相当すると考えられます。18世紀から19世紀にかけては、経済学者アダム・スミスらによって「労働」が価値の基準として登場します。生物学においては、博物学者キュビエによって、生物の構造の変化に「進化」の概念がダーウィンに先立って持ち込まれています。言語をより機能的に記号として分析する記号論理学をバートランド・ラッセルが、精神を無意識の存在から分析する精神分析学をフロイトがそれぞれ20世紀初めに確立します。こうして、「知」の歴史を追ったフーコーは、最後にこう結論づけています。

「十八世紀以前には、「人間」になるものは存在しなかったのである。それは、二百年足らず前に、知(学問体系)という造物主がおのれの手で作り出した、まったく最近の被造物なのである」

 しかし、こうして生まれた人間中心主義は今危機に瀕しています。

「・・・近代のすべての学問の中心に『人間』という価値がインプットされ、自然界のなかで、『支配者としての人間』を中心とする傲慢な思想が生み出されてきたのではないか。そして、現代の野蛮な状況は、その『人間』によって、人間の近代的理性によて生み出されたものではなかったのか。・・・」
桜井哲夫

 今再び人類がかつてニーチェが「超人」と呼んだ存在へと変化を遂げることが求められているのかもしれません。
 1968年、彼の赴任先チュニジア大学で学生運動が激化。学生たちが逮捕されたり拷問されるという事態になり、彼も学生たちを支援する活動を始めます。そして、この時の体験は彼に「権力」と闘う姿勢と「マルクス主義」とは何なのかをもう一度深く考えさせることになりました。

「・・・たとえば、私は、1950年から52年にかけて学生だったころ、自分たちに影響を与えていた流儀として、マルクス主義とはどういうものだったかと考えるのです。また、マルクス主義が、青年たちの大多数にとって完全に嫌悪の対象であり、学習すべき教理として教えられていたポーランドのような国で、マルクス主義が意味していたものが何だったのか、とも考えます。また、60年代初めに私もフランスで参加していたマルクス主義に関する、生気のない、アカデミックな議論のことも思い出します。チュニジアでは、逆に、すべての人々が、過激なほど強く、暴力的に、そして驚くべきほど高揚して、マルクス主義に頼っていました。彼ら若者にとって、マルクス主義は、現実を分析する優れた方法であるだけでなく、同時に、一種の倫理的エネルギーであり、まったく瞠目すべき実存的な行為だったのです。
 私は、マルクス主義者であるチュニジアの学生たちの流儀と、ヨーロッパ(フランス、ポーランド、ソ連)でのマルクス主義の役割についての私の知識との間にあった隔たりのことを思って、がっかりした感情に襲われました。
 これが、私にとって、チュニジアとは何だったのかの答えです。こうして、私は、政治的討論のなかに入らざるをえなくなったのです。きっかけは、フランスの68年の「5月革命」ではなく、第三世界の国での68年3月の事件だったのです。・・・」


<教えることの喜び>
 1970年、彼はフランスにおける知性の最高峰ともいわれるコレージュ・ド・フランスの教授に選ばれます。この学校は誰もが自由に講義を聴くことができるという特殊なスタイルをもっています。しかし、この学校で教えるということは、フランスの知識人にとって最高の名誉とされていて、誰もが望んでいるそうです。実にフランスらしい学校といえるのかもしれません。
 なぜそうなのか?それは彼の次の言葉で理解できるかもしれません。

「ええ、そこで私がうれしいのは、教える、つまり、聞いている人に対して、ある権力的な関係を押し付けているという感じがしないことなんです。そもそも、教育者ってのは、『聞きなさい。ここに、君たちは[まだ]知っていないが、知らなくちゃいけないことが、いくつもある』と語る人間のことですね。これが、私が罪の意識作用と名づける第一段階を生むのです。二番目には、知らなくちゃいけないことがあって、それを私が知っているので、それを教えるわけです。これが、義務の段階になります。続いて、私は、教えたのだから、生徒はそれを知っていなくちゃならないわけで、それを確かめるわけです。これが、検証(試験)なのです。そして、今述べたのが、一連の権力関係ということになります。コレージュ・ド・フランスでは、講義は、開放されています。人々はなんであっても、自分で望むから、講義を聴きにやってくるのです。・・・」

 まさに理想の教育現場です。そんな教室なら誰でも教えてみたくなるかもしれません。

<権力の分析>
 1971年、彼は刑務所情報集団(GIP)を発足させます。それは刑務所にいてそこに収監されている人々は、どういう扱いを受けているのか?そのことが、彼らにどんな影響を与えているのか?そうした隠されている刑務所内部を明らかにしようというプロジェクトでした。

「刑務所についての情報はほとんど活字にされていない。刑務所は、われわれの社会システムの隠された領域のひとつなのであり、われわれの生活の暗部のひとつなのだ。・・・」
(「刑務所情報集団」」結成の理由)
「たぶん、最も重要なことは、あらゆる実際的な権利が奪われているということなのです。裁判所は、人を刑務所に送り込みますが、その人物は、刑務所で自分の権利を守ることができないのです。・・・・・」

「監視と処罰 - 監獄の誕生」邦題「監獄の誕生」(1975年)
 GIPの活動や学生運動への参加など、反権力的活動を続けていた彼にとって、国家による刑罰の歴史を研究対象とすることは、必然だったといえるかもしれません。とはいえ、彼はそこで国家による処罰を単純に批判しようとしているのではありません。
 彼はその中で、「社会の中で犯罪者は、どういう処罰を受けてきたのか」その歴史をたどることで、権力が人を管理するシステムをどう発展させてきたのかを明らかにしようとしています。18世紀半ばまで、ヨーロッパにおける犯罪者への刑罰は見せしめとして、徹底的に残虐な肉体的な苦痛をともなう処罰が行なわれていました。(火あぶりどころか、身体を馬などによって引きちぎらせるなど、今では考えられない残酷な方法が用いられていました)
 しかし、19世紀に入ると、その処罰の方法は監禁による自由の剥奪という精神的な苦痛を与えるものへと変わります。さらに処刑の方法も、苦痛を長く味合わせるおではなく一瞬で死に至らせる絞首刑が主流となります。
 こうして誕生した「監獄」の中で、犯罪者は権力によって服従するように訓練されることになったのです。もちろん、そうした矯正施設としての監獄が完全に機能を果たしていたというわけではありません。しかし、その施設はそこに犯罪者を入れる際、罪の重さを分別、判定するという「規格化」のために存在していたともいえます。

<ディシプリン(規律)の概念>
 さらにそこで彼は「ディシプリン(規律)」という概念を取り上げています。ディシプリンは、当初修道院における「しつけ」の方法として用いられるようになりました。閉鎖された空間で一人一人を孤独な状況に置き、さらにそれぞれを成績順に配置するというこの管理手法は、しだに洗練され一般社会へも広がって行きました。病院、学校、工場などでは、今ではどこでもこの方法が用いられ、自由と平等の近代社会にとって必要不可欠な下部構造になったといえます。
 こうして彼が明らかにした「権力の構造」は、2009年に村上春樹がエルサレム賞受賞講演において述べた「システム」という言葉を思い出させます。

「知への意志」(1976年)
 この著作で彼は社会において「性」の問題がどう扱われてきたのか、その歴史を掘り下げています。「性」の問題は、同性愛者だった彼にとって、常に重要な関心事だったといえます。フランスという古い歴史をもつ保守的な国で、彼は同性愛者であるために公的な役職からはずされたこともあり、いやでも「性」の問題は身近な存在でした。
 現代社会において、「性」についての問題はタブーとされ隠されているといわれます。しかし、それは本当か?彼は実際には、その逆なのではないかと疑っています。17世紀以後、ヨーロッパではキリスト教の教えのもとで「性」について語ることは、タブー視されるようになったといわれるが、国家は人口増の必要性から決して取り締まりを行なうことはなかったというのです。ただし、18世紀から19世紀にかけて、一夫一婦制が定着すると同性愛や少年への性犯罪が取り締まりの対象となり始め、「家族」という単位は、そうした「性」の問題を管理する重要な存在として機能するようになったというのです。(そのためには、聖書に書かれている言葉が用いられることになります)
 性について語られることは、間違いなく増え、その中で犯罪的行為は自然に定義され、自己規制の対象となるように仕向けられて行きました。そして、そこからはみ出した者は精神科医によって診断され、分類され、治療されることになります。こうした管理のシステムは国家によって中央集権的に行なわれているわけではありません。しかし、そこには確かに「権力」の存在があります。

<フーコーが語る「権力」とは?>
 フーコーが語る「権力」とは、無数の点から出発し、さまざまな関係の中で生み出されるものです。あらゆる社会現象の中に権力関係は存在するし、権力は、家族、会社など小さな人間集団などの下部構造からこそ生まれ、それが全体権力の基礎となります。権力をふるうのは、特定の個人ではなく、それぞれの関係の中で、その作用によって権力行使が行なわれるにすぎないのです。
 そのため、権力の外部に抵抗があるのではなく、内部に不規則な形で抵抗が生まれる。この抵抗点が、戦略的に結び付けられた時、「革命」が生まれるのです。

 そして、彼は最後に「権力」の問題について語ります。
「一つの仮説にすぎないのですが、あえていいましょう。すべての人間がすべての人間に対して対立しているのです。今ここで主体が与えられたとしても、どちらがプロレタリアートで、どちらかがブルジョワジーであるかわかるような主体は存在しないのです。誰が誰に対して戦っているのか?われわれは、すべての人々に対立するすべての人々と戦っているのです。そして、常にわれわれの内部のある部分は、内部のほかの部分と戦っているというわけなんです。・・・・・」

<悲劇の年、1980年>
 1980年、フランスの哲学界は大きな悲劇に見舞われます。3月にはロラン・バルトが自動車事故で死去。4月には、彼のライバルでもあったサルトルが死去。さらに11月には彼の盟友だったアルチュセールが自分の妻エレーヌを絞殺し、精神病院に送られてしまいました。
(この年は、音楽界でもジョン・レノンを初めとして、異常なほど多くのアーティストがこの世を去っています。(「十二月の別れ」参照)
 この年は、世界史的に見ても異常なほど大きな事件の多い年でした。アフガン戦争、イラン-イラク戦争、イランのアメリカ大使館占拠事件、タカ派の大統領レーガンの登場、モスクワ・オリンピックでの西側諸国のボイコット問題、韓国の光州事件、中越国境紛争、エチオピア・ソマリア紛争などなど。こうした、混乱した世界情勢の中、フーコーはフランス知識人を代表する存在として扱われるようになり、プレッシャーにつぶされそうな毎日だったといいます。
 そんな彼にとっての心と身体の「癒しの場」は、アメリカ西海岸サンフランシスコにあるゲイ・バーや浴場だったようです。彼は当時、本気でアメリカへの移住を考えていたようですが、どうやらそうした生活の中で、当時謎の病として登場したばかりのエイズに感染してしまったようです。
 しかし、人生の終わりに向けて、彼は最後の最後まで執筆を続けました。1984年6月25日、彼はこの世を去りました。享年57歳でした。

<謎の病「エイズ」>
 「エイズ」が初めて大々的報道されたのは、1981年「ニューヨーク・タイムズ」の紙上だったといわれています。その後、ミュージシャンのクラウス・ノミが1983年にエイズにより死んだことが大きな話題となりました。しかし、それ以上に世界中を驚かせたのは、1985年にアメリカの大物俳優ロック・ハドソン(映画「ジャイアンツ」「武器よさらば」など)が同じエイズでこの世を去ったことでした。フーコーがこの世を去ったのはその一年前のことでしたから、その病名は当時公表はされませんでしたが、エイズであることは明らかだったようです。彼が同性愛であることは多くの人に知られていましたが、あえて彼はそのことを宣言するということをしませんでした。

「今、いちばん関心があるものは、友情=朋友愛だ。古代からずっと長い間、友情=朋友愛は社会関係の重要な様式でありつづけた。この様式のなかで、男たちはある種の自由を享受し、ある種の選択をしていた。むろん、それは情愛の関係でもあった。また友情=朋友愛は、経済的、社会的な関わりあいを持っていた。たとえば人は、自分の友達を助けるのが当然だった。ところが、16世紀から17世紀にかけて少なくとも男たちの社会では、この種の友情=朋友愛は消えうせた。友情=朋友愛は、何か危険なものとみなされ、批判する文章が目につくようになった。軍隊、学校、官僚組織などあらゆる制度のなかで、この情愛の関係は、抑圧され、消されてきた。そして私の仮説によれば、男同士の情愛であるホモセクシュアルが問題となったのは、18世紀からなのだ」

 彼の死後も人間は歴史とともに権力による管理のシステムを複雑化させ、今やそれ自体が意識を持っているかのように進化し続けています。世界が情報を自由に共有すると考えられたインターネットの登場もまた、情報の自由化ではなく、管理システムのグローバル化に過ぎない。きっと彼ならそう言ったでしょう。
 では、そんな複雑な権力のシステムから人間は自由になれるのか?彼は最後にその難問を提示すつつわずかのヒントを残して、あの世へと旅立って行きました。

「長いこと、人々は、私に、何が起こるのか説明してくれとか、将来のためのプログラムを与えてほしいとか要求してきました。だが、私たちがよく知っているように、どれほど意図が優れていようとも、こしたうプログラムは、常に抑圧の道具や手段になってしまうのです。フランス革命は、あれほど自由を愛していたルソーを利用して、社会抑圧のモデルを作り上げました。スターリン主義やレーニン主義を知ったら、マルクスはさぞ憤慨するでしょう。私の役割 - などといったらあまりに仰々しい言葉なのですが - は、人々に、自分で考えているよりもはるかにずっと、あなたたちは自由なんだよ、といったり、歴史上のある時期に作り上げられたテーマを真実だとか、あきらかだとか思い込んでいる人々に、あきらかであるとされていることなんて、いくらでも批判できるし、くつがえせるものなんだよ、と示してやることにあるのです。・・・・・」

「現代の政治的、倫理的、社会的、哲学的な問題は、国家および国家の諸制度から個人を解放することではなく、国家と国家に結びつけらえた個別化のタイプの両方からわれわれを解放することであると述べて、結論としたい。われあれは、数世紀にわたって、われわれに推しつけられてきた、この種の個人性を拒否することによって、新しい主体性の形態を作りあげねばならないのだ。・・・・・」
「主体と権力」より

最後に、参考にさせてもらった本「フーコー 知と権力(現代思想の冒険者たち 第26巻」の著者に締めていただきます。

<締めのお言葉>
「・・・フーコーが提示したことは、自らの行き方、自らの人生行路を考え、突き詰めてゆくことが、世界を解釈する道筋へとつながるという確信なのである。どのような学問研究も、実は、一人一人の内面の探究からこそ始まるものだ。自分の内面に踏み込む勇気を出すこと、そこから始めよう」
桜井哲夫 

「われわれが、絶対の自由、性行為の一種の完全な自由を目標として持つべきだとは思いません。
 しかしながら、性の選択の自由が脅かされている所であ、われわれは妥協してはならないのです」


<参考>
 フーコーが著作を書くために過去の歴史を調査する際、どんな方法を用いていたのか?その手法のひとつである「フーコーの考古学(アルケオロジー)」とはいかなるものか?
(1) さまざまな書物や発言のなかに隠されている主題を明らかにすることではなく、それらの発言がいかなる規則(無意識的構造)にしたがっておこなわれたのかも問う。
(2) さまざまな発言や叙述がいかに形成されたかといった連続的な追跡はしない。あくまでも、その発言や叙述が、いかなる規則によっておこなわれ、さまざまに表現された言葉や文章が、それぞれの規則の間の違いを分析することが考古学の仕事である。
(3) 作品(小説、哲学書・・・)を分析する場合、それを書いた作者そのもの(創作の主体)を絶対視しない。というより、作者の意図ではなく、その作品を成立させている規則をあきらかにすることが重要だ。
(4) 考古学は、作者と作品とが一体化しているとは考えない。作品は、その時代の規則の産物だからである。また、言葉を発した人間そのものにたちもどって、発言がおこなわれた状況を再現しようとはしない。問題は、あくまでも、そのときその人間をとらえ、言葉を発声させた規則なのである。

[参考資料]
「フーコー 知と権力(現代思想の冒険者たち 第26巻」講談社(1996年)

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