ラスト・サムライ・ヒーロー


- 三船敏郎 Toshiro Mihune -

<世界のミフネ>
「男は黙ってサッポロビール」
 まだ子供だった僕もこのCMは忘れられません。昭和の映画史における三船敏郎は文句なしに最大のヒーローでした。もちろん石原裕次郎のようなアイドル・スターもいましたが、海外からのリスペクトや出演作品の映画史における評価の高さから考えると文句なしの存在でしょう。特に黒澤明とのコンビ作品「酔いどれ天使」「野良犬」「羅生門」「七人の侍」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」「赤ひげ」・・・これらだけでも、映画史における価値の高さは明らかです。
 世界の映画史に影響を与えた日本の映画俳優といえば、一に三船敏郎、二にゴジラ、三、四がなくて、五に渡辺謙ではないでしょうか。海外において、「サムライ」といえば「ミフネ」であり、カンフーにおける「ブルース・リー」に匹敵する存在といえるでしょう。そんな「サムライ・ミフネ」が実は普段まったく和服を着ることがなく、欧州ブランドのスーツがお気に入りだったことはあまり知られていません。どうやら映画の中の「ミフネ」に比べると「三船敏郎」の人物像はあまり知られていないようです。
 彼は有名になってもマネージャーをつけず、すべてを自分でこなし、部屋の掃除も自分でピカピカにする几帳面な人間だったといいます。これだけでも意外です。しかし、その几帳面さの反動かアルコールが入った時の彼は菊千代もびっくりの暴れん坊に変身しました。日本が生んだ名優・三船敏郎の生涯を振り返ります。

<生い立ち>
 三船敏郎は、1920年(大正9年)4月1日中国山東省青島で三船徳造、センの長男として生まれています。父親の徳造は秋田の出身で祖父は漢方医でした。徳造はその家の次男だったため、一旗揚げようと家を出て満州に渡り、そこで写真業や貿易業を営みますが上手くゆきませんでした。
 敏郎が5歳の時、一家は大連に移住し、そこで「スター写真館」を開店させ、戦場の写真などを売るなどして生活していました。そこで小中学校を卒業した彼は19歳で召集され、それから終戦まで8年間軍隊生活を送ることになりました。父親の影響でカメラの技術を身に着けていた彼は、偵察機で敵地の撮影を行い地図を作る作業を担当。そのおかげで彼は戦闘には参加せずにすみ、その後、九州の特攻隊基地に配属されることになりました。彼はそこで少年兵の教育係にあたり、多くの少年たちを帰らぬ旅に送り出すことになりました。そのうえ、彼はそこで旅立って行く兵士たちの写真を撮る仕事を頼まれることになり、最後まで戦場に行かずにすみました。しかし、自分だけが生き残ったことは、彼に生涯負い目として残ることになりました。(これは鶴田浩二や黒澤明、黒木和雄にも共通しています)終戦の日、彼は大声で「ざまあみやがれ!」と叫んだといいます。どうやら彼は後に自分が演じることになる山本五十六のような戦争の英雄たちとは根本的に違ったようです。
 終戦後、家に戻った彼はすでに両親は戦争で亡くなり、家も焼けてしまったことを知り、途方にくれます。それでも長い軍隊生活の中で良いこともありました。戦争中、彼は東宝の撮影部で助監督をしていた大山年治という人物と知り合っていて、それが彼の映画界入りのきっかけを作ることになりました。
 横浜に帰った彼は大山を訪ね、カメラマンとして東宝に雇ってほしいと頼みました。ところが、当時東宝は「東宝争議」の真っただ中にあり、映画を撮る状況にはありませんでした。もちろんカメラマンを雇う余裕などありませんでした。そこで大山は彼に、とりあえず新人俳優の募集に応募して雇ってもらえば、その後、撮影部に移籍させてやると約束します。そこで彼は仕方なく新人俳優のオーディションを受けることになりました。ところが、このオーディションで彼はとんでもない態度をとって周囲を驚かせます。
 審査員から「笑ってください」と言われた彼はふてくされて「可笑しくもないのに笑えません」と答え、「怒ってみて下さい」と言われると、今度は突然「バカ野郎!」と怒なり出したといいます。この時、審査員席に座っていたのは、監督の山本嘉次郎、今井正、俳優の原節子、入江たか子、長谷川一夫、高峰秀子などそうそうたる顔ぶれでした。
 当然、彼はこの時、不合格になるはずでした。伝説では、彼のあまりの傍若無人さに審査員が逆に感動したと言われていますが、実際はそうではありませんでした。彼が補欠合格になった理由は、撮影部の出席者が三船の体格を見て、重い機材を運ぶ必要がある撮影スタッフに是非彼が欲しいから、とりあえず補欠で採用しておいて欲しいと頼まれたからだったらしいのです。こうして、彼の映画界入りが実現したのでした。

<真面目男まさかの俳優人生へ>
 俳優として入社した彼は、俳優になるための様々な勉強をさせられます。しかし、元々カメラマンに成りたかった彼は、撮影に関する授業以外はほとんど無視。撮影部からのお呼びを待ち続けていました。ところが、ある日、同じ電車に偶然乗り合わせていた東宝の監督、谷口千吉に声をかけられます。谷口が監督することになっていた映画「銀嶺の果て」に登場する3人の逃亡犯の一人になってほしいという依頼でした。それに対して、三船はこう答えたといいます。
「僕は俳優にはなりません。男のくせにツラで飯を食うというのは、あまり好きじゃないんです」
 それに対し、谷口は「出演してくれれば、君に背広を一着プレゼントする」と言って、彼を口説き落とすことに成功します。こうして、俳優三船敏郎が誕生することになりました。この映画で共演した志村喬とは、その後51本もの作品で共演することになり、彼の父親代わりの存在となります。さらにこの映画の脚本家が若かりし黒澤明だったことは、その後の彼の運命を大きく変えることになります。完成した「銀嶺の果てに」を見た黒澤は、すぐに三船を呼び出し、自分の作品「酔いどれ天使」にも出演してほしいと頼みます。
 こうして、三船敏郎と黒澤明の黄金コンビがスタートすることになりました。黒澤初期の代表作「酔いどれ天使」への三船のギャラは1万円。新人とはいえ、安いと思った黒澤は、やはり彼に背広を一着プレゼントしたといいます。この作品で、悲劇的な最後を遂げるヤクザを迫力の演技で演じきった彼は、一躍人気俳優の仲間入りを果たします。
 翌年、彼は3本の映画に出演。本格的に俳優としての活躍が始まります。(黒澤明の「静かなる決闘」、「野良犬」それに谷口千吉の「ジャコ万と鉄」)この頃、彼は岡本喜八監督と一緒に下宿生活をしていましたが、1950年同期入社の女優、吉峰幸子と結婚します。この時、彼は29歳でした。
 夫としての三船敏郎は、意外なことに大の清潔好きで、自ら掃除や整理整頓をする家庭的な男性でした。お洒落にもこだわるタイプで、欧米ブランドの洋服や靴を常に身に着けるのが好きで、映画の撮影意外に着物を着ることはまったくなかったそうです。車の運転も好きで、誰よりも速く外車を購入して乗りまわしていました。唯一家庭人として問題があったのは、酒好きであると同時にとんでもなく酒癖が悪かったことです。普段の彼は後輩にまで気を遣う優しさの持ち主でしたが、酔った時の彼は誰よりも危険な男に変身することがしだいに明らかになります。

<真面目な俳優の刀さばき>
 彼はもともと俳優になる気はなかったものの、仕事として俳優業を続けざるをえなくなると、生真面目な性格から演技についても必死で取り組むようになります。特に殺陣については、彼の場合、自己流ではあったものの、真剣を購入し自宅の庭で練習を繰り返すことで、誰よりも速い剣さばきを身に着けていました。
 「隠し砦の三悪人」で彼が馬にまたがったまま逃げる敵を追いかけて切り捨てる場面があります。ここは三船自身が実際に手綱を持つ手を離して、足だけで馬にまたがって刀を振り下ろすというウルトラ高度な技です。
 あの有名な「椿三十郎」のラストの居合切りの場面も、彼の刀のスピードが誰よりも速いからこそ、凄味のあるシーンになったのであって、単に血が激しく吹き出すだけではあのリアリティーは生み出せなかったはずです。
 こうして、彼は黒澤明の作品になくてなならない「サムライ」俳優として、以下の作品に出演します。
「酔いどれ天使」、「静かなる決闘」、「野良犬」、「醜聞」、「羅生門」、「白痴」、「蜘蛛巣城」、「七人の侍」、「生きものの記録」、「悪い奴ほどよく眠る」、「用心棒」、「隠し砦の三悪人」、「椿三十郎」、「天国と地獄」、「赤ひげ」

<真面目な生き様の「無法松の一生」>
 黒澤作品以外の代表作として、稲垣浩監督の「無法松の一生」は忘れられない作品です。
 この作品で彼が演じた富島松五郎のキャラクターは、真面目で内気な三船敏郎自身の性格に近かったこともあり、他の作品とは違う彼らしさがにじみ出た名作となりました。その演技は日本だけでなく海外でも高く評価され、この映画はベルリン国際映画祭でグランプリを獲得しています。特に彼が息子の恩師に頼まれて失われつつあった幻の太鼓、「祇園太鼓」を披露する場面は、実際に彼が練習によって完璧にその技術をマスターした後に行われていてまさに本物の迫力です。これは彼の剣術同様、そのこだわりが生んだものです。
 三船敏郎の演技を語るには、この作品は必見です。

<三船プロダクション設立>
 1962年、三船敏郎は自らのプロダクションを設立します。直接の理由は、経営状況が厳しくなってきた東宝が砧スタジオを閉鎖するために、三船プロにスタジオを作らせようと考えたからでした。スタジオを運営させる代わりに、時代劇などの仕事を回すという条件が提示されたのでした。こうして、三船はプロダクションの立ち上げとスタジオ設立を引き受けたのですが、それは彼が「経営」という重い仕事を請け負うことで、「俳優」の仕事に集中することを邪魔することにもつながります。実際、この時、黒澤明などの同僚たちの多くが三船の決意に反対したようです。
 1965年、彼は盟友黒澤明とのコンビ作「赤ひげ」に出演します。この作品で彼は主人公である初老の町医者を演じています。しかし、彼にとって「初老」の医者という役どころはまだあり得ないものでした。黒澤が求める「志村喬」的な演技を三船はすることができませんでした。このことは、黒澤と三船の間に大きな溝を作ることになったようです。
 1967年、アメリカ映画「グランプリ」に出演した三船はその出演料30万ドルをつぎ込んで成城にスタジオを完成させました。そして、そのスタジオを使用した第一作として、小林正樹監督を迎えて、時代劇「上意討ち」の撮影が始まります。ところが黒澤明同様に完璧主義者の小林監督の撮影は、当初の予定を大きく上回ります。予算のオーバーは明らかで、もし映画がヒットしなければ三船プロは早くも倒産の危機に追い込まれかねませんでした。しかし、そんな関係者たちの不安など感知しない小林監督は、次々にNGを連発し、俳優たちにまでその不安感が広がっていたといいます。もしかすると、その異様な不安感と緊張感は映像にも現れていたのでしょうか、この映画のテンションの高さは見る者を驚かせることになります。そして、この作品はベネチア国際映画祭で見事、国際映画評論家連盟賞を受賞。そのおかげで、なんとかヒットに結びつきました。しかし、三船は翌年さらなる危険な勝負に出ます。

<おきて破りの「黒部の太陽」>
 1968年、彼は同じようにプロダクションを立ち上げたばかりの石原裕次郎と共に黒部ダム建設の巨大プロジェクトの映画化に挑みます。しかし、巨額の費用を必要とするその映画化には、それを確実にペイできるだけの人気俳優たちの出演が不可欠でした。そこで彼は石原裕次郎との共演を目玉にしようと考えたのです。ただし、そこには大きなハードルが待ち構えていました。それは映画会社が自社専属の俳優を囲い込むために作った「五社協定」の存在です。
「監督、俳優は貸さない、借りない、引き抜かない」
 「黒部の太陽」はその禁断のおきてに挑戦することになりました。石原裕次郎は日活の看板スター。さらに三船が監督を依頼したのは、東宝ではなく日活の監督、熊井啓でした。当然、日活のトップはこれに怒り、監督の依頼を受けた熊井啓を解雇。さらにメジャー5社が結束して「黒部の太陽」の公開に際しその配給を拒否すると言い渡したのです。
 三船はその危機を乗り切るため、奥の手を用います。「黒部の太陽」の主役ともいえる「黒部ダム」のオーナーである関西電力の社長に協力を依頼し、映画の前売り券100万枚の販売を約束してもらったのです。さらに他の電力会社でも前売り券の販売協力が得られることになり、それだけでも映画の黒字は確保されることが明らかになりました。そして、この情報を手土産に三船は日活の堀社長を訪ね、協力を求めます。さすがに黒字を確約されては日活経営陣も対応を変えざるを得ませんでした。結局、この映画の配給については、東宝がロードショーを、日活が一般公開を担当することに決まり、無事撮影が始まりました。(熊井監督の解雇も取り消されました)
 こうして完成した「黒部の太陽」は、これらのトラブルが話題作りにも貢献し、電力業界だけでなく建設業界の協力もあって大ヒット。観客動員は733万人、興行収入は16億円となり文句なしの年間最高のヒット作となりました。

<俳優、三船のストレスと事件>
 「黒部の太陽」」が公開された1968年、年間興行収入で第2位となったのは同じく三船が主演した「日本の一番長い日」でした。この時代、三船は自社の作品だけでなく俳優として様々な大作、名作に出演する多忙の日々を送っています。
 「上意討ち」「日本の一番長い日」(1967年)、「黒部の太陽」「連合艦隊司令長官山本五十六」「祇園祭」「太平洋の地獄」(1968年)、「風林火山」(1969年)。中でも「風林火山」は、再び五社協定に挑戦する作品でした。これには、東宝の三船、東映の中村錦之助と佐久間良子、日活の石原裕次郎が出演し、監督は稲垣浩が担当していました。当初、この映画の監督には黒澤明が立候補していましたが、三船プロは、黒澤が監督することで予算が大幅にオーバーすることを恐れて黒澤の監督就任を断りました。(このことも黒澤と三船の関係を悪くさせた原因のひとつともいわれています)
 完成した「風林火山」も大ヒットを記録しますが、三船の疲労はピークに達しており、仲代達矢主演の「御用金」(五社英雄監督作品)の撮影中、仲代と大喧嘩となり、突然降板してしまいます。この喧嘩の理由はやはり三船の酒癖の悪さが原因でした。三船の酒癖の悪さは三船のストレスがたまるほど悪化する傾向にあったようです。
 酔って夫人を殴るのは日常茶飯事で、それを止めさせようと三船を叱りつけた俳優の田崎潤に対し、なんと三船はその後ピストルを持って現れると実弾を発射して脅したとも言われます。ピストルだけではありません。彼は自宅の庭で普段から殺陣の練習をするために本物の日本刀を所持していました。そのため、酔って日本刀を振りまわすことも多く、ピアノや柱などがボロボロになったこともあったようです。三船プロ専属の殺陣師、宇仁貴三は、そのたびに三船宅の後片付けをさせられたといいます。
 しかし、そうなるのにはそれなりの理由があったともいえます。例えば、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」の撮影中、彼はラストに雨あられの矢を受けて死ぬシーン。なんと、このシーンで黒澤は成城学園の弓道部に依頼して、本物の矢を射させたといいます。距離が近かったとはいえ、もし刺されば大怪我になるところでした。確かにこのシーンの緊張感は半端ではありません。しかし、的になった三船にとってはたまったものではありませんでした。
 撮影終了後、緊張感とストレスのピークから解き放たれた三船は酔っぱらうと、例によって暴れ始めると自らスポーツカーを運転して黒澤宅に向かい、家の周りを走りながら「黒澤のバカヤロー!」と大騒ぎして黒澤家の人々を恐怖に落し入れました。
 思えば、こうした事件は何度も起こされていて、それが事件にならなかったことが不思議なぐらいです。

<妻の反乱とトラブル>
 度重なる暴力事件にうんざりしながらも我慢を続けていた幸子夫人ですが、ついに反乱を起こします。それは三船の浮気がきっかけでした。自分の娘ほどの若い新人女優、北川美佳に惚れてしまった三船は、彼女三船プロに入れただけでなく公然と浮気をし始めます。気が強い幸子とは違うタイプの女性に彼は居心地の良さを感じたのかもしれません。そんな三船に対し、当初幸子夫人を夫にお灸をすえるために離婚を申し出ました。ところが、それが次第に険悪な対立を生み出し始め、ついには離婚訴訟にまで発展し後戻りができない状態になります。この裁判は、英雄であるはずの彼のイメージを大きく傷つけることになります。
 離婚問題に苦しむ彼をさらなる問題が襲います。1971年に彼がドイツのミュンヘンにオープンさせた日本食レストランが経営不振に陥り大きな借金を生んでしまったのです。実はすでに彼は大きなトラブルを抱えていました。もう一人三船の盟友だったはずの黒澤明との関係が映画「赤ひげ」(1965年)を最後に終わりを迎えてしまっていました三船プロの社長となって以後、彼は採算問題から黒澤作品に出資できず、そのため出演することもできなくなっていたのです。社長である三船が黒澤作品出演のために2,3年もの間、社を離れることは到底不可能でした。実は、1975年黒澤作品の「デルスウザーラ」の主演オファーを受けていた三船は当初大いに乗り気だったようですが、やはり数年にわたる厳寒の地ロシアでの撮影に体力的にも自信がなかった三船は結局この仕事を断っています。
 いつの間にか、多くの社員を抱えた三船プロは映画だけではやって行けず、テレビ番組やCM、所属タレントの営業活動などでなんとか経営を支えていました。サッポロビールの「男は黙ってサッポロビール!」もそんな中から生まれたCMでした。三船自身も海外の映画に出演することでお金を稼いでいました。(「レッドサン」(1971年)、「太陽にかける橋/ペーパータイガー」(1975年)、「ミッドウェイ」(1976年)、「ウィンター・キル」、「1941」(1979年))
 さらに厳しいトラブルが彼を襲います。それは彼の右腕的存在だった専務の田中壽一が三船プロんもタレントのほとんどを引き連れて独立してしまったのです。(竜雷太、多岐川裕美、秋野暢子、夏圭子、岡田可愛、真行寺君枝、勝野洋など)結局残ったのは、夏木陽介、かたせ梨乃、竹下景子、北川美佳など数名でした。分裂の原因は、どうやら宗教問題だったようです。実質的な三船の妻におさまっていた北川美佳が創価学会の会員で、彼女が社内で学会への入信を求め始めたことで社内が混乱。三船も学会の広告的存在になりつつありました。これが分裂の直接のきっかけだったようです。(ちなみにこの田中プロは後に倒産。田中は、21歳年下の女優烏丸せつ子と結婚した後、再び会社を倒産させその時脅迫事件を起こして逮捕されることになります)
 分裂により大きな打撃を受けた三船プロは、もう映画の製作どころではなくなります。この後、三船プロが生み出した映画は、藤田敏八監督の「海燕ジョーの奇跡」(1989年)わずか1本だけです。

<失意の日々>
 それでも三船の俳優としての力はまだまだ衰えず、パラマウントが制作した大作テレビドラマ「将軍」(1980年)に出演したことでなんとか三船プロは生き延びます。しかし、成城のスタジオは8億円もの負債をなくすために売却。三船プロの活動を事実上終わってしまいました。
 そのうえ、そんな失意の三船のもとを北川美佳もまた去って行きました。(北川美佳が三船の父親の位牌を勝手に処分したことが原因だったといいます)
 70代になった彼は大好きだったアルコールもほとんど飲まなくなっていましたが、すでに認知症の症状が出始めていたといいます。結局彼は元の妻幸子の子供たちの家に引き取られ、最後のわずかな日々を離婚しなかった正妻の幸子と共に過ごすことになりました。幸子夫人は67歳で癌により三船よりも先にこの世を去りますが、もう三船は彼女を認識することはできなかったようです。
 1997年(平成9年)12月24日、三船敏郎は77歳でこの世を去りました。死因は多臓器不全。長年の不摂生により彼の内臓はボロボロだったようです。

<存在感の俳優>
 三船敏郎という俳優について、脚本家の橋本忍は「存在感の俳優」と表現しました。確かに三船敏郎ほど画面の中でオーラを放つ俳優は、その後も登場していないかもしれません。(最も近づいたのは松田優作だったかもしれません。二人は一度だけ「人間の証明」で共演しています)
 もし、彼が社長業に手を出さず、役者一本で生きていたら、もっと多くの映画に出演できたはずだし、その後の黒澤作品にも出演できたかもしれません。しかし、そうはならなかった。もしかすると、彼は最初から最後まで俳優という仕事が嫌いだったのかもしれません。
 もし、彼が東宝入社後、望み通りカメラマンになっていたら、俳優、三船は誕生せず、黒澤明の数々の名作も海外であれほど評価されることもなかったかもしれません。「サムライ」という存在を世界に知らしめた存在として、三船敏郎は「怪獣」を世界に広めた「ゴジラ」とならぶ偉大な存在なのです。彼こそ、「ラスト・サムライ」と呼ぶにふさわしい人物です。

 海外でも認められた存在だった彼はたとえそれがハリウッドの巨匠でも「日本人」の表現について違和感があればすぐに訂正を求めたといいます。その点でも、彼の日本文化に対する海外での理解を正した功績は非常に大きなものがありました。

「三船敏郎は制御できないほど、凄まじい自然な迫力そのものでした。・・・」
スティーブン・スピルバーグ

三船敏郎出演作品の海外での受賞歴は
羅生門」(ベネチア国際映画祭グランプリ、イタリア批評家賞外国語映画賞)、「七人の侍」(ベネチア国際映画祭銀獅子賞)「宮本武蔵」(アカデミー外国語映画賞)、「蜘蛛巣城」(リスボン国際映画祭グランプリ)、「無法松の一生」(ベネチア国際映画祭グランプリ)、「隠し砦の三悪人」(ベルリン国際映画祭国際映画評論家連盟賞)、「用心棒」(ベネチア国際映画祭主演男優賞)「価値ある男」(ゴールデングローブ賞シルバーグローブ賞)「赤ひげ」(ベネチア国際映画祭主演男優賞、市長賞主演男優賞)、「上意討ち」(ベネチア国際映画祭国際映画評論家連盟賞)、さらに彼はカリフォルニア大学から名誉博士号を受賞(三船意外に俳優で受賞しているのは、ローレンス・オリビエだけ)

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