「ミラノ 霧の風景」

- 須賀敦子 Atsuko Suga -

<白水社H君お奨めの作品>
 仕事で東京に行くと必ず会う友人たちの中に同じ北海道出身のH君がいます。僕が東京の大学に入学してすぐに知り合い、それからの付き合いなので、もう30年を越えたことになります。欧米文学の出版社、語学書の出版社として有名な白水社で働く彼を通じて知り合った友人は多く、彼のおかげで僕は美術、文学、建築、哲学、サッカーなど、それまで未知の分野だった世界と出会うことが出来たともいえます。H君の存在なくして、このサイトの半分はなかったかもしれません。当然,彼の紹介で知った本も多く、中でも印象深い本がここでご紹介する本書です。
 ちょうど僕が新婚旅行でイタリアに行ってきた後だったこともあったのかもしれませんが、珍しく彼がこれは傑作だからと奨めてくれたことを覚えています。確かにその本は久々に僕に新鮮な驚きを与えてくれました。最初の数センテンスを読んだだけで、僕は一気に「霧のミラノ」に迷い込んでしまったのです。そしてそこからは、先へ先へと急ぐのではなく、もったいないからゆっくりとじっくりと読み進むことになりました。彼によると、本書は特に出版関係者の間で高く評価されているとのことでしたが、確かに本が好きな人にはたまらない作品でしょう。
 最近の出版界では非常に珍しい遅咲きの新人作家による名著「ミラノ 霧の風景」の魅力に迫ってみたいと思います。

<文章の魅力>

「乾燥した東京の冬には一年に一度あるかないかだけれど、ほんとうにまれに霧が出ることがある。夜、仕事を終えて外に出たときに、霧がかかっていると、あ、この匂いは知っている、と思う。十年以上暮らしたミラノの風物でなにがいちばんなつかしいかと聞かれたら、私は即座に『霧』とこたえるだろう。・・・・・」
(本文より)

 この冒頭の文章を読んだだけで、僕はすっとミラノの霧の中に引き込まれてしまいました。そして、この本の中の世界へと・・・。見事な書き出しです。
 この本に書かれているのは、著者である須賀敦子さんの霧にかすむぼんやりといした記憶の断片とそこから生み出された世界です。そのほとんどは実際に起きたことのようですが、あくまでフィクションとして描かれています。(昔風に言えば「私小説」でしょうか?)
 それは時に温かみをおびた懐かしい記憶ですが、多くは湿り気をおびたほろ苦い記憶として読者の心を締め付けます。彼女の文章の中には「香り」や「湿り気」、「温かさ」など、視覚以外の感覚に訴える言葉が数多く使われていて、それが読者の記憶を呼び覚まします。
 例えば、それは様々な料理や香辛料の名前や「香水」や「体臭」「植物」など、舌や鼻を直接刺激する言葉だったり、「霧」「風」「海」「天候」「日差し」などのように皮膚に訴えかけるものだったりします。それは視覚的な記憶よりも、言葉で覚えた記憶よりも、肉体に直接刻まれた臭覚や皮膚感覚についての記憶の方がより強く残ることからくるものなのでしょう。「香り」と「味」の国イタリアを描くにはなんとぴったりな文章スタイルなことか!
 彼女が意図してこうした文章を選んだのかどうかはわかりません。しかし、それが彼女が長く手がけてきたイタリアやフランス文学の翻訳の影響であることは間違いないでしょう。そして、それ以上に大きな影響を与えたのが、この本で描かれている彼女の10年以上に渡るイタリアでの生活なのです。それはイタリアという国に10年以上に渡って住むことから生まれてきた必然的な文章だったのだと思います。

「美しいと言われると、はあ?という感じがするの。自分の文章が美しいと思ったことはないし、そう書こうとしたこともない。人の文章を見ていいと思うことはあるけれど、だれかに影響を受けたとか、まねをしたということもないと思う。この歳になると文章のための文を書いていると自分にばれるのね。インチキだってすぐにわかる。おそらくわたしの存在すべてから出た、あれしかない書き方なんです」
須賀敦子「Literary」1992年5月号

 村上春樹のように簡潔なハードボイルド・タッチの文章とは対極に位置するが彼女の文章です。しかし、彼女の文章は長いのですが、それは多めの句読点によってテンポよく区切られているので、ダラダラとした感じは受けません。そして、それによって一つの文章の中で場面や時間の転換を自由自在にやってのけているのです。
 特にこの本では彼女の現在の生活から過去の思い出へと移動した後、そこから登場人物が語るさらなる過去へとさかのぼるなど、時空の移動がひんぱんに行なわれます。それだけにそうした「転換」は分かりやすく自然でなければなりませんが、それを彼女は見事にやってのけています。かつて白黒映画の時代にフィルターをかけて画面をぼんやりとさせて場面転換を行なうという手法がありました。彼女の文章はそんな古い映画の中の場面転換を思い起こさせます。それはまさに「霧」の中の場面転換です。彼女の文章は、映画の編集者が場面を美しくかつ自然につなげてゆく作業に似ています。こうした彼女の文章スタイルの特徴は、たぶん彼女の性格、生い立ちとも関わりがあるのでしょう。

<生い立ち>
 1929年1月19日兵庫県芦屋市に生まれ育った彼女は、明るく活発な女の子だったといいます。しかし、9歳の時に東京に引越すと関西訛りをバカにされたことをきっかけに学校嫌いの少女になり、家の中で一人本を読みまくるようになりました。学校での彼女は読書家であることも、勉強が好きであることも隠し、ひたすら目立たない女の子を演じていたそうです。
 その後、彼女は聖心女子大に入学し、思う存分勉強に熱中するようになりますが、その先の目標が見つけられず、卒業後は慶応の大学院の社会学科への進学、フランスへの留学、NHK国際局への就職と歩みだすものの、どれも長くは続きませんでした。
 なんとなく「文学」の仕事に関りたいと思っていた彼女は、具体的には何もできないまま、1958年イタリアへと留学します。それは彼女が関っていたキリスト教、それも当時、ヨーロッパで活動が活発だったカトリック左派の運動に興味をもったことがきっかけで、具体的に何かしようと思っての旅立ちではありませんでした。しかし、あらゆる旅には思わぬ出会いが準備されているものです。語学を学んだ後一度は日本に戻るもの、再びイタリアに渡った彼女に運命の出会いが待っていました。

<イタリアでの生活>
 イタリアに戻った彼女はミラノにあるコルシア書店に集まる人々と知り合い、その中の一人ジュゼッペ・ペッピーノと親しくなります。そして、1960年に彼女はジュゼッペと結婚。当時日本人がまだ珍しかった時代に彼女はミラノに住むことになりました。夫の誘いもあり、その後彼女は日本文学をイタリアに紹介するための翻訳の仕事を頼まれるようになりました。彼女のイタリアでの仕事は13年に及びますが、結婚後わずか5年で夫のジュゼッペが病によってこの世を去ってしまいます。こうして再び彼女の人生は大きく方向転換をさせられることになりました。夫を失ったショックと翻訳業の不信により、彼女は日本への帰国を決心。1971年、故国へと寂しく帰国することになりました。

<文学の道へ>
 帰国した彼女は、大学の講師や通訳、イタリア文学の翻訳などで生計を立てて行くことになりますが、その仕事ぶりは次第に高く評価されるようになり、エッセイを書いてみては?という出版社からの誘いも受けるようになりました。しかし、彼女はそうした誘いを1990年まで断り続けます。それはなぜかというと、決して作家になりたくなかったからではなかったようです。書きたくても自分が書くべき文体を見いだせなかったから、それが理由だったと彼女は語っています。19年という歳月を経てやっと自分の文章に自信をもてるようになったというわけなのです。そう考えると、彼女の文章の完成度が初めから高かったのもうなずける気がします。

「先日、イタリアの友人から聞いてなるほどと思ったんだけど、プルーストがどこかで、理論が見えてしまう小説というのは、値段をつけたまま上げる贈り物みたいだ、と言っているんですって。毎日新聞で書評をはじめたけれど、値段が見えず、しかもちゃんと骨があるもの、ただの感想文ではないものを書いていかなければならないと思っている。男のように書いてもかなうわけないから、自分なりのものを書けばいいと思って書いてます」
須賀敦子「Literary」1992年5月号
(確かにそのとうりだと僕も深く思います。・・・気をつけないと・・・)

「ひとつにはプルーストの文章が好きだっていうのがあると思う。彼のあのゆがんだように流れていく文体にとても感銘したし、ひとつのセンテンスに光と陰が現れるのが自分にはおもしろい。スピッツァーという学者がプルーストの文体を分析した有名な論文があって、それを読んで、自分の文体を作っていいんだ、たとえ悪文であっても自分に必要な文体というものがあるんだと思うようになったのかもしれません」

「子供のころ谷崎潤一郎の『盲目物語』を読んで、ひらがなばかりの文章にとても感動して、自分は女だからこれでいこうと思って、漢字を全部やめようという運動を自分に課したことがあるの。・・・・・」
須賀敦子「Literary」1992年5月号

 僕自身、白水社のH君のおかげもあってこうして文学について語ったりしているので、須賀さんには思い入れを感じてしまいます。そして、彼女がコルシア書店に集まっていた人々に大きな影響を受けたように、僕もH君から始まった人脈のおかげで多くのことを学ばせていただきました。そんなこともあり、この本を読むと僕自身にとっての東京での13年の日々が思い出されちょっと物悲しい懐かしい気分にもなってしまうのです。(そういえば、須賀さんがイタリアにいたのも13年でした・・・)
 コルシア書店の人々は、この本に書かれているように少しずつこの世を去り、ついには彼女自身もまた1998年3月20日にこの世を去りました。今や、この本自体が須賀敦子という作家に関する思い出の一部となったわけです。

<須賀さんへ>
 このサイト始めて10年たった2010年にこの文章を書いてます。もちろん須賀さんのように自分の文体が得られたわけでもありませんが、少しは進歩しているのだろうか?と思うこともあります。ただただ毎日、書きたいことを書きたいように書いているだけなのですから、進歩もなにもないのかもしれません。
 映画「NINE」の中で主人公のグイド・コンティーニ監督は映画についてこんなようなことを言っています。
「映画はフィルムに焼き付けられた瞬間に一度命を失ってしまう。しかし、それが優秀なスタッフの手にかかったおかげで、ごくたまに映画として画面に映し出された瞬間に命を蘇らせることがある。もちろん、それは奇跡に近いことだ」
須賀敦子「Literary」1992年5月号

 これと同じことが文学についても言えるでしょう。文章のもつ魔法の力を解き放つことは、本当にごくわずかの人にしかできないことです。それを成し遂げたごくわずかの一人、それが「ミラノ 霧の風景」の作者、須賀敦子という作家でした。
 改めて、ご冥福をお祈りさせていただきます。

<追記:僕の思い出>
ヴェネツィアについての僕の思い出を最後にひとつ。

 新婚旅行で最初に着いたヴェネツィアの街で、僕と嫁が予約を入れていたリド島のホテルに向かっていた時のことです。あいにくその日は5月にも関らず寒く、おまけに雨が降り続いていました。しかたなく、僕たちはヴェネツィアの街でカーディガンなどを買って着込み、震えながらリド島行きの船に乗りました。しかし、その船室は狭くて、屋根がある部分も少ししかなかったため、乗客の多くは外で屋根の下に寄り集まって雨宿りをすることになっていました。見ると、僕らの目の前では地元の若者カップルが抱き合って温めあっていました。それはまるで映画のワンシーンのようにごく自然にその場所にはまっていました。こっちだって負けてられんと、僕も嫁を抱きしめながら、誰もが映画の主人公に慣れる街は世界中にそう多くはないなと思ったものです。あの街は、島全体、町全体が一つの舞台になっていて、そこに立てば誰もが映画の主人公になれるのです。
 その後訪れたフィレンツェもミラノもローマも、どの街も素敵でした。

「・・・サンマルコ寺院のきらびやかなモザイク、夕陽にかがやく潟の漣、橋のたもとで囀るように喋る女たち、リアルト橋のうえで澱んだ水を眺める若い男女たち、これらはみな世界劇場の舞台装置なのではないか。ヴェネツィアを訪れる観光客は、サンタ・ルチアの終着駅に着いたとたんに、この芝居に組み込まれてしまう。・・・・・」
須賀敦子「Literary」1992年5月号

<参考資料>
ミラノ・霧の風景
須賀敦子(著)
白水社

「Literary」(スウィッチ別冊)1992年5月号

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