- ミルトン・ナシメント Milton Nascimento -

<MPBのヒーローたち>
 1960年代から1970年代にかけて、ブラジルの音楽界には次々と新たなスターが生まれました。それはかつてボサ・ノヴァが一大ムーブメントとなった時期をも越える大きなうねりとなり、ブラジルのポピュラー音楽の流れを根本的に変えてしまうほどのパワーをもっていました。
 ジョルジ・ベンジョール、エドゥ・ロボ、エリス・レジーナ、シコ・ブアルキ、ドリ・カイーミ、シモーネ、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、マリア・ベターニャ、ガル・コスタ、ジョアン・ボスコ、イヴァン・リンス、ジャヴァン、・・・そしてミルトン・ナシメント。彼らはそれぞれがサンバやボサ・ノヴァだけでなくロックやジャズ、クラシックなどの影響を受けた独自の音楽を生み出そうとしていたため、もともとジャンル分けは困難でした。そのため、いつしかそんな彼らの音楽はMPB(Musica Popular Brasillien=直訳すれば「ブラジルのポピュラー音楽」ということでしょう)と名付けられていました。それは世界で最も人種の混血化が進んだ国と言われるブラジルならではのミクスチャー音楽でした。(ちょうどその頃、日本でも後にJポップの基礎を築くことになる数多くのアーティストたちが登場。アメリカやイギリスで起きていたロック革命は、着実に世界の音楽、若者文化をも変えつつありました)

<ミナス・ジェライスの仲間たち>
 そんなブラジルのアーティストたちの中でも、特に時代をリードしていたのはカエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルらのトロピカリズモ運動の中心メンバーで、彼らの多くはバイーアの出身でした。もちろん、ブラジル最大の都市リオデジャネイロは常に音楽業界の中心であり続けましたが、その他にも、もう一カ所地味ながら優れたミュージシャンを輩出していた土地があります。それはリオと首都ブラジリアの間に位置する緩やかな丘が続く土地、ミナス・ジェライス地方です。
 リオのような雑踏の街とは異なり、穏やかな気候と美しくのどかな田園風景が広がるその土地は、感性豊かで美しいメロディーを生み出すアーティストたちを数多く育てました。
 その代表的な存在が、ミルトン・ナシメントと彼と共に世に出た街角クラブのメンバー、ヴァグネル・チゾ、トニーニョ・オルタ、ロー・ボルジスらの仲間たちです。

<ミルトン・ナシメント>
 ミルトン・ナシメントは、1942年10月26日リオ・デ・ジャネイロに生まれました。彼の母親は家政婦として働きながらミルトンを育てていましたが、若くして亡くなってしまいました。彼には父親がいなかったらく、そのままだとリオのストリート・チルドレンの仲間入りをすることになっていたかもしれません。しかし、彼の母親の勤め先の一家が彼を引き取り育ててくれることになりました。それは彼の母親の人柄のおかげかもしれません。運命は彼をギリギリのところで救ってくれました。
 その後一家はリオを離れ、ミナス・ジェライス州のトレス・ポンタスという街に引っ越しました。彼の養父は高校で数学を教えながら、銀行にも勤め、なおかつ地元のラジオ局でディレクターも務めるという多彩な人物でした。彼はミルトンを実の子供たちと区別することなく育て、彼と音楽が出会うチャンスを与えただけでなく、彼に誰よりも美しい音楽を作ることのできる優しい心を与えてくれました。
 14歳の時、ギターを初めて手にした彼は、すぐに大好きなサンバ、ロック、クラシックなどをコピーし始めます。後に彼のアレンジャー兼キーボード・プレイヤーとして活躍することになるヴァグレル・チゾとはこの頃出会い、いっしょにバンド活動を始めます。そして、同じく1958年頃のこと、彼はジョアン・ジルベルトの伝説的ボサ・ノヴァ・ナンバー「想いあふれて」と出会い大きな衝撃を受けました。

<究極の融合ポップス誕生>
 ボサ・ノヴァがどんどん音楽の世界を変えようとしていることに刺激を受けた彼は、1963年州都のベロ・オリゾンチに一人旅立ちます。彼はそこでジャズの巨人たちの音楽と本格的に出会います。そのテクニックの凄さに驚き、到底まねすることはできないと思いながらも、彼はマイルス・デイヴィスジョン・コルトレーンセロニアス・モンクらの音楽を自分なりに消化して行きました。
 他にも彼に大きな影響を与えたものがありました。そのひとつは、フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーの作品「突然炎のごとく」との出会いでした。当時はフランス発のヌーヴェルバーグが映画界を大きく変えようとしており、その代表的作品は彼に映像的でドラマチックな曲作りのヒントを与えてくれました。
 そしてもうひとつ彼に大きな影響を与えたのが、ビートルズとの出会いでした。ビートルズが挑んでいたロックとクラシックの融合は彼の目指すものとも一致しており、彼らはミルトンにとって大きな目標となりました。(1974年発売のライブ・アルバム「Milagre dos Peixes Ao Vivo」は、オーケストラとの共演作品です)
「 僕は南米の人間だ
 分かってる そんなこと
 君たちが知ることはない
 だが今 僕はカウボーイだ
 黄金の男だ 僕は君たちだ
 世界の男だ ミナス・ジェライスそのものだ
 ・・・・・」

ミルトン・ナシメント 「レノン&マッカートニーに捧ぐ」

<リオへの旅立ち>
 その後、彼はサンパウロに出るものの、なかなかその才能を認められず、いよいよリオ・デ・ジャネイロへと旅立ちます。そして1967年、ついに彼にチャンスがめぐってきました。ところが、それは内気な彼をなんとか世に出そうとする仲間たちのおかげでもありました。
 映画「黒いオルフェ」のサントラ盤で一躍脚光を浴びたシンガー、アゴスチーニョ・ドス・サントスが、ミルトンの曲を3曲勝手に出品。すると3曲とも予選審査に合格し、本選出場することになりました。すると今度はエウミール・デオダートがその曲の編曲を担当してくれ、そのおかげもあって彼の曲「トラヴェッシア Travessia」は見事歌曲部門の2位になりました。
 さっそく彼はその3曲を中心とするデビュー・アルバム「ミルトン・ナシメント Milton Nasciment」(後にトラヴェッシアと改題)を発表。一躍注目を集めるようになった彼はアメリカのA&Mレーベルに招かれ、クリード・テイラーのプロデュースにより、アメリカ向けのデビュー・アルバム「Courage」を録音しました。(A&Mは同じブラジル出身の世界的スター、セルジオ・メンデスを育てたレーベルです)
 時代は1960年代末、ビートルズをはじめ世界中のアーティストたちが新しい音楽、新しいアートを求めて模索していました。ミルトンもまたその例外ではなく、1971年彼はミナス・ジェライス出身の仲間たちとともにリオの北にある小さな街の海岸に家を借り、半年間そこに住み込んで共同生活をしながら新たなサウンドを模索しました。(ザ・バンドボブ・ディランがビッグ・ピンクにこもって新しい音作りに挑んだように、レッドツェッペリンやローリング・ストーンズのメンバーらがモロッコへの旅に出たように、当時は世界中のアーティストたちが共同生活をしたり旅をしたりしながら新しいヴィジョンを生み出していました)
 こうして1972年に発表されたのが、「クルビ・ダ・エスキーナ Club da Esquina」(街角クラブ)という彼の代表作です。いよいよ彼の名は海外でも知られるようになり、1974年スイスで毎年開催されているモントルー・ジャズ・フェスティバルにゲスト出演。その帰りによったロサンゼルスではジャズ界の大物ウェイン・ショーターのアルバム「ネイティブ・ダンサー Native Dancer」にゲスト参加。このヒット・アルバムによって彼の名はいっきに世界中に広まりました。こうした海外での経験やそれまでの音楽活動の集大成として完成したのがアルバム「ミナス Minas」(1975年)でした。このアルバムは、その後MPBと呼ばれることになるポップで美しいブラジル独自のミクスチャー・サウンドの先駆けとなりましたが、未だにその輝きを失わない永遠の名作です。

<世界的活躍の開始>
 この後、彼の活動はいよいよワールド・ワイドなものとなります。ウェイン・ショーターだけでなく、ハービー・ハンコック、ポール・サイモン、クインシー・ジョーンズ、イエスのジョン・アンダーソン、ジェームス・テイラーピーター・ガブリエル、マンハッタン・トランスファー、サラ・ヴォーンなど、ジャンルや国籍を越えて数多くのアーティストたちと共演して行きます。ただし、どちらかというと彼自身の性格が「俺が!俺が!」というタイプではないこともあり、脇役的活躍が中心でした。
 それと、彼の曲は歌詞がポルトガル語であるため意味が伝わりにくく、さらに音楽的な新しさや構造美などが理解されにくいこともあり、「ミュージシャンズ・ミュージシャン」としての人気が常に先行していたとも言えそうです。
 彼の音楽についてブラジルの音楽学者ズーザ・オーメン・ヂメーロはこう言っています。
「ミルトンが書く曲はシンプルに聞こえるが、実は非常に手強い。だからミュージシャンたちは演奏するにあたり、謎を解こうと躍起になる。ミルトンは聞き手にはわからないようなやり方で、曲の途中で何の前触れもなしにリズムを変える」
 どうりで僕なんかにはわからないはずです。

<ルーツへの視線>
 彼の活動は常に新しい方向を目指していましたが、けっしてその目は未来もしくは国外にばかり向いていたわけではありませんでした。アルバム「ジェライス Gerais」では、ブラジリアン・サウンドのルーツでもあるラテン・アメリカのフォルクローレに目を向けています。
 1990年のアルバム「チャイ」は、アマゾン川奥地に住む人々との交流の旅に参加した際に得たインスピレーションから生まれました。この作品では熱帯雨林の乱伐に苦しむ現地の人々の音楽を取り込みながら、世界に対してアマゾン川流域の森林保存運動の重要性を強く訴えかけました。彼は音楽性の高さだけでなく、その歌詞のもつ強い政治的主張、奥の深さ、美しさの点でも同世代のカエターノ・ヴェローゾに匹敵する存在です。

<あきのこない音楽>
 優れたジャズ・アルバムの多くがいつまでも飽きられることがないように、彼の音楽も聞けば聞くほど味が出てくる不思議な魅力をもっています。その重要な原因のひとつに彼のもつ素晴らしい「声」があるかもしれません。彼の声は人間の喉から発せられる「音声」という存在を越えた「ひとつの美しい楽器の音色」のように聞こえます。
 僕は生で彼の歌声を聞いたことはありませんが、もし彼の声を野外のライブ会場で聞いたら、鳥肌が立つだけでなく頬を涙がをつたうかもしれないと思います。
 そんな素晴らしい声に美しさと優しさをもたらした彼の故郷ミナス・ジェライス。僕はその美しい大地を映像でも写真でも見たことがありませんが、彼の曲からはその土地の緑の丘を優しいそよ風駆け抜けて行くのが感じられるような気がします。
 行ったことのない土地、会ったことのない人、聞いたことのない歌、なのになぜか懐かしい、そんな気持ちになれることこそ、すべてのアーティストが目指している境地なのだと僕は思います。

「砂の岬 そこは終点
 バイーアとミナスを結ぶ自然の道
 ミナスを港へ 海へと結ぶ道
 だが あの鉄道は撤去されてしまった
 年老いた機関士は帽子に手をやり
 歓声を上げて汽車を迎えてくれた人々を思い出す
 汽笛はもう歌わない
 美しい娘に花を贈った日々も遠い 
 ・・・・・・・」

ミルトン・ナシメント 「砂の岬」より

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