- 南方熊楠 Kumagus Minagata -
<異能の人、南方熊楠>
南方熊楠という名前、聞いたことがあるという方は多いかもしれません。戦前の日本が生んだ世界的な知の巨人です。(生物学、哲学、宗教学、文化人類学、社会学、博物学、環境保護運動・・・etc.)イギリスの科学雑誌「ネイチャー」に日本の科学者として最も多くの論文が掲載された人物でもあります。
ジャンル分けが困難なほど様々な分野で業績を残した彼の人生は、マンガにもなっていますが、まだその決定版はありません。(水木しげるさんも書いています)そのうえ彼の業績は未だにまとめられていないもの、理解されていない部分も多く、再評価の途上にあります。当然ながら、このサイトで取り上げたい存在だったのですが、なかなかその機会がありませんでした。しかし、先日、中沢新一氏による新しい「熊楠」の本を読んだので、それを参考に彼の人生を改めて振り返ります。
<生い立ち>
南方熊楠 Kumagus Minagataは、1867年5月18日(慶応3年)和歌山城下の金物商・雑貨問屋の次男として生まれました。身体が弱かったことから、あえて、樹木の中の王様と呼ばれる「楠」と動物の王「熊」、両方の名前をとって「熊楠」と名付けられました。後に彼は「植物」と「動物」の中間に位置する生物「粘菌」の権威として世界的な存在になることを考えると、この名前は実に運命的です。
1879年に和歌山中学に入学した彼は周囲が驚くほどの記憶力を発揮し、近所の家から借りた本100冊をそのまま全て暗記し、それを家で書き写すなど多くの逸話が残されています。
1883年、成績優秀な彼は東京に出て(現在の)開成高校に入学し、1884年には現在の東大にあたる大学予備門に入学します。(この時の同窓生には正岡子規、夏目漱石、本多光太郎などがいました)ただし、彼は授業をまったく受けず、遺跡の発掘や大好きな菌類の標本採集に熱中したため、落第し中退することになります。ところが、転んでもただでは起きない彼は、それを機に日本を飛び出し海外へと向かいます。
1886年冬に彼は太平洋を渡りアメリカに向かい、翌1887年1月に西海岸のサンフランシスコに到着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学します。もちろん、この時代アメリカ留学など一般人には到底不可能だったはず、いかに彼の家が裕福だったか、そして彼の語学力がいかに優れていたかがわかります。
彼は現在でいうアスペルガー症候群だったのかもしれません。この特殊能力の反動か、彼の精神は不安定なことが多く、喧嘩っぱやかったり、酒に酔って事件を起こしたりして度々逮捕もされています。自分自身でもそのことを理解していたため、彼はその過大な精神エネルギーを学術研究へと向かわせることでバランスを取っていたようです。
ですから熊楠のような心のつくりをした人が、普通の人たちのような生き方をしたとしたら、現実界が想像界から離れていってしまう徴候を産むことになるでしょう、それは精神病を産むことになります。それを食い止めるために、南方熊楠は神話の力を借りて、自分を強固な「トーテミズムの主体」につくりかえています。人間であると同時に楠と熊でもある「私」が出来てきます。彼はもはや人間ではなく、深く「自然」の中に根を生やした動物=植物=人間です。この多重アイデンティティとしてつくられた「私」をとおして、現実界は想像界と強く結ばれることになります。
「熊楠の星の時間」中沢新一
中沢新一は熊楠のそうした生き方を同じように特殊な能力を持っていたと思われる作家ジェームス・ジョイスと比較しています。
ジョイスという作家は精神的な症候の持ち主でした。南方熊楠について言われたのと同じ意味において「アブノーマル」な人間でした。このことは作家自身にも意識されていて、自伝小説「若い芸術家の肖像」にも、そのことがはっきり書かれています。ジョイスはその症候を芸術創造の源泉に変えることのできる人間でした。彼は精神病を普通の意味で「治す」ことによってそれを実現したのではありません。むしろ症候(シンプトム
symptom)を転じて、創造の源泉に変えたのです。
この時、シンプトムは「シントム synthome」へと変ります。
「熊楠の星の時間」中沢新一
1888年、彼はアメリカでも飲酒によるトラブルを起こします。ミシガン州立大学に入学したにも関わらず、寄宿学校で禁じられていた飲酒がばれて自主退学させられてしまったのです。もちろん、彼はそんなことで日本に逃げ帰ることはなく、独特な生物相をもつフロリダ州に移住。ジャクソンビルの中国人経営の食料品店で住み込みで働きながら、一人で調査・研究を始めます。そして、1891年にそこで新種の緑藻を見つけ、それを科学雑誌「ネイチャー」で発表し、この後、彼はネイチャーに次々と論文を送るようになります。
特筆すべきは、こうした彼の研究にかける努力のモチベーションは、故国日本の国益のためではなく、自分自身の名誉のためでもなかったことです。同じように国境を越えた明治維新の英雄、勝海舟や坂本龍馬というよりも、冒険家の植村直己や星野道夫に近いといえます。この時期の彼は、未知の生物を求めて世界を旅する冒険家だったのです。その後、彼はキューバでも調査を行い、その後はついに博物学の聖地でもあるイギリスへと渡ります。
<博物学の聖地にて>
イギリスで彼はロンドンにある大英博物館の常連客となり、そこに所蔵されている本を毎日読み漁り、すぐにネイチャー誌に論文「極東の星座」を発表します。博物館でも、毎日やってくる謎の日本人は、しだいに有名になります。中でもロンドン大学で働くフレデリック・ヴィクター・ディキンズは、熊楠と親しくなり、経済的にも彼の世話を焼き、大英博物館の東洋図書目録編纂係の仕事を世話してくれました。それに対し、熊楠も彼の日本文学研究所での翻訳作業に協力し、「方丈記」や「竹取物語」などの英語版の翻訳を行います。
1879年、彼はロンドンに亡命中だった中国人活動家、孫文と親しくなります。この時、孫文32歳、熊楠31歳で、その後も二人の関係は続き、長く手紙のやり取りが続くことになります。
1900年、大英博物館を訪れていた客の一人が、彼をバカにしたことから大喧嘩となり、彼は職場を追われてだけでなく、博物館への出入りも禁止されてしまいます。こうして、彼の海外での調査・研究の旅も終わりを迎えるもとになりました。
<故郷にて>
日本に戻った彼は故郷、和歌山にある円珠院に住み、そこで再びその山に住む生物の調査・研究を始めます。こうして、熊野の森を中心とする彼の植物・粘菌の研究が本格化することになりました。ここでいう、「粘菌」(Slime
Molds)というのは、「動物」として移動し、「植物」として繁殖を行う生物で、「動物」と「植物」の中間に位置する特殊な生物です。しかし、この生物を研究することは、「動物」と「植物」の境界について知るだけでなく、「人間」と「動物」、「植物」、それに「世界」、「宇宙」との境界についての知識が得られるかもしれない。彼はそうも考えていたようです。
(粘菌は食物を求めて移動するアメーバ状の生物ですが、繁殖する際は植物のように固まりそこから胞子を散らすことで子孫を巻きます)
1905年、帰国後も手紙でのやり取りを続けていたディキンズと共訳した英語版「方丈記」が完成、出版されます。
1906年、熊楠は、地元の闘鶏神社宮司の四女松枝と結婚します。40歳での結婚でその後子供ももうけます。しかし、ちょうどこの頃、明治政府による新政策「神社合祀」による神社の急激な減少とそのために起きた森の減少が明らかになります。このまま放置すれば、日本各地の神社の多くは消滅し、それと共にそのまわりの森も売却され破壊・消滅してしまう。しかし、当時、誰もその問題が重要だとは考えていませんでした。この問題は実は日本の文化の根本にかかわることで奥が深い問題をはらんでいます。
<日本文化の源流と森>
はるかな過去、日本に住む縄文人たちは海を渡って日本にやって来た海洋民族だと言われています。彼らは海辺の集落に住み、魚介類を採取することで食料を得ていたと考えられます。そんな彼らにとっての「宝」だった「勾玉(まがたま)」とは、彼らの生きる糧でもある「魚」の形であり、子孫となるべき「胎児」の姿とも考えられています。
羊水のたまった子宮は、さながら女性の体の中にある「海辺」のような場所です。この「海辺」で魚の形をした胎児が、成長していくのです。縄文人たちは、そういう胎児の形を模した勾玉を身につけることで、安心を得ようとしました。自分の実存の根っこは「海辺」にある、と彼らは感じていたのではないでしょうか。
「熊楠の星の時間」中沢新一
自然との一体化によって暮らしていた縄文人の島に、その後、「農業」によって自然を利用し改良する新たな人々、「弥生人」が現れ、日本の宗教・文化は大きな変革を迫られることになります。それまで自然の中で生かされていた人々は、自然との付き合い方を変えることになります。
この里山では、「里」から進出してくる人間の思惑とプログラムが「里ならざる領域=山」を生活領域とする動物や植物の要求思惑と出会うことになります。人間はそこをcultivate(文化化)して、できるだけ多くの収穫をもたらす田畑に変えようと望んでいますが、動物や植物はできるだけ自分たちの生存可能条件が保存されることを望むでしょう。「里山」の「里化」を望む人間と、「里山」の「山化」を望む動植物の要求とは、矛盾しあっています。こうしたとき、日本人は自分たちの要求の一部を引っ込めて、動植物の要求の一部を呑むことによって、「大分割」ならぬ「大妥協」を図ろうとしてきました。こうして「人間」と「人間ならざるもの」との間に、連続と分離が両立できるシステムを、「里山」としてつくりだそうとしてきたのです。
「熊楠の星の時間」中沢新一
こうして日本人は自然との共生によって生きる道を歩み始め、彼らにとって「自然」は「神」となり、地域それぞれの風土がそれぞれの「神」を生み出すことになります。それは「海」、「熊」、「山」、「滝」、「川」、「雷」、「きつね」、「鮭」、「雨」・・・・まさに八百万の神でした。
しかし、そうした日本の風土に神の新興勢力がやって来ます。中国伝来の仏教です。仏教における自然観はそれまでの日本のそれとは大きく違っていました。
仏教は世界のなりたちを「縁 relation」としてとらえます。存在しているものも非存在のものも、すべては縁によってつながり関係しあっているから、そこには実体がない、という仏教の考えからすると、人間の外にある自然を、「自然」という自立的な実体として認めてしまうことは許されないことでした。
「熊楠の星の時間」中沢新一
「自然」とは「縁」にすぎず、研究すべきものでもないし、まして信仰するなどもっての他と考えられていたわけです。ところが、そうしたインド発の原理的な仏教思想は中国に伝わることで変化してゆきます。
中国の仏教思想家たちは「自然」という言葉を、これ以後平然と使用するようになります。それはインド仏教からすればあきらかな逸脱ですが、中国人の思想的伝統からすれば、それこそごく「自然な」変換です。この変換によって、「外的自然」と「脳内自然」という二系列の「自然」を、同一のスキームのなかで思考することが可能になります。日本人は中国仏教によってこういう形に創造的に変形された「自然」の概念を受け取り、自分たちの思考を表現する便利な道具として、これを存分に利用してきました。
「熊楠の星の時間」中沢新一
ある意味、中国の仏教界は自然を信仰や利用の対象として考えることを認めたわけです。もしかすると、中国人が4本足の動物をイス以外なら何でも食べるのは、そのせいかもしれません。(インドにベジタリアンが多いのもそのせいかも・・・)ところが、こうした仏教の変化は、日本において、さらに進むことになります。
インドや中国の仏教では、「人間 human」と「人間ならざるもの non-human」という対立軸によって、存在者を分類するのではなく、「有情=意識をもったもの
senient being」と「非情=意識のないもの non-sentient」という対立軸にそって、存在者を分類します。(人間は有情、植物は非情)
ところがこのような仏教思想が日本に入ってくると、境界線を自然の領域へと大きく拡大してゆく試みがなされ、その結果、植物までもが意識をもった存在である「有情」に含められるようになったのです。
「熊楠の星の時間」中沢新一
日本独自の自然とのつき合い方は、宗教だけでなく文化全般にも大きな影響を与えるようになります。
江戸時代には、「自然」と「文化」の相互貫入を表現することが文学の使命と考えられていました。そこで、「古池やかわずとびこむ水の音」のような俳句がつくられたわけです。この俳句には池や水や蛙のような自然の存在者とともに、感覚器官を開いて外の自然を感受している人間の脳があらわれ、「ぽちゃり」という音が、二つの自然系列の間に交通を発生させます。この音が脳内の「自然状態」を誘発するのです。するとそこには、「外的自然」と「脳内自然」というスキームが浮かび上がってくるのです。
「熊楠の星の時間」中沢新一
日本における神道はもともと日本独自の自然観が生み出した多様な神様たちからなる宗教で、地域それぞれの特色をもつものだったわけですが、そこに仏教が影響を与えることで、より混沌とした状況が生まれていました。寺と神社がごちゃまぜ状態になったその状況を改め、日本独自の神道に戻すべきである。そう考えたのが江戸時代末期に現れた国学の思想家たちでした。水戸藩を中心とするこの一派はそのための運動を始めます。
こうした国学者の運動を明治政府は上手く利用します。
できたばかりの明治政府は、諸外国からの圧力に耐えながら、国家建設を進めていました。「諸外国」とはじっさいには資本主義という西欧産の世界システムのことにほかならず、資本主義はその頃すでに帝国主義の段階に入り始めていましたから、明治政府の抱いた危機感には並々ならぬものがあったはずです。
そうしたとき明治政府は、一方では殖産興業を進めて世界システムの中での地位を確かなものにしようとしました。その産業を基礎として、軍備を拡張して欧米に対峙しようとしました。そしてもう一方で、日本人の心を均質化するために、イデオロギー的な道徳教化を推し進めようとしました。その時目をつけたのが、神道と村々にあった神社の機能でした。神道をキリスト教のような宗教につくりかえ、神社に西洋の教会のような働きをさせようと考えたのです。
ところが、神道を国教として扱うことは西欧諸国から批判されることになり、「政教分離」という近代民主主義の基本にも反してしまいます。
こうして神道は道徳であるという考えが登場することになります。国民道徳の崇拝の対象として神道を位置づけ、神道を道徳の礎となる道が開かれます。そこでは神社は精神教育の礎の場所ということになります。こういう考えが出てきた頃、教育勅語や帝国憲法など、近代日本の基礎をなすさまざまなシステムが完成に向かおうとしていました。
日露戦争や大逆事件以後の日本で断交されていた神社合祀によって、何が起こったのかと言いますと、人間が人間的な価値世界の内部に閉じ込められてしまうという事態です。しかも、そこでは富国強兵という国家的価値、経済的価値が最優先されています。神社の道徳化は小さな神社群の破壊消滅を招き、その破壊によって神社の森のアジールに、お金の力が侵入を果たし、自然力を経済や軍事の力つくりかえていく過程が、こののち一気に進行したのです。このとき日本人の精神に起こった断層破壊は、現状にまで深い傷跡を残しています。
「熊楠の星の時間」中沢新一
<環境保護運動の原点>
政府による神社合祀は全国各地で進められましたが、その影響を最も受けたのは三重、和歌山周辺だったと言われます。特に伊勢神宮のある三重県では、もともとあった神社の87%がこの時期に消えたと言われます。今につながる伊勢神宮の権力・経済力は、こうして始まった市場の独占によって生まれたのかもしれません。そして、その三重県の隣りに位置する和歌山県でも神社合祀運動が進みます。しかし、熊楠はこのままでは神社が所有しているすべての「森」が失われ、その影響で「自然」、「文化」全体が失われかねないと考えます。そこで彼は、神社合祀に対し、一人反対運動を展開し始めます。そして、反対運動に関しての理由を発信しています。
<南方熊楠による神社合祀反対の理由>
(1)神社合祀で敬神の思想が高まったという事実に反する。神社を一か所に集めたことで身近にあった神社を多くの人が失った。
(2)合祀は村民の融和を妨げることになった。地域ごとに神様をまつっていた異なる人々が無理やり中心(農村部)部の神を信じると言われ、対立を生んだ。
(3)合祀は地方衰退の原因になる。地域の財産のはずの森林を売り払ってしまうことで、いざという時のたくわえを失ってしまう。
(4)合祀は村民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する。
(5)合祀は郷土愛、愛国心を損ねる。神社は人間を生まれた土地に結びつける働きをしています。大地の持つ母性を象徴するのが土地の神社でした。
(6)合祀は土地の治安と利益に大きな害になる。森林伐採が進めば水害、土砂崩れが多発する。
(7)合祀によって、史跡・古伝が滅却されてしまう。史跡・古伝は、神社を中心にして伝えられてきたものですから、神社の喪失はまことに由々しい結果を生むことになるはずです。神社の立っている場所は、その村の創健者の住居の跡であったり墓所であったりするケースが多いのです。
(8)合祀は、天然風景や天然記念物を滅亡させてしまう。
熊楠が始めた反対運動は、その後、多くの賛同を集めるようになり、神社合祀の流れにストップをかけることに成功します。そのおかげで、多くの小さな神社が救われ、それらの神社の周囲にある森もまた守られることになりました。日本で初めて「エコロジー」という言葉を使ったのが、熊楠だと言われますが、それ以上に「エコロジー」を守るための最初の運動を起こしたことの方が何倍も重要だったはずです。
さらに彼は自らの研究拠点となっていた田辺湾に浮かぶ神島の自然の重要性を訴え、島の森をまるごと保安林に指定させることにも成功しています。この島の周辺が豊富な漁場となっていたのは、島の森が海に豊富な栄養素をもたらしていたことを漁師たちは昔から知っていましたが、島の神社は神社合祀により廃止される危機にありました。それだけに、森の保安林指定は大きな意味を持ち、その後、島は天然記念物にも指定されることになりました。(1935年)島は、環境保護運動の象徴的存在となり、1929年には、昭和天皇が島を訪れ、熊楠から直接説明を受けています。
「天然記念物に申請したのも、この島になんたる特異の珍草珍木あってのことにあらず、・・・・保存し続けてむかし、この辺固有の植物は大抵こんな物であったと知らせたいからのことである。」
南方熊楠
意外なことに、彼は島を「貴重」な自然だから保護したのではなく、「普通」の自然の保護と考えていたようです。
<科学哲学の追及>
熊楠はこうして自然環境の重要性を日本中に広めましたが、その間も独自の自然観に基づく科学の新たな世界観についての研究を続けていました。特に彼が重要視したのは、西洋の科学(science)の基本となっている「因果律」の問題です。科学ではすべての出来事は、初期状態とそこからの変化の法則がわかれば予測可能であると考えます。(量子力学の登場によって、この考えには疑問が生じることになりますが・・・)
しかし、本当に「因果律」に基ずく科学による未来の予測は可能なのだろうか?
熊楠の自然観によれば、宇宙のすべての事象は巨大な網の目のような関係性の糸で結ばれていて、そのどれか一部だけをとって説明することは不十分である。そう彼は考えていました。「因果律」は、その一部を説明できるだけと彼は考えていました。こうした宇宙に関する考え方は、彼の友人でもあった僧侶、土宜法竜との手紙のやり取りで深められていました。特に、土宜法竜に紹介してもらった明恵という華厳宗の僧侶は南方に大きな影響を与えました。
明恵にとっての浄土宗の問題は、南方熊楠の近代科学批判の論理構造とい、驚くほど似ています。明恵にとって仏教は、世界という「大不思議」に踏み込んでいくための確実な方法を、人間に与えてくれる実践的な学問を意味していました。念仏はその学問を宗教に作り変えてしまう、それゆえに明恵は法然に反対しました。それとよく似て、科学は熊楠にとっては自然界の「大不思議」を解明する知的探求を意味していました。その探求をするのに、ロゴス的な因果律に依存しているいまの科学の方法では不十分だと考え、東洋のレンマ的方法による科学の全面的書き換えを夢見たのでした。
華厳経を追求した明恵は、法然が念仏を唱えるだけでよいとする大衆向けの仏教(浄土宗)を広めていった中、より厳しい修行を求める方向(華厳経)へと向かいました。では、その華厳経の基本となっている世界構造とは?
<華厳経による「法界」がもつ4つの内部構造>
(1)事法界
1個1個の事物が分離・自立している世界を言います。人が物の世界(現実)を認識するのに用いている。
(2)理法界
事法界では区別されていたコップとペットボトルが同じプラスチックからできた同質のものでもあるという、理性的な世界理解。
(3)理事無礙法界
あらゆる生物は事法界と理法界の組み合わせによって成立していることを理解し、その二つを自在に行き来できるようになる状態。
(4)事々無礙法界
理と事だけでなく、事と事とがすべて入れ子状態となり、物同志だけでなく、物と心の差別もなくなった状態。
南方熊楠の存在がもうひとつ知られていないのは、彼の研究成果が論文以外ではほとんど残されず、文章としてわかりやすい形で残っていないことのようです。彼自身の思考回路が一般人のそれを越える高度なレベルにあったため、彼はそれをわかりやすく説明することが困難、いや彼自身それが必要と思えなかったのかもしれません。それとも、あまりに知りたいこと、調べたいことがあり過ぎて、その調査結果を発表する暇もなかったと考えるべきなのかもしれません。
そのうえ、彼の長男が精神的な病を発症し、彼の血筋も残らず、直接の後継者を残せなかったことも残念でした。その後、彼は明治から昭和へと研究生活を続け、太平洋戦争開戦直後の1941年12月29日に74歳でこの世を去りました。未だ彼の人生は謎だらけです。
<参考>
「大博物学者 - 南方熊楠の生涯 -」
(著)平野威馬雄
「熊楠の星の時間」
(著)中沢新一
20世紀異人伝へ
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